● おねがい  ●

「いいから、試合を観に来い。……全ては仕切りなおしだ」
「関東大会の時は寝坊するなよ」

 あの日以来、真田くんが私に言った言葉を思い出さなかった日はない。
 日々の最高気温が上がって行くにつれ、学校の運動部たちの練習にはどんどん熱が入って来て、私の落ち着かないようなざわついた気持ちも同じペースで舞い上がって行く。

「……ところでさあ。と真田って、何かあったの?」
 7月の初めのある日、放課後に教室でおしゃべりをしながら購買で買ったヨーグルトを食べていたら、香里奈ちゃんが突然にそんなことを言うものだから、私はヨーグルトのなかのフルーツの固まりを飲み込みそこねてむせてしまった。
「……なっ……何かって……何がよ?」
 私が咳き込みながら、やっとそれだけを言うと、彼女はにやにやしたまま。
「だから、それを聞いてるんじゃん」
「……何かって、ほんと、何もないよ」
 何かあるのかどうかと言われたら、何もないとしか言いようがないよね。
「……えー、でも、最近おかしいよね。この前、県大会を観に行く観に行かないで大騒ぎしてた時くらいからさ。あの頃までは、しょっちゅう『真田くん、真田くん』って言ってたのに、最近、妙にそういう事言わないじゃん」
 香里奈ちゃんの、何もかも見通してるような、ふにゃっとしたような笑顔には、ほろっとくる。下らないことでも、話して大丈夫なんだなーって。
「……ほんとに、何かあったわけじゃないんだよね」
 と言いながら、私は県大会に寝坊をしてしまった後の顛末と真田くんとのやりとりを彼女に話した。

「えっ、……」
 香里奈ちゃんはちょっと驚いた顔で私を見る。
「……まさか、そこまでとは……。それって、つまり、関東大会で真田が勝ったら、真田がに告白するってことじゃない?」
「ちょっと、香里奈ちゃん! 真田くんはそこまで言ってないよ! 去年渡しそこねたタオルを受け取ってくれるっていうだけだよ!」
「でも、それってさー……」
 言いかけて、彼女はふと片手を持ち上げて手のひらを私に向けた。
「あ、うん、そうだね。今までの事があるからね、あんまり期待しすぎると、、またがっくりきちゃうし、真田も油断ならないやつだからね……」
「……そうなの。私も実はほんのちょっとどきどきして、期待しちゃってるとこもあるけど……なるべくそういうこと考えないようにしてる。とにかく、真田くんが勝っておめでとうって言えて、あのタオルを渡せたら、それ以上は期待しないよ……」
「真田が勝つのは間違いないとして、あとは寝坊しないようにだけだよね」
「うん」
 私はヨーグルトを食べ終えて、教室の窓からグラウンドを眺めた。
 サッカー部や野球部、いろんな部の部員達が熱心にトレーニングをしている。
 初めて真田くんを見たのは、風紀委員としてだった。
 立海の制服がよく似合う、凛々しくてかっこいい男の子だなあと思って好きになった。
 彼が真田弦一郎くんっていう子なんだと知って、そして、テニス部なんだって知って。
 部長さんが病気で不在のテニス部の3連覇のため、真田くんが副部長として部を率いてるんだって知って。
 私が真田くんを好きな気持ちはかわらないけれど、最初に会った時に思った「風紀委員のかっこいい男の子を、なんだか好きになった」っていう時と同じ気持ちではいられない。
 私が、私の一方的な恋心をぶつけていいようなものじゃないんだってこと。
 真田くんに限ったことじゃないけど、誰かを好きになるって、本当に相手の事を考えないといけないよね。
 この前、真田くんと話して、つくづく思ったんだ。
 私が自分勝手に、好き、だなんて言ってぶつけるのは、自己満足にすぎないんだって。
 彼の気持ちは今でもよくわからない。私自身も、どうしたらいいのか、よくわからない。
 でも、彼が言うように、関東大会を私が応援しに行って、彼が勝つ試合を観る事ができたら。
 何かがわかるのかもしれないな。
 今はそんな風に思ってる。
 そして、試合に向けて一心不乱にトレーングしているテニス部の子たちを見てると、前みたいに無責任に、真田くん真田くんってきゃっきゃしてられないような気がしてきたんだ。

「あのさ、香里奈ちゃん」
「ん?」
「関東大会の試合はさ、一緒に応援行ってね」
「うん、いいよ。強力な日焼け止め買っとかなきゃね」
「ね。でさ、朝は電話で起こしてよね」
 私が言うと、彼女は笑いながら背中をばしんとたたいた。

 さて、そんな風に、去年の真田くんの誕生日の時に比べれば私は格段に大人の考えになったように思うんだけど、真田くんに対する緊張だけはやはり変わりない。
 実は、寝坊をした県大会のあの日以来、まともに顔を合わせていないし口もきいていないのだ。
 関東大会を観に来い、日時は追って知らせる、なんて言ったこと、真田くんはもう忘れてるのかもしれないな、なんて思ってため息をついて歩いていたある日の昼休み。
 購買でパンを選んでいたら、『あーっ、センパイ!』と聞き覚えのある声。
 びっくりして顔を上げると、あー、あの子。もじゃもじゃ頭の、テニス部の2年生。
「2年生エースの切原赤也っすよ!」
「あ、うん、切原くんね、切原くん」
「どーせ、名前覚えてなかったっショ」
 唇をとがらせてみせて言うものだから、私はへへと照れ笑いをする。
「ま、いースいース。それよりセンパイ、この前俺が貸したハンカチは?」
 彼はニッと笑って手のひらをさしだしてくる。
「は?」
 一瞬私は何のことかわからなかったけれど、すぐに思い出した。
 柳くんに呼び出されて、切原くんと3人で話してる時、泣き出しちゃった私に、切原くんがポケットからくしゃくしゃのハンカチをさしだしてくれたんだった。
 えーと、あれはどうしたんだっけ……。
「あれは、えーと、そうだ! あの……真田くんにとりあげられて、かわりに真田くんがタオルを貸してくれたから……真田くんが持ってると思う……」
 私が申し訳なさそうに言うと、切原くんは大げさに落胆してみせる。
「マジすかー。なーんだ、俺、女の人にハンカチ貸して、それからそれが洗濯されてイイ匂いするようになってお菓子とか添えて返してもらえるの、憧れだったんスけどー」
 そして、そんなことを言うものだから、私はちょっとあわててしまった。
 確かに、私ってば、一瞬でも借りてたことをすっかり忘れてしまっていて、悪いことしちゃった。
「そ、そーいえば借りたの私だから、ちゃんと私から返さないとだよね、ごめんごめん。ウチのダウニーの匂い、お気に召すかわからないけど。真田くんに事情を話して、返してもらってくるね」
 私が言うと、切原くんは一瞬ぎょっとした顔をする。
「え? え? 真田副部長に? あ、あの、やっぱいいスよ!」
「そういうわけにもいかないよ。借りた物はやっぱりきちんと返さないと」
 切原くんはなんやかんや言ってたけど、私はハンカチを借りっ放しだったことが改めて申し訳なくて、昼休みの時間のうちにと、そのまま真田くんの教室に走った。
 真田くんは何かと不在なことが多いけど、その日は自分の席で本を読んでいて、顔を上げた瞬間に上手い具合に廊下から顔をのぞかせている私と眼が合った。
 彼は席に本を伏せて、静かに廊下にやってきた。
「俺に用事か?」
 静かな声。さすがに、いきなり怒鳴られることはなくほっとする。
「あのね、切原くんのハンカチ、今も真田くんが持ってるままだったかなあ?」
 私の言葉に、彼はさっぱり意味がわからないというように、眉をひそめた。
「赤也のハンカチだと? いきなり何のことだ?」
 確かに、唐突に話しすぎたかもしれない。
 私は県大会の日のことを話した。
「ああ、あのくしゃくしゃのハンカチのことか。多分、赤也のだろうとは思っていたが、すっかり忘れていた。確か、洗濯をして家の箪笥に仕舞ってあるはずだ。明日にでも赤也に返しておくから心配するな」
 あ、そうなんだ。真田くんから返すという形でも、いいのかな。でも、切原くんが想像してる憧れの返却のされ方とは、ちょっと違うような気がする……。
「ありがとう……でも、ええと、一応切原くんが私に貸してくれたものだから、私から直接お礼を言って返した方がいいかなーとも思うし、一度、私が受け取ってもいい?」
 私がそう言うと、真田くんの眉間にぎゅっとしわがよった。
「……同じテニス部の俺から返しておくというのでは、気に入らんというのか? 信用できんというのか?」
 例によって、真田くんの低くドスのきいた声に、おっかない形相。
 どうして真田くんがこんな風に怒り出すのか、よくわからなくて、私は口をぱくぱくさせて、そしてとりあえず泣き出さないように深呼吸をした。
「え、あの、信用出来ないとか、決してそんなんじゃなくて……」
「じゃあ何か。は、赤也に直接手渡したい特別な理由があるのか!」
 えー……特別な理由というほどでもないけど、もうどうしたらいいの。
 私は、ついにいつものごとくぽろぽろと泣き出してしまった。

「真田副部長ー! あっ、センパイも! あの、すんません、もし俺のハンカチのことだったらもういいスから……!」

 廊下を叫びながら走りよって来たのは、肩で息をした切原くんだった。
「あ……切原くん、あの……ハンカチ、やっぱり真田くんが持ってるって……」
 私が指で涙をぬぐいながら言うと、切原くんは慌てた顔で私と真田くんを交互に見た。
「赤也! お前は、に何を言った!」
「ちょ、真田くん、そんなに怒鳴らないで。切原くんはハンカチどうしたっけって聞いて来ただけで……」
は黙っていろ! 俺は赤也に聞いているんだ!」
 一層ヒートアップした彼の怒号にびくんとして、私の涙はまた溢れ出す。
 かわいそうに切原くんはおたおたしながら、いつかのようにポケットからまたくしゃくしゃのハンカチを私に差し出した。
「お前のハンカチはもう出さんでいい!」
 真田くんはスラックスのポケットからネイビーブルーのハンカチを差し出してくれた。きちんとたたまれてアイロンのきいたものだった。
 そのハンカチで涙を拭いて、私は大きく深呼吸をした。
「ごめん、みんな落ち着いて。前に私が切原くんから借りたハンカチは、真田くんが家できれいに洗濯をして保管してあるらしいから、今度真田くんから切原くんに返してもらうということで、いいでしょうか」
 まるでホームルームでもやってるみたいになってしまう。
「は、はい、俺はそれで十分っす。真田副部長、お気遣いどうもありがとうございます!」
 彼は大げさに頭を下げて礼をしてみせる。
「切原くん、この前はああやってハンカチ貸してくれてありがとう。本来なら、私から直接お返ししたいところだけど、真田くんがきちんとしていてくれたみたいだから」
「うむ、俺から明日にでも赤也に返すから、それでいいな? 赤也?」
 彼は何度もハイッ、ハイッと言って頭をさげる。
「よし、それではこれにて解散だ!」
 真田くんが声を張り上げると、赤也くんはイエッサーと言って廊下を早足で去って行ったので、私もそれにならった。

 教室に戻ると、真っ先に香里奈ちゃんに事の顛末を報告した。
「ハンカチひとつでえらいことになったねー」
「うん、私も我ながら驚いた。一体、何が悪かったんだろう……」
「……2年生の切原くんってさ、やんちゃで生意気だけど、結構人気あるんだよ。上級生でも、彼のこといいっていう子が結構いてさー」
「へー。でも、確かにああやって気にして助け舟出しにきてくれたしね、結構いい子だよね」
「だから、真田もちょっとやきもち妬いたんじゃない?」
 香里奈ちゃんがくすくす笑いながら言う。
「えー、真田くんがやきもち? しかも、ぜんぜん私と関係ない切原くんに?」
 私は手にした真田くんの大判のネイビーブルーのハンカチに顔をうずめて、ナイナイと言って思わず笑った。
 いろいろ話してたら、いつのまにか気持ちがちょっと落ち着いた。

 緊張することは早めにすませてしまうに限る。
 真田くんから借りたハンカチをきれいに洗ってアイロンをかけて、それを返す為に彼の教室に向かった昼休み。
 昨日の今日で、クラスの子たちも内心笑いをこらえて興味津々かもしれないけど、構っていられない。
「あの、これ、昨日どうもありがとう。お騒がせしちゃってごめんね」
 彼はハンカチを受け取ると、軽く会釈をした。
「……俺の方こそ怒鳴ったりして悪かったな」
 真田くんがこんなこと言うなんて珍しい、などと思いながら目を丸くしてると、彼は、ちょっと待っていろ、と一旦自分の席に戻った。
 そして、一枚の用紙を持ってやって来た。
「関東大会の日程表だ」
 私はそれを受け取って、目を通した。
「いいか、今度は寝坊するなよ」
「うん、わかってる」
 真田くん、ちゃんと覚えててくれたんだなあって嬉しくなって日程表を見ながら、にやにやしちゃう。
「コートの場所を間違えるな。当日は、チアや応援で立海の生徒が沢山いるだろうから、そいつらと一緒に動いていたら間違いないからな」
「うん」
「バスを乗り間違えないようにしろ。応援とはいえ、炎天下のことだ。脱水にならんよう、水分を携帯しとけよ」
「うん、私、寝坊しちゃったことあるし泣き虫だけど、そんなにおっちょこちょいな方じゃないから大丈夫だよ」
「………あと、あれだ。あれを忘れずに持って来るようにしろ」
「あ……ええと、去年のタオル?」
「そうだ」
「うん、忘れない」
 私が笑って言うと、真田くんは軽く咳払いをした。
「それと、もし泣き出した時に赤也がハンカチを差し出しても借りるな。あいつは、何日も同じハンカチを持っていたりするからな」
「えっ、そうなの。この前貸してくれた時、『くしゃくしゃだけど、汚れてないス』とか言ってたのに」
「『汚れてないから昨日のをそのまま使う』というのが奴の言い分だ。そういうものは毎日取り替えろ、と注意しているんだがな」
「そうだったの! うん、これからハンカチとかタオル借りるのは真田くんだけにしとくよ」
 彼は一瞬顔を赤くして、そして眉間にしわをよせてみせる。
「というより、は泣き虫なのだから、ハンカチやタオルを常備しておけ」
「やだ、私、いつもちゃんとポケットに持ってるんだよ。だけど、泣き出す時って咄嗟だし、あわてちゃってすぐに取り出せないの」
 私は自分のポケットの、小鳥の柄のタオルハンカチを取り出してみせた。
「だったら、俺がいない時には速やかに自分のハンカチを使えるよう、すぐに取り出せるための訓練をしておけ」
「あー、確かにそうだねー」
 『シャドウ ハンカチを取り出す動作』をさっさっと何度かやってみて、我ながらおかしくなってくくくと笑った。
「じゃあ、関東大会、頑張ってね。試合観に行くの初めてだし、楽しみにしてる」
「ああ。立海が勝つことは決まっているが、応援頼んだぞ」
 私は軽く手を振って、真田くんのクラスを後にして廊下を歩いた。
 頼んだぞ、だって。
 真田くんにそんなこと言われたの初めて。
 張り切って、『シャドウ ハンカチを取り出す動作』をしながら、ちがうちがうこれじゃなくて、応援応援。
 常勝立海大。
 あの日、真田くんがメールに書いた言葉を思い出して、心で何度も繰り返した。

2013.5.12「おねがい」

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