これは恋ではない




      <一>
 
 胸が。心臓が。
 熱くなって暴れるのを感じながら、私はひたすら走っていた。
 五月の日曜の早朝。
 うちのドーベルマンのカールがいなくなった。
 朝の散歩に出かけようと玄関の扉を開けて準備をしているときに、勝手に出て行っちゃったみたい。人を噛んだりする子じゃないけど、大きな犬だしちょっと怖がりだから、びっくりすると吠えたりするかもしれない。それで、保健所につかまって連れてかれちゃったらどうしよう!
 私は心配で泣きそうになって、辺りを見渡しながら近所を走りまわっていた。一人になったと気づいたカールは、今頃心細くて途方にくれているかもしれない。
 カールを探して走りまわって二十分くらい経った頃だろうか。道行く人に『黒いドーベルマンで、首に青いバンダナを巻いた犬見ませんでしたか?』なんて聞いてみたりもするけど。手がかりはない。すっかり息が上がってしまった私は、カールの散歩コースの中央第一公園で一旦足を止めた。空を見上げて深呼吸をする。
 もう、カールってばどこ行っちゃったの?
「カール、どこ! カール!」
 深呼吸をした後、私は人目も気にせず愛犬の名を呼んだ。
 その時、公園のベンチのあたりから物音がする。
 はっとそこに目をやると。
 筋肉質な黒、深い青のバンダナ。
「……カール?」
 私はゆっくり歩み寄って声をかけた。
「……ああ? 何だ……?」
 そこにいたのは、カールの姿をした男の子だった。
 走った後の胸のざわつきがおさまらないまま、私はそのカールの前に立って、彼を見上げる。
 一体カールに何が起こったの? きっと戸惑ってびっくりしてる、かわいそう。大丈夫、カール、見た目がちょっとくらいかわっても、ウチの家族はちゃんとカールだってわかるから!
「カール、心配したじゃない……」
 カールが落ち着くように、私はいつもみたいにカールの耳の後ろを掻くようになでてあげた。
「ンだよ! 何すんだ、コラ!」
 するとカールは戸惑ったように顔を赤くして、怒鳴り声を上げた。
「カール、大丈夫だってば!」
 私がそう言った瞬間、隣の垣根からバキバキという音。
「うわああっ!」
 黒い稲妻のように飛び出して来たのは、まぎれもなく今朝ウチから脱走したオスのドーベルマン。
「カール!」
 体中に植物の種子をくっつけたカールは、嬉しそうにジャンプしながら私に飛びついて来た。
「勝手に出て行っちゃったらダメじゃない!」
 ぴとぴとと鼻先をくっつけてくるカールを抱きしめて、ひとしきり再会を喜んで、そしてハッと、カールに突き飛ばされて尻もちをついて呆然としている、偽者のカールに気がついた。
 
 ベンチに腰を下ろし、カールを座らせて体中のひっつき虫を指で取りながら私は改めて偽者カールを見た。黒いぴったりとしたトレーニングウェアを身につけた筋肉質な彼は、カールにそっくり。彼が頭に巻いているバンダナも、お出かけ用にカールの首に結んだバンダナと同じ色なんだもの。
「……いくらなんでも、犬と間違えんじゃねぇ」
 少しスペースをおいて隣に腰掛けた彼は、不機嫌そうにスポーツドリンクを一口飲んで、ちらちらとカールを見る。
「だって、返事するしさ」
「カオルって聞こえたから、仕方ねーだろうが」
「ごめんごめん。なんか、もしかしたらカールが何か魔法をかけられて人間にされちゃったのかも! って思ったんだよね、私も慌ててたしさ。カオルくんっていうんだ」
 海堂薫っていうのが、彼の名前らしい。そっか、カールがカオルに聞こえたんだ。なんだかおかしくて、私はクククと笑った。
「あ、この子人なつこいから、触っても大丈夫だよ」
 さっきから、彼がカールをちらちらと興味深そうに見ていることに気づいて、私はそう言った。
「噛まねぇか?」
「うん、大丈夫。まず顎の下からなでて、そして耳の後ろをキュキュキュって掻いてあげるとよろこぶよ」
 そう言うと、彼はそうっとカールの顎の下をなでた。カールは嬉しそうにデレデレと偽者カール……海堂くんに寄り添って行く。ずっと怒った顔をしていた海堂くんの口元が、ちょっとほころんで、カールの耳の後ろを撫で始めた。
「……ドーベルマンって普通、耳が立ってねぇか?」
「ああ、うちのは断耳してないから垂れ耳なの」
「へえ。生まれた時からああいう耳なのかと思ってた」
 ひとしきりカールを撫でると、海堂くんは立ち上がった。
「じゃあ、俺、トレーニングの途中なんで」
 それだけを言ってタオルを首にかけると、くるりと私たちに背を向けて走り去った。
 筋肉の盛り上がった背中、やっぱりカールにそっくり。
「でも、性格は似てないみたいねー」
 彼の後姿を見送りながら、舌を出してだらしなく笑ったみたいな顔をしたカールをぐりぐり撫でて、カールにリードをつけて私も立ち上がった。
 海堂薫。
 その名前を頭の中で繰り返してみた。
 ちょっと女の子みたいな名前。でも、いい響きだ。
 カールのリードを引いて、私は初夏の空を見上げた。この季節のこの時間は、いい感じに気温が上がってきて、青い空に綿菓子みたいな元気な雲があちこちに浮かびはじめた。

      <二>

 カール脱走事件の翌日、学校で午後の授業が終って鞄を手にして立ち上がろうとした時、携帯電話が震えてメールが届いたことに気づく。画面を見て、私は再度腰を下ろした。メールの差出人は、私の彼だった。
 メールの内容は、帰りの待ち合わせをどうするかという内容だったけれど、返信の画面にしてメッセージを考えながら、なんとなく窓の外を見た。窓の外に見たい景色があるわけじゃなくて、返信するメッセージの内容が上手く思いつかないから。
 昨日、カールがいなくなった時、私は本当にびっくりして慌てたんだったな。
 だって、カールが気づいたのかと思ったから。
 一昨日の夕方、私は彼の部屋で彼と裸でベッドに入ってた。
男の子とそういうことをするのは、初めてだった。
 私がそういうことをしたんだって、カールにはバレてしまったんだと思った。
 彼と寝たことが、正しいことなのかどうかわからないけど、カールが私に『そういうコトしちゃダメ』って怒って逃げ出したのかと思った。まあ、カールはカワイイけどあんまり頭のいい犬じゃないから、そんなこと思うはずないんだけどね。
 五月初めの晴れた午後はなかなかに暑くて、クラスの男子のほとんどは脱いだ上着を手にして、それぞれの部活なんかに出て行くところだった。
 私は再度自分の席から立ち上がって、廊下に向かった。教室の後ろの扉から廊下に出ようとして、思わず『あ』と声を上げる。
 扉の外に遠慮がちに立っていたのは、偽者カール、じゃなくて海堂薫くんだった。私を見るなり、目を丸くして驚いた顔をする。私も驚いたけれど、同時に昨日の出来事を思い出してつい笑ってしまった。
「海堂くん、だっけ?」
「あ、ああ……」
 制服を着てバンダナをしていない彼は、黒いサラサラの髪が目を惹くやけに行儀の良い雰囲気で、昨日の印象とはだいぶ違ったけど、まぎれもなく海堂くんだ。そうか、青学の子だったんだ。
「誰かに用事?」
 誰かを訪ねて来たんだろうと思って聞くと、彼はぶっきらぼうに『乾先輩を……』と言った。そっか、乾の後輩なんだ。ていうか、下級生なんだ!
「乾ー! 海堂くんが来てるよ!」
 振り返って乾を呼ぶと、自分の机でノートパソコンを広げていた乾が顔を上げた。
「ああ、海堂。すまないな」
 そう言いながら手早く机の上を片付けて、扉のところまでやって来た。そして、素早く私を海堂くんとを見比べた。
「うん? 海堂と知り合いだったか?」
 そして、ちょっと興味深そうに私に尋ねる。乾はクールなふりをして聞きたがり屋だから。
「知り合いってほどじゃないけど。犬の散歩をしてる時に、公園で会ったの」
 眉間にしわをよせてみせる海堂くんを横目に、私は笑いながら言った。
「じゃあね」
 私は海堂くんに手を振って、二人の側をすり抜けた。
 海堂くん、やっぱりカールに似てるのは見た目だけだな。笑ってしまうくらいに愛想がない。思い出し笑いをしながら廊下を歩いていて、そして、さっきの彼からのメールにまだ返信していないことに気づいたけど、携帯を見る事なく私は帰路についた。

 本屋に寄り道をしながら家に着く頃には少し肌寒くなって、一度は脱いでいた上着をまた着て帰った。そして自分の部屋に戻って携帯を見ると、新着メールが二通届いていた。彼からだった。私はそのうちの一つに、『友達と一緒に帰っていて気づかなかった、ごめんね』と返信して、携帯をベッドに放り投げた。
 ヤった後に冷たい、ってまるで自分がありきたりな漫画に出て来る男の子みたいだけど。
 冷たくしてる訳じゃない。どうしたらいいのか、わからないだけ。
 土曜日の午後に、彼の部屋のベッドで裸で抱き合っていた時のことを思い出す。
 去年の冬から付き合い出した彼と、寒い時期に手をつないで歩く事が大好きだった。コートを着たまま、肩をぎゅっと抱きしめられると本当に幸せだった。だから、その先にはきっとものすごくとろけるような幸福感があるんだと思ってた。
 彼とのセックスに、何か問題があったっていう訳じゃない。もちろん初めてのことだから、まるっきりスムーズっていうわけにはいかないし、それなりではあった。私は友達とそういった生々しい話をする方じゃないから、他の女の子がどんな風に『初めて』をこなすのかはわからないけど、まあこんなものじゃないかとは思う。
 なのに、どうしてだろう。
 彼のことは好きだし、自分も望んでの行為だったのに、気持ちが深まった感覚がない。初めてのキスをした時の方が、ずっと気分が盛り上がったように思う。
 脱いだ制服をハンガーにかけて私服に着替え、ベッドに横たわった。携帯が震えてメールの着信を知らせるけれど、手に取ることをせず、私は天井を見たまま。
 リアクションの悪い私の態度に、彼は心配をしているかもしれない。申し訳ないな。でも、メールを確認する気にならないのは事実。理由はわからないけれど。

      <三>
 
朝、私は家族が起きるよりかなり早く目を覚ます。カールの散歩をするためだ。カールは大人しい犬だけど何しろ体が大きいから、あまり他の犬や人をびっくりさせないように、なるべく早い時間に散歩に行く。カールは四年前に私がねだって飼うことになった犬。父の知り合いの家で生まれた子犬を見に行って、どうしても家で飼いたくなって両親に頼み込んだ。だから、カールの世話は私の役目。私はいいかげんな性格だけど、これだけはきっちりやってるの。
 二階の自分の部屋から降りて行くと、その足音で散歩だとわかるカールは、既に廊下を走り抜けて玄関で待っている。
 この季節の朝は気分がいい。
 いつもの時間、いつものようにカールと歩いていると、なんだか心がリセットされる。昨日、私が彼のメールに返事が出せなかったのは、多分たいした理由なんてない。今日は待ち合わせて一緒に帰ろう。きっとまた、どきどきして楽しい気分になれるだろう。
 そんなことを思いながら、いつもの中央第一公園にさしかかった。好きな場所に来て嬉しいのか、カールはリードを引っ張りがち。『こら!』とチョークチェーンを引いた。
 いつもはそれで大人しく歩くのに、今日はなんだか落ち着かない。
「どうしたの、カール」
 カールが引っ張って行こうとする先を見ると、リズミカルな足取りで近づいて来る人影。
 すぐに誰だかわかった。
「おはよう、海堂くん!」
 ランニングをしていた彼は、軽く眉間にしわをよせながら足を止めてくれた。
「……オウ」
 ぶっきらぼうに言いながらも、ちらりとカールを見る。
「撫でて上げてくれる? この子、海堂くんのことが好きみたい」
 私が言うと、彼はしゃがんで両手でカールの首まわりをがしがしとこすってくれた。カールは嬉しそうに額を海堂くんにこすりつける。
「いつも、ここ走ってるの?」
「……いつもって訳じゃないスけど」
「いろんなコース走るの?」
「その時の気分次第ス」
 ご機嫌なカールが前足でじゃれつき始めて、海堂くんは『おいコラ、やめろ』なんて言いながらもしばらく相手をしてくれた。ぶっきらぼうだけど、まじめな子なんだろうな。私が上級生だってわかったからか、微妙に敬語になったのがなんだかおかしくて。
「じゃ、俺、トレーニング中なんで」
 ひとしきりカールを撫でた後、海堂くんはシューズの紐を結び直した。
「うん、ありがと」
 立ち上がって、彼は私たちに背中を向けた。
「あ、海堂くん」
 私が呼び止めると、顔だけ振り返る。今日もぴったりとしたトレーニングウェアで、首から肩にかけて彫刻のように盛り上がる筋肉がきれいだな、と思った。
「また、散歩中に会うことがあったら、カールを撫でてあげてくれる?」
「……ッス」
 海堂くんはそれだけ言うと、軽く手を上げてまた走り出した。初めて会った日のように、彼の背中を見送る。
 私とカールがこの中央第一公園をよく散歩するということは、きっとすぐに想像がついたことと思う。だけど、彼がまたこうしてこの公園でトレーニングしてるっていうことは、この前の出来事で、海堂くんは見た目の無愛想さ程には気分を悪くしてないのかもしれない。
「カール、よかったじゃない。海堂くん、カールのこと結構好きかもよ」
 私が言うと、満足そうなカールは思い切り舌を出したままデレデレの顔で見上げて来た。
 海堂くんが走り去った余韻は、まさに五月の風、そのものだった。

 海堂くんと公園で再会をしたその日、学校に行くと部活の朝練を終えたらしい乾が私の机の隣で足を止めた。
「そうだ、昨日、先輩がお前のこと探してたぞ」
 私は座ったまま顔を上げる。長身の乾を見上げるには、相当な角度が必要だ。
「ん?」
「お前にメールしたけど返事がないから、何かクラスの集まりでもあったのかって。外周を走ってる時にたまたま会って、聞かれたよ」
 私の彼は青学の高等部の一年生。乾とは去年委員会が一緒で顔見知りなのだ。乾って、妙につきあいがいい。
「あ、メールもらったの気づかなくて。ちゃんと連絡ついたから大丈夫よ、ありがと」
 私がそう言うと、乾は了解というように手を上げて自分の机に向かった。乾は察しがいいから、私が彼とつきあってるってことを当たり前のように知ってる。
「そうそう、乾」
 思い出したように彼を呼び止める。乾は眼鏡のブリッジを指で押さえながら振り返った。
「乾の後輩の、あの海堂くんってさ」
「うん?」
「あの子、けっこう動物好きだったりする?」
 そう尋ねると、乾は口元をゆるめて笑った。
「ああ。俺のデータによると、犬猫含め動物全般がかなり好きなようだな。そういうそぶりは、努めて見せないようにしているようだが」
 やっぱり、と私は手をたたいて笑った。
 っていうか、乾も海堂くんのことかなり好きみたいね。

 乾に言われたからじゃないけど、その日は改めてメールをやりとりして彼と一緒に帰る段取りをした。私のつきあっている彼は野球部で、今は一年生で頑張り時らしい。私はそこまで部活に熱心な方じゃないから、彼が部活を終える時間まで図書館で時間を潰して待ち合わせをした。
「おう、待たせて悪いな」
 中等部の方の門で待っていると、彼が小走りでやってきた。背の高い、明るい笑顔の彼はなかなかに人気のある先輩。去年、学園祭の実行委員が一緒で知り合って、付き合うことになったんだ。
「うん、大丈夫。昨日はごめんね」
 今までと何ら変わりのないやりとり。
 何も変わらないけれど、彼とセックスをした後に会うのは初めてで、私は妙に落ち着かなかった。
「部活の練習、大変?」
「ん? いや別にそうでもねーよ。一年の時ってこんなもん」
 彼は笑って、軽く私の背中に手を添えた。
 こんなことも、今までと同じなんでもないことなのに、私は一瞬びくりとしてしまう。私のそんな気持ちの乱れは彼には気がつかれなかったようで、私は胸をなでおろした。
 その時、馴染みのある空気が通った。
 振り返ると、トリコロールカラーのジャージにバンダナ。
 海堂くんが走っているところだった。
 私は一歩足を踏み出して、思わず手を振る。
「こんな時間なのに、まだ走ってるの?」
 私たちに気づいた彼は、いつものように眉間にしわをよせて軽く頭を下げる。
「頑張ってね!」
 海堂くんは何も言わずそのまま走り続けた。
 へえ、あのジャージを着てるってことはテニス部で、レギュラーなんだ。
 感心して、走る海堂くんを見送っているともう一度私の背中に手がそえられる。
「知ってる奴?」
 彼が聞く。まあ当然か。
「あ、ほら同じクラスの乾のさ、テニス部の後輩みたい。乾って、知ってるでしょ? 乾を訪ねて、三年の教室に来ることがあるんだ」
 公園での出来事は、言わなかった。ふうん、と彼は気のない返事。

 その日の帰り、私は当然のように彼の部屋に招かれた。
 そして、当然のようにベッドに誘われる。特に拒みもしなかった。
 私はひとつひとつ確認をした。
 彼とキスをすること、彼に触れられること、人に見せないような体の部位を彼に愛撫されること。
 彼の行為は丁寧で熱心だ。私たちは間違ってはいない。彼が私に触れるたび、私は必要以上に声をあげてみる。誰に習ったわけじゃないのに、我ながら不思議。こういうこと、知ってる。
 彼が私を抱きしめ、私の中に入って来る時、私はたまたま目に入った彼の部屋のカーテンのドレープの数をかぞえていた。
 左側だけで、1、2、3、4、5、6、7、8、9。
 彼の動きに反応して声を上げながらも、なんだかカーテンレールのフックが半端に余りそうな数だな、なんて思ったりして。私がそんなものを数えていたなんて、もちろん彼に気づかれることはなかった。
 一通りのことを終えると、暗くなる前に彼に送ってもらって家に帰る。
「カール、ただいま!」
 家に戻ると、玄関まで走り出て来るカールをごしごしと撫でて、ぎゅっと抱きしめた。
 私、彼と手をつないだり抱き合ったりすることは、多分好きなんだと思う。
 だけど、何がひっかかるんだろう。
 こうやって、カールを撫でて抱きしめて嬉しい気持ちになることと、彼と寝ることと何が違うんだろう。
 そんなことを考えたりしながらも、結局のところ私は彼と会うたびにああいうことを繰り返し、彼とのセックスに慣れて行くんだろうな。カーテンのドレープを数えながら。

 翌日、いつもの時間、いつものようにカールの散歩に行ったけれど、海堂くんに会うことはなかった。明け方まで降っていたらしい雨で、地面が濡れていて地面にカールの足跡が残る。海堂くんは、地面がぬかるんでいるからって、トレーニングを休むような子ではないだろう。
「カール、残念だねー。今日は海堂くん、他のトレーニングコースみたいだよ」
 私がカールの額をこすりながら言うと、カールは残念そうに鼻先からピィと音を鳴らした。
 海堂くんがカールと遊ぶところを見たかったのにな。私も残念だよ、カール。
 朝の公園では、ジョギングをしている人たちが時折通り過ぎる。
 私も走ってみようかな。
 このところの私は、なんだかすっきりしない。
 カーテンのドレープを数えてるよりは、走った方がすっきりするよね、多分。

      <四>

 さて、私は結構行動が早いので、翌朝晴天であることを確認すると、ジャージを着てカールと一緒に家を出た。
「カール、今日からちょっと走るよー!」
 新しいことを始めるのは、ちょっとわくわくする。
 私の気持ちが伝染するのか、カールはいつもより大きく口をあけて張り切って舌を出していた。
 家を出て車の通りを確認すると、早足で歩き始めた私は少しずつスピードを上げる。頬をなでる空気が、さらりとした絹のような優しさから、洗いたての綿のシャツみたいなぱりぱり感になってくる。なかなか悪くない。
 走ったまま公園に入ると、カールのテンションが一気に上がったのかリードをぐいぐい引っ張り始めた。
「ちょっとカール! そんなに早く走らないで!」
 リードを引き寄せてチョークチェーンを締めるけど、すっかり全力モードになってしまったカールにはかなわない。だめ、とか、コラ、とか止まれ、とか一応カールに教えたはずの言葉をつくすけど、私はカールのリードを持ったまま全力で走る事になる。
 そして、予想通りの展開。
 カールの脚力についていけなくなった私は、カールのリードを手から放す前に足がもつれて、見事に前のめりに転んでしまった。
 あまりの痛さと恥ずかしさに、声が出ない。
 思い切り地面にぶつけた肘と膝の痛みがじんじんと強くなってきた頃に顔を上げると、リードをひきずったカールが気まずそうに戻ってきた。
 ……もう、バカ犬!
 と心で毒づいた時、目の前に差し出される手。
 大きな手! でもきれいな指だな、なんて思いながら見上げる。
「……何してんスか」
 海堂くんだった。
 初めて会ったときと同じ、黒いぴったりとしたトレーニングウェアにバンダナ。今日のバンダナはこの前のカールとお揃いの青ではなく、くすんだ品のいいオレンジ色だ。
 目の前の彼の手に触れていいのかどうか、一瞬迷ったけれど、私が手を差し出すと海堂くんは私のそれをぐっとつかんで立ち上がらせてくれた。彼の手は大きくて私の手をすっぽり包み込むくらい。手のひらには豆がたくさんできてゴツゴツしていたけれど、指は長くてきれいだった。

「ごめんごめん、ありがとうね。カール大人しくしてた?」
 カールを隣に従えた海堂くんに向かって私は小走りで駆け寄る。
 公園のトイレの水道で、土まみれになった手を洗いに行っている間、カールのリードを海堂くんに預かってもらっていたのだ。
「怪我は?」
 私の質問には答えず、海堂くんは私の汚れたジャージを改めてギロリと鋭い目で見た。
「ううん、大丈夫。血とか出てない。あざにはなるかもしれないけど」
 フシュウ、と彼は息を吐いた。
「……時々走るんスか?」
 私は笑って首を横に振った。
「今日はたまたま、走ってみようかなーって気になって。今は風が気持ちいいし。こう、身体を動かして、いろんなことがそぎ落ちてシャキッとするの、いいじゃない。ちょっとは痩せるかもしれないし」
「別に痩せなくてもいいんじゃないスか」
「ま、それはそれとして、私も一応、陸上部幽霊部員だから、走るの嫌いじゃないの」
 そう言うと、彼はぎょっとした顔をする。
「陸上部? とても陸上部の走りには見えねぇ……」
 さらりと失礼なことを言うのだ。
「だから幽霊部員だって言ったでしょ」
 私がカールのリードを受け取ろうと手を出すと、海堂くんはまだリードを持ったままカールの額をなでる。カールはでれでれの顔で彼を見上げていた。
「あんたのジョギングとこいつの散歩は、別にした方がいいんじゃないスか。そりゃ一緒にいる飼い主が走ったら、犬は全力で走りたくなる」
 へえ、海堂くん、まるで犬の気持ちがわかるみたい。
「そっか、そうかもね。でも、なんか朝早い時間に一人で公園走るのって心細いし、カールが一緒の方がいいかなーって思ってさ」
 海堂くんからリードを受け取る。彼の、人を睨みつけるようなまなざしにもすっかり慣れた。
「……だろ……」
 彼がぼそっと何かを言ったけれど聞き取れなかった。
「え? 何?」
「俺がいる時に走ればいいだろうが」
 私は目を丸くする。海堂くんは思い切り不機嫌そうな顔になった。
「じゃあ」
 そして、それだけを言うとさっさと走り去った。それまで大人しくお座りをしていたカールはお尻を持ち上げて、名残惜しそうに彼を見送る。
 海堂くんは、私の質問を一切受け付ける気はなさそうだった。
 私は、いろいろ聞きたい気持ちもあったけれど、言葉で確認してしまうと、海堂くんのそのぶっきらぼうな申し出は、夏の朝顔みたいにしぼんでしまいそうな気がして、それ以上彼を呼び止めて尋ねることはしなかった。
 私の胸の中には、小さな竜巻が残った。

 何日か雨の日が続いて、私が一人で公園へ行ったのは結局翌週になってから。
 海堂くんがいるのかどうか、わからない。
 でも、一人で家を出て自分のペースで走るということは、なかなかに気分が良かった。いつもの中央第一公園に入って、一度ベンチに腰掛けてシューズの紐を締めなおした。顔を上げてドリンクを一口飲んでいると、ハナミズキの木の向こうに、海堂くんの姿が見えた。走りながら、彼はちらりと私の方を見た。私が手を振ると、彼は軽く頭を下げてそのまま走る。
 よし、私も走らないと。
 海堂くんとは違うコースを、私は自分のペースで走り出した。
 うん、悪くない。
 別に、何を話すわけじゃなくても、この公園で海堂くんが走ってるんだって思うだけで、なんだか安心する。
 その日私は、走って苦しくなったその先にある爽快感を、久しぶりに思い出した。

      <五>

 私が朝に走ることが多くなると、カールの散歩のメインの時間は夕方にシフトされていった。そうなることで、私は夕方の散歩をする時にはできるだけ早く学校から帰るようになる。つまり、野球部の彼と待ち合わせをして一緒に帰る日が少しずつ減っていった。そのことは意外に寂しくなくて、私は自分でもそれが不思議に感じたけれど、深く考えることはしなかった。
 去年の冬、彼と手をつないで帰り道を歩いていたことがとても昔のように感じる。あの頃は本当にうきうきして楽しかった。
 最初に好きになったのは多分私の方。女の子っていうのは不思議なもので、テキストなんかで勉強しなくても、男の子の気を惹くにはどうしたらいいかっていうのがなんだか分かる。自分の気持ちの伝え方がわかる。私は彼に、自分から好きだと言ったり、わかりやすく誘ったりはしなかったけれど、学園祭の仕事をしながら『この先輩人気あるみたいだし、かっこいいな。こんな人とつきあったりしたらいいだろうな』なんて思ってそんな光線を出して、そして彼からデートに誘われ、つきあうことになったんだ。
 女の子から人気のある彼が私を見るようになったことに、有頂天になったっけな、なんて思い出す。

 その日は久しぶりに彼と一緒に帰った。今は梅雨に入った時期で、野球部の練習がないからと授業が終わるとすぐに待ち合わせることができたから。
 彼の部屋のベッドで、私はいつものようにカーテンのドレープを眺める。初めて彼に抱かれた時から感じ始めた妙な感覚の正体が、少しずつ分かってきた。
 私の身体の上で熱心に腰を動かす彼は、きっとこの瞬間私が他の女の子に入れ替わっていても、気づかないんじゃないだろうか。ふとそんな事を考えた。
 決して彼が他の女の子を好きなのだとか、私のことを嫌いなんだとか、そう思うわけではない。行為の最中、彼は私自身のことよりも自分自身のことに夢中なんだなって感じた。それだけ。
 前も思ったけれど、男の子と触れ合って抱きしめられることは、私、多分好き。
 だけど、彼と寝るようになる前みたいに、学校帰りに手をつないで歩いて、物陰でこっそり抱きしめられたりキスをすることの方が、もっと好き。
 そんな時の彼のまなざしは熱くて、しっかりと私を見ていたから。

 梅雨の晴れ間の朝は、私は熱心に走った。
 何キロ走るのだとか、そういうノルマは課していないけどだんだんと自分の体が走ることに慣れてくるのは気持ちがよかった。ま、痩せるとかの効果は出てないけどね。
 私が公園で走るとき、約束はしないけど、いつも必ず海堂くんがいた。
 ああ、いるんだなって、存在を確認するだけの日もあったけれど、少しずつ言葉を交わす日が増えていった。言葉を交わすといっても、何しろ彼はぶっきらぼうだから、そんなにおしゃべりが弾むわけじゃないけど。
 それでも、海堂くんはヨーグルトやお蕎麦が好きで、弟が一人いるなんてことを私は知った。そして、彼がとてもテニスに熱心だっていうことも。

「それにしても、やっぱりすごいよね。ウチのテニス部でさ、二年生でレギュラー選手なんて」
 私が素直な感想を述べても、彼は別段何を言うわけでもない。
 海堂くんは、見た目どおり基本的にとっつきにくい子だ。それでも、意外と一緒に過ごすのは気楽だった。っていうのは、彼はあまりおしゃべりじゃないけど、それは別に怒ってるだとか気を悪くしているだとか、そういうわけじゃなくて、比較的口下手なだけなんだっていうことがわかったから。
 海堂くんとは私が公園でジョギングをする時だけじゃなく、カールの散歩をする時にもよく出会って、彼を見つけるとカールはめざとくリードを引っ張っていく。出会った頃はカールのおでこをゴシゴシとこすってくれるだけだった海堂くんは、最近ではカールのリードを引いて一緒に走ってくれることもある。
 そんな時、私はベンチで座って見ているわけなんだけど、全力疾走をしている時はカールだけじゃなく、海堂くんもなんだかちょっと楽しそうで、私は嬉しくなってしまう。
「……何、ニヤニヤしてんだ」
 カールとの全力疾走から戻ってきた海堂くんは、さして呼吸を乱すこともなく、いつものあのドスの効いた声で言う。
「ん? カール楽しそうだなって思って。私じゃとてもついてけないからさ」
 カールだけじゃなくてカオルもね、なんてのは言わなかったけど。

      <六>

「おはよ」
 朝、教室の自分の席に座って友達としゃべってると、部活の朝練を終えてきたらしい乾が、通りすがりに軽く手をあげるから、私も挨拶を返す。乾はちょっと変わってるけど、つきあいのいい話しやすい奴なんだ。
「今日の日直、お前だぞ」
 私の斜め後ろの席に座ってから、彼は言う。
「え? ウソ、明日のはずだけど!」
 私が振り返って言うと、彼は前の方の席を指さす。
「当番が欠席で繰り上がり。日誌頼むよ」
「ヤダ、乾が書いてよ。そういうの得意でしょ?」
「今日は資料運びなんかが多いから、俺はそっちをやるよ。せめて日誌くらい書いてくれ」
「なんだ、しょうがないなー」
 なんだかんだ言って乾はしっかり者だから、乾との日直は楽ちん。私は口で言うほどイヤがってるわけじゃないの。
「そうだ、一限目の授業の教材は早めに用意してくれって、さっき先生が言っていたから、やっておこう」
 乾は教科書なんかを整えたら、また席から立ち上がって私を促した。
「そういうのは乾がやるって言ってたじゃん」
「確認くらいつきあえよ」
 なんだ、結局行かないといけないのか。面倒。
 手元に持ってた夏ワンピ特集の雑誌を友達に手渡して、私は廊下に出る。
「乾は相変わらず部活忙しいみたいね」
「ああ、関東大会は強豪ぞろいだから、しっかり準備しないとな。お前はどうなんだ、部活」
「何よ、私が幽霊部員って知ってるくせに!」
 私は笑って乾の広い背中をバンとたたく。彼はわざとらしく眼鏡の位置を指で直しながら、唇を緩ませた。
「でも、最近走ってるんだろう」
「あ、そうなの! なんか、久しぶりにちゃんと走ろうと思って走ってみたら、結構気持ちよくてさ。最近、朝に気が向いた時に走ってるんだ。中央第一公園で、トレーニングしてる海堂くんに会うよ。もしかして私が走ってるって、海堂くんから聞いた?」
 乾は穏やかな表情のまま私を見る。乾はほんとに背が高いなあ、なんて思いながら彼を見上げた。
「いや、海堂はそういう事は言わないよ。俺も部活の朝練の前に自主トレしてるんだけど、それで走ってる時にお前を見かけたんだよ。なかなか頑張ってるな」
「でしょう」
 もう一度乾の背中をたたく。乾は今度は眼鏡を直すふりをしなかった。
「あと、他からも耳にしたことがあってね」
「ん? 私が朝ジョギングしてるってこと?」
 私たちは資料室の前に到着した。
 乾は資料室の鍵をまわすと、ひと呼吸してから扉を開ける。
「うん、お前が朝走ってて、時々海堂と一緒にいるって、他のクラスの女子がこの前話しててさ」
 私は乾の言いたいことを、何となく察した。
「お前がつきあってる先輩、この学年の女子に結構人気あるからな。 海堂もあれで、目立つ奴なんだ。女子って、そういうのあれこれ言いたがるだろう?」
 乾は何でもないように話しながら、制服のお尻のポケットから出したメモを見て物品を準備し始める。
「……つまり、そういう事だ。まあ、お前の耳に入れといた方がいいかもしれないと思ってな。余計なお世話かもしれないけど」
 乾は作業をしながら、普段通りのトーンの低い落ち着いた声で淡々と続けた。乾は気を遣うのが上手い。
「……うん、ありがと、乾。いきなり他の女子から面倒くさいこと言われるより、乾に先に教えてもらっといてよかったよ」
「そうか」
 私が言うと、乾はほっとしたように緩く笑った。
 乾は大人だな。
 乾からしたら、私も先輩も海堂くんも全員知り合いなわけだから、気まずいよね。
「でもさ、乾。私と海堂くん、本当に別になんでもないんだよ。あそこの公園はウチの犬の散歩コースで、私が走るにもちょうどいいとこだし、そこで海堂くんもたまたま走ってるだけ」
 乾はクスッと笑った。
「ああ、わかってる。何か言われても気にするなよってことと、あと先輩とケンカしないよう気をつけろよって言いたかっただけさ」
 乾は資料をそろえると保管庫を閉めた。なんだ、資料の用意、ぜんぜん私いらないじゃんね。
「……乾ってほんと良い奴だよね。かっこいいし。どうして彼女できないの?」
 私が背中をバンバンたたくと、乾は眉毛をハの字にする。
「それこそ余計なお世話だな」
 
 乾と日直をやった翌朝、私はカールの散歩でいつもの中央第一公園の中には入らず外周をぐるりと歩いた。公園の木々の間から、海堂くんが何本も続けてダッシュをしている姿が見える。彼は、本当にトレーニングに熱心で、まっすぐだ。そう、まっすぐ。
 私は遠目に海堂くんを眺めながら、彼の声やしぐさを思い返した。
 彼と初めて会った時は、まだ衣替えの前だったっけ。
 私は多分、海堂くんと過ごすのが好きだと思う。
 ぶっきらぼうな彼は、『チンタラ走ってんじゃねぇ』とか『フォームがなってないじゃないスか』とか、一事が万事そんな風なんだけど、海堂くんと話すことは不思議としっくりくる。その理由は何となくわかるんだ。海堂くんは本当に自分が思ってることしか言わなくて、彼と過ごすには、その場の空気を取り繕うような言葉が必要ないから。話すことがないなら黙っているし、話したいことがあれば妙な前置きなんかなくても大丈夫。
 男の子同士の友達って、こんな風なんだろうか、なんて思った。
 女の子同士や、そして今つきあってる彼との会話の感じとは、ちょっと違うんだ。
 公園の外で立ち止まって海堂くんを見ていると、ダッシュを終えてストレッチを始める彼と視線があった。
海堂くんは、確かに私の目を見た。
聞こえはしないけれど、きっと『フシュウ』って息をもらして、そして軽く男の子らしいチョコンという会釈をしてそのままストレッチを続けた。
 どうしてかわからないし、どういうことかわからないけど、私の胸はぎゅっと熱くなった。
 公園に植樹されているハナミズキなんかで、私たちの間は隔たっているけれど、私は彼と同じ地面を踏みしめている。
 そういうことを、改めて実感した。
 この地面で彼と繋がっている。
 そう感じた瞬間、私は海堂くんから目をそらし、カールのリードをひっぱって公園を後にした。
 乾がおかしなことを言うから!
 乾に海堂くんとのことを言われた時は、なんでもないことだって思ったのに。
 私が足を速めると、カールはそれが嬉しかったのかジャンプしながら走り始めた。

      <七>

 その日の学校帰り、私は久しぶりに彼と待ち合わせて一緒に帰った。
ファーストフードの店で、コーヒーのおかわりをしてだらだらと過ごす。
 私は自分が立っている地面を確認したかった。私は彼のことが好きなんだっていう、地面。
 コーヒーを何杯も飲みながら、私はとても饒舌に彼に向かっておしゃべりをする。会話が途切れて、空白の時間ができないように。何を話しているのか、時々自分でもわからなくなった。会話が途切れようとすると彼は、『そろそろ俺ん家、行く?』と言い出して、私は『もう一杯コーヒー飲むから』って言っておしゃべりを続けて。
 そんな風に時間が過ぎて、結局、遅くなったから今日はもう帰るねって言って送ってもらった時の彼は、なんだかつまらなそうで、『家に行かないんだったら、会わない方がいいの?』って尋ねたくなってしまったけれど、もちろんそんなことは言わなかった。
 
 彼に家まで送ってもらってすぐ、私は着替えて走り出した。
 私、こんな体育会っぽいタイプじゃなかったんだけど。
 ぐちゃぐちゃ考えるより、走ったりした方がいいなって思うようになってきた、最近。
 家にカールを置いて、一人、コースも決めずに走った。いつもなら、テキトーにだらだら走る程度だけど、今日はフォームも意識して両手をしっかり降って背筋を伸ばして走ってみる。
 やっぱり、すっきりするな。
 コーヒーを飲みながら彼の前で、とにかく一生懸命会話が途切れないようにしゃべり続けてた私は、冴えなかった。どうして、あんなことしてたんだろう。私、あんな風じゃなかったはずなのに。
 そんなもやもやした考えも、走って額に汗がにじんでくると、遠くに振り切れる感じ。
 そう、何もかも脱ぎ捨ててしまいたい。
 夕暮れの中、普段はあまり行かないような河原の土手を思い切り走った。
 ああ、さすがに息が切れる。やっぱり普段からトレーニングしてないとダメなんだな。こんなの毎日って、そりゃ陸上部ムリだったわ。なんて思いながらスピードをゆるめていると。
 いきなり、土手の河原の方からロープのような物を持った半裸の男が躍り出たのだ。
 思わず絶叫しそうになって、そして全力疾走をした。
 やばい!
 やっぱりこんな時間に一人で走るんじゃなかった! 役に立たないかもしれないけど、カールを連れてくればよかった! よりによって、こんな体力を使い切った時に変質者に遭遇してしまうなんて!
 無我夢中で走っていると、背後からはドスの効いた声とともにハイスピードな足音が迫ってくる。
 もう、ヤダ!
「おい、コラ、待て!」
 風の音に混じったその低い声は、確か聞き覚えがあった。振り返ろうとした瞬間、パーカーのフードを後ろから引っ張られる。
 もう走れない。
 観念して足を止めると、私のフードを掴んでいたのは、なんとずぶぬれの海堂くんだった。
「……海堂くん! 何してるの!」
 思わず叫んでしまう。
だって、海堂くんてばハーフパンツ一枚で上半身は裸、そして片手にはなにやら水に濡れた手ぬぐいを持っていた。どうもそれが紐みたいに見えたらしい。
「あんたこそ、こんな時間に一人でウロウロしてんじゃねえ!」
「そりゃそうかもしれないけど、どう見ても海堂くんの方がヘンよ! ほんと、何してんの!」
 私は息を切らしながらも、呆れて叫んだ。
 海堂くんは私のフードから手を離して、そしてふと我に返ったように自分の足下を見た。
 ずぶぬれのその足下は、裸足だった。
「……トレーニングに決まってるだろうが」
 彼は少々気まずそうに、そう答えた。

 私たちは土手を歩いて、来た方向へ戻って行った。
 なんでも、海堂くんはテニスのショットを打つためのトレーニングで川に入っていたらしい。今度ダブルスのペアを組むという乾の指導の元、川の水で濡れた手ぬぐいをラケットに見立てて、それをうまく振り抜く練習なんだって。なんてマニアックな。
「暑くはなってきたけど、まだ夏前だよ。水冷たくないの?」
 海堂くんは河原に置いてあったバッグから取り出したタオルで、丁寧に身体の水気を拭き取っていく。
「……何てコトねえよ。もうすぐ関東大会なんだ。ショットを完成させねぇと」
 シャツを着て、バッグから新しいバンダナを出して頭にきゅっと巻いた。海堂くんは意外に几帳面のようで、身につけているものはとても手入れされていてきれいだ。
 そう、海堂くんはとてもきれいだ。
 紫がかったオレンジの、暮れかけたうっすらとした光に彼の深い黒い色の髪や、しなやかなふくらはぎが、静かなコントラストを描いている。まっすぐで強い目には、迷いがない。
 海堂くんは、とてもきれいで強い。
「……送ってく」
 バッグを肩にかけると、くいと顎を持ち上げて、私に歩くよう促した。
「トレーニング途中じゃなかった?」
「夕方のメニューはこなしたからいい」
「夕方のってコトは、もしかして夜もやってるの?」
「ああ」
「ええー、ホントすごいねえ……」
 そんなことを言いながら歩く。
「……けど、なんでこんなトコに走ってんだよ」
「ん? いや、別になんとなく。たまには川沿いなんかを走るのもいいかなって」
 海堂くんと並んで歩くなんていうことは、そういえば初めてだ。隣を歩く海堂くんをちらりと見る。彼は斜め前の地面をじっと睨みつけるように黙々と歩いていた。私は、歩く速度をほんの少しゆっくりにしてみた。私が海堂くんから遅れて歩くと、彼は何も言わずスピードを合わせてくれる。
 ゆっくり歩きたいな。
 そう思った。
「ンな時間に走ってんじゃねぇよ。……犬が一緒かと思ったら、一人じゃねえか」
「土手を走ってるの、川から見えたの?」
 私が尋ねると、海堂くんは何も言わず眉間にしわをよせるだけ。
「まだそんなに暗くないし、大丈夫って思って」
 言い訳をするように続けると、海堂くんはまた表情を険しくする。
「ここからあんたン家に帰るまでに暗くなる。どうせチンタラ走って帰んだろ」
 彼の言うとおり、確かにもう夕日は沈みかけて、さっきの紫とオレンジの空のグラデーションはすっかり紫に支配されている。私たちにまといつくのは、しっとりした夜の空気になってきていた。
 さっき、私が一人で土手を走っている時。それを海堂くんは川から見つけてくれて、そして裸足のままで走って来てくれたんだ。彼にフードをつかまれて振り向いた時の、海堂くんのあわてたような怒ったような顔を思い出す。
 もういちど隣を見た。夜にさしかかるブルーグレーの空気の中でも、海堂くんの存在感は確かに私に伝わってきた。
 口に出さずに心に思うだけだとしても、形にできない言葉がある。
 言葉にしてしまうことが怖いから。
 けれど、この、私と海堂くんの輪郭も溶けだしてしまうような色の空気の中でなら、そんな言葉も私の心の中でシャーベットのように跡形もなく溶けてくれるかもしれないと思った。
 『私は海堂くんが好き』
 心の中でそうつぶやいてみた。
 おそるおそる隣を見るけれど、当然テレパシーが伝わる訳はないので彼の表情は変わらない。ほっとする。
「……ンだよ」
 私が何度もちらちらと見るからか、ついに彼はそんな言葉を漏らす。
「なんでもないよ。海堂くんはキレイだな、と思って」
 私が笑って言うと、彼はギロッと睨みつけてくる。
「ハァ? ……女じゃあるまいし、そんなコト言われてもうれしくねーよ」
 ケッと言い捨てるのだ。
 そっか、ごめんね、なんて言いながら、私は彼のふくらはぎやバッグを持つ手を見た。トレーニングを重ね、努力を続ける海堂くん。彼は、本当にまじめできれいで清潔だ。そういう場所から、たまたま私を見守ってくれた。気軽に触れたりしちゃいけない男の子なんだって、思う。
 でも、今日こうやって私の家まで一緒に歩いてくれいる間だけは、私は海堂くんを好きでいてもいいんだっていう、そんな勝手なルールを作った。
 私の歩くスピードはまた遅くなる。海堂くんはそれに合わせてくれる。
 それから私たちは黙ったままゆっくりと家に向かった。
 私の家に着く頃は、あたりはすでに紺色の空気。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
 家の門の前でそう言うと、海堂くんはフンと鼻を鳴らす。
「だから言っただろ。あんたが帰る頃には暗くなるから気をつけろって。……じゃあな」
 それだけ言うと、彼はさっさと私に背を向けた。
 玄関を開けると、カールが飛びついてくる。
「わ、ごめんごめん、お腹すいたよね」
 ウチは両親とも帰りが遅いことが多いから、カールのご飯はいつも私が家にかえってすぐにあげるようにしてるんだけど、今日はだいぶ待ちわびてたみたい。
 カールの食器にドライフードを入れて、形ばかりの待てをさせてから、がつがつとご飯を食べるカールをなでた。
 ごしごしと背中をなでてから、ぎゅっと抱きしめる。
 筋肉質でがっしりしたカールは、暖かくて抱きごこちがいい。
『海堂くんが好き』
 改めて心の中でつぶやいてみた。
 だめだめ。
 乾にも、海堂くんとはそういうんじゃないって言ったばかり。海堂くんは、そんな子じゃないし。
 そう。
 大丈夫。もう、そんな言葉を心で考えたりしない。
 大丈夫。これは、恋じゃないから。

      <八>

 翌日、昼間に彼にメールをして夕方に会うことにした。野球部の練習の後にミーティングがあって遅くなりそうだっていうので、私は一度家に帰ってから待ち合わせることにする。
「カール、一緒に行こうか」
 当然そのつもりだったらしいカールは既に玄関で待機して、舌をべろんと出していた。
 今日は彼と中央第一公園で待ち合わせる。
 公園を歩きながら、カールが辺りの匂いを嗅ぐのにつきあっていると、『おう、待った?』と彼の声。
「今来たとこ。大丈夫」
 彼はちょっと腰の引けた感じでカールを見る。
「こいつがドーベルマンか。でけぇな」
 そういえば、彼はカールと会うのが初めてだ。
「カールはアメリカ系だから小さい方だよ」
「ふぅん」
 私に缶コーヒーを手渡してから、ベンチに腰を下ろした。
「ウチ来ればよかったのに」
 そう言いながら自分の缶コーヒーを一口飲む。彼はちょっと甘い缶コーヒーが好きらしい。
 私は深呼吸をした。
「行かないよ」
 カールのリードを持ったまま座っていると、カールも『仕方ない』と思ったようで大人しくくるりと丸まって座り、ベンチの足下に鼻をくっつけて匂いを嗅いでいた。
「ん?」
 彼はちょっと不思議そうに私を見る。
「ごめんね。家に行ったり、もうできない」
「どういうこと?」
 彼はコーヒーの缶を置いて、ちょっと真剣な顔になった。私はコーヒーの缶は開けず、ぎゅっと握りしめる。
「なんで?」
 彼は続ける。
 どういうこと。
 なんで。
 そう聞かれるだろうと思ってはいたけど、なんて言ったらいいのかわからない。
「黙ってちゃ、わからないだろ。俺を嫌いになった? 他に好きな奴ができた?」
 彼の疑問はもっともだ。
「……上手く言えないけど……。憧れてるっていう、感じの人が、いる」
 彼は呆れたような顔をする。
「なんだよ、それ」
 一口コーヒーを飲む。
「そいつと付き合うのかよ」
 私はつい目を丸くする。
「まさか。憧れてるだけだよ。そういうんじゃないの」
「……じゃ、そのうち冷めるだろ。だったら、俺と終らせなくてもいいじゃないか」
 私の頭にポンと大きな手をのせた。
「最近、抱いてないからか?」
 その手を私の背中に滑らせる。
 私は首を横に振った。
「ごめん、できない。だって、もう気持ちが上手く入らない」
 言葉を考えながらも、私ほんとひどいこと言ってるなーなんて改めて思う。自分から付き合うよう仕向けて、そしてこうだものね。私、だめだ。
「あれこれ考えるからだろ」
 彼の手はそのまま、私のカーディガンやキャミの下から素肌に触れる。少し乱暴に下着を上げて、直接胸に触れて来た。
「え、ちょっとヤダ」
 さすがに彼をぎゅっと押し返そうとするけど、やっぱり力は強い。
「こんなとこで、こういうのやめて」
「だからウチ来いって」
「行けないよっていう話をしに来たの」
「わかんない奴だなー」
 ちょっとカール! ご主人様のピンチなんだけど! 足下を見るけど、丸くなって座ったカールはうたた寝をしている。まったく役に立たない犬だなあ。
「ほんと、やめて」
 彼の手を押し返すことを繰り返す。
「ウチに来るんだったらやめる」
 その時、近くで何か小さいものが転がる軽い音。同時にカールが突然立ち上がった。お! 助けてくれるの、カール?
 と思いきや、カールは突然ダッシュする。私の手からするりとリードが離れてしまった。
「カール!」
 一瞬気がそれた彼の手をふりほどいて、カールの後を追った。カールは何かを拾ってくわえると、一目散にそのまま走り抜ける。まったく、何やってんの!
「カール!」
 もう一度叫んで後を追うと、水飲み場の傍でちょこんとおすわりをしたカールを見つけた。
 そして、カールの前には、黒いトレーニングウェアでテニスラケットを手にした海堂くんがいた。
 海堂くんがカールから何かを受け取って、得意げなカールの額をごしごしとこすっている。カールはご機嫌そうに首を左右に振っていた。
 海堂くんはカールから視線を上げて、私を見る。
「……こいつを拾ってもらった」
 海堂くんがカールから受け取ったのは、黄色いテニスボール。あの時転がってきたのは、海堂くんのテニスボールだったんだ。
 海堂くんはぶっきらぼうにそれだけ言うと、カールのよだれのついたボールをハーフパンツでこすった。
「カールが突然走り出すから、びっくりした」
 私はカールのリードを拾い上げて、『ダメじゃない』とカールのお尻を軽く叩く。
 その時カールを追いかけて来た私を探して、彼がやってきた足音。
「おい、犬は……」
私が振り返るより先に、海堂くんが一歩前に出て、私と彼の間に立つ。
「……コントロールが狂って、ボールがそっち行っちまったみたいで、すいませんした」
 海堂くんはまっすぐな、びっくりするくらい強い目で彼を見据えた。彼は眉をひそめる。
「……もしかしてさっき言ってたの、そいつ?」
 そして私に一言。
「そういうのじゃないから!」
 私はとっさに声を上げた。海堂くんを、私たちのことに巻き込まないで。海堂くんはそういう子じゃない。
 私の口調に、彼は少し驚いたようだった。
「だったら、犬つれてこっち来いよ」
 そして彼は海堂くんなど目に入らないというように、私に近づいて私の手を取ろうとする。
 けれど、私と彼の間には海堂くんのラケットがシュッと差し込まれた。
「なんだよ、お前、どういうつもりだ」
 ムッとした声で彼が言う。
「……別に」
 海堂くんはいつもの低い声で一言。目は相変わらず強かった。
 しばらく私たち三人は黙ったまま。
「ごめん、私、もうちょっと犬の散歩をして帰るから……」
 そう言うと、彼は少々納得のいかないような顔。
「……わかった、もう、いいんだな?」
 彼は軽く息を吐くと私をじっと見てから、私たちに背を向けた。
 残された私と海堂くんは、しばらくそのまま。カールも『待て』と思ってるのか、大人しく座ってる。
 私はキャミの裾や髪を整えながら、言葉を探した。
「あの……」
「もう帰るだろ。送ってく」
 海堂くんは水飲み場に立てかけてあったバッグにラケットを仕舞いながらぶっきらぼうに言った。
 黙ったまま歩く私たちの傍で、カールだけがご機嫌。ちらちらと海堂くんを見上げながら、嬉しそうに歩く。
 今日の海堂くんは、いつもの単なる地顔じゃなくて、本当に怒った顔をしている。
 歩きながら、私は海堂くんに『ありがとう』って言っていいのかどうか迷う。あの時、テニスボールが転がって来たのは、偶然なんかじゃないってことだけは分かるんだけど。
 私の家にたどり着く頃、かすかな雨が降って来た。
「あれ、降って来た?」
 門を開けながら空を見上げる。それほど厚くはない雲が、落とし物程度の雨を降らせているようだった。
「海堂くん、傘、持って行って」
「たいした雨じゃねぇから、いい」
 彼はそう言って、頭のバンダナを外しそれで肩の雨粒を拭った。
「でも濡れて風邪ひいたら、試合もあるのに困るでしょ」
 そう言って、玄関の軒下まで招いた。
 ポケットから鍵を出して扉を開ける。
「ちょっと待っててね」
 カールを中に入れて、傘を取ろうとすると肩を掴まれた。
 振り返ると、海堂くんのあの強い目。
「……あんた、なんで、あんなことをする奴とつきあってんだ」
 海堂くんの目はまっすぐで、じっと見るのが怖いくらい。でも、目をそらすこともできなかった。
「なんでって……」
 私はかろうじて彼の目を見たまま、彼の言葉を繰り返す。
「……あいつ、あんたを困らせてただろ」
 海堂くんは本当にまっすぐだ。
 きれいで、まっすぐだ。
「なんで、あんな奴……」
 繰り返す彼の言葉を耳にしながら、私は息をつく。
「なんでって、そりゃ好きだったからだよ」
 海堂くんのまっすぐさは、私には強すぎる。
 海堂くんは強すぎる。
「海堂くんは、強いからわかんないかもしれない。男の子を好きになって仲良くなったら、一緒に過ごしたり触れ合ったりしたいと思うんだよね。だから、『なんで』って言われても、好きだったから、としか言いようがないよ。それが、いいとか悪いとか、正しかったとか正しくなかったとか、わかんない。彼も、さっきはあんなことしてたけど、別に悪い人じゃないの。人を好きになったりつきあったりって、ややこしいことだもん。白黒させられることじゃないもん」
 私は、自分でも何を言ってるのかわからなくなったけど、言葉を止めることができなかった。
 だって、いつもきちんとしていて、強くて、きれいな海堂くんが急に憎らしくなったのだ。そんな彼に、私のダメさ加減を責められているような気がして。
 海堂くんは困ってる私を助けてくれたし、いつも私を心配してくれてるんだってわかってるのに。
「……だろ」
 海堂くんが胸の前で拳をにぎりしめながら、何かを言ったけれど上手く聞き取れなかった。雨足が強まっているわけでもないのに。
「え?」
「……俺だってこうして一緒にいるじゃねぇか。だったら俺が、あんたに触れてたら、それでいいってことだろ」
「え?」
 また私が聞き返すと海堂くんは、もう一度私の肩を掴んだ。眉間にぎゅっとしわを寄せて、とても怖い顔をしてまっすぐに私を見る。私は今まで、こんなに真剣な表情をした人と向き合ったことがない。こんなにまっすぐに人を見ることができるなんて、海堂くんはやっぱり私と違って強いんだ。改めて思った。
 私の目の前で、彼はフシュウと息を吐く。
「俺があんたを抱けば、あんたはあんな奴と一緒にいることもないだろ。ああ?」
 続く彼の言葉に私は目を丸くした。
 海堂くんの一言一言は明晰だけど、その意味をどうとらえたらいいだろう?
 海堂くんは私の肩を掴んで睨みつけたまま、傘を手にすることもしないので、私は自然と後ずさって玄関の中に入る。彼もそれに倣った。
 
 ほんの少し雨粒をかぶった体を拭くために彼にタオルを手渡して、自室のある二階へ案内した。
「……あ、何か飲み物持ってくる」
 そういえば、私は自分の部屋に男の子を入れることって初めてだなあ、なんて思いながら。
「いらねぇよ」
 海堂くんは私のベッドに腰をおろして、頭にタオルをかぶったまま。声はあいかわらずぶっきらぼうで、タオルのせいで表情は見えなかった。
 どうしたらいいんだろう。私たち、どうなるんだろう。
 私は、ほんの少し距離を置いて海堂くんの隣に座りながら、自分がどうすべきなのかさっぱりわからないままだった。海堂くんは、どういうつもりなんだろう。そして、あんなことを言った海堂くんをこうして部屋に上げた私は、どうしたいんだろう。ただひとつ言えるのは、あの時海堂くんを帰らせて、一人残されるのはいやだなって思ったっていうこと。
 ぱさり、と音がした。
 驚いて顔を向けると、海堂くんがタオルを頭からはずしてベッドにたたきつけていた。ぎろりと私を睨んでいる。
「ごちゃごちゃ考えてたって、始まらねぇだろ」
 それは彼が自分に向けているのか、それとも私が言われているのか、判断しかねた。けど、私が言われてるんだとしても確かにそのとおり、といった一言。
 低くドスの効いた声でそう言い放った次の瞬間、彼は私の両肩をつかんでベッドに仰向けにさせた。顔が近い。間近で見ても、彼の眉はきりりときれいに整っていて、やっぱり強い目をしていた。海堂くんの呼吸は浅くて早かった。
 しばらくじっとそのままの格好でいて、海堂くんは一度大きく深呼吸をすると片手を私のキャミの裾に入れた。つい、びくりと体を動かす。海堂くんのひんやりとした手は大きくて、手のひらは少しごつごつしていた。彼の手の進入は一瞬止まって、それからまたゆっくり上がってくる。下着の上から胸に触れた。なでるように、そうっと。同時に海堂くんは小さく、フシュウと息をもらす。そうっと触れるだけだった手に少し力が入った。
「あ……」
 つい声をもらしてしまう。海堂くんは驚いたように手を離した。
「ん、ごめん、大丈夫……」
 言いながらも、私はどんな顔をしていいのかわからなくて、顔をそらせてしまった。海堂くんと、こんなことをするなんて思いもしなかった。いいんだろうか。
 心臓、というより喉元が、どきんどきんと強く脈打っているように感じた。
 しばらく下着越しに胸を愛撫された後、キャミソールをぐいと上まで捲られた。海堂くんはまた大きく息を吐いて、しばらく考え込むようにしてから、背中に手を回した。下着のホックに手をかける。海堂くんの手は意外に冷たくて、ひゃ、と声を上げてしまうと、また一瞬彼の手の動きが止まるのだ。フシュウと息を吐いた後にまた行為に取りかかるけれど、片手ではなかなかホックが外れなくて、結局両手を背に回す。ぐっと彼の顔が近くなり、吐息が頬にかかる。ホックが外されて下着の圧迫感が緩まる。
 海堂くんの手が直接私の胸に触れると、声を出さないようにしようとは思っていたけれど、体がびくんと大きく震えてしまった。だって、冷静でなんかいられない。
 海堂くんはしばらく迷ったようにじっとしていて、それから私の下着とキャミソールをはぎ取るように脱がせた。私はあっというまに上半身裸になってしまい、あわててタオルケットをたぐりよせた。けど、海堂くんはそのタオルケットも奪い取って、もう一度私の両肩をベッドに押しつける。
 不思議。
 海堂くんはとても険しい顔で私を睨みつけているし、強引だけれど、怖くはなかった。彼はじっと私を見ているから。
 上から覆い被さる形で、彼はじっと私を見た。ほとんど捲れ上がってしまっているスカートの裾から手を入れて、ふとももに触れ、しばらくそのままさするように撫で続ける。
「……あ……海堂くん……」
 その動きはひどく甘くて、私はつい彼の名を呼ぶ。海堂くんはスカートのホックを外してするりとそれを下ろすと、続いて下着もあっさり脱がせてしまった。さすがに私はタオルケットを奪い返して体を覆う。
「やだ、なんで私だけ……」
 思わずつぶやいてから、カッと恥ずかしくなる。海堂くんも脱いで、って催促してるみたいじゃない。でも、私だけがこんな素っ裸なんていうのは恥ずかしすぎるんだけど。
 海堂くんは上半身を起こして膝立ちになると、さっと黒のトレーニングウェアを脱ぐ。河原の土手で会った時に見た、あのまぶしいくらいの筋肉に覆われた身体。片手で前髪をかきあげると、一旦ベッドから降りて素早くハーフパンツを下着と一緒に脱ぎ捨てた。彼は身体を隠そうともしなかった。再度ベッドに体重を預け私に覆いかぶさる彼の股間のものは、お臍のあたりにぴったりと張り付くような角度で隆起していて。
 彼は、私が両手で握りしめているタオルケットをはぎとった。右手で、私の乳房を持ち上げるように覆う。幾度かその質感を確かめるように揉む。少し力が強くてかすかに声がもれてしまったけれど、彼は行為を続けた。ゆっくり海堂くんの顔が私の胸に近づく。彼の唇の感触が走った。そういえば、海堂くんは意外に下唇がふっくらしてたっけ、なんて思い出す。
 唇のふわりとした感触がしばらく続いて、そして熱い舌。彼の指と違って、舌はびっくりするくらい熱くて、一瞬声を上げてしまう。私が声を上げたり体を動かしたりするたびに、驚いたように動きを止めていた彼は、今度は行為を止めることはしなかった。私の胸の先端を、熱い舌で絡めとるように舐める感覚。
 やだ。
 海堂くんの両肩をぎゅっと掴む。
 こんな私を、海堂くんに見せていいのかどうか、わからない。やだ。
「あ……っ……ん……」
 彼の唇と舌の刺激で自分の身体が熱くなるのが分かる。こんな、自分の身体の変化が初めてで、戸惑ってしまう。
 私の背中と肩に添えられていた彼の手は、背中から腰へと移動していった。舌と唇で胸を愛撫したまま、片手でヒップをするりと撫でる。
 やだ。
 その先に来るだろうことを予測して、体が大きく跳ねてしまう。予想通り海堂くんの指が、私の足の付け根をすべり中心へと差し込まれる。
「あっ……やだっ……!」
 彼の指で触れられて、自分がびっくりするくらいに濡れて熱くなっていることに気づかされる。彼の指はまるで私の中にそのまま吸い込まれそう。
 私はカッと熱くなった顔を両手で覆ってしまう。海堂くんは、私の胸から顔を離して一瞬体を離すけれど、指はそのまま。彼の指はもう冷たくなんかない。そして、私のふとももに当たる彼の股間のものは、すごく硬くて熱かった。
 海堂くんは、少し不器用に戸惑ったように指を動かすけれど、私は彼の指に感じてしまうことが止められなくて、泣きそうな声を漏らしてしまう。彼は私の声や反応を感じ取るのか、指の動きがだんだんと早くなる。
「ちょ……海堂くんっ! 待って……あっ……!」
 私は彼の両肩を握りしめて叫んでしまう。息をつく間もなく、彼の指であっさりと達してしまったのだ。こんなことは初めてで、私は速い呼吸のまま何も言葉が出ず、海堂くんから顔をそむけた。彼が私の反応に気づいたのかどうかは、わからない。けれど、海堂くんは一瞬おどろいたように指の動きを止め、体を離した。
 カサ、と音がする。彼は険しい顔をして、枕元に置いた私の化粧ポーチの中から避妊具を取り出した。慣れない手つきで装着してから、私の両脚の間に膝立ちになった。上半身がゆっくりと、私の上に被さるように近づく。彼の呼吸は荒い。片手で自分のものの根元を支え、さっきまで指で愛撫していた部分にあてがう。
「あ……んっ……」
 つい声を漏らすと、彼のものはびくりと跳ねて、すっかり濡れてしまっている私のその部分から滑る。
「……くそ……」
 海堂くんはもう一度手を添えて私に押しつける。どこで腰を落としていけばいいのか迷っているみたいで、彼のものは私の入り口を滑るばかり。それは焦らされているようで、私はおかしくなってしまいそうだった。腰を浮かせて位置を合わせ、片手で掴んでいた海堂くんの腕にぎゅっと力を入れる。それが合図のように、彼はぐっと私に腰を押しつけた。
「あっ……!」
 想像以上の抵抗感でもって、彼の先端が侵入してきた。海堂くんのくぐもった声がもれる。思ったよりだいぶきつい。けれど、奥までたっぷりと濡れた私の中は、すんなり彼を受け入れた。少しごつごつとしたような質感の彼のものが、どんどん入ってきて、もう無理! という頃にちょうど彼の硬い腹筋が私のお腹にぴったりとくっついた。
 まるで苦しいみたいな、深い吐息をもらすのは、私と彼と同時。反らしていた腰を落ち着けるために少し位置をずらすと、中で彼のものがびくんと大きく反応する。
「んっ……」
 それだけで私は声を漏らしてしまう。彼のものは、どうやら、大きい、みたいなのだ。私の中をたっぷりと占める質感に、戸惑ってしまう。
 海堂くんは、ため息とも吐息ともとれない深い息を吐くと、上半身を私の上にかぶせぎゅっと私の身体を抱きしめた。ちょうど私の首筋に彼の唇がふれ、その荒い呼吸が耳元をくすぐった。
「……動いていいのか……」
 かすれた声で言う。
「……ん……」
 返事とも言えないような声を返すと、彼は上半身を起こして一度腰を引いた。軽く抜き取られてから、再度深く挿入される。
「やっ……あっ……」
 やっぱりすごい刺激。思わず引いてしまった私の腰を、彼は片手でぐっと引き寄せた。次の波に備えて、深呼吸をしようとした時。私の腰骨のあたりをぎゅっと掴んだままの海堂くんは、いきなり激しいピストン運動を始めた。
「ちょっ、やだっ……海堂くんっ!あっ、あっ……!」
 あまりの激しい動きに、思わず叫んで彼の体を押し返そうとする。けれど、彼は腰の動きを止めなかった。
「海堂くんっ……!」
 強く揺さぶられて、私の声は震える。激しすぎる刺激が、甘い波を伴ってきた頃、海堂くんは苦しそうなうめき声を漏らして体の動きを止めた。私の腰を押さえる手にぎゅっと力が入る。速くて荒い呼吸に汗ばんだ肌。いつもどんなに走ってる時でも、こんなに呼吸を乱す彼を見たことがなかった。
 少しの間、彼は大きく肩で息をしながら、吐息とともに私の上に体重を預けた。フシュウ、と、聞き慣れた大きな息づかいの後、両手をついて体を起こす。不機嫌そうな顔で、私の目を見ないまま体を離し、そっけなく自分のものを私から抜き取った。まだ力を残したままのそれから、たっぷりと白濁したものが放出された避妊具を外して始末をした。
 一度目を閉じてから、彼はあの強い目で私を睨みつける。私の顔の横に肘をついて、もう片方の手で私の腰に触れる。そして、まださっきの刺激の余韻が残っている部分に、指を滑り込ませた。今度は、その長い指を中まで侵入させてくる。
「んんっ!」
 さっきの行為で、甘さが広がる直前だった私のそこはするりと彼の指を受け入れ、さらに刺激を求めてしまうのか腰が浮いた。海堂くんは、今度はゆっくりと探るように指を動かした。
「あ……あ……っ」
 私の中が、たぷりと、とろけるように潤うのが自分でも分かる。海堂くんの指が中の敏感な部分を刺激して、その舌が胸の先端の愛撫を始めると、私はもう嬌声と腰のくねるような動きを止めることができなかった。たどり着こうとする私の腰の動きが激しくなったと同時に、海堂くんの指が抜き取られる。
「やだっ……」
 思わず熱に浮かされたようにつぶやく。私から身体を離した彼が、今度は少し慣れたように避妊具をつけるのが見えた。私には、もう恥ずかしがったり、自分の呼吸の乱れを隠す余裕もない。海堂くんは私の片脚を軽く持ち上げると、今度はスムーズに挿入をした。飲み込むように彼を受け入れた私は、あまりの気持ちよさに甘いため息を漏らす。海堂くんの肩をぎゅっと抱いた。
「……今度は……もう少しゆっくり……」
「……っかってる」
 海堂くんは、一回目と打って変わってじっくりと腰を動かしはじめた。
「ん、ん……ああっ……」
 さっきの指での愛撫のように、じわじわと探るような動きを彼のものでされると、その甘い刺激はびっくりするくらいに私を強くとらえる。私が反応を示すと、彼はじっと私を見据えたまま、少し苦しそうな表情で執拗に腰を動かしてその刺激を繰り返した。
「あ……っん、はあっ……」
 首を左右に振りながら背中が反ってしまう。やってくる絶頂を迎えるために、身体に力が入ったちょうどその時、彼は動きを止めた。
「海堂くんっ……!」
 さっきから直前で終わっている私は、泣きそうな声を上げた。彼は怒ったような、少し困った顔。
「……痛い……とかか?」
 私は潤んだ目をぬぐった。
「……違う。あの……すごく、いい、の。そのまま、して欲しい……お願い……」
 絞り出すように言うと、私の中の彼はびくりと跳ねて、一層力を持ったようだった。彼は何も答えず、再度腰を動かし始める。さっきよりも更に奥まで、私の中をこそげるようにして動く。私の嬌声のペースが速くなるのに合わせて、今度はじっくりとした動きから、リズミカルに腰を揺するような刺激になった。そんなリズムの早い快感の波に、私は一気に持ち上げられる感覚。
 やだ、なんでこんなに気持ちいいの。
 彼の呼吸も速くなる。
「あっ、だめ、いくっ……」
 突然与えられた刺激の反復に、私は身体の準備するを間もなく、いきなり激しい絶頂に達した。
「あああっ……」
 私は挿入をされてこうして達することが初めてで、たっぷりとした硬いものを迎え入れた状態で自分の中が強く収縮する感覚に、自分で驚く。
「やっ、やだっ……あああ……」
 その身体の反応は当然自分ではもうコントロールすることもできなくて、私は幾度も収縮して海堂くんをしめつけてしまう。
「……おい、コラッ……!」
 海堂くんは苦しそうな声をもらして、動きを止めた。よかった、こんな状態で動かれたらたまらない。
「あ……んっ……」
 私はぎゅっと目を閉じて、いつのまにか海堂くんの背中をかたく抱きしめていた。呼吸を整えながら少し気持ちが落ち着いた頃、私の中の海堂くんは熱く力を持ったままだということに気づいた。
 私が大きく息を吐くと、海堂くんはグイと私の腰を片手で掴んだ。
「……俺はまだまだこれからだ」
 そうつぶやいて身体を動かそうとする彼の肩を、あわてて私は押さえた。
「や……待って。だめ……!」
 片手をベッドについて身体を起こす。
「まだ、だめ……。少しの間……あの、あんまり……激しくしないで……」
 私が言うと、彼はどうしたらいいのか困ったように眉間にしわをよせる。身体を起こした私は、そのまま起きあがってなんとなく彼の肩に顎を乗せて背中を抱いた。つながったまま向かい合って座る形になって、私は自分のペースでゆっくりと動いてみた。これなら、大丈夫そう。ふううっと息を吐く。
 そうやって、力を抜いて海堂くんに体重を預けていると彼はその長い両手で私を包み込んだ。そう、そういえば海堂くんは脚もだけれど、手もすんなりと長い。今、私は海堂くんに全身包み込まれている。胸の奥がぎゅっとなった。
 はああ、とため息をついていると、海堂くんがゆっくりと腰を揺すりはじめた。浅い挿入の、緩いソフトな刺激。
「……んん……っ」
 優しい甘さに、また思わず声がもれる。海堂くんの手が、背中からヒップにかけてゆっくりと移動する。私はもう力が抜けてしまって、彼に揺さぶられるまま。貫かれながら両手で身体を愛撫される感覚に、私はもうどろどろに溶けてしまいそうだった。さっき達したばかりで、もうこれ以上は無理って思っていたのに、私の身体の奥がまた疼き始めた。
 海堂くんは軽く腰を揺すりながら、片手で私の胸を包んだ。力の入れ具合に迷うような手つきで、緩く揉む。
「あんっ……っ」
 先端に触れるか触れないかのその愛撫と、浅いリズミカルな刺激の繰り返しで私はいつしか再度熱くなっている。軽く揺さぶる程度の刺激が物足りなくなってきて、私は思わず彼の胸を押してしまった。
 バランスを崩して仰向けになった彼の上に跨る形になり、海堂くんはちょっと驚いた顔をする。彼の上に乗ってしまって、私だってどうしたらいいのかわからない。勢いあまってこうなってしまったものの、こういう格好、初めてだから。
 とりあえず、彼の顔の横に両手をついて、ゆっくりと腰を沈める。ああ、なんかアイスキャンディーをくわえてるみたい。彼のものを味わうように、ゆっくりと深く腰を上下させた。それまで彼にされていたのとはちょっと違う感覚に、私の背中はぞくりとした。同時に、海堂くんの低いうめき声が部屋に響く。
 そうだ、さっき、もっと……って思ったんだ。
 私は自分の身体が欲するままに腰を振った。
 自分で動いて、海堂くんのもので自分を刺激するっていう、その感覚は私をおかしくさせるほどだった。
 自分のしてることが、すごく淫らな動きで恥ずかしいんだっていうことはわかるのに、やめられない。だって、ものすごく気持ちがいい。
 ゆっくり深く海堂くんの先端から根元までを確認するようにしてみたり、素早く腰を振ってそのごつごつとした先端で自分の奥を強く刺激してみたり。
 海堂くんの両手が私のヒップをぎゅうと掴み、彼のもらすうめき声が激しくなってくると、私の背筋をなで上げられるようなぞくぞくする感覚も高まってくる。
「……くそっ……」
 海堂くんは絞り出すようにうめいて、片手で私の胸を掴み、そして下から腰を突き上げるように激しく動かした。
「……やっ……!」
 自分でするよりも遙かに強く深く貫かれるその感覚に、私は不意をつかれて力が抜けてしまう。彼の身体の上に体重を預けた。お構いなしに、彼は私を突き上げる動きを続ける。
「あっ、あっ、んんんんっ」
 私が叫ぶように声をもらしていると、彼は両手で私の腰を抱えて身体を起こし、再度私を仰向けにして自分が上になった。私の両脚を広げ、ぐぐっと深く中に入る。
「ああっ……」
 たっぷり濡れているし、彼のものの感覚には慣れてきたはずなのに、やっぱりこうやって、グイと押し込まれると、きつくて声を上げてしまう。
 最初の時の行為のような突然の激しさを覚悟していたら、彼はゆっくりとえぐるように動く。さっきまで、私が上になって自分で夢中になって刺激していたその部分を、彼はゆっくり確実に責めてくる。思わず息をのんで彼の肘のあたりを握りしめた。さっきの私の行為で、中のどのあたりを刺激したらいいのか、すっかり彼に知られてしまったようだ。
「……ここ、なんだろ……」
 海堂くんは荒い呼吸をしながらも、強い調子でつぶやいた。ゆっくりと奥をこそげるような動きの後に、激しく荒々しい動き。
「やあっ……ちょ、海堂くんっ、だめっ……!」
 いっぺんに持っていかれそうになって、でも、彼はそこで動きを緩めた。
「……今度は簡単には終わらせねぇ……」
 睨みつけるように私を見下ろして、そして私の髪に指をさしいれると、そうっと私の耳を舐めた。ぞくり、とする。思わず膝をきゅっとよせると、彼はまた私の両脚を開かせた。そして、じっくりと深い焦らすような挿入。
「さっきのお返しだ……」
 それからは幾度も、絶頂の直前まで持ち上げられて、そしてまたゆっくりと焦らされて、部屋には私のすすり泣きのような声が響いた。
 もう、だめ。
 あまりに強く繰り返されて続く快楽の波に、私はぐったりとなって海堂くんにすがるように抱きついた。
「……海堂くん、お願いっ……もうおかしくなりそう……」
 ふとももやヒップの方まで、どろどろに濡れてしまっていることがわかるけれど、もう構ってなんかいられない。海堂くんはぎゅうっと私を抱きしめ返してきた。髪を撫でてくれるその感じが優しくて、私は頭の芯までしびれてしまいそう。彼の背中にはじっとり汗がにじんで、小刻みな呼吸にはうめき声が混じっている
「……俺も……だめだ、くそっ……」
 彼は余裕のない、激しい動きを始めた。あとちょっとであふれるばかりだった私は、部屋に響く嬌声を上げてはじけるような絶頂に達した。彼の名を繰り返しうわごとのように呼んで、そして、彼を強く包み込むあの収縮。
「……くぅっ……!」
 幾度目かの収縮の時に、海堂くんが声を上げて身体を反らして動きを止めた。中で、彼のものが一瞬跳ねるようにびくりと膨らむ感覚。
 私たちは身体をぴったりとくっつけたまま、お互いの呼吸のリズムを合わせた。
 呼吸のペースが落ち着いた頃、彼はゆっくりと私から身体を離した。そしてハッとしたように窓の外を見た。私も時計を見る。やだ、もうこんな時間! あまりに夢中になっていて、ぜんぜん気にしてなかった。もうすぐお母さんが仕事から帰って来る時間だ。
 海堂くんも察してか、さっさと服を身につけ始めた。私はなんだか腰が抜けたようで、まだ動けない。
「……さっさと服着ろ」
 海堂くんは私のキャミとスカートを放ってよこした。とりあえず身繕いをしながらも、身体がまだふわふわしていて、ちゃんと立てるのかどうか自信がなかった。
「俺は帰る。まだ一人なんだろ。ちゃんと鍵閉めとけ」
 テニスバッグをかついだ彼は、私の腕を掴んで立ち上がらせた。
 私たちは無言で玄関まで降りた。
「……じゃあな。戸締まり、ちゃんとしろよ」
 海堂くんはそれだけ言って、外へ出た。見送るつもりで一緒に出ようとすると、彼はそれを制してバタンと扉を閉めた。
 海堂くんが言った通りきちんと扉の鍵をかけて、家の中に残された私は大きなため息をつく。カールが足元に絡み付いてきた。一人ぼっちで放っとかれたって思っているのか、鼻先で私をぐいぐいつつく。しゃがんで、ぎゅっとカールを抱きしめた。カールはやけにクンクン私の身体の匂いをかいだ。海堂くんの匂いがするんだろうか。急に恥ずかしくなった私は、あわててバスルームにかけこんだ。
 身体と髪を洗って、湯船に肩までつかるけれど私の身体からは海堂くんの感触が消えない。自分で自分の両肩を抱きしめながら目を閉じた。
 自分の身体があんな風になるなんて、思いもしなかった。本当のところ、海堂くんと、もっとしたいって、そう感じてる。
 だけど、私、どうして海堂くんとあんなことをしちゃったんだろう。
 海堂くんはあんな私をどう思っただろう。
 だって、今日、海堂くんとあんなことをするほんの少し前まで、私、他の男の子と一緒にいたっていうのに。
 海堂くんとしたことや、海堂くんの前での自分を思い返すと、顔が熱くなる。
 頭が混乱する中、胸の奥が痛くなるばかりだった。
 私と海堂くんの間には、さっきの行為以外何も確かなものがない。
 二人で身体を重ねている時は、しゃべらなくても海堂くんの熱が伝わってきていた。
 けれど、そのぬくもりは、離れてしまうともう夢だったみたい。
 涙が出てきた。
 私、海堂くんが好きなのにな。
 どうして考えもなしにあんなこと、しちゃったんだろう。
 こんなのはやっぱり恋じゃない。
 ただ、痛いだけだ。

      <九>

 翌日、学校へ行って自分の席に腰を落ち着けると、友達が私の机の傍に駆け寄ってきた。
「おはよ」
 私が言うと、彼女は私の肩を押して窓際に誘う。
「どしたの?」
 一年の時から同じクラスの仲良しの彼女は、少し心配そうな顔で隣に並ぶ。
「……なんかさ、ちょっとメンドクサイ噂、聞いた。あんたがあの先輩の他にもテニス部の二年の男子と二股かけてるって、六組の女子があちこちで言ってるらしいよ」
 小声でささやいた。私と彼女の間には、しばしの沈黙。
「先輩、人気あるしさ、やっかんでる子多いんだよ。特にほら、六組の委員長の子、去年学園祭実行委員一緒だったでしょ? あの子、先輩すごい好きだったみたいだし」
 彼女は心配そうに続ける。
「……二年の男子って、もしかして乾の後輩の海堂くん?」
「二年でテニス部レギュラーの子だって聞いたから、多分あの子のことじゃないかな」
 私はため息をついた。何て言ったらいいか、わからない。
「……心配かけてごめんね」
 彼女はふふっと笑う。
「大丈夫なら、いいんだけど」
 彼女はそれ以上聞かず、私の背中をポンとたたいた。

 授業が始まって、私は教科書を目で追うけれど何も頭に入ってこない。
 誰がどうして、どういうきっかけで噂を流したのかっていうのは、もうどうでもよかった。
 ただ、ひとつ。
 海堂くんを、こういうことに巻き込みたくなかった。
 昼間の青空の端っこに浮かぶ白い月みたいに、きれいだなあって見てるだけでよかった。
 触っちゃいけなかったんだ。
 
 私は朝のジョギングをやめ、カールの散歩のコースを変えて、意識的に海堂くんと顔を合わせることをしなくなった。学年が違うから、学校で会うこともない。乾からちらりと、海堂くんは新しいショットを完成させたし、関東大会のレギュラーの座も勝ち取ったらしいって聞いた。きっと青学テニス部は関東大会を順調に勝ち進むことだろうって、確信した。
 雨の日も少なくなり、すっかり暑い日が続くようになったから、私は食後にアイスが食べたくなって、購買に行った。チルドケースでアイスを選んでいると、隣に人影。ちらりと顔を上げると、見覚えのある女の子。誰だっけ……。
「最近、テニス部の方の彼氏、試合で活躍してるらしいじゃん」
 ああ、思い出した。六組の委員長。去年、学園祭実行委員が一緒だった子だ。この前、友達が話していたことを思い出した。
「青学テニス部でレギュラーとか、すごいよねー。」
 彼女はカフェオレ味のアイスを手にして、にこっと笑う。
 私はまだどのアイスにするか決めかねて、そして彼女にも何て言ったものか決めかねていた。
 と、その時。
「お、そのテニス部の彼氏って、もしかして俺のことか?」
 高い位置からの声。ぐい、と首を傾けて見上げると、そこには乾の緩い笑顔。
「何言ってんの、乾のワケないじゃん。相変わらずトボけてるんだからー」
 彼女は笑って乾の背中をたたく。
「ほら、乾の後輩の二年の子とさぁ」
 彼女が言いかけるのを制すように、乾はアイスクリームのチルドケースに手をつっこんだ。
「あ、これこれ。これを食べてみたかったんだよ」
 スイカ味の氷菓子を手にすると、もうひとつオレンジ色の袋を取り出して見せた。
「これ、この前試したら美味かったぞ。お勧めだ」
 そう言うと乾は、その二つを手にしてレジに向かう。私があわてて彼を追うと、さっさと会計をすませた乾は、オレンジ色の方を私に差し出した。
「夏みかん味だ。うまいぞ」
 それだけ言うと軽く手を振って購買を後にした。私はちらりと振り返って、レジの辺りにいるさっきの六組の彼女を見た。一緒にいる子と何かを話してるみたいだけど、内容は聞こえない。私は冷たいアイスの袋をぶらさげて、廊下に出た。
 本当は校則違反だけど、廊下でアイスの袋を破ってぺろりとなめる。うん、乾のお勧め、なかなか美味しい。
 
 放課後、今日は友達と、新しく出来たパン屋に寄ってみようかなんて話をしてたら、テニスバッグを肩にかけた乾が私に歩み寄る。
「あ、乾、今日はアイスありがと、美味しかった」
「どういたしまして。それより、お前、呼ばれてるぞ」
「え?」
 乾がくい、と廊下を指すのでそっちを見ると。
 静かなのに、なぜだか存在感があって目立つ男の子。
 海堂くんだ。
「私? 乾じゃなくて?」
 驚いて乾を見上げると、乾は黙って頷きその場を去った。廊下に出る時、海堂くんとすれ違いざま、彼に軽く手を上げていく。何、乾、行っちゃうの?
 時たま乾に用事があって教室を訪れる海堂くんは、遠慮がちに廊下の向こうに立つだけなのに、今日は堂々と扉のところに立っていた。
 あの時、私の部屋で過ごして以来、初めて彼を見る。そんなことへの戸惑いと、彼がこんなに堂々と私を訪ねて教室にやって来ることへの戸惑いが入り混じった。
「海堂くん、どうしたの?」
 私はつとめてなんでもないように、彼の前に立った。教室にいるクラスメイトがちらちらと私たちを見ているのを感じる。同じクラスの子たちは口に出しては言わないけれど、この前からの噂を皆耳にしているだろうことは、私だって察してる。
もう、乾ってば、海堂くんが好奇の目にさらされてしまうってわかってて、どうして取り次いだりしたんだろ!
「最近、走ってねぇだろ」
 海堂くんはまったく以前どおりの、あのぶっきらぼうな口調で一言。
「え? あ、うん、なんか最近ちょっとね」
 海堂くんが、教室の出入り口の目立つ場所から動こうとしないので、なんだか私は焦ってしまう。
「今日は部活が休みだから、俺がつきあって見ててやる。早く準備しろ」
「えっ?」
「早く帰る準備をしろって言ってんだ。帰ってからトレーニングだ」
「えっ?」
 さらりと言う彼に、私は驚いてバカみたいなリアクション。
 彼はそこから頑として動かないものだから、私はあわてて席に戻り荷物をまとめると、友達に『ごめん、今日は帰るね』と話して、海堂くんと二人で教室を後にした。
 早足で廊下を抜けようとしても、海堂くんは校則を遵守してかゆっくりと歩く。
 校門を出てから、私はようやくほっと一息ついた。
 そのまま、一言も話さず私たちは歩き続ける。
 私たちが初めて会った、中央第一公園はちょうど私の家に帰る近道で、公園の並木を抜けながら、彼がようやく口を開いた。
「……迷惑、だったか?」
 ぼそっと低い声で言う。私は驚いて彼を見上げた。
「あんたが、なんだかんだ言われてるみたいだって聞いた」
 もしかして、乾から? と、とっさに頭に浮かぶ。やだ、乾ってば何を言ったんだろ。
「ちがうちがう、別にそんなんじゃないよ。ただ、海堂くんがいろいろ言われたりしたら、きっとそういうの嫌なんじゃないかなあって思っただけ」
 私があわてて言うと、海堂くんは立ち止まって、ひどく怒った顔で私を見た。
「ああ? 何言ってんだコラ」
 彼の一言一言はいつも少ないけれど、声はよく響いて迫力がある。
「海堂薫をナメんじゃねぇ!」
 ドスの効いた声で続けるものだから、私はびくりとして叱られたように身体を硬くして立ち尽くす。
 海堂くんは整った眉を、いつも以上につり上げて私を睨みつけた。
「言っとくがな。いいか。俺が! あんたを、この手で掴み取ったんだ」
 低いけれどはっきりとした言葉。
「言いたい奴には言わせとけばいい。俺は、引かねぇし、遠慮なんかしねぇ」
 私がぽかんと口を開けて彼を見上げていると、彼の怒った顔は少し決まりの悪そうな空気をまとう。私も戸惑って、ついうつむくと、彼のぎゅっと握り締めたこぶしが目に入る。
「絶対に……あいつより、俺の方がいい。ちゃんと、わかってんのか、コラ?」
 海堂くんの言葉を頭の中で反芻した。海堂くんは、言葉が少ない。けれど、大事なことをきちんと言ってくれる。思い返せば、私、たくさんおしゃべりをしたけれど、何もきちんと話してなかったような気がする。
 じっと彼を見つめていると、彼が少しずつ困ったような顔になっていく気がして、あわてて彼のこぶしを握り締めた。海堂くんは一瞬びくりとする。
「わかってる! ちゃんと、わかってるよ……」
 いそいで言った。そして、何か大事なことを忘れてるような気がして、その何かを一生懸命思い出そうとする。
 そうだった! 大事なこと!
「海堂くん!」
「ああ?」
 深呼吸をして、海堂くんをまっすぐに見た。海堂くんの顔は真剣だ。
 私がじっと彼を見上げていると、彼はハッとしたように眼を見開いて、そして急に照れくさそうな顔になった。海堂くんの、怒った顔と照れた顔を見分けることはなかなか難しいけれど、いつのまにか私にはすぐにわかるようになっていた。
 海堂くんは、こぶしを開いたその手で、そっと私の耳に触れて、戸惑ったようにすぐに離す。今度はその手を肩に置いてみて、そしてやっぱりまた離した。落ち着きどころのない彼の手は、結局私の指先を軽く掴んで、そして彼は軽くかがむと、そのふっくらとした唇で私にくちづけて、すぐに私から離れた。
海堂くんとの初めてのキスは、ぶっきらぼうで愛想がない。
 指先を掴んだまま、私から離れた彼の顔はひどく恥ずかしそうで、初めて、ああ年下の男の子なんだって思った。もちろん、そんな事は口にしないけれど。
 海堂くんはもう一度私の顔の近くに唇を寄せ、軽く息を吐いて、そしてつぶやいた。
「……あんたが、あいつとした回数なんて、俺がすぐに越えてやる」
 彼がどんな表情をしているのかは、よく見えない。
 私の胸の奥はぎゅうっと熱くて、今はもう痛くはなかった。
 海堂くんの顔を見上げようとすると、彼はさっさと帰るぞと言わんばかりに、歩き出した。
「……ねえ、テニス部の試合、応援しに行ってもいい?」
 私が言うと、彼は私の方も見ずに一言。
「だめだ」
 予想外の返答に、私は驚いて彼を見上げる。
「えっ、なんで?」
「俺以外の奴なんか見ても仕方ねぇだろ」
「ええ? ……じゃあ、海堂くんの試合だけ応援する」
「……俺、今回はシングルスじゃなくてダブルスだから、ダメだ」
「でも、ダブルスって確か乾となんでしょ?」
「乾先輩でもだ!」
 海堂くんって、こういう子だった? 私は少しおかしくて笑いをこらえるんだけど、でも彼は真剣な顔。つないだ指先にぎゅっと力を入れた。
 そういえば私、まだ言ってない。
 海堂くんのことが大好きだって。
 いつ、言おうか。



2011年 アンソロジー「ゆめほん」寄稿作
       主催のとーこさんのご好意にてサイトに収録させていただきました。



   







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