夏バテ



彼にだけは、絶対に知られてはいけない。
絶対に、絶対に……!

夏休みの間の登校日、先生の話や提出物を集められたりの一通りがすんで、あとは下校するばかり。
私は息をひそめるように、帰り支度をしていた。
隣の席の人物が立ちあがる気配を感じ、彼が立ち去るのを待った。
が、彼は教室を出て行く気配がなかった。

「……お前、もしかして夏バテか?」

隣の席のクラスメイト・乾貞治の言葉に、私はどきーんとして飛びあがらんばかり。
「えっ、いやいや、そんな! ぜんぜんそんなことないよ、元気元気!」
思わず声がひっくりかえってしまう。
そう、乾貞治にだけは、私が夏バテ気味っていうことは絶対に知られたくなかったんだもの。
「そうか? こころもち痩せたような気がするし、今日は口数が少なかった。朝から、うつらうつらしていたし、夜あまり眠れていないんじゃないか? このところ暑くて寝苦しいからな」
正鵠を射ぬく彼の言葉に、私はびくびくしてしまう。
「いやいや、そんなの乾の気のせいだって。ちゃーんと眠れてるし食べてるし、元気モリモリだよ!」
私がここまで彼に「夏バテ」を隠すには、理由がある。
その理由は、そりゃあアレに決まってる。
だって、乾は絶対に「夏の乾汁」の効果を確かめたくてウズウズしてるはずだから。

3年になってから同じクラスになった乾は、なかなかに面白くていい奴で、友達としてはいいんだけど、初めて隣の席になった時に挨拶代わりに飲まされた乾汁が、絶叫モノのマズさだったことは忘れられない。
時々飲まされるというクラスメイトからの噂は聞いてはいたけれど、「そんな大げさな」と思っていた自分が愚かだったと気づいたものだ。
そんな彼に「クラスメイトの夏バテ」なんて格好のシチュエーションを与えてしまったら、絶対に取り返しのつかないことになる!
乾は、私のびくびくした気持ちにはおかまいなしに、バッグのポケットをさぐって鍵を取りだした。
「ちょうど調理実習室に寄って、鍵を返却するところだったんだ。一緒に来ないか」
私はあわててガタンと立ち上がった。
「ちょっ、それだけはイヤ! 本当に勘弁!」
立ち上がって叫んだ瞬間、くらりと目の前がゆがむ。
「おい、大丈夫か」
急に立ち上がったからか、激しい立ちくらみ。
私の腕は乾にがっちり掴まれていた。
「やはり、夏バテだな」
乾はフと笑って、そのまま私を連行して行くのだった。
「ねえ、ホント、私は大丈夫だから! 絶対にへんなもの、飲まないからね!」
私はじたばたと懇願するように言うけど、乾は軽く笑うばかり。
「悪いようにはしない。俺を信じろ」
「信じろって、夏休み前に飲まされたアレがどれだけマズかったと思ってるのよ!」
「あれはスペシャルバージョンだったからな」
「いやいや、絶対に飲まないからね!」
軽く連行された私は、調理実習室の椅子に座らされた。
彼は冷蔵庫を開ける。
一体どんな目を覆いたくなるものが出てくるのやら。
思わず両手で顔を覆っていると、ウィーンとミキサーの回る音。
おそるおそる目を開けると、目の前に差し出されたグラスにはこっくりとしたオレンジ色の液体。
以前飲まされたような乾汁の、おどろおどろしいオーラはなかった。
「親戚から国産の完熟マンゴーをもらったんでね。熟したところをキンキンに冷やして、100%ジュースにしたんだ。美味いぞ」
私はきょとんとその輝く液体と乾を交互に見つめた。
「……本当に100%マンゴー?」
ゴーヤとか入ってない? と、疑い深そうに言う私に乾は笑いながら、心配するな、と頷いた。
グラスも冷蔵庫で冷やしていたようで、手にすると冷たくて気持ち良かった。
マンゴーのジュースはとろりと濃厚で、それでいてするりと喉に入っていく感じ。
あまりに美味しくて、私は一息に飲み干してしまった。
「……美味しい!」
ほうっと溜息をついて、そんなひとことを言うのがやっと。
「だろう? ビタミンも豊富で元気が出るぞ。お前はいつも弁当のデザートにフルーツを持ってきていたから、きっと好きなんだろうなと持ってきてやった」
「えっ、そうなの!?」
思いがけない乾の親切にびっくり。
私ときたら、マズイ乾汁を飲まされるとばかり思ってしまっていて、大変な失礼を。
「……しかし、このことは誰にも言うなよ」
乾は急に神妙な顔をする。
「は?」
「……俺が美味い飲み物を提供する、なんてことが知れたら沽券にかかわるからな」
そんなことを言うものだから、つい吹き出してしまった。
乾汁は効果以前に不味いことがアイデンティティーなんだろうか。
なんだかおかしくて、乾が「今日は部活もないし、家まで送って行ってやろうか」なんて上から目線で言うのにも、ついつい、すんなりとうなずいてしまうのだった。
そんな、夏バテの日。

「夏バテ」
2012.8.20 拍手用小話




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