●● なきむし ●●
一年前のこの日を、私は忘れる事ができない。
多分、一生忘れない。
毎年この日が来ると、きっと思い出したくなくても思い出すのだろうな。
片思いの相手の真田くんに、彼の誕生日のこの日に思い切り泣かされたことを。
私が立海大附属に編入してきたのは、二年生の春。
知らない子たちばかりの学校に来た当時の私は少々不安な気持ちで、毎日を送っていた。
そんな頃、朝礼での風紀委員の『今月の目標』か何かだったろうか。
真田弦一郎くんが前に立って話をしていたのだ。
二年生の時からひときわ背が高くて凛々しい声の大きな彼を、私は一目で好きになった。
なんといっても好きになったポイントは、制服のシャツの着方だ。
がっちりした体つきに、しっかりとシャツをインしてベルトを締めているそのいかにもトラディショナルな感じが、私にはぐっと来た。だって、他の男の子は誰もそんな風に着てないからね。新鮮。
後々仲良くなった女の子に、私は真田くんのあのシャツのインの仕方が好きでたまらないの、と話したら『って、信じられないマニアックさだね!』と言われてしまったのだけど、好きなものはしかたがない。
まあ、そんなわけで私は真田くんに一目ぼれしてしまい、そして私は結構そういうのすぐに友達に話してしまう方だから、真田くんの誕生日は5月なんだよっていう情報が耳に入るのはあっという間だった。
友達の香里奈ちゃんが、一年の時に同じクラスだったというテニス部の柳くんを紹介してくれて、彼がいろいろと教えてくれたのだ。
しかしその情報はさして役に立つものではなかった。
いや、柳くんの情報自体はかなりこまやかで信憑性にも折り紙つきだと思う。でも、真田くんの趣味は書道だとか、お小遣いの使い道は主に貯金だとか、今欲
しいものは古道具屋で見つけた壷らしいとか。こう、なんていうか、恋を発展させるには何の腹のたしにもならないようなデータというか……。
私は、真田くんの誕生日プレゼントに何をあげたらいいだろうと頭を悩ませていたのだけれど、さっぱり良いアイディアが浮かばないまま、頭を悩ませる日々が続く。
だって、真剣にもなるよ。
真田くんは、気軽に話し掛けられるようなタイプじゃないから、なんとしてでもプレゼントを贈って、それをきっかけに話すようになりたいじゃない。だか
ら、彼の好みを探りたかったのだけれど、まったくそれらしき情報が手に入らないのだ。お習字の筆とか墨じゃ、ちょっとねえ。
そんなわけで、私は結局無難にちょっとよさげなスポーツタオルを購入し、可愛らしくラッピングして真田くんの誕生日、5月21日に臨んだわけです。
去年のその日は確か月曜日で、週末に一日かけて選んだタオルを意気揚揚と持って登校したんだった。
そして、昼休み。
ドキドキしながら真田くんのクラスへ行き、私は少々小難しい顔をした真田くんを廊下まで呼び出してもらった。緊張しつつも、やっとの思いで言ったのだ。
『あの、真田くん、今日が誕生日だって聞いたから、よかったらこれ……』
そう言って、ブルーの包み紙にブルーのリボンを結んだ包みを差し出した。
そんな私に返ってきたのは、いつかの朝礼で聞いたあのしっかりとした低い大きな声だった。その声が朝礼の時より、ヒートアップして。
『学校に、勉学と部活動に必要なもの以外を持ってきてはならないと校則で決まっているだろう! 風紀委員での今月の目標を聞いとらんのか!!』
ああ、そういえば、今月も真田くんは朝礼で目標を言ってたなあ。確かに言われてみれば、風紀委員である真田くんに、こうやって明確に校則では違反にあたるような物を手渡すというのはまずかったかもしれない。せめて、放課後にでもすればよかった。
でも、昼休に廊下でちょっと話してさりげなく渡す方が、放課後にじっくりと二人きりでなんてのよりも気軽でいいかなあと思ったんだよね。結果的には、真田くんの大声でみんなこっち見てるし、かえって猛烈に目立ってしまったけど……
眉間にしわを寄せて私を睨みつける真田くんを見上げながら、私はそうやって案外と冷静に考えていた。私はそう物分りの悪い方でもないから。
ただ、私はびっくりしたり気持ちが昂ぶると、すぐに涙が出てしまうのだ。
痛いとか、恐いとか、悲しいとかじゃなくても。
誕生日プレゼントを真田くんに手渡す。
彼は、気まずそうにするだろうか。
照れくさそうに受け取ってくれるだろうか。
ストレートに断られるだろうか。
そんな風にシミュレーションはしていたものの、想像以上の怒鳴り声に私は目を丸くして、そしてそこから涙があふれ出るのをどうすることもできなかった。
こんなところで泣いてはいけないと思いながらも、こういう時って本当にどうしようもない。
「……校則違反をしておいて、泣くとはどういうことだ! この泣き虫があ!!」
そして追い討ちをかけるような真田くんの怒鳴り声。
私は、こんなところでこんな場面で泣いてしまったと動揺してしまい、そしてとにかく真田くんの怒鳴り声があまりにも大きいのに混乱してしまい、また、私も私で悪いけどそれにしても真田くんもちょっとひどいんじゃないだろうかと、更に涙が出るばかり。
「……泣き虫って、そんな風に言わなくたっていいじゃないの!」
だいたい、泣き虫なんて言い方、小学生じゃあるまいし!
思わずそんな風に言い返してしまった私は、気がつくとブルーの包み紙を掴んだまま、廊下を自分の教室まで走っていた。
とにかく、最低も最低な出来事だった。
そりゃあ、真田くんもいきなり知らない女の子に教室に来られて校則違反のプレゼントを贈られて注意して泣かれて、災難かもしれないけど、何も怒鳴らなくてもねえ。
そんな風に思いつつも、数日後、少々落ち着いた私は、改めて真田くんにお詫びを言いに行った。
彼は相当に私への印象が悪かったのだろう。
朝礼の後、声をかけた私を振り返るその顔は、それはそれは険しかった。
私とてそれは覚悟の上だったのだけれど、それも想定して、彼に謝る練習をしていたのだけど、やっぱりダメだった。
彼の険しい顔を見ると、あの日の怒鳴り声を思い出して、私はまた泣き出してしまったのだ。
今度は私は『この泣き虫があ!』と怒鳴られる前に走って逃げた。
そして、それ以来、真田くんは私の姿を見ると嫌そうな顔をして避けるようになってしまったのだ。そりゃそうだ。顔を見れば泣き出す女など、近寄りたくもないだろう。
なんというか、私は例えて言うならば
『猫が大好きなんだけど、猫アレルギーで、近寄るとくしゃみばっかりしてるもんだからうるさくて猫にはきらわれてしまう』
といったところだ。
非常にまわりくどく、長い話で申し訳なかったけれど、とにかく去年の5月の真田くんの誕生日には、そんな出来事があった。
そして今年の私は、あいかわらず真田くんを好きなまま。
「去年は本当にもうびっくりしたよぉ。大騒ぎだったよね」
香里奈ちゃんがおかしそうに思い出し笑いをする。
今ではすっかり有名な笑い話になっている、私と真田くんの話。
真田くんに誕生日プレゼントを渡しに行って、怒鳴りつけられて大泣きをして帰ってきた転校生。
「はまだ転校して来たばっかりだったから、真田のことよく知らなかったんだよね。ああいう奴なんだよ。まさかがあんなに速攻で真田にアプローチするとは思わなかったからさあ」
「だって……」
「って、すぐ泣くくせに、どうしてああいう思い切ったことするかなあ」
「泣くけど、別に悲しいとか悔しいとか、そういうんじゃないんだよね。なんかこう、気持ちがたかぶると、涙出ちゃうの。くしゃみみたいなもんだって、気にしないでくれたらいいんだけど」
「そういうわけにはいかないでしょ〜」
私の泣き虫っぷりにはすっかり慣れた友達は笑った。
あいかわらず真田くんを好きな私は、あいかわらず泣き虫だ。
テレビドラマの予告で犬が死ぬシーンなんかが出ると、それだけで泣く。『ドナドナ』の歌を聴いては泣く。委員の仕事(美化委員です)一生懸命やっているところ、先生に『頑張ってるな』なんて励まされると、それで嬉しくなっちゃって泣く。
「で、まだ好きなわけ?」
わかってるくせに聞くんだ、香里奈ちゃんは。
私は黙って肯いた。
だって真田くん、三年生になってより男の子らしくなった。声も更に低くなって、がっしりとして。朝礼の時にはきっちりとシャツをズボンにインしていると
ころが、より一層りりしくなってかっこいいのだ。シャツをズボンにインしているのが、あれだけまっすぐに似合う男の子なんて、そういない。文句なしに学校
一、いや、神奈川一だと思う。
そう言うと、香里奈ちゃんには、まったくあいかわらずマニアックだと言われる。
なんやかんやとからかう彼女を尻目に、私は鞄の中からアイボリーのタオルを取り出した。
5月21日の昼休み。
「じゃ、私ちょっと行ってくるから」
それを持って席を立つ私を、香里奈ちゃんが目を丸くして見上げる。
「え? なに? もしかしてまさか、真田のクラス?」
信じられない、やめときなよー、と声が続いたけれど私は構わず教室を出る。
私の手には、剥き出しのアイボリーのスポーツタオル。
去年は、包装をしていたからいけなかった。
こうして中身を剥き出しにしていれば、これは『勉学にも部活動にも不必要な校則違反の持ち物』ではなく、少なくとも体育や部活動には必要なものであると、今年は風紀委員長になった真田くんにも認識できるだろう。
今年新たに買いなおしたその贈り物に、私の手のひらのいやな汗がつかないよう気をつけながら、真田くんの教室にたどりついた。
廊下から覗き込んで、教室の前の方にいる真田くんと一瞬目が合った。
いつものように、彼はあからさまに嫌そうな顔をして目をそらす。
こりゃ呼び出しても来てくれそうにない。この気難しい猫ちゃんは。
去年の私と真田くんの話は学年中に広まっているので、教室の子たちは私に気付くと、ちょっと面白そうにちらちらと私と真田くんを見ている。
でも、私は気にしない。もう今更気にしてもしかたないもの。
ずかずかと教室に入っていった。
私が教室に入って来たことに気付いた真田くんは、私を咎めようとするのか、険しい顔のまま口を開きかけた。
けれど、それは想定ずみ。
彼が何かを言う前に、私が先手を打つ。
「真田くん、去年はごめんなさい。これはタオルで、校則違反のものじゃありません。よかったら使って」
少し震えた声でそれだけを言って、私はタオルを差し出した。
真田くんは開きかけた口をぎゅっと閉じて、私を見て、若干逡巡したようだけれどその大きな手でタオルを受け取った。
その瞬間。
私は脱兎の如く、教室を飛び出した。
とにかく、泣き出してしまう前に行かなくちゃ。
今年は、真田くんの前で泣かずにすむことが目標なのだから。
「! 待たんか!」
が、なんと、真田くんが怒鳴りながら追いかけてくるのである。
私は真田くんと同じクラスになったこともないし、同じ委員になったこともない。
そして真田くんの前では泣いた事しかなかったから、自己紹介もしていない。
だから、真田くんが私の名前を知ってたことが、妙に感慨深くてなんだか走りながら泣いてしまいそう。
「! 廊下を走るんじゃない!」
今年は校則違反もしてないし彼の前で泣いてないし、ツッコミどころはないだろうと思っていたのに、こんなところでツッコまれるなんて。
私は力が抜けてしまう。
廊下の壁に手をつきながら、立ち止まってへなへなとしゃがみこむ私の目には、既に涙が溢れていた。
走るのをやめたからには、風紀委員長、もう見逃してくれるだろうか。
と思いきや、しゃがみこんだ私にうっすらと影が落ちる。
大きな体の真田くんが傍に立っていた。
「廊下を走るなと、廊下のあちこちに張り紙がしてあるだろう! 読めんのか!」
廊下走ルベカラズ
達筆な筆跡で書かれた張り紙は、全部真田くんの直筆だという噂。
もちろん、見てますよ。
「……はい、ごめんなさい」
結局今年もぽろぽろと彼の前で涙を流す私は、なすすべもない。
真田くんは大きくため息をついた。
「まったく、この泣き虫が」
そして、去年と同じ台詞を言って、手に持っていたタオルでぎゅっと私の顔を拭いた。
それ、私が贈ったプレゼントなんですけど……。
「廊下を走るな。よその教室に入るときは一言ことわれ。すぐに泣くな」
低いドスのきいた声で、さっとそれだけを言い、私の涙(と鼻水)をぬぐったタオルをそのまま手につかみ、そして、ちょこっと私に会釈をして踵を返すと彼は自分の教室に戻って行った。
結局彼は、私の涙(と鼻水)のついたタオルをそのまま持っていった。
あの、ちょいと頭を下げたのは、お礼のつもりなのだろうか。
もしも『ありがとう』なんて言ったら、私が更に泣いてしまうというのがわかっての気遣い? それとも、まあ、単に照れくさいだけ?
よくわからないけれど、一年以上の片思いで、ようやく初めてまとも(?)に話したような気がする。
真田くんのあの怒鳴り声や不機嫌そうな顔にも、ちょっとは慣れた。
明日からは、彼の前に出てもなんとか泣き出さないであいさつくらいはできるかもしれない。
あくまでも、かもしれない、なんだけどね。
(了)
「なきむし」
2008.5.21