●● 水玉シャーベットの恋 ●●
衣替えの季節の席替えに、私は軽くため息をついた。
新しい私の席の、廊下側の隣。
私がまっすぐに黒板を見ていたとしても、いやがおうでも視界に入る存在感。
鳳長太郎くん。
「や、さんだよね? よろしく。ここら辺の席、窓からの風が気持ちいいね」
彼はまぶしい笑顔で、私にそう言った。
「あ、うん、そうだね」
私はひとまずそんな相槌。
そして、また軽くため息。
鳳くんっていう子は、まずこの見た目どおりクラスでも群をぬいた長身に、甘く整った顔をしたモデルのようにきれいな男の子だ。そして、きれいでかっこいい、というだけじゃなく、この氷帝学園中等部テニス部で、2年生でありながら正レギュラーという運動神経も抜群さ。噂では音楽にも精通していて絶対音感を持ってるって話だし、そしてさっきみたいに、誰にでも気軽に優しく声をかけてくれる親切な男の子。
つまり、非の打ち所のない男の子なんだよね。
そんな彼の隣の席になって、私がなんでため息をついてるかって?
鳳くんはかっこいいけど、私は別段彼に片思いをしているとかそういうわけじゃない。
かといって、彼はあまりに目立って素敵なものだから、もちろん視線はいってしまう。
つまり、気疲れしちゃうんだよね、こんなかっこよすぎる男の子が隣だったりすると。
こういう子は、教室でたまに近くを通って挨拶しては「うわー、やっぱりかっこいいなー、笑顔も素敵」って思うくらいがいいの。
それが毎日隣で、なんて……。
私がまた軽くため息をついていると、鳳くんがこちらを見ていることに気付いた。
「さん、さっきからため息ついてるけど、もしかして気分でも悪い?」
そして、心配そうに言うのだ。
私はあわてて首を横に振った。
「ううんううん、ぜんぜん大丈夫。なんでもないよ! 午後の授業、課題当てられたらやだなーって思ってただけ!」
ほら、しかも鳳くんって妙に目ざといっていうか。よく気が付くっていうか。
「なんだ、そっか。午後は英語だっけ。英作文の課題あったね。もし当てられて不安だったら、俺のノート貸すよ。今回の課題は割と自信あるんだ」
彼はそう言ってまたあのぴかぴかの笑顔。
……さいですか……。
一体どうやって育ったら、こんなに完璧によく出来た子になるんだろう。
「あ、そうだ」
彼はバッグのポケットをごそごそとさぐった。
「よかったら、これ、どう?」
そう言って差し出してくれたのは、ミントガム。
ちょっと意外な感じがして、そのガムと鳳くんを交互に見ると、彼は苦笑いをした。
「今日の部活の朝練で、ペアを組んでる先輩がくれたんだ。いつもくれるんだけど、俺、実はミント味のガムが苦手でいつもバッグに入れっぱなしになっちゃって」
なんじゃ、それ。
なんて思いながらも、私は指でつまんでそれを受け取った。
包み紙を開けて口に放り込むと、さわやかなメントールの香り、そして程よい刺激。
「ガムを噛むと、リラックスできていいんだって宍戸さんが言ってた。あ、宍戸さんっていうのが、ペアを組んでる先輩でさ」
「知ってるよ、有名だもの」
私は思わず言った。
その時、ぶわっと鳳くんのテンションが上がった気がした。
「そうだよね! 宍戸さんはずっと正レギュラーで、すごい努力と根性の持ち主で、俺、本当に尊敬してるんだ! テニス部の先輩は跡部部長をはじめとしてすごい人ばかりだけど、宍戸さんはその中でも皆から信頼されて一目置かれているっていうか!」
私が言いたかったのは、鳳くんと宍戸先輩のペアが有名っていうことだったんだけど、鳳くんは思った以上に宍戸先輩にぞっこんのようだ。
私は黙ってガムを噛みながら、鳳くんの宍戸先輩談義を聞いた。
ね?
ほんと、鳳くんってこんなにかっこよくても、気取ってなくてすっごいいい子なの。
だけど、疲れるでしょ。
なんていうか、一流のアイドルが始終隣にいて、気さくに話し掛けてくるみたいな。
これが次の席替えまで続くのか。
ガムを噛んでいると、さっき鳳くんが言っていたことを思い出した。
ミントのすーっとした香り、そしてもぐもぐしているこの感じ。
確かに、いつのまにかリラックスしてるかも。鳳くんの隣でも。
そんな具合に少々衝撃的だった席替え初日の翌日、この日の朝に鳳くんから差し出されたのは、なんと煎餅だった。
「は……?」
鳳くんに煎餅という、これまたちょっと意外な組み合わせとその唐突さに、私は間抜けな声を出してしまった。
「実は今朝、朝練に行く前、信号を渡る時におばあさんの荷物を持ってあげたら、これ頂いてしまって。2枚あるから、よかったら1枚どう?」
彼はそういって、1枚の袋を開けてバリバリとかじり始める。
「あ、うん、ありがと」
私も1枚を手にして、袋をやぶった。香ばしいお醤油の匂い。
鳳くんに片思いをしてる子って多分沢山いると思うけど、きっと大変だろうな。
彼はきっとこういう風に、誰にでも分け隔てなく優しいもの。
こうやって親切にされて、うっかり彼を好きになっちゃったりしたら、ほんと目も当てられないだろうね。
お煎餅の袋をポケットにしまって、また軽くため息をついた。
「あと、これ」
そして鳳くんが次に差し出したのは、ミントガム。
「今日も、宍戸さんにもらっちゃって……」
苦笑いをする彼をちらりと見て、だまってそれを受け取りながら、私もくくっと笑ってしまった。
そんなアイドル級の男の子が座っているのは私の席の廊下側だから、私はいつしか自然に普段は窓の方を眺めることになる。
もちろん彼のことがきらいなわけじゃないけど、目が合って会話するたびなんだか気を遣って疲れちゃうし、キラキラした鳳くんはまぶしすぎる。
そして、夏に向かう季節の外の緑や青や、力強い草葉の匂いの風を私はきらいじゃなかった。うちの学校はあちこちに立派に手入れされた植樹が多いから、校舎からも緑がよく見える。風の吹く日に、欅の葉が揺れる音を感じることもここちがいい。
もうすぐ暑い季節がやってくる。
7月にはテニス部の関東大会があるんだとか鳳くんが言ってたっけ。
関東大会そして全国大会か。きっと学校をあげての応援なんだろうな。
「ところでさ、鳳くん」
朝、ミントガムを受け取りながらふと私は言った。
「うん?」
私は席替え以来、毎日鳳くんからミントガムをもらっている。
ガムだけじゃなくて、何かの折に鳳くんが誰からか頂いたというお菓子なんかももらったりして。
「鳳くんは、何味のガムだったら好きなの?」
いくら宍戸先輩からのもらいものとはいえ、こんなに毎日もらってたら私も何か鳳くんにお菓子をお返しした方がいいんだろうか? などと考えながら聞いてみた。
「ガム? ……そうだな、実はそんなにガムとか食べないんだよね……」
なんじゃ、そりゃ。
「……じゃあ好きな食べ物とかは?」
「ああ、前に家のいただきもので、北海道産のししゃもを食べたんだけど、美味しかったなあ。本物のししゃもってなかなか売ってないらしいね、その辺のスーパーで売ってるししゃもっていうのは……」
そして突然に始まるししゃも談義。
ししゃも……。
朝、ししゃもを持ってきて、はい、鳳くんってあげるわけにいかないし。
ガムのお礼とか、もういいか。
苦笑いしながら話を聞いていると、鳳くんはハッとした顔をする。
「さん、もしかして俺がこうやって毎日、ガム渡してるのからって気遣って、俺に何かお返しでもしてくれようかと思っている? ごめんごめん、そんな気遣いは無用だよ。むしろ、俺がいつも溜め込んでしまう宍戸さんのミントガムを美味しそうに食べてくれてありがたいっていうか……」
私はあわててしまう。
「いやいやいやいや、大丈夫だから、鳳くん。鳳くんこそ、そんな気遣いしないで、ガムありがとう。毎日うれしいよ」
だめだ、いい子だけど、ほんと気を遣っちゃう。
ふーっとため息をついて、私は窓の外を眺めた。
もうすぐエアコンが入るから、窓からの風や外の空気の匂いともしばしお別れだなーなんて思いながら。
ある日の昼休み、廊下から「おーい、長太郎―!」という元気のいい声がひびいた。
「宍戸さん!」
同時にガタンッと鳳くんが勢いよく立ち上がり、廊下に走り寄った。
廊下から鳳くんの名を呼ぶのは、くだんの宍戸先輩だ。
ずっと前に見かけた時はつやつやの長い黒髪だったけど、今はさっぱりと男らしく短い髪になってる。鳳くんから、先輩が髪を切るに至ったエピソードは聞いたっけ。私は以前の髪が長い頃より、今の短い髪の宍戸先輩の方がいいかなとふと思った。
廊下でにこにこと楽しそうに鳳くんと話をしてる宍戸先輩は、まさに男子っていう感じで、ああいう人が同級生で同じクラスだったら楽しいだろうなーって思う。もしかしたら、好きになったりするかも。
なーんてね。
ああいうかっこいい先輩や鳳くんみたいな子は、こうやってちょっと離れたとこからにやにや見てるくらいがちょうどいいな、私は。
このところ、朝もらうミントガムを昼休みの授業開始前に食べることにしてる私は(授業の前に目が覚めてちょうどいい)、ガムの包装を開けて口に放り込んだその瞬間、宍戸先輩と目が合った。
あわてて目をそらそうとすると、鳳くんもふりかえってそして小走りで席に戻ってきた。
「……どうかしたの?」
バッグをごそごそとする鳳くんに声をかけると、彼は顔を上げた。
「宍戸さんが英語の辞書忘れたらしくて、持ってないかって。俺、いつも電子辞書持ってるはずなんだけど、今日は置いてきたかな」
私は机をさぐった。
電子辞書じゃなくて、普通の辞書なら私は机に入れっぱなし。
「よかったら使う? 今日は英語の授業ないし、返してくれるのは明日でもいいよ」
私がそれを差し出すと、鳳くんの顔はぱああっと明るくなった。
「いいかい? ありがとう、宍戸さんも助かるよ!」
鳳くんは辞書を受け取ると、丁寧に頭を下げてそしてまた廊下に向かってかけていった。
ほんと、宍戸先輩が好きなんだなあ。
「さん、昨日はありがとう」
翌日、鳳くんが差し出すのは、昨日貸した英語の辞書と2枚のミントガム。
「宍戸さんが、隣の席の子に礼を言っといてくれって、これを」
あ、つまりは1枚は辞書のお礼に私用にくれたガムで、もう1枚は毎日の宍戸先輩から鳳くんへのガムで、今日は合計2枚ってことか。
「どういたしまして」
なんだか辞書にそえられたガムっていうのがおかしくって、思わず笑ってしまう。
昼休みにお弁当を食べ終わった私は、学食にダッシュした。
月に2回くらいのペースで学食のスイーツは新作に変わるのだけれど、今日がその新作が出る日なのだ。当日は絶対に混むし、どうせ売り切れだからって友達はみんなあきらめムードなんだけど、どんなものなのかチェックしにいかなくちゃ、と私は鼻息が荒い。
スイーツの専用コーナーにかけよると、キレイな見本写真に「sold out」の札。
「あーあ」
わかっていてもやっぱり声が漏れてしまう。
なになに、今回はホワイトチョコチップ入りのミントソルベ……ぎゃー美味しそう!
涼しげな水色のミントソルベに、ホワイトチョコが混じってる、白抜きの水玉シャーベットの写真はなんともやさしげ。今度絶対食べよう。
心に決めたその時。
「くっそー! まじかよ!! 売り切れかよ!!」
隣から響く聞き覚えのある声に、私はびくんとして顔を向けた。
そこには、両手で髪をかきむしっている宍戸先輩が立っていた。
目が合うと、彼は一瞬目を丸くして、にかっと笑った。
「あ、あんた長太郎の隣の席の子だよな。なんてったっけ? 昨日、辞書サンキュー」
「え? あ、っていいます。いえ、こちらこそガム、ありがとうございました」
思わず言うと、宍戸先輩はくくっと笑った。
そして、sold outの札のついた水玉シャーベットの写真と私を見比べる。
「そういえば、さん、ミント好き?」
「はあ? ああ、まあ好きです」
そう答えると、宍戸先輩はまた笑いながら少し考えるような間をおいて、口を開いた。
「長太郎、あいつ、俺がやったガム、毎日、あんたにあげてるだろ?」
私は目を丸くして、そしてどう答えたものか、一瞬とまどう。
宍戸先輩は手をひらひらとさせ、いーって、いーってっていう感じのしぐさ。
「昨日の昼休みに食ってたガム、長太郎からもらったやつだろ? あいつが実はミントガム苦手なの、俺、知ってんだよな」
私は更に目を丸くしてしまう。
「知ってっけど……あいつが1年で最初に俺と口を利いた時、何気なくガムやったら、すっげー嬉しそうな顔してさ。それからしばらく、朝練のたび1枚やってたんだけど、ちょっとしたらあいつと同級生の日吉ってやつがさ、『宍戸さん、鳳はミントガム苦手で食えないんですよ』って教えてくれて。けど、ガムをやるたびあまりにも長太郎が嬉しそうな顔をするもんだから、なんか今更ガムをやるのやめにくくてな。あいつも今更、自分からミントガム食えねーなんて言い出しにくいだろ」
へー、ミントガムにはそんな歴史が……。
「……ま、あいつは俺がガムやるといっつも嬉しそうな顔すんだけど、最近はいつにもまして、待ってましたって感じで受け取っていくから、いつの間にか食えるようになったのかなーって不思議に思ってたんだ」
そう言って、宍戸先輩はまたくくくと笑う。
「けど、あんたが食ってんの見て、納得した」
「え? は、まあ、あの、美味しくいただいてます、いつもありがとうございます……」
私は何て言ったらいいのかわらからなくて、そんな間抜けな返答。
宍戸先輩はそんな私におかまいなしに、ポケットに手を入れてガムを取り出した。
「ちょうど最後の一枚だから、やるよ。また、どうせ明日からも長太郎からもらうだろうけど、ま、食ってやってくれ」
ちょっとくしゃっとなったガムを受け取って、私も思わず笑った。
宍戸先輩って、ほんといい人だなー。鳳くんが夢中になって尊敬するの、納得だ。
「宍戸さーん!!」
サロンを抜けて走ってくるのは鳳くんだった。
「宍戸さん、ここだったんですね!」
「おう、どうした長太郎」
彼は足を止めてから、私に気づいたようで驚いた顔をする。
「さん?」
「ああ、たまたま会ったんだ。新作のスイーツ食いそこね組だよ」
鳳くんは私のことを不思議そうに見ながらも、宍戸先輩に向き直る。
「それですよ、宍戸さん。これ、樺地が、跡部部長からもらって持ってた優待整理券です!」
鳳くんが差し出すチケットを受け取って、宍戸先輩はヒューと声を上げた。
「でかした! 長太郎!」
「はいっ! 今回のメニューはミントソルベだって聞いて、樺地からゆずってもらってきました!」
「よーし長太郎も樺地もいいやつだな……っていうか、跡部のやつ、俺にもくれよな! あいつめ、ひとこと言ってやる!」
宍戸先輩は3年の校舎にダッシュしていった。
後に取り残されたのは、私と鳳くん。
「……新作の初日はいつも完売すんの早くてさー」
ぼやくように言う私の手の、ミントガムを鳳くんがじっと見ているのことに気づいた。
今日の最後の1枚を私がもらっちゃったの、まずかったかな。
あわててポケットに仕舞う。
「うん、そうだよね。……あ、急がないと授業が始まるよ、さん」
彼はそういって、先を歩いて教室に向かった。
大きな歩幅でどんどんひとり先に歩いて行くのが、少し意外で、私は内心驚いた。
かすかな異変があったのは、その翌日から。
鳳くんが、ミントガムをくれなくなった。
最初のうちは、あ、今日は宍戸先輩からもらわなかったのかな、宍戸先輩だってガム持ってこない日もあるよね、なんて思っていたけれど、次の週も鳳くんはガムをくれない。
今日はガムないの? なんて言うのも変な話だし、その他のことは普通にしているし、なのに私の中の妙なひっかかりというか不安な気持ちは募るばかり。
鳳くんがミントガムを食べないことは確か。
そして、あの日、宍戸先輩はこれからも鳳くんにはガムをあげるつもりのように話していた。
ということは、鳳くんが宍戸先輩からもらったガムの行方はどうなってるの?
鳳くんが、宍戸先輩からもらったガムを捨てることは考えにくい。
だったら……他の子にあげてるんだろうっていうのが、順当な考えだ。
私はぶるぶるっと頭をふって、気持ちを落ち着けようとした。
そう、こういう時こそガム。
このところ、ずっと鳳くんからガムをもらって食べていたのがクセになってしまっていたので、ガムをもらえない最近は自前でガムを買ってきていた。粒タイプのそれを、口に放り込んでもぐもぐと口を動かす。
落ち着いて。
わかっていたことじゃない。
鳳くんは、誰にでも同じように優しい。
今まではたまたま私にガムをくれていただけで、今、そのガムを他の子にあげていたって何もおかしくない。
そんなことで、こんなにも動揺する私がおかしいんだ。
だから、いやだったんだよね。
鳳くんみたいな子の隣の席。
ちょっと話してただけで、仲良くなったと勘違いして舞い上がっちゃう。
ガムをもらわらなくなっただけで、毎日がこんなに不安で切ないなんて。
もう窓の方を向いても、閉ざされた窓からの風も外の匂いもなくて、私の頭のもやもやは吹き飛ばない。
今日の帰りのHRでは、夏休み前の最後の席替えがある。
明日からは、新しい席。
今日さえ我慢すれば、私は元の平穏な落ち着いた気持ちに戻れるはず。
そんな事を考えたとたん、私の足は自然に保健室へとむいた。
午後の授業が始まる直前、私は保健室へ逃げだした。
中等部に上がってから、保健室に行くなんて初めてのこと。
保健室の先生は職員室で用事があるから、何かあったら内線で連絡をとのことで、ちょうどひとりになれてよかった。
気分が悪いわけじゃないから、ベッドに横たわることもなく、ゆっくり腰掛けて、昼休みから噛んでいたすっかり味のなくなったガムをティッシュでつつみゴミ箱に放る。
ほんと、だからいやだったんだ。
鳳くんみたいな子。
一緒にいて、くだらない話して、楽しくすごしてたら好きになってしまうにきまってる。
いつのまにか、私は鳳くんのいろんなことを知ってた。
ししゃもが好きなことだとか、宍戸先輩とのミントガムについての秘密やなんか。
今は誰が鳳くんからガムをもらってるのかな。
その子も、私みたいに舞い上がっちゃったりしてるのかな。
いや、私みたいに勘違いじゃなくて、ちゃんとした彼女だったりするのかも。
自分を納得させるために、そんなことを考えてみると、思った以上にぎゅっと胸が痛かった。
……だから、いやだったんだよね、あんな席。
今日さえしのげば、この気持ちはいつか終わる。
風邪を引いても、寝てれば治るみたいに。
きっと。
ベッドにこしかけて、足をぶらぶらさせてると、保健室のドアが開く音。
びっくりして顔を上げると、そこには鳳くんが立っていた。
怖いような真剣な顔で、私は驚いて声も出ない。
「さん!」
「……どうしたの、鳳くん、まだ授業中だよ」
「気分悪くて、保健室に行ってるって聞いたから!」
「えっ、あ、ちょっと……でもそれほどでもないから、大丈夫、お見舞いにきてもらうほどじゃないよ」
私はちょっと動揺してしまう。ほんと、どうしちゃったの鳳くん。
「昼前まで、ちっともそんな風じゃなかったから、おどろいたじゃないか」
「きゅ、急にね、ちょっと……。鳳くん、授業に戻らなくていいの?」
「……さんが、もしかしたらこのまま具合が悪くなって午後は家に帰ってしまうんじゃないかと思って……」
うん、そう画策していたところだよ、鳳くん。
「……今日の午後のHRでは席替えがあるだろ。俺、さんに確認したいことがあるのにって、慌てて来たんだ」
確認したいこと?
「……なに? あ、でも、あの、気分だいぶマシになってきたから、教室に戻ろうかな。心配してくれてありがとね」
鳳くん、これ以上私の気持ちをかき乱さないでほしい。
今日はもう普通にいつもどおりにすごすから、お願いそっとしておいて。
私はベッドから立ち上がって扉の方へ向かった。
私が扉を開けようとすると、鳳くんはドアを押さえる。
ぎょっとして振り返ると、そこには真剣な表情の鳳くん。
よく考えたら、私、こんなに真正面からきちんと彼を見たの初めてだったかもしれない。
いつも、ちょっと目をそらしたりしていたから。
「……俺が確認したいことっていうのは……」
彼は眉間にしわをよせて、泣きそうな? 怒ったような? そんな顔をしながらゆっくり屈んで私の顔のそばに近づく。
まずは彼がいつも首から提げているクロスのチョーカーが目の前に。そして、彼の顔。
近い近い。
吐息が私の顔にかかった。
鼻先を私の唇に寄せて、しばらくそのまま。
次の瞬間、彼の唇が私の唇を覆った。
驚きのあまり、声も出ないし身体も動かない。
鳳くんの舌が一瞬私の口の中に侵入する。
その瞬間、私の肩に添えられていた鳳くんの手にぎゅっと力が入ったかと思うと、もう片方の手で、ゴン! と壁を殴った。私がびくりとすると、彼は私から身体を離し、ぎゅっと目を閉じて片手で顔を覆う。
「……ごめん、やっぱり、さんは宍戸さんとつきあってたんだね」
えーっ!
「ちょ、ちょっとちょっと! 鳳くん、どうしちゃったの、ぜんぜんそんなことないんだけど」
取り乱す鳳くんを前に、私はいきなりキスをされたショックもふきとんで、あたふたしてしまう。
「嘘だ!……今、さんの口からはミントの味がした……! 宍戸さんから、ガムをもらっているんだろう?」
鳳くんは片方の手では、ぎゅっとチョーカーのクロスを握り締めている。
「だって、さっきまでガム噛んでたもん! ほら、最近は鳳くんがくれないから、自分で購買で買ってるんだよ! これ!」
ポケットから粒タイプのガムのパッケージを出して見せた。
鳳くんはじっとそれを眺める。
「……宍戸さんのいつものガムじゃない……」
「あたりまえじゃん、自分で買ってるんだから。どうして宍戸先輩が私にガムくれるのよ」
鳳くんは深呼吸をして、少し顔を赤くした。
「……学食のスイーツコーナーの前で会った時……」
ああ、水玉シャーベットが売り切れで愕然とした日ね。
「さん、宍戸さんからガムもらってただろ?」
「ああ、あの時は確かに、辞書のこととミントアイスの話して、そのついでに1枚もらったけど、それだけだよ」
私が言うと、鳳くんはもう一度大きく深呼吸。
「……俺は、もしかしたらあれ以来、さんは宍戸さんから直接ガムをもらってるのかもしれないなと思ってた。だから、もう俺がもらったガムをさんにあげるなんて筋違いなんじゃないかって……」
「……それで、あれ以来、ガムくれなくなったの?」
彼は恥ずかしそうに小さくうなずいた。
目の前にいる男の子は、氷帝学園の有名人で、アイドルみたいにかっこよくて優しくて。
彼はこんなにまっすぐ丁寧にちゃんと話す人だったんだ。
なのに、私ときたら、傷つくのがこわくてごまかして逃げてばかり。
今度は私が深呼吸をした。
「鳳くんがガムをくれなくなってから、私、悲しかった。いつも何気なくくれるから、同じように何気なく、今は他の女の子にあげてるのかもしれないなって思って。だから、今日はもう、隣にいると、泣けてきちゃいそうだったんだよ」
震える声で、それだけを言うのが精一杯。
「泣かないで、さん!」
鳳くんは、目の前であたふたと慌ててポケットをさぐる。
やだ、まだ泣いてないよ、鳳くんてば。
「これ、今日、宍戸さんにもらったガム。今までの分はずっと机の引き出しにとってある。さん以外の人にあげたりしないよ。だから、さんはもう自分でガム買ったりしなくていいから」
真剣な顔でガムを差し出す彼から、それを受け取ると、私の手を彼の大きな両手が覆った。
「……授業に戻ろう。一緒に」
彼は私の手を引いて、保健室を出た。
授業中、誰もいない廊下を彼に手を包まれたままゆっくり歩く。
「あのさ、さん……俺、よく宍戸さんから『長太郎はよく気がつくけど、いまひとつ気が回らないやつだな』って言われるんだけどさ、さん、その……ガム以外にこう、欲しいものとか食べたいものとか、何かあったら、教えて欲しいんだ」
鳳くんが気恥ずかしそうに困ったように言うのがおかしくて、私は声をおさえてつい笑う。
「……学食の水玉シャーベットが食べたいな。期間が明日までだし、ずっと人気で売り切れでまだ食べられてないの」
私がそう言うと、鳳くんはシマッタというように額を押さえた。
「あっ、そうだったよね……、俺、気付かなくてゴメン! 今日ぜったいに樺地から優待券もらってくるから、明日、一緒に食べよう!」
うん、明日ね。
席が離れても、明日、一緒。
2013.6.16「水玉シャーベットの恋」