「若くん! ごめん、あの、これ帯の結び方がどうしても分からなくて……!」
初心者向けの稽古の日、稽古前に道場で彼女はあせって俺の前へやってきた。
「どうしても、タテになっちゃうんだよね……」
俺はため息をつく。
「……先週も、教えませんでしたか?」
そう言うと、彼女は後れ毛を耳にひっかけながら申し訳なさそうに頭を下げる。
「そうだったよね、ごめん、今日こそは覚える」
俺はちらりと、彼女がやって来た方を振り返った。
そこには、兄が稽古の準備をしていた。
「兄さんに教えてもらったらいいじゃないですか」
そう言った瞬間、彼女は困ったような恥ずかしそうな悲しそうな顔をする。
「えっ? 先輩に? あ、でも、恥ずかしくて……」
ふたつ年上の彼女は、兄の後輩らしい。
日吉先輩の道場ってここですよね、と言って入門してきたのはほんの先月のことだ。
俺はため息をついて、彼女の道着の帯の不細工な結び目をほどいた。
「……まだ1ヶ月ですけど、まあ頑張ってますよね」
俺が言うと、彼女は照れくさそうに「ありがとう」と言う。
彼女の帯を結ぶために屈むと、胸元から少し甘い匂いがした。
「……兄に、つきあってるひとがいるってわかったのに、よく続けてるじゃないですか」
俺がそう言った瞬間、彼女はびくりと飛びのいて目を丸くする。
「若くん……えっ……? なんで……?」
顔を真っ赤にして動揺する彼女に、俺は大げさにため息をついて見せた。
わからないとでも思ってるのだろうか。
兄めあてで入門して来た彼女は、入門したその日に、兄が幼馴染の門下生とつきあっていることを知った。その時の彼女の落胆っぷりは、はっきり言ってかなりのものだった。
「ほら、帯。まだ結べてませんよ」
彼女は、あわてて俺に一歩近づいて、俺はもう一度彼女の帯に手を触れた。
「……兄さんに、帯を結んでもらうのは恥ずかしいけど、俺ならいいんですか?」
え? と、俺の頭の上から、彼女の戸惑った声がする。
「帯を、結ぶだけじゃなくて、ほどくこともできるんですよ、俺だって」
そう言うと、彼女がまたびくりと後ずさろうとするので、俺はぐいと帯を掴んだ。
「冗談ですよ、はい、結べました」
「あ、ありがと」
「で、結び方は覚えましたか?」
「……あ!」
俺は思わずクククと笑う。
彼女が何か言おうとするけれど、俺は気づかないふりをして稽古の準備を手伝いに行く。
初回の体験クラスだけで、彼女はきっとやめてしまうと思ってた。
けど、2回目からもきちんと通ってくる彼女の姿を見て、俺はなぜか嬉しくてうきうきしてしまったんだってことは、絶対に誰にも言わない、俺だけの秘密だ。
「むすび」
2012.5.6