● 震える肩  ●

7月の俺たちは熱い。
 だって、レギュラーになって初めての関東大会そして全国大会。
 夏休みに入って(もちろん入る前からも)朝から晩までトレーニング漬けの俺は、どれだけ体を動かしてもまだまだ力がみなぎるような、そんなパワーにあふれていた。
 狙うは優勝だ。
 と、そんな熱い想いでダッシュ30本を繰り返していた俺は、ふと足を止めた。
 木陰でしゃがみこんでいる女の子。
 おいおい、制服でそんな風にしゃがみこんでたら、パンツ見えるだろうが!
 そんなことを考えながらなんとなく目をやっていると、彼女はそのままふらりと木の幹にもたれかかる。
 おっと、熱中症か!? いけねーな、いけねーよ!
 俺は少々あわてて、自分のドリンクのボトルを掴み彼女の方にダッシュした。

「おい、大丈夫か?」

 駆け寄って声をかけると、彼女は木の幹から体を起こした。

「え? なに?」

 彼女は、色白の肌に少し茶色い髪、瞳もうっすら焦げ茶色、まつ毛が長くて、太陽の下に出たりしたら溶けてしまいそうに華奢だった。

「あっ、いや、熱中症か何かかなあと思って……大丈夫スか?」

 俺はさりげなく敬語になる。
 間近で見た彼女は大人っぽくてきれいで、明らかに年上の先輩だとわかったからだ。同級生の女子とはまったく違うその女っぽい雰囲気に、俺は柄にもなく戸惑ってしまった。
「ああ、ありがとう、別に大丈夫。暑いなーと思ってさ、ちょっとだらけてただけ」
 彼女は額の汗をぬぐいながら笑った。
「……何してたんスか?」
 制服姿で、いかにも太陽が苦手そうで、暑いと思いながら外でしゃがみこんでる美人の上級生って、一体何なんだ? 俺にはさっぱり見当がつかなかった。
「ほら、これ」
 彼女が指さす先には、蟻の巣穴とそこに出入りする蟻の行列。
「……ああ、蟻っスかあ……」
 俺はコメントに困る。何て言ったらいいんだ、こういう場合?
「蟻って皆熱心でさあ。見てたら、こう、目が離せないっていうか……」
 彼女は蟻の行列を見つめたまま、真剣に言う。
「蟻、好きなんスか?」
「んん?」
 彼女は顔を上げて俺を見上げた。
 二人して蟻の巣穴を覗き込んでいた俺たちの顔は近くて、じっと俺を見上げる彼女の目は大きくて、俺はどぎまぎしてしまう。
「好きっていうか、私、本当は蟻の女王なの。呪いで人間にされてしまった。……もしもこの話を信じて、そして私にキスをしてくれる人がいれば、私は蟻の女王に戻れる」
 俺の視線は、彼女の目からその唇に移った。
 ふっくらとした唇は、きれいなピンクで。
「マ、マジっスか!?」
 俺が裏返った声で言うと一瞬の間をおいて、彼女は爆笑した。
「ンなワケないでしょ! つーか、普通、人間だったのが蟻にされてるとか、カエルにされてるとか、そっち方向でしょ!」
 彼女は我慢できない、というように地面をばんばんたたいて笑った。
 なんなんだ、この人は。
「ちょっと待ってくださいよ、俺だって別に本気にしたワケじゃないっスよォ!」
「あ、そう」
 彼女は笑いすぎてにじんだ涙をぬぐいながら息をついた。
「でも、もし私が蟻の女王に戻りたいからキスしてって言ったらしてくれた?」
 そんな言葉に、さっき見つめた彼女の唇のイメージが蘇り、顔が熱くなる。
 俺は手に持ったドリンクボトルを差し出した。
「何言ってるんスか、いいとこ間接キスっしょ。ほら、熱中症になる前に飲んどいた方がいいスよ」
 彼女は無言でボトルを手にする。
「……噂の乾汁とかじゃないでしょうね?」
「そんなネタよく知ってますね」
「だって、そのジャージ、テニス部でしょ?」
「あ、そっか。とにかくそれ、乾汁とかじゃなくてフツーのドリンクっスよ」
 俺が言うと、しばらく疑わしげにボトルを観察した後、彼女はやっとそれをごくりと飲んだ。
「あー、ほんとだ。結構美味しいね」
 とりあえず俺が口をつけたボトルからドリンクを飲んだ彼女は、蟻に変身することはないようだった。サンキュ、と言って俺にボトルを返す彼女。
 不思議だな。
 大人っぽいきれいな人だから、最初はちょっと緊張しちまったけど。なんだか、あまりにバカみたいに笑うものだから、ま、この人のパンツが見えたとしてもどうってコトないかって、妙に気安い気分になっちまうなあ。
「日陰とはいえ、外で活動する時には、水分補給に気をつけないと危ないっスよ」
 そして俺は説教までしてしまう。
「ラジャ!」
 彼女はふざけたように敬礼をした。俺はつい吹き出してしまう。

「おーい、桃ぉー!」

 その時、俺を呼ぶ声。
「なーにサボってんだよー」
 英二先輩の声だった。ヤベッ!
 俺はあわてて立ち上がる。
「いや、サボってるわけじゃないスよ! 人助けっていうか!」
 そう、人助け! 蟻の女王に戻ろうとしてた人にドリンクを与えてたっていうか。ああ、急に立ち上がったものだから、立ちくらみでクラクラする。
 額を抑えながら片手を木の幹について体を支えてると、隣で蟻の女王がゆっくり立ち上がった。
「あれ、じゃん」
 英二先輩の声のトーンが少し上がった。
「頑張ってるねー、菊丸」
 彼女はスカートの裾を整えた。
「なんか私、熱中症ぽくなっててさ、この子がドリンクくれて、助けてくれたんだよ」
 蟻の話は省略のようだ。
「おっ、そうなのかー、やるな桃!」
 英二先輩はポンポンと俺の背中をたたいた。
「じゃ、倒れないうちに室内に戻ってくださいよ」
 俺はもっともらしく言って、英二先輩と走り出しかけた。
 そして、もう一度振り返る。
「あと、先輩! スカートでそうやってしゃがんでっと、パンツ見えますよ!」
 俺が言ってやると、彼女は一瞬きょとんとして、そして次にはまた大笑いしていた。
 走りながら隣では英二先輩も笑いながら俺を肘でつつく。
「おいおい、桃ちん。のパンツ、見たの?」
「ウソウソ、見えてませんってば」
 ホントかよ〜、なんて言われてふざけながら俺たちは走った。
 彼女はといって、去年菊丸先輩と同じクラスだったらしい。
 暑い暑い夏の太陽の下、いかにも暇人そうでホラふきのきれいな上級生は、妙に印象深かった。

 夏休みの暑い毎日、関東大会を控えて俺は日々トレーニングで忙しいのだが、どういうわけだか学内ではの姿を見ることが多かった。
 彼女は暑い昼中、制服姿で、時には木陰のベンチで何をするわけでもなく座っていたり、いつぞやのように木の根っこあたりにしゃがみこんでいたり、その意図はさっぱり不明だ。
 かといって俺も忙しいので、彼女を見かけるたび様子を伺うわけでもないが、それにしても一体何やってんだろな、なんて思いながら視界の端に捉えてはいた。
 その日は、日中の気温があまりに高くて、トレーニングの合間に俺は水道まで行き思い切り頭から水をかぶったりなんかしていた。
「ぷはー! 生き返るねー」
 ついそんな声を上げてガシガシと頭をタオルで拭きながら歩いていると、これまたしゃがみこんでいるが視界に入ってきた。
「まったく、この暑いのに何やってるんスかぁ?」
 ついつい足を止めて尋ねてしまう。
 振り返った彼女は、手に何かを持っていた。
「あ、まいど。なんだっけ、桃くん?」
「桃城っス。桃でいいスよ」
「いや、この花壇の隅にね、えらく元気のいい大葉が生えてるから、素麺に添えて食べるのにいいなと思って」
 彼女は汗を流しながら、ぶちぶちと大葉をちぎっていた。
「そんなに食うんスか」
「うん、私、ベジタリアンだからね、どんぶり一杯くらいは大葉を食べるね」
「マ、マジっスか!?」
 これが彼女のメシか! と俺は驚愕してしまう。
「ンなワケないでしょ。お肉食べるよ。クォーターパウンダーだって食うよ」
 今度はたいしておもしろくなさげに彼女は言った。
「あ、そースか」
 俺もだるい感じで反応する。
「お肉食べてタンパク質を摂取しないと、おっぱい小さくなっちゃうからね」
 そう言ってちょっとの間大葉をちぎってから、俺をじっと見上げた。
「……今、私の胸の辺り、見たでしょ」
 俺はタオルでガシガシと頭をかきまわした。
「……はいはい、見ましたよ! 結構デカイなとか思いましたよ! こーいう話の流れだったら、誰だって見るっしょ! なんスか、先輩、この前からわざとからかってるんスか!」
 開き直って言ってやると、彼女は今度はおかしそうに大笑いした。
「いや、ごめんごめん、結構リアクションいいな、と思って」
「桃ちゃん、ノリがいいのが売りなんスよ」
 俺は立ち上がって息をついた。
「だいたい先輩、毎日毎日何してんスか。暑いの苦手そうなのに、外をうろうろして。別にたいした用事もなさそうなのに」
 彼女は大葉を手にしたまま、立ち上がる。
「実は私ね、任務中なんだわ」
「はぁ?」
 一体今度は何のネタなんだ?
「私、卒業アルバム制作委員でさ」
 次いで出た彼女の言葉は、意外にまともだった。
「なんかこう、夏休み、部活動に燃えている3年生の熱い姿を激写して来いとか、そういう指令が出てるわけ。けど、私、そういうの熱心に追うタイプじゃないし。かといって室内作業に戻ると、じゃあアルバムの中のテキストを担当しろってなるしね。だったら、とりあえず外廻りをしてる方がマシかなーって。暑いのさえ我慢すれば」
「はぁ……。で、写真撮るのもダルいしって、蟻の巣を見てたりベンチでうだうだしたり大葉をちぎったりしてんスか」
「その通り!」
 彼女は自慢の胸を張ってみせた。
「先輩、イケてないっスねえ」
「まあね。全国大会をめざして日々精進してる桃とは、大違いってモンよ!」
「……そんなコトを自慢げに言ってないで、だったらせめてテニス部の写真でも撮ってったらどうですかぁ?」
 俺が言うと、彼女は首をひねる。
「テニス部かー。テニス部はギャラリー多いから暑苦しくて」
「日焼けすんのが嫌だったら、これ、貸しますから」
 俺は暑くて腰に結んでいたレギュラージャージを放った。彼女は、ほほー、とそれを受け取る。
「栄光のレギュラージャージまで借りたら、そりゃ行かねばなるまい」
 そう言うとポケットから薄いデジカメを出して、ストラップを持って軽く振り回してみせた。お、一応カメラは持ってんだ。
 彼女は俺が渡したジャージを肩にはおって、歩き出した。
 先輩と並んでテニスコートに向かうのは、ちょっと妙な気分だった。
 女の先輩と歩くなんてことが初めてだし、彼女はとてもきれいで目立つ。
 しかも、俺のジャージを貸してる。
 やべえ、もし部の先輩に何か言われてからかわれたりしたらどうしよう。
 柄にもなくそんな事を思ってしまう。
 もちろん、俺はぜんぜん構わねーんだけど、先輩がそういうのウザかったらどうしよう。
 なんて、俺が考えること自体ウザいかもしんねーな。
 だって、俺は本当に、ただ先輩が卒業アルバムの写真に、テニス部の先輩の写真を撮ったらいいって思っただけなんだから。
 自分で言い出しておいて、なんでこううだうだ考えちまうんだ、俺。
 そんな時、なんとも絶妙なタイミング。
 二人で歩いていると、ちょうどまた英二先輩と出くわしたのだ。
 あーあ、いかにもからかってきそうな先輩。
 アチャーって思う。
 英二先輩は、俺と先輩が歩いているのをちょっと意外そうに見てニヤニヤしたかと思うと、何かを言いかけた。
 が、その前に。
「あ、菊丸」
 先輩の方が先に口をひらいた。
「菊丸がメールの返事よこさないって、サツキ言ってたよ」
 彼女の言葉に、菊丸先輩のニヤニヤ顔はウッと曇る。ちらりと見た先輩の顔は、勝ち誇ったような悪戯っぽい笑顔。
「いや、今日部活の後にメールしようと思ってたんだって! サツキ、怒ってた?」
「さあ?」
 英二先輩は、ちぇ、とつぶやいて部室の方に向かってダッシュした。
 俺がぽかんと英二先輩の後ろ姿を見送っていると、ふわりと俺の頭に何かがかぶせられる。俺の汗臭いジャージだ。
「なんだか大葉がしおれそうだから、やっぱり戻るわ」
 彼女はカメラをポケットにしまって、笑った。
 おいおい、卒業アルバムの写真よりも大葉優先っスかあ!
 そんなツッコミを入れつつも、ちょっと何か気になった。
 でも彼女は笑って俺に手を振り、校舎に走って行くだけ。

************

 そんな事があった翌日、俺がまた水道で水をかぶろうと歩いていると、先客がいた。
 先輩だった。
 先輩は水道の蛇口から水を出して、しばし手をぬらして気持ち良さそうにしている。
 穏やかな横顔。やっぱり、きれいだな、と思った。
 しばらく流水に手をひたした後、彼女はおもむろにうつむいた。
 おいおい、スカートでそんなに前屈みになったら、後ろからパンツが見えそうだっつの。なんて思っていると、彼女は豪快に頭から水をかぶるのだ。肩くらいまではある髪に、思い切り水をぶっかけていた。
「おい、ちょっと先輩!」
 俺はびっくりして声をかけてしまった。
 俺の声が聞こえたのか聞こえてないのかはわからないが、彼女は水を止めて髪の水気をしぼりながら振り返る。
「ああ、桃」
「……いや、豪快に水、かぶりますね」
「うん、なんか暑いしさ。昨日、桃が頭を濡らして歩いてるの見てたら、結構気持ち良さそうだなって思って」
 先輩は、手元の小さなハンドタオルで髪を拭く。
「だったら、もっと大きなタオル持ってきた方がいいスよ」
 俺は自分のタオルを彼女に放ってよこした。
 彼女はそれを手にして少し考える。
「……大丈夫っスよ。それ、まだ汗拭いてない奴ですから」
 俺が言うと、彼女は安心したように、風呂上がりみたいにそのタオルで髪を拭いた。
「サンキュ、たしかにハンドタオルじゃちょっと小さいね」
 俺も蛇口から出した水をかぶって、ひとしきり髪を拭き終えた彼女からタオルを奪還してゴシゴシと髪を拭いた。
 と、軽い足音がして、隣の蛇口から水が流れる音。
 俺たちと同じように、蛇口からの水を豪快に頭からかぶる奴がいた。
 しかも女子。
 けど、彼女は先輩と違ってトレーニングウェアだし、大きなスポーツタオルを持っていた。
 生き返る、といった様相で顔を上げた彼女は、あれ、といったように俺の隣の先輩を見た。
「あれ、お姉ちゃん」
「サツキ、一歩遅いよ。タオル借りたかったのに」
 サツキ、と呼ばれた彼女は笑いながらタオルで髪をふいた。ショート気味の髪は、すぐに乾きそうだ。
「アハハ、お姉ちゃん、制服で水かぶったりして何やってんの」
「だって、暑いし」
 ひとしきり話してから、サツキって子は俺に意識を向けた。
「あ、テニス部の桃城くんだよね? お姉ちゃん、知り合い?」
「うん? ちょっとね、行水友達っていうか」
 なによそれー、なんて言いながら彼女は笑って、『じゃあね、私、練習あるから』と言って走って行った。
「あれ、妹。陸上部でさ、記録会があるから、練習大変なんだって」
 別に聞いてもいないことを、先輩は言う。
 妹ね。なるほど、確かに顔の作りがよく似てる。けど、妹の方はしっかり日焼けしてて、どれだけ太陽の光をあびても平気そうで、雰囲気はだいぶ違った。
 まあ、俺もだいたいは把握した。
 こういうの、割と察しがいい方なんでね。
「はあ、で、先輩の妹が英二先輩の彼女なんスか」
 うん、と言って、彼女は俺の手から再びタオルを取り上げ、それを頭にかぶった。
「私、去年、菊丸と同じクラスだったの。グループワークの勉強会を家でやった時、菊丸も家に来たんだよね。そん時にサツキと会って、なんか運動部同士話が合って仲良くなって、つきあうようになったみたい。……私も、菊丸が好きだったから結構ショックでさ」
 タオルをかぶってる彼女の顔は見えない。
 だけど、その肩は少し震えていた。
 確かに、俺は見たんだ。
 先輩の震える肩を。
「マ、マジっスか!?」
 俺は一瞬間をおいて、わざとらしくでかい声で言った。
 言ってみてから、俺は自分の心臓が少し大きめに動いていることを感じる。
 次の瞬間、俺は膝裏に衝撃を感じ、大げさによろめいて水場のへりに両手をついた。
 先輩の、後ろ回し蹴りのローキックがお見舞いされたのだ。へっぴり腰のそれは、たいした威力はないのだが、何しろリアクションが売りの桃ちゃんだから。
「ンなワケないでしょ! そんなベッタンベッタンのクッサい少女漫画みたいなこと、あるワケないじゃん! 桃、バッカじゃないの!」
 回し蹴りの回転で彼女が頭にかぶったタオルがはらりと落ちかけて、体勢を整えた俺は見事にそれをキャッチした。
 そして、ニカッと笑ってみせた。
「ですよねー。ンなワケないスよねー」
 そう言いながら見た先輩の肩はもう震えてはいないけど、その表情はどこか、着陸地点を見つけられない心細い小鳥のようだった。
 だから俺はとっておきの隠し球を使うことにした。
「先輩、今日もカメラ持ってます?」
「うん? そりゃ持ってるけど」
 任務中だからね、と言いながら濡れた髪をかきあげる。
 白い額がまぶしかった。
「俺、今日誕生日なんスよ」
「えー、マジ!? 今日?」
 彼女は目を丸くして俺を見上げる。
「そ。夏休み中に誕生日なんて、いつも部のヤローにハンバーガーおごってもらうくらいで、まったく冴えないんスよ」
 だろうねー、夏休み中じゃねー、と彼女は笑う。
「だから今日くらい、全国大会をめざす俺の勇姿を撮ってくださいよ。卒業アルバム制作委員として、それくらいはいいっしょ」
 俺がちょっと格好つけてポーズを撮ると、彼女は爆笑する。
「ほんと桃はバカだねー。桃は2年でしょ。私が撮んなきゃいけないのは、3年の卒業アルバムの写真なんだって」
 爆笑する彼女に、俺はジャージの上着を放った。
「だからいいんじゃないスか。ようやく先輩が仕事したかと思えば、それは役に立たない2年ボーズの写真だったなんて、先輩らしいス」
 なによ、それ、なんていいながら、彼女は手にした俺のジャージにゆっくりと袖を通した。華奢な彼女には、俺のジャージは当然ぶかぶかだ。ジャージを着ると、俺をじっと見上げてくくっと笑った。
「頼んますよ、俺、かっこよく撮ってくださいよー。他にも選手いますけど、撮るのは俺の写真ですからね」
 そう、英二先輩ではなく、俺をね。
 しつこく俺俺言ってると、彼女は笑って『わかったってば』と俺の背中をバチンと叩く。
 俺は彼女をエスコートするように、テニスコートの方へ案内した。
 今度は、何があっても、必ずコートまで連れて行く。
 彼女を連れて行って、誰かに何かを聞かれたらどうする?
 何を言われても、俺はうろたえないぞ。
 俺の誕生日に、俺の写真を撮ってくれるひと。
 そう紹介しよう。

(了)
「震える肩」

2009.7.23

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