● 眼鏡とパンツ  ●

 夏休みが終わるのと同時に席替えをした私は、極めてごきげんだ。
 新しい席が窓際ってだけで、喜んでるわけじゃない。
 もちろん、窓から入ってくる秋の心地よい風も嬉しいけど、最大のポイントがもうひとつ。
 私の席から黒板の方を見ると、その視線の通過点に光る眼鏡。
 私の視線は、黒板にたどりつく前にその眼鏡でおおかた寄り道をしてしまう。
 もちろん私が熱心に見つめてるのは眼鏡だけってわけじゃない。
 ぶっちゃけた話、手塚くんの斜め後ろの席になって、思う存分彼をじろじろと見る事ができてうきうきしちゃってるのである。
 生徒会長でテニス部部長の手塚くんは、頭がいいだけじゃなくてとにかくかっこいい。かっこいいっていうか、ほんと整ったきれいな顔をしてるんだ。
 そのきれいな顔を、不自然じゃなしにおもいきり見つめることができるこの席、なんてプラチナシート!
 真面目な手塚くんは、授業中によそ見をするようなタイプじゃないから、じろじろ見てる私と目が合ってしまう心配はまずない。
 私は完全に安全圏にいるのだ。

「ねえ、、ちょっと英語のノート写させてー。居眠りしちゃって、肝心のとこ写しそこねちゃったよー」
 昼休みになると同時に、友人の茉莉乃がやってきた。
「え? さっきの英語? あー、私もあんまりちゃんと写してないなー」
「だって、めっさ真剣に黒板の方見てたじゃん。なんか夏休み明けからえらく真面目になってるから、ノートもばっちりなんじゃないの?」
 私はお弁当を広げながら、唇をとがらせた。
 残念ながら、私の視線は黒板の手前のトラップにひっかかって、さっぱりその先の世界のことは知らないのです。
「えー、まあ、居眠りとか遅刻はしないけどさー」
 そんなことするの、もったいないじゃん。
 私がもじもじしてると、茉莉乃はようやくはっと察したようにサンドイッチのパックをぴりぴりと開いた。
「あ、そうか、なるほどね」
 今は空席の手塚くんの席を振り返って笑った。
 ちなみに手塚くんは、昼休みは結構隣のクラスの大石くんのところに行ったりするみたい。
、手塚が好きだもんねー」
「いやー、だってさー」
 私はお弁当のウィンナーを食べながらもごもごと話す。
「やっぱ、かっこいいじゃん。ついつい見ちゃうよねー」
 茉莉乃はおかしそうに笑った。
「でもさー、ぜんぜんしゃべんないし、笑わないし、真面目すぎるし、正直面白みがないよね」
「手塚くんは、面白みなんかなくていいんだよ。面白い手塚くんなんて、手塚くんじゃないもん!」
「女子から告られても、すぐに断ってるらしいじゃん。堅物すぎるって」
「手塚くんは、女の子にうつつをぬかしたりしないんだよ!」
「だったら、、いつまでたっても手塚とつきあえないじゃん」
 茉莉乃がそんなことを言うものだから、私は思わずカシャン!と箸を置いて悶絶する。
「そんな、手塚くんとつきあうなんて! 私、そんなんじゃないんだってば! もー、茉莉乃、変な事言わないでよ!」
 茉莉乃はサンドイッチをもごもごと食べながら、ちょっと変な目で私を見た。
「だって、手塚のことが好きなんでしょ」
「好きだけどさ! つきあうとか、そんな……。私、そんなイヤラシイ目で手塚くんを見てるわけじゃなくて、ほんと、かっこいいなァって見てるだけなんだからさー」
 私がもじもじとしてる間に、茉莉乃はすっかりサンドイッチを食べ終えて、他の友人に英語のノートを借りに行っていた。
 つきあってられんってことか。
 乙女心のわからないやつめ!


 まあ、こんな私でも二年の時にはちょっとつきあった彼氏がいたりした。友達の延長からつきあったような彼との恋もそれなりに楽しかったけど、そんな恋もなんだかちょっとしたすれ違いで自然消滅みたいにあっさりと終わった。
 友達みたいに何でも言い合う仲は楽しいって思ったけど、言い合いすぎるのも考えものだなってことを学んだっけ。
 別にそういうことがあったからってわけじゃないけど、三年になって同じクラスになった手塚くんは、ほんっとうにかっこよくて、他の男子みたいにバカみたいなエッチな話なんかしなくて王子様みたいで、私はすっかり参ってしまったのだ。
 私、当分は、手塚くんを見てるだけでいいんだ。
 話したりしなければ、私が自分でバカな事言っちゃって後悔することもないし、『えー、手塚くんってそんなこと言うのー?』ってがっかりすることもない。


 そんな、積極的なんだか消極的なんだかわからない私にとって、これまたラッキーなんだかアンラッキーなんだか判断しかねる状況がやってきた。
 社会科でのグループワークの班が、手塚くんと同じになったのだ。
 嬉しいといえば嬉しくはあるけど、こんなの、私がバカだってばれちゃうじゃない!
 なんだか妙に緊張したまま、グループでの話し合いに参加した。
 課題はそう難しいものじゃなくて、グループでひとつ国を選んでその国の歴史や現状の問題などをまとめあげプレゼンをするってやつ。

「ネパールなんかどうかと思うのだが、皆はどうだ?」

 話し合いが始まってからの、手塚くんの一言。
 ネパールぅ?
 どこらへんにあるのかも私、うろおぼえなんだけど!
 彼が一言言えば、当然ほかのメンバーも異論を唱えることなくて、結局私たちのテーマはネパールに決まった。
 まずは各自でネパールについて調べてきて話し合い、それから改めて分担を決めてまとめにとりかかろうじゃないかということになり(当然、リーダーシップは手塚くんがとっている)、解散。

 ネパールねぇ!

 普段、あんまり真面目に勉強しない私も、せめてネパールの場所とどんなとこかくらい確認しなくては、と放課後図書館に走った。
 けど、他の班の子たちも考えることはみな同じみたいで、世界の地図帳だとかそういったわかりやすい資料はおおかた出払ってしまっている。
 私はため息をつきながら、館内をぶらぶらとうろつきまわった。
 せっかく珍しく図書館に来たんだし、ちょっとくらいは何かを見て行こうかなーって。
 うろうろしてると、新着図書のところにやけに大判の本があることに気づいた。何気なく手に取ると第一印象は
「重っ」
 なんて重い本なんだ!
 ぱらりと開くと全部カラーの写真。
 結構きれいな、山の写真集だ。
 近くの机に置いてぱらぱらと見る。
 すると、「ネパール」という文字が目に入るじゃないですか。
 おっ、ラッキー! とそれを目で追うと、エベレストの写真。
 ほうほう、と解説を読む。
 ふーん、チョモランマとエベレストって同じだったんだ。
 っていうか、エベレストってネパールとかチベットとかのあたりの山だったのか! 私はてっきりスイスアルプスあたりの山だと思ってたよ! バカだから。
 あぶないあぶない、こんなのが手塚くんにばれたら大変なところだった。
 それにしても、茜色に染まった白い雪肌の山の写真はびっくりするくらいきれいで、私はしばらく課題のことを忘れて写真に見入っていた。
 と、ふと私のいる机の隣で誰かが立ち止まる。
「ああ、その写真集はいいだろう」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、私は息をのむ。 
「以前から購入依頼を出していて、ようやく入ったところだ」
 何冊かの本を手にした手塚くんが、あいかわらずの無表情のままで静かに言う。
 こんなところでイレギュラーに手塚くんと会って会話をするなんて、私の予定にはさっぱりなかったことだから、一瞬頭が真っ白になってしまう。
「……あっ、手塚くんが購入依頼したんだ。じゃ、手塚くん、読むでしょ?」
 あわてて本を差し出すと、彼は軽く手をあげて首を横にふった。
「俺はもう見た。が借りるといい」
 えっ!
 私、ちょっと見ていただけで、こんな重い本借りて帰る気はないんだけど……。
「そのカメラマンは、百名山を撮り続けている途中、ヘリが乱気流にまきこまれて大けがをするというトラブルにみまわれたのだが、それでも彼は……」
 私が一瞬ことばにつまっていると、手塚くんは静かな声でその写真集がどれだけ素晴らしいかを丁寧に黙々と解説してくれた。いつも通り愛想のない表情ではあるんだけど、彼の温度がちょっと高いような気がして、へえ手塚くん、こういうのが好きなんだ、となんだか嬉しくなってしまう。
 結局私は本を本棚に戻すことをせず、貸し出しカウンターに持って行った。


 やっとの思いで本を持ち帰った私は、その山の写真をぱらぱらとめくりながら、今日の手塚くんのことを思い出す。
 手塚くんは山が好きなんだな。それで、ネパールなんて言ってたんだ。
 やっぱり頭よくって、いろんな事知ってる。
 きれいな顔、真面目な表情、静かで渋くてかっこいい声。
 大好き。
 だけど、やっぱり一緒にいたり話をするには緊張しすぎる。
 私は手塚くんに比べてだいぶバカだし、きっと話も合わない。
 私にとって、彼はやっぱり見てるだけなのがいいんだろうな。
 写真の中のこのきれいな山に、私が決して登らないだろうっていうのと同じでね。


 数日して、私は放課後にまたその重い本を持ってえっちらおっちら図書館に向かっていた。返却しないといけないから。
 第一回のグループワークでちょいと話し合うくらいのネパール知識は、なんとかこの本のネタくらいで大丈夫だろう。
「おっ、、本なんか持ってめずらしいじゃーん!」
 耳慣れた声が飛び込んで来る。
 去年同じクラスだった菊丸だ。
「あ、うん、だってグループワークなんだもん、ちょっとくらいはねー。あんまりバカにしないでよー」
 菊丸は話しやすいから、結構仲良し。
 そんな風に軽口を返すと、彼の傍らに手塚くんがいるのが目に入った。
 そうか、菊丸も同じテニス部!
 彼の姿を見ると、私はなんだか急に緊張してしまった。いつもみたいな、バカ話しないようにしなくっちゃ!
「えっと、ほら、手塚くんと同じグループなんだ」
「えー、そーなの!? かっわいそー、こいつ真面目だから大変だろー?」
 そんな菊丸の軽口に、そうだよー! なんて言えないし、ううん手塚くんが好きだからラッキーだよ、とも当然言えないし、私はなんだか困ってしまう。
 普段なら、もっと上手いこと切り返すのに。
 手塚くんが、ちらりと私を見てるような気がした。
 社会科の課題について、何か言わなきゃいけないだろうか。
「でも、勉強になるよー。私、エベレストってヨーロッパにあると思ってたんだ」
「えー、マジ!? さすがに俺でもそこまでバカじゃないにゃー!」
 ニシシと菊丸が笑って、そして言ってから私はしまった! と後悔した。手塚くんにこんなバカっぷり、自分でバラしちゃったじゃん!
 あーっ! 菊丸のバカ!
 私はとりあえず人のせいにして、もう手塚くんの顔なんか見る事もできず、重たい本を両手でぎゅっと抱きしめた。

 その時。

 その日は朝からなんだか風の強い一日だったのだけど、特に強烈な一撃が私たちの周りを通り過ぎた。
 ちょっと生暖かいその風は、わたしたちの足下をすり抜け、そして、私のスカートを思い切りまくりあげたのだ。
 私の両手は本を持ってるから、スカートを押さえることもできない。
 しかも、今日はちょっと暑いからってスパッツもはいてなかった。
 その強風はほんの一瞬で、私のスカートはすぐにふわりと元の位置におさまったのだけど、100%の確率で私のパンツは菊丸とそして手塚くんの目にさらされただろう。
 私は一瞬、どうリアクションをしていいかわからずすっかり固まってしまう。
 すると、菊丸がぽんと私の肩をたたいた。
「なーんだ、、結構かわいいパンツはいてんじゃん!」
 さすが菊丸、結構気を使うんだ。
 気まずくならないように、わざとおもしろおかしく明るくしてくれる。
「手塚ー、のパンツ見えてラッキーだったよにゃー! ヨシ、部室いこっか!」
 菊丸なりに場をおさめようとしてくれるんだろう。
 菊丸が手塚くんを部室に促そうとすると、彼が厳しい表情のまま口を開いた。
「いや、別にラッキーではない」
 その言葉を聞いて、私はずるりと本を取り落としそうになった。
 あわてて本を持ち直して、そして彼らに挨拶もせず図書館に向かって走った。

 そりゃ、スパッツをはいてない私が悪いんだけど!
 だけど、見せたくてパンツ見せたんじゃないよ!
 見られて、死ぬほど恥ずかしいんだよ!
 手塚くん、見たくもないもの見せちゃって、私が悪かった!

 返却カウンターに本を置くと、私はすぐさま図書館を出てとぼとぼと歩く。
 なんだか涙が出てきた。
 あれほど気をつけて、手塚くんに変なところは見せまい、私は手塚くんを見てるだけでいいからって思ってたのに。何も悪い事してないのに。
 そりゃ、手塚くんが『パンツ見えてラッキー』なんて言うわけないけど、見たくもないもの見て不愉快、みたいな言い方されてもがっくりくる。
 じゃあどうしたらいいんだって話になるかもしんないけどさ。
 なんだか涙がにじんできて、うつむいたままハンカチでこっそり拭いた。

!」

 すると、背後からの大声。
 びっくりして振り返ると、それは手塚くんだった。
 彼が現れたことと、そして珍しいその大声に、思わず目を丸くしてしまう。
 どうしたんだろう。苦情の追加だろうか。
 すると、彼はあいかわらず真面目な顔のまま、こう言うのだ。

。パンツを見てしまって、悪かった」

 ええええー!
 堂々たる彼の言葉に私は混乱してしまって、一瞬返事につまる。
 突然そんなふうに謝られても!

「あ、ううん、私の方こそいらないもの見せてしまって、ごめん。忘れて」
 私は空いた両手でスカートの裾を押さえながらうつむいて言った。
「……俺は少々言葉が足りないから、ひとを不快にさせてしまうことがある。、さっきは事故とはいえ、菊丸ともどものパンツを見てしまってすまなかった」
 いや、手塚くん、もういいから! もう、パンツパンツ言わないで!
 私がいたたまれない気持ちでいると、彼はかまわず続ける。
はパンツを見せたいと思って見せたのではない、それはわかっている。だから、俺たちがパンツを見てしまったら、きっと嫌な気持ちになるだろう。それで、俺は『ラッキーではない』と言ったんだ。クラスメイトが嫌な気持ちになって、ラッキーに思うやつはいないだろう」
 真剣な顔で言う彼を、私はぽかんとして見つめた。
「俺が言ったのはそういう事だ。別にのパンツを見たくなかったというわけじゃない」
「えー!? 手塚くん」
 HRで議長をするときなんかとまったくおんなじ表情で真剣に言う彼を、私はじっと見上げた。
「じゃあ、女の子のパンツを見るのはやぶさかではない、ということ?」
「……そう言われては語弊があるな。なんでもいいというわけではない」
「あ、そー……」
 手塚くんはやっぱり真面目だなあ。
 女の子のパンチラ見ちゃったなんて、普通の男の子だったら、笑ってふざけてすませるようなことなのに。
 私はちょっとおかしくなってしまった。
「だから、とにかく見てしまったのは悪かった。あの事はもう俺の胸にしまっておくから、そう気を悪くするな」
 一生懸命言う手塚くんに私は思わず笑い出してしまう。
「胸にしまっておかないでよ、手塚くん。脳みそからデータ消去しちゃって、消去!」
 こめかみを指差して言うと、手塚くんは眉間にしわをよせて眼鏡のブリッジを持ち上げて言った。

「コンピュータと違って、人の脳はなかなか思うようにはいかない」

 手塚くんは真面目だし、かっこいい。
 だけど、ちゃんと話してみると、もっと素敵なのかもしれない。
 バカもばれたしパンツも見られたことだし、もうちょっと手塚くんと仲良くなりたいと思っても、これ以上の罰はあたらないかなあ。

(了)

「眼鏡とパンツ」

2008.9.13

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