眼鏡とキャンプ



、キャンプに行ってみるか」
 手塚くんの唐突なその言葉は、あの日、私のスカートを捲り上げた突風以上の衝撃だった。
「え……?」
 一瞬意味が分からなくて、ぽかんとしていると彼は私の机の写真を指差した。
「キャンプだ」
 彼のクールな無表情は揺るがない。

 さて、この手塚国光くんというクラスメイトは私の憧れの男の子。
 青学テニス部の部長として、全国大会優勝を果たした偉大な人だ。
 私は長らく彼を見つめるだけの片思いをしているのだけど、社会科のグループワークで一緒になってから少しずつ話ができるようになった。
 まあ、ちょっとした、しかし顔から火が出そうなアクシデントがきっかけではあったんだけど。
 手塚くんって厳しそうだしとっつきにくそうだし、話しかけにくいって思い込んでた。だから、「かっこいいな、素敵だな」って見ているだけでいいって思ってたんだけど。
 でもね、ちょっと会話をしてみるとあのクールなニコリともしない表情で、それでもきちんと丁寧に「私に」向けた言葉を返してくれる。グループワークで観察していると、勿論それは私にだけじゃなくて誰が「なぁなぁ、手塚」って話しかけても、とても真剣に真正面から丁寧に言葉を返す。手塚くんって、こういういいところがあったんだなあって改めて気づいてドキドキした。
 そんな、社会科のグループワーク。
 で、グループワークの私たちのテーマは「ネパールについて調べる」という事だったんだけど、それで冒頭の出来事につながります。
 知ってた? エベレストってネパールにあるんだって。私、スイスアルプスだとかそんなところだと思ってた。
 そんなバカな私がこのたびいろいろネパールについて皆と調べて学んで、いろんな写真を見て、その中でエベレストのベースキャンプの写真とかがあって。
 課題提出も終わってすっきりしてたところで、そんな写真を見ながら、「キャンプってなんだか楽しそうだなあ」ってさっきしみじみと口に出していたの、私。

、キャンプに行ってみるか」

 そして、その手塚くんの一言。
「え……キャンプ……? エベレスト……?」
 手塚くんは片手で眼鏡のブリッジに触れた。
「いきなりエベレストには行かない。近郊のコースだ。はこの課題が出てから、山の写真を熱心に見ていただろう。行ったことはないとのことだが、山やキャンプはなかなか良いものだぞ」
 そう、手塚くんは自分の興味のあるものについては、なかなか饒舌になる。
 私は彼のこの言葉を聞いて、頭の中がものすごいスピードで回転することを感じた。

 山? キャンプ? 山に登るの? キャンプっていうのは、どこからどこまでがキャンプ? この写真みたいにテント張るの? 野外で? 
 っていうか、私、手塚くんに誘ってもらってるの?
 考えるのは後、とにかく返事をしなくちゃ!

「う、うん、行く」

 だって、一体なにが起こったのかわからないけれど、手塚くんに誘ってもらって断るわけがない。
「そうか、では土日で日程を調整しよう」
 彼はそれだけを言って自分の席に戻った。
 周りでは、まさか私と手塚くんの間でこのような重大なやりとりがなされてるとは思いもしないだろうから誰も注目なんてしない。彼があまりにもさらっと言うものだから。
 私は頭の中で、キャンプキャンプと言葉を繰り返す。
 行くといったものの、一体どういったことになるんだろう。
 はっ、手塚くんは今、土日でって言った。ということはもしかして、テントを張って泊まるってこと? っていうか、確かにそれがキャンプか。
 えーっ!
 手塚くんと泊まり?
 始業時間になって先生が入ってきたタイミングで、私は思わずガタン! と立ち上がってしまったものだから、いきなり注意された。
 
 授業中、当然ながら内容なんてまったく頭に入らない。
 一体私に、何が起こったんだろう。
 ほんの少し前まで、まともに会話をしたこともなかった憧れの男の子とキャンプ?
 ぶわーっと舞い上がるような気持ちと、「いやでも、キャンプって結構大変なんじゃ……?」という気持ちとで、まさにジェットコースター状態。
 時間がたつにつれ、だんだん不安が募る。私はまったくアウトドア派じゃないし、大丈夫なんだろうか。確かに今日、ぼーっと写真を見ながら「キャンプって楽しそう」って気軽に思ってつぶやいたけれど、憧れの手塚くんと行くとなるとちょっと話が違ってくる。
 
 昼休みに、手塚くんを呼び止めた。
「あのっ!」
「ああ、なんだ」
 そのクールな表情に、一瞬「キャンプに行ってみるか」と言われたことは私の妄想だったんだろうかと不安になる。
「あの……キャンプに必要な持ち物を教えて欲しいんだけど……」
 私がよっぽど不安そうな顔をしていたのだろうか、彼は軽く頭を下げた。
「そうか、すまない、初心者ではいろいろわからないことが多いだろうな。ちょっと待ってくれないか」
 手塚くんは自分の席に戻ると、手早くルーズリーフにペンを走らせた。
「ひとまず、こんなところだ。家にない物品は無理に用意しなくていい」
 手渡されたルーズリーフには手塚くんの丁寧で綺麗な字が並ぶ。
 しょっぱなに「テント」と書いてあって、私はくらっとする。
「テ、テント、ない……」
 と思わずつぶやいた。
「ああ、ないのならいい。俺のテントは二人は寝れる。大石や河村とキャンプをしたことがあるが、十分だった。なら、小柄だから問題ない」
 ああそっか、テニス部の子たちとキャンプ行ったりするんだ。じゃあ私を誘ってくれたのも、男子同士の遊びの一環みたいな感じで……と一瞬考えて、頭の中が真っ白になる。
 手塚くんとテント?
 二人で?
 手塚くんのその淡々とした話しぶりと、その内容の衝撃(私にとって)のギャップがすごくて、「あ、そーなんだ、よかった」って平静を装って言ってみたものの、声は震えていたと思う。手塚くんは「わからないことがあったら、また聞いてくれ」と言って教室を出て行ったけれど、彼が書いてくれた持ち物リストはほとんどわからないものだらけ。
 「シュラフ」って、何……。

 その日、私は友達の話もすべて上の空で、家に帰ると大慌てでその持ち物リストの物品を検索して調べた。
 シュラフって、寝袋のことか。家にあるのかなー、お母さんに聞いてみよう。銀マットって何? 雨具って、やっぱり折り畳み傘じゃなくて雨ガッパのことだよね?
 とにかくリストの内容を点検することで精一杯で「手塚くんとキャンプ。手塚くんとテント」という大課題は後回し。
 お母さーん、山に行くような大きめのリュックってある? 寝袋ってある? 友達とキャンプに行こうって話になってー、なんて言いながら家にあるものを少しずつ揃えていたら、大きな問題にぶちあたった。
 パーフェクトなはずの手塚くんの「キャンプの持ち物リスト」には、すっかり欠落しているものがある。
このリストは、例えば同じテニス部の大石くんや河村くんに説明するリストとまったく同じだろう。
 それではダメなんだ。
 だって、私は中3女子!
 しかも、手塚くんに片思いをしている。
 スキンケアとか、ヘアケア用品とか、絶対にはずせないものがある。
 社会科のグループワークで手塚くんと同じグループになっただけでも、私が朝家を出る前に鏡に向かう時間は倍以上になった。
 今度はグループワークどころじゃない。キャンプだ。テントだ。
 それをふまえて、今まで以上の女子力は維持しなければいけない。
 野外で。
 お母さんが引っ張り出してきてくれた寝袋を放り出して、私は携帯用の化粧ポーチや着替えを入れる小さなバッグ、修学旅行で使った旅行用品を大慌てでかきあつめた。
 私がばたんばたんやってると、お母さんが部屋をのぞいて「アンタは夜逃げでもするつもりなの!」と部屋中に広がった荷物を見てお小言。
 いや、どうしよう。
 手塚くんのリストの物品と、私の女子グッズ、合わせると軽トラでもないと持ち運べないんじゃないんだろうか。
 これは私の人生最大のピンチかも。
 

 その日から、私の頭の中はキャンプに持って行く荷物の心配で占められた。
 私にとって「キャンプ」「テント」というのは未知の世界すぎて、どれだけ考えても解決できないまま。水道や鏡はあるんだろうか? そもそもトイレは? とか、考えるときりがない。
 キャンプに行ってみるか、と言われた3日後、教室で手塚くんにA4の紙を渡された。
「行き先はここが良いと思うが」
 プリントアウトされた内容は、郊外のハイキングコースとキャンプ場の案内だった。
 まるで授業の課題のプリントでも渡してくれるみたいに堂々としているから、本当に教室の誰もが、私が手塚くんとキャンプに行くなんて想像だにしていないだろう。
 行き先について、私が異論を唱える余地があるわけもないので、頷きながら説明文に目を通した。「設備案内」という項目に、私はグワッと見入る。水道トイレ完備、とあって胸をなでおろした。
「日程は、次の週末はどうだ? 天気次第ではあるが」
「え? あ、うーん、大丈夫」
 日程と場所が決まると、がぜんキャンプが現実味を帯びてきて足が震える。
「持ち物はどうだ?」
 言われて、私はポケットから手塚くんのメモを取り出した。
 何度も何度も確認したから、くしゃくしゃになってきている。手塚くん直筆のメモだから大事にしようと思ってるんだけど、現実を受け止めることが大変すぎて。
「○をつけたのが用意できたもので、バッテンしてるのがないものなんだけど」
 手塚くんはメモを見て頷いた。
「ああ、これだけあれば問題ない」
 ぜんぜんこれだけでは問題大アリなんだけどね。
「あとね、ヘッドライト。うちにはないんだけど、なかなか便利そうだから買ってもいいよってお母さんが。何かおすすめある?」
 彼は表情も変えずに、そのメモに何かを書きとめてくれた。
「このメーカーのこの型のものがいいだろう。入手しやすく値段も手ごろで、単三電池が使える。駅ビルのアウトドアショップで扱っていたはずだ」
「あ、ありがと……」
 じゃあ一緒に買いに行くか、ってならないかなとちょっと期待したけど、手塚くんこういうところはつれないな……。
 いやいやこんなことでへこんではいられない。
 再来週に向けて、私は荷物を厳選して行動のシミュレーションをしなくては。

 この数日で私のエア・キャンプ力は相当上がったような気がする。
 検索しまくってるもん。
 今度は行き先となるキャンプ場を検索しまくった。公式ページから、利用した人のブログまで。
 とりあえず、水場やトイレはきれいそう。あと、温泉も併設されているらしい。青春台からは電車とバスで行けて、バス停からちょっとしたハイキングコースを歩いて行くみたい。改めて見ると、なかなか楽しそう。ふう、私もやっと「楽しそう」と思える段階まできたか。あとは荷物をまとめるだけ。
 お父さんから借りたリュックに寝袋や着替えをぎゅうぎゅうと詰めこんで、さらに手塚くんから指定されてない女子グッズをできるかぎり隙間に入れる。携帯用のドライヤー持っていくべきか、どうしよう。もしも朝、寝癖がついてどうしても直らなかったらと不安で仕方がない。
 本当は雨ガッパ置いていってドライヤー持って行きたいところだけど、「天気が悪ければ事前に中止にするが、野外行動では雨具は必須だ」と手塚くんに言われたから、そういうわけにはいかない。
 初心者の私のために完璧な安全マージンを取ってくれている計画だけれど、私の女子的には崖っぷちぎりぎりっていうところだ。
 ほとんど毎晩キャンプの夢(帰りにリュックに荷物が詰まりきらなくなるとか、そんな悪夢ばかり)を見て夜中に一度は目が覚めるという日々を過ごして、ついに迎えました、キャンプ当日。
 指定された時間に駅で彼を待つ。
 私、今までにやったどんなテスト勉強よりも全力を尽くして準備したと思う。
 忘れ物がないか何度も何度も確認した。荷物を詰めたリュックを背負って、「これ、ちゃんと持って歩けるのかな」と近所の公園を歩いて練習もした。荷物の詰め込みに工夫して、悩んで悩んで悩みぬき、結局携帯ドライヤーを入れた。
 ふと我に返ると、一体どうして私はこんなにハラハラして不安を抱えて、しかも心の隅っこで「雨降ってもいいな」なんて思ったりしちゃってるんだろと思う。
 もっと初心に帰るべき。
 私、手塚くんが好きなんだよ。その手塚くんが、ちょっと私が「キャンプいいな」なんて口走ったからってキャンプ誘ってくれたんだよ。
 もっと楽しみにしなくちゃ!
 天気もいいし!
 そう考えて、少し気持ちが緩んだ瞬間、不意に普段考えないようにしていることが、頭をよぎった。
 
 手塚くんはドイツにテニス留学するらしい。

 誰ともなく知っている暗黙の事実。
 この1週間あまりキャンプの準備に必死で、そのことからすっかり目をそらしていた。
 そう、手塚くん、日本からいなくなっちゃうんだよ。
 それなのに私ってば携帯ドライヤーのこととかばかり。
 そんな事考えてる場合じゃないのに。
 と、ぼーっとしていたら待ち合わせ場所に彼が登場した。
「待ったか」
 颯爽と現れた彼はさすがスタイリッシュなアウトドアスタイル、そして想像していたよりだいぶコンパクトなリュック。
 えっ、私はもっていかなくていいテントとか他の道具があるのに、これだけ?
 ちょっとばかり動揺していたら、彼は私のリュックをじっと見ていた。
「結構荷物が多いな、大丈夫か」
 うわ、やっぱり指摘された! これでも80%くらいは削減したんだけど。
「そうかな、お父さんのリュックだから大きくて……。重さはそんなにないから大丈夫だよ」
 実は結構重いけど、女子力維持のためには頑張るしかないから。私は必死だから!
「そうか、ならいい。さあ、油断せずに行こう」
 彼はそう言うとスタスタと切符売り場に向かった。
 ……手塚くん、やっぱりこういうところつれない……。
 目的地に向かう電車の中では、荷物を網棚に置いてほっとしたのか私は一気にわくわくして楽しくなってきた。
 普段教室で顔を合わせていたら、何の話をしたらいいかわからない手塚くんだけど、ちょっと前まで会話をすることも難しいって思ってたけど、今はだいぶ自然に話せる。
 勉強ができてテニスの有名人だっていう手塚くんの別の顔がこんなにあるなんて。
 山登りやキャンプが好きなだけじゃなくて、フライフィッシング? とやらも好きらしい。
 今日の晩は、米を炊くって言ってるから料理もするんだなあ。
 やっぱり手塚くんはすごい。

 と、言ってる場合じゃなくて。
 私、重要なことを忘れていました。電車とバスを乗り継いで行ったら、あとはちょっと歩いてキャンプ場に行って楽勝だ! と思っていたけど、なかなかどうして、これが結構しんどいじゃないですか。
 地図で見るとそんなに距離はないような気がしたけど、微妙に登りなものだから。
、大丈夫か」
 先を歩く手塚くんが振り返る。
「……ちょっとしんどいけど、休憩しながらだったら大丈夫!」
 肩で息をしながらなんとか私は前に進んだ。
「よかったら荷物をいくらか俺のザックに入れるが」
 彼の申し出を丁重に断った。だって、テントやガスコンロまで持ってくれてる手塚くんに、私の下らない携帯ドライヤーまで持たせるわけにいかない。
「ううん、自分の荷物は自分で持つから大丈夫!」
 ハイキングコースを楽しむ余裕もなく、ふらふらになりながらなんとかキャンプ場まで到着。
 今日はちょっと暑くて、私は汗だく。
 お風呂のあるキャンプ場で本当によかった。
 リュックを下ろして地面に崩れ落ちていると、「ここにテントを張るぞ」と手塚くんは淡々と自分のザックを開いてテントを取り出していた。
 ほんと、手塚くんつれない……と思いつつも、やっぱりこういうとこも好きだなあと最近は思ってる。絶対にちゃんと気にかけてくれているんだけど、いちいち構いすぎないところ。
 気を取り直して立ち上がり、せめて何か手伝わなければ……と思っていたら手塚くんは手際よくさっさとテントを張り終えていた。お見事。
「……すごく使い慣れてるね」
「小学生の頃に親に買ってもらったものだ。無理を言って良いものを買ってもらったので、大事にしている」
 手塚くん、テントをねだる小学生だったんだ!
、ザックからシュラフを出してテントの中で広げておけ。早めに広げておいた方が空気が入って寝心地が良い」
 えっ、ハイハイ。と言いつつ、寝袋は私の荷物満載のリュックの中の一番下に入れてたから、取り出すのに相当な苦労をしたけどなとか指示通り、テントの中にマットをしいて寝袋を広げた。私が持ってきたのよりも当然かなりちゃんとしている手塚くんの寝袋の隣に、自分の寝袋を並べると、急に緊張してきた。
 確かにこれはどう見ても、ちゃんとしたキャンプだ。こういう写真見たことある。
 でも、まさかこういう状況でテントの中で手塚くんの隣に寝袋を並べるとは。
 ここで寝るんだよ? なんかすごくない?
 私、無我夢中でここまで来たけれど、これってなんだか一大事じゃない?
 改めて事の重大さを実感していると「水を汲みに行くぞ」と、次の指示が出た。
 うわあ、この事実をかみ締める余裕もない。キャンプ、忙しいな。
 手塚くんの指示通りにあれこれやって、ひとまずご飯を炊く段取りになった。小さなガスコンロに飯盒を載せて火をかける。わあ、小学校の時に子ども会でやってたなあ、飯盒炊爨。
「カレーはレトルトになるが」
 炊き上がったご飯に、あたためたカレーをかけてくれた。ステンレスのカップにはお茶。
「あの、手塚くん、なんだか本当に何から何までありがとう……」
 私、食事関係はリストにのっていなかったから本当に何も持ってこなかった。手塚くん、ちゃんと用意してくれるつもりだったんだ。私ってば、「必要かも」とかまったく気が回らなかったなあ、恥ずかしい。
「エベレストのベースキャンプのようにはいかないが、雰囲気だけでも味わえるだろう」
 彼はそう言ってカレーを食べはじめる。
 私もひとくち。すこしおこげになったご飯が、こうばしくておいしい。
 少し前の私は、手塚くんとこうして野外でカレーを食べる日が来るなんて想像だにしなかった。
「カレーは中辛だったが、大丈夫か」
「えっ? あ、うんおいしいよ、大好き」
「そうか、よかった」
 大好き。
 自分で言って自分でどきっとしてしまう。
 食事中は結構会話もなくて、黙々とカレーを食べ、ごはんがこびりつかないうちに水につけて後片付け。キャンプ、大変だけど、なんだかあれこれやることがあって手塚くんと二人で来てるんだっていうことに緊張する暇があまりない。ある意味、良いかも。
 片づけを終えると、手塚くんは腕時計を見た。
「よし、風呂に行くぞ」
「は、はい!」
 本当に忙しい。
 さて、お風呂は本当に気持ちよかった。
 今日一日のことは、まるで夢のよう。今、手塚くんが男湯に入っていて、1時間後に待ち合わせてるとか、現実のことなんだろうか。
 湯船につかりながらうとうとして時計を見て、ハッとした。
 今日一日は終わってない!
 まだ、手塚くんとテントで就寝するという大仕事が残ってるんだ!
 あわててお風呂をあがって、髪にトリートメント剤をつけて乾かした。顔にはシートパック。
 わかってる、わかってるの。
 絶対に手塚くんと何かが起こるということはない。断言できる。
 それでも、できることはすべてやっておかなければ落ち着かない女子心。
 何のために重い荷物を持ってきたと思っているの。
 約束の時間ぎりぎりになって広間に出て行くと、当然手塚くんは先に上がって飲み物を飲んでいた。
「ごめん、待った?」
 軽やかでスポーティーなシャツに着替えた彼は、お風呂上りだからか普段の雰囲気より少しやわらかくて、これまたとてもかっこよかった。というか、学校指定ジャージに着替えた私とならぶと、完璧、学校の引率の先生と生徒みたいな……。
「いや、俺も風呂はゆっくりな方だから今あがったところだ」
 私もスポーツドリンクを1本買ってごくりと飲んだ。喉の奥にしみわたる。
 外に出ると、すっかり暗くなっていて風が涼しい。
、ヘッドライトは持ってきたか」
「えっ、うん、確か……」
 お風呂道具バッグのポケットをさぐって、買ったばかりの手塚くんお勧めのヘッドランプを取り出した。
「暗いから、足元に気をつけてテントまで戻るぞ」
 手塚くんもヘッドランプを出して、頭に装着。
 えっ……今、必死で髪をセットしてきたところなんだけど……。
 けれど指示に逆らうわけにはいかない。髪に跡がつかないように、そうっと頭に装着してライトをつけてテクテクと歩いた。おおっ、本当に足元が明るくなる。初めて使用したけど、なかなか面白いし便利だなーヘッドライト。
 手塚くんの後をついてテントに戻ると、改めて周囲が暗いことに気づかされた。
 家の近くだと、夜っていっても街灯があるからこんな暗い夜って初めてかも。周りには他のテントがいくつかあるけれど、闇夜を照らすほどではない。
、ライトを消してみろ」
 手塚くんが急にライトを消すものだから、まるで急に彼がいなくなったみたい。
 キャッと声が出そうになるけれど、彼の言う通りライトのスイッチを消してみた。
 本当に暗い! なんだか怖くなってきた。
 私の肩越しに、手塚くんが上を指差すのがかすかに見える。
 首をぐいっと上に向けてみると、今度は「わあっ」と声が出た。
 星が、ものすごくきれい。
「すごい!」
 真っ暗で見えないはずなのに、手塚くんがかすかに微笑んだような気がする。
「もっと標高の高い場所だと、まさに星が降ってくるように迫ってくるように見える。が、ここでも郊外で空気が澄んでいて、かつ暗い分、綺麗に見える方だな」
「十分だよ……こんなにきれいな星空、初めて見たかも……」
 ずっと空を見上げてたら、まるで自分が宙に浮いているみたいな感覚になって一瞬くらっとして、気づいたら背中を手塚くんに支えられていた。
「あっ、ごめん、なんか星を見てたらぐるぐるなっちゃって……」
 あわてて体制を整えると、手塚くんはライトをつけてテントの入り口を開けた。
「今日は疲れただろう、早めに寝た方がいい」
 そう言うとさっさとテントに入っていく。
 えっ、あっさりしてる!
 外に取り残されても怖いので、あわてて後に続いた。
 もごもごと寝袋に入ってファスナーを閉めていると、手塚くんはすでにきっちり寝袋にもぐりこんでライトを消していた。テントの中の頭元に、ポケットみたいなものがついていて彼は手馴れたようにそこに眼鏡を折りたたんでしまっている。
 手塚くんの眼鏡はずしたとこって、そういえば見たことない! 見てみたい欲求に駆られるけれど、彼はきっちり就寝体勢だしライトで照らすわけにもいかないだろう。
 大人しく寝袋にもぐりこみライトを消すと、「夜中にトイレに行きたくなったら俺を起こせ。一人で行くには暗くて怖いだろう」とだけ彼は言った。えー、トイレに行きたいって手塚くんを起こすなんて絶対無理! でも、確かに真っ暗で怖い!
 なんて思いながら寝袋に入って目を閉じると、不思議な安心感。
 手塚くんとテントで二人で寝るなんて、ものすごいどきどきして緊張して眠れないんじゃないかと思ったけれど、どうしてかとても安心する。
 寝る前にもっとどきどきしたり、ちょっと話をしたり、そんな期待もあったけれど真っ暗なテントの中で目を閉じるとまぶたの裏に星空が浮かんで、たぶんあっという間に眠りについた。
 その夜に見た夢は、私が手塚くんと一緒にいる夢。夢の中の私は、とてもリラックスして手塚くんとすごしていて、彼は少し笑っていた。彼の笑顔なんて現実では見たことないけれど、夢の中の私は、そんな彼にとても慣れ親しんでいたような気がする。夢の中で、これは現実なのか夢なのかって何度も考えていた。


 ハッと目を開けると、テントの中が薄明るい。夜明けだ。
 さっき寝袋に入って目を閉じたばかりだと思ったのに、すっごいよく寝た!
 がばっと起き上がろうとして、あわてて隣を見る。だって、変な寝起き顔や寝癖のついた髪を手塚くんには見せられない。
 と思ったら、隣の寝袋は空っぽ。
 びっくりして、テントの出入り口のファスナーを開けて外に顔を出すと、ちょうどストレッチをしている手塚くんがそこにいてばっちり目が合ってしまった。寝起き顔で……。
「起きたか。俺はここにいるから、着替えをするといい」
「あ、うん……ありがと……」
 急いでテントのファスナーを閉めた。
 今、すっごい間抜けな寝起き顔だったと思う……。
 大慌てで着替えて、朝の洗面所のセットが入った巾着を持ってテントを飛び出した。
「顔洗ってくるね!」
 一刻も早く顔を洗って、髪を梳いて寝癖をなおして、改めて手塚くんにおはようを言わなければ。
 今は何時かわからないけれど、普段の私なら絶対に起きないような早朝、空気はひんやりして地面は夜露で少し湿っぽいけれど、こういう匂い嫌いじゃない。
 洗面所へかけこむと、歯磨きをして、顔を洗ってケアをして、軽くリップグロスを塗る。で、件の携帯ドライヤーを使って必死に寝癖をなおして髪を整えて。いや、ほんとにキャンプって忙しい。
 一通りを終えて出ると、外は一段と明るくなってきていて今日も晴れなんだなーというのがよく分かる。準備の段階で弱音を吐きそうになったり、緊張もした今回のキャンプだけど、結局ずっと楽しかった。もうすぐ終わっちゃう。
 緊張する時間なんて、損だったなー。もっと手塚くんといろいろ話せばよかった。

 だって、きっと。
 手塚くんとクラスメイトでいられる時間も、あと少しなんだ。

 そんな思いがこみ上げてきて、私は頭をブンブンと振った。
 そんなこと考えたって仕方ない。一緒にキャンプに来たりしたけど、私は手塚くんとはただのクラスメイト。私にできることは、今日の残り時間を楽しくすごすことだけだもの、元気にいかないと。
 よしっと顔を上げて。
 洗面道具の入った巾着をぶんぶんと振り回しながら、元気いい感じで歩いていると。
 巾着が私の手からすっぽ抜けて行った。まずいまずい、と思っていたらその巾着はなんと通りすがったバンガローの屋根に飛んでいってしまった。
「えっ……」 
 フラットな屋根のふちのところに乗っかっているのが見える。
 まずい、あの中には今日これから使う日焼け止めやリップやなんんかが入っている。
 幸いそのバンガローに人は泊まっていないようで、私は屋根の下をうろうろしてなんとか取れないかなーと模索する。枝切れでつつこうとしても、届かない。
 手塚くんに助けを求める? と考えたけれど、中に携帯ドライヤーとかどうでもいいものが入ってる巾着を屋根に飛ばしてしまったなんてバカみたいなことを彼に言い出すことはなんだか憚られる。
 普段あまり働かない頭をフル稼働させて周りを見ると、ちょうどバンガローの横に手ごろな木が生えていた。これなら登れそう!
 なんとか木によじ登って、バンガローの屋根に上がり無事に巾着を手にすることができた。
 そして、降りようとして気づく。
 木の枝から屋根にわたるのは比較的容易だったけれど、屋根から不安定な枝にわたることはかなり難しい、というか私には不可能なようだった。
 何度かチャレンジしようと試みたけど、どう考えても落下しそうな気がしてあきらめてバンガローの屋根のふちに腰を下ろす。
 どうしよう。
 手塚くん、助けてーって叫ぶ? いや、無理無理無理。
 現実逃避をするために、空を見た。
 バンガローの屋根からは、ちょうどお日様が登る空が見えて、赤く染まったその色がとてもきれいだった。
 うん、そうだ、私はこの空が見たくてバンガローの屋根に上ったんだ、そうだ、そういうことにしよう、ハハハハ……。
 でも、本当にどうしよう……。
 うなだれていると、「どうした、そんなところで」と聞きなれた声。
 手塚くんが屋根の下から私を見上げている。
「あっ……」
 恥ずかしさのあまり顔が熱くなる。
「あ、ええと……」
 日の出が見たくて、なんていけシャーシャーと嘘をつくことはできないでいると、手塚くんが一瞬姿を消す。呆れられて、おいていかれたんだろうか。改めてがっくりうなだれていると、彼は梯子を持って登場した。
 あっ、梯子……! そうか、管理棟のあたりにあったよね、確か……。
 私ガアワアワとなっていると、バンガローの屋根に梯子をかけた手塚くんはさっさと登ってきて私の隣に腰掛けた。
「ほう、いい眺めじゃないか」
 そう言うと、青とオレンジの空をじっと見ていた。
 バカな理由で屋根に上って下りられなくなった私の隣で何も聞かずに、静かに空を見渡す手塚くん。
 今まで何度も思ったことだけど、改めて心の中で言葉にする。

 私は本当に手塚くんが好き。
 ドイツに行ってしまう人だとしても。

「あのね、手塚くん」
 なんだ、と目だけで答える。
「私、手塚くんが好き」
 思いがけずするりと口から出た言葉は、なんの捻りもなくて。でも、それ以外の言葉が思いつかない。一瞬彼の眉が動くけれど、表情は変わらない。
「そうか、俺もを好きなので、それはよかった」
 そう言って、また空を見た。
 私は手にした巾着を地面に取り落としそうになってしまう。
「えっ……手塚くんが、私を? ……なんで?」
 思わず口にした。
 彼は眉をひそめて私を見る。
「なんで、だと? そういった事に、明確な理由が必要なものなのか」
「そ、そういうものでもないとは思うけど……」
 好き、の言葉が胸の中でどんどん大きくなっていって、あふれていく。
「好きなものは好きだという、それだけのことだ」
 そう、あふれかえって私の世界を満たしていく。
 私、手塚くんが好き。


   ***********

 
「初めて一緒に来たキャンプのことを覚えているか」
 彼が唐突に言い出すので、私はドキッとした。
「中3の時のことでしょ、覚えてるに決まってるじゃない」
 宣言どおり、日本を代表とするテニスプレイヤーとして活躍している手塚くんは、つかの間の帰国で私とキャンプに来ていた。あの日以来、私と手塚くんの付き合いは続いている。私を支えているのは、あの日の「好き」の言葉。
 あれは、8年くらい前になるだろうか、中学3年生の時のこと。
 もちろん、私にとって忘れられない大切な思い出。けれど、あの時のことを思い出すとまったく中3の気分に戻ってしまって、恥ずかしすぎてあまり口に出して触れることのできない思い出なのだ。
「どうして急に……」
 今ではすっかりキャンプに慣れた私は、手塚くんのテントを手際よく一人で組み立てていた。例の、彼が小学生の頃から使っているあのテント。
「当時のことを思うと、もテントを組み立てるのがうまくなったな。荷造りもコンパクトになった」
 唐突にこういうことをストレートに言うの、ほんと昔のまま。手塚くんはずっと変わらない。
「当時の私のキャンプ力のことは、言わないで。もういいじゃない……」
 初めてのキャンプに、ドライヤーやらビューラーやらあれこれ持っていってすごい荷物だったことを思い出し、また中3気分で顔が熱くなる。
「ところで、そのテントだが」
 火おこしをを終えた彼はテントに近寄り、そっとフライに触れた。
「俺もそろそろ新しいものを買おうと思う」
 手塚国光ともあろう人が、テントを新調するくらいで宣言をしなくてもいいのに。
「そっか、小学生の時から使ってるもんね。もう新しく買ってもいいんじゃない? でも、このテント思い出深いから、ちょっと寂しいな」
 そんな話をしながら、ここ最近胸の奥でくすぶっている気持ちがチリリとうずいた。
 手塚くんが活動の拠点を本格的にドイツに移してから、数年が経つ。そして、いつの間にか私も大学を卒業する歳になった。
 聞いてみたいけれど、言葉にできない、「私たちどうなるの」という気持ち。
 小学生の頃から使っていたテントをついに買い換えるという彼の言葉には、なぜか胸がざわついた。
 手塚くんは年々試合で海外を飛び回ることが増え、帰国をする回数が減った。私がドイツに会いに行くこともあるけれど、やはり限界がある。
 小学生時代のテントもそろそろ無理がきたということなのかなあ。
 フライをきゅっきゅっと張るけれど、古いテントのフライのコーティングは剥げてきていて、もうひとつピンとしない。

「新しいテントを、一緒に買いにいかないか」

「いいけど、新しく買ってもめったに日本に帰ってこれないから、あまり使う機会ないんじゃない? あっ、ドイツに持って帰る? でもそれだと、飛行機で荷物になるよ」
 彼はまたフライの生地をそっとなでた。
「日本ではこいつを使うからいい。新しいテントはドイツで買う」
「あっ、ドイツで買うのね。ドイツまで買い物につきあうのかー、うん、たまにはいいけど」
 仕方ないな、っていう感じで腰に手を当てて言うと手塚くんは眼鏡のブリッジに指を触れた。ああ、こういうしぐさも初めて会った頃のまま。

「二人で使うものだ、二人で買いに行かなければ意味がないだろう。一緒に暮らそうという事だ」

 びっくりする事を、突然さらりと言うのもずっと変わらない。
 私が一瞬言葉につまっていると、彼はもう一度「一緒に暮らそう」と繰り返した。
 その言葉が胸の中でどんどん大きくなっていって、あふれていく。

「一緒に暮らそう」

 そう、あふれかえって私の世界を満たしていく。
 大きくうなずいて、「うん、新しいテントで」と言うと、彼は「テントでは暮らさない、心配するな」と平然と返す。こういうところ、本当に変わらない。
 私は手塚くんが好き。
 ずっと、好き。

2016.7.21







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