● 夢中にさせて〜Make Me Crazy About You〜  ●

「お!」
3年生になって何度目かの席替えで、新しい自分の席につくと私は思わず小さく声をあげる。
新しい席は窓側の真ん中あたり。この季節に窓際なんて、寒いしイヤって普通だったら文句言いたくなるところ。
 けど……。
 私のひとつ前の席で、窓の外を眺める彼の尻尾はゴキゲンそうに窓から吹き込む風にそよいでいた。
 仁王くんの後ろの席なんて、悪くない。
 だって、彼は私の好きなひとだから。
 私が椅子に腰を下ろすと、彼はちらりと振り返った。
「お、か。よろしゅうに」
 軽く笑ってそれだけを言う。
「うん、こっちこそ」
 どきどきしちゃう。
 今年いっぱいは、こんな眼福が続くなら、絶対に風邪で学校休んだりしないようにしなきゃ。

 なーんてね、本当は私、こんな初心な片思いなんてする方じゃない。
 気の合う男の子とわいわい喋って遊びに行って、お互い恋の手ごたえを感じたらそのままつきあって、っていうのが私の恋の王道。
 こんな、一方的に見てるだけの恋なんて、少女マンガの中だけのことだと思ってた。
 まさか、私がそんな恋するなんて。
 初冬の風に頭を冷やしていると、トンと窓が閉められる。踊る尻尾は大人しくなった。
「もう閉めてええじゃろ。風が冷たくなってきたのぉ」
 寒いのは苦手じゃ、と仁王くんは肩をすくめて少し猫背になる。
 寒さに猫背になる仁王くんは新鮮だった。だって、彼を好きになったのは今年の春からだもの。
 仁王雅治くんはテニス部の子で、女子からはとても人気がある。
 だってとにかく、魅力的。
 キレイな顔に、ミステリアスな雰囲気。熱血なんて言葉とは程遠く見えるのに、あの厳しいテニス部でレギュラーっていうギャップ。とにかく、かっこいいの。
 ただ、彼は。
 まず絶対に、私とは、ない。それだけは、わかる。
 なんて言うんだろう。
私の恋のプロセスとは相容れないだろうことが、一目見てわかるんだよね、女も15年やってれば。
 仁王くんの恋に、多分、言葉はいらない。
 彼は、視線を合わせて空気を共有した瞬間に、自分が恋に落ちる相手かどうかを把握するタイプだ、きっと。
 同じクラスになって、私が彼を初めて近くで見て恋に落ちた瞬間、彼との視線の間には確実に温度差があった。
うん、ないな。彼と私は、ない。すぐにわかった。
だから、私は彼にアプローチすることなんて、ない。
けど、ただ好きだなーって見てるのも、悪くないって最近は思ってる。
去年つきあってた彼と別れてしばらくたった私は、3年生になってそんな一方的な恋心を楽しんでいた。

*******

これから日々、目の保養だな、なんて思いながらわくわくで教室に来て席に着くと、前の席の彼はすでに登校して来ていて、右手で頬杖をついて窓の外をぼーっと眺めていた。
うん、こういうぼんやりしているような、それでいてどこか隙のない感じ。
好きだな。
そんなことを考えて腰をおろすと、くるりと彼が半身で振り返るので、私は驚いてわっと声を出してしまう。
「なんじゃ、まるで幽霊でも見たような声じゃな」
 彼は笑った。
「いきなり振り返るから、びっくりしたんだよ」
「ジャッカルから伝言頼まれたんじゃ。お前さん、生物委員じゃろ? 今週はジャッカルが当番でうさぎ小屋の世話しとるらしいが、今日はジャッカルが学校休むから、当番をかわってくれじゃと。順番だと次がお前さんらしいな。」
「えっ、ジャッカルが休み? 珍しい! 絶対風邪なんかひかなさそうなのに!」
 思わず言うと、仁王くんはクククと笑う。
「ひでー言い草じゃのう。ジャッカルのお袋さんが風邪で、心配で休むんだと。ブン太に電話すると、マザコンってからかわれるとおえんから、俺に電話したらしい」
「へえ、ジャッカルって優しいんだね」
「だから、マザコンじゃろ」
「仁王くんこそ、ひどい言い草」
 ジャッカル優しいなーっていう気持ちと、仁王くんと初めてちゃんと話すなーっていう気持ちでほくほくしていたら、ハッとある事に気付いた。
「……今日って、うさぎのペレット運ばないといけない日じゃん!」
 どうして今週の当番がジャッカルだったかを思い出した。
「何じゃ、ペレットって」
「うさぎの餌だよ。職員室の倉庫に納品されてるから、台車で運ばないといけないんだよねー……。めんどくさ……」
 溜息をついて、額に掌をあててると、仁王くんが軽く息をつくのが聞こえた。
「しゃーないの、手伝うぜよ」
「えっ?」
 思いがけない言葉に、私はまた大きな声を出して顔を上げた。
「そんなに驚かんでもええじゃろ」
 それだけを言って、彼はまた前を向いた。
 目の前には、揺れる尻尾。
 へえ、自分の友達が休んだからって、気を遣ってくれるんだ。
 ふつーの男の子みたいなとこもあるんだな。新しい発見。
 っていうか、ジャッカル、でかした!


 午後の授業が終わると、職員室で台車を借りて10キロのペレットを二袋運ぶ。
「ああ、これか、ペレットってやつは」
 仁王くんは珍しそうにうさぎのペレットを眺めながら、ごろごろと台車を押してくれた。
「この台車がさー、平らなとこを押してる分にはいいんだけど、段差があるとやっかいなんだよね、ほら、こういうとこ」
 エレベーターに運び込む時、よいしょっと仁王くんが持ちあげてくれるのに合わせてペレットの袋が落ちないように抑えて、1Fボタンを押す。
 仁王くんと二人きりでエレベーター! なんて感慨に浸る間もなく1Fについて、またゴロゴロと台車を押してうさぎ小屋に向かった。
「ペレット全部ここに運んどけばええのに」
「品質管理上の問題だってさ」
 私が今日の分の餌を餌箱に入れて、掃除をしていると、仁王くんはものめずらしそうにしゃがんでうさぎを撫でていた。
「……ちょっと、仁王くん……写メ撮らしてもらっていい!?」
「はあ?」
「そのままそのまま!」
 だって、ほわほわのうさぎと仁王くんだよ!
 うさぎをひざに抱えてる仁王くんを、カシャカシャと私は携帯のカメラにおさめた。
「いやー、ナイスショットだなーと思って」
 私はご満悦で、撮った写真を見返す。
 仁王くんはうさぎを抱っこしたまま私の携帯をのぞき込んで、くくっと笑う。
「……なんじゃ、。お前さん、俺のこと好きなんか?」
 西陽の差し込むうさぎ小屋で、仁王くんの淡い色の髪はきらきら光って、うさぎはふかふか。
 そんな彼への私のまなざしは、まず間違いなくハートマークになっていたと思う。
そして私は、彼のそんな言葉を必死で否定するほどに初心でもなかった。
「ん? ふふふ、まあね。仁王くん、女の子から好かれるのなんて慣れてるでしょう?」
私が言うと、彼はうさぎをそっとおろして、口元を緩めた。
「さあな」
「とかなんとか言っちゃって、首元の赤い痕、キスマーク?」
私が指を指すと、彼はぱっと左手で首元を抑えた。
「なーんて、ウソ」
「……のってやっただけじゃ」
私がしてやったりと笑うと、彼はそっぽを向いた。
小屋の掃除が終わると、私はうさぎ小屋の鍵を閉めて台車を外に出した。
「じゃーね、どうもありがとう。あとは一人で大丈夫。ジャッカルによろしく言っといて」
「どういたしまして。また明日な」
ひらひらと手を振って、夕日に溶けていくような仁王くんの後姿。
しなやかで、押すでも引くでもない。それでいて、きっと自分の思うように人との関わりをつくっていくんだろう。
仁王くんは当然ながら、学校の女の子からはすごく人気があるし、女の噂は絶えない。けれど、それは都市伝説みたいな感じで、実は仁王くんが具体的に『何組の何部の誰とつきあってる』っていう話は聞いたことがない。それでも、仁王くんがきれいな女の人と歩いていたって話は時々あって、彼は上手に学内での噂にならないようなつきあいをしてるんだと思う。
ミステリアスな彼は、そうやって女の子たちに夢を見せるのも巧みだ。
ふふふ、今日はいい一日だったな。
携帯の写真をもう一度見てから台車を転がすと、足元の雑草の影に何かが見えた。
拾い上げると、それはジャッカルの生徒手帳だった。


翌日。
前日までジャッカルが当番をやってたから、その時に落としたんだろうなと思って、生徒手帳を届けにジャッカルのクラスに行ったら、ジャッカルはまたお休みらしい。なんでも、インフルエンザだって。
お母さんのがうつったのかな、大変!
生徒手帳を、ジャッカルのクラスメイトに預けようかなとも思ったけど、やめた。
だって、生徒手帳にはジャッカルのお母さんらしき女の人の写真が挟まってたから……。
ジャッカルがマザコンなのもわかる、という感じのピカピカにまぶしいきれいな人だった。ブラジル人なんだよね、確か。きっとスタイルもいいんだろう。
となると、仁王くんに預けた方がいいのかなと、午前中の移動教室の授業が終わって彼の姿を探すけど見当たらない。
昼休み、彼の姿が見えない時は、屋上で女の子といちゃついてるらしい、なんてまことしやかな都市伝説は有名だ。
私は、ジャッカルの生徒手帳をもてあそびながら、屋上へ足を向けた。
完全なる興味本位だ。
だってジャッカルの母親の写真入り生徒手帳なんていう絶好のアイテムがあれば、彼の聖なるテリトリーに足を踏み入れるチケットみたいなもんかな、とふと思ったから。
階段を昇り、屋上へと続く重い扉を開く。
今日は天気が良い上に、11月下旬としてはなかなか暖かい。
屋上は静かで、とても人がいるような気配はなかった。
まるで、立入禁止区域にでも足を踏み入れたような気分で、私はそうっと音を立てないように歩く。ここに仁王くんがいるのかどうかは、わからない。
屋上って言っても、広いんだよね。屋上に仁王くんがいるらしいっていうこと自体、都市伝説かもしれない。
「俺を探しちょるんか」
頭の上から声がした。
はっと空を仰ぎ見ると、一段高い給水タンクのところからひょいと仁王くんが顔をのぞかせていた。
「……なんでそう思うの?」
自信家だなーっと思って言うと、彼はククと笑う。
は俺のこと、好きじゃろ」
そう言って、すっと姿を消した。降りて来てくれるのかな、と思っていてもその気配はない。
仕方なしに梯子を使って、タンクのところまで登ると、彼は日当たりのいい場所で足を投げ出して気持ち良さそうに座っていた。
「昨日はありがと」
「なんじゃ、礼を言うためにわざわざここまで来たんか」
「そう言うわけじゃないけど。ほら、これ昨日うさぎ小屋のとこで拾ったからさ」
ジャッカルの生徒手帳を差し出した。
彼は私を見上げながら、おかしそうに笑う。
「パンツ丸見えじゃ」
私はあわてて膝を抱えて彼の隣に座った。
「ジャッカルのクラスまで届けに行ったらさ、ジャッカル風邪引いて休みだっていうじゃん。で、クラスの子に預けようと思ったんだけど……」
生徒手帳を開くと、仁王くんはめずらしく男の子らしい大きな声で笑う。
「こりゃええ。あいつのマザコンは確定じゃな」
「私が直接渡すのも、なんだか気まずいしさ」
彼の悪だくみがあふれたような楽しそうな笑顔に、私は内心、ジャッカルご愁傷様と唱えるばかり。
「インフルエンザだってさ」
「ふうん」
さして興味なさそうに、仁王くんはジャッカルの生徒手帳をジャケットにしまった。
少しの沈黙。
仁王くんは沈黙が上手だ、と新しい発見。
なんていうか、沈黙をしても相手に気遣わせない。
仁王くんとの沈黙は、ここちいい。漂っているような感覚。
つま先から、髪の毛の先まで。彼は完璧な魅力に満ち溢れてる。
静かでしなやかな色香。
それは、私の手に負えるようなものではない。
だって、ほんと、火傷しそうなんだよ。かっこよすぎて。
、俺のこと好きじゃろ?」
本日二回目。
「うん? 仁王くんって、自分が好かれてるの好き?」
なんだかおかしくなって、私は聞き返した。
「そういうの、嫌いなやつおらん」
「そりゃそうだね」
「俺に、告白とかはせんのか?」
からかうようにさらりと言うものだから、私だってもじもじしたりはしない。
「してもしなくても、同じことじゃない」
「ふうん」
ジャッカル、インフルエンザだって。って言った時と同じくらいに気のない返事。
ほーら、たいして興味ないんじゃん。
ふーっと彼は隣で大きな深呼吸をした。
「今日は天気がええの。日差しが気持ちええ」
「うん、日なたはあったかいなー。でも、風は少し冷たいね」
私は両手をジャケットの袖のなかにきゅっと隠した。
「確かに」
彼はそう言うと、ひらりと左手の手のひらをかざす。そして、ぴと、と私の首筋に掌が張り付けられた。
「うわ、冷た!」
仁王くんの手の冷たさに思わず声をあげる。
「手ぇが冷えてきての」
「ちょっと、マジ冷たい!」
私がぎゃーぎゃー言ってると、彼の手はだんだん暖かくなってきて、そしていつしか私の首と同じ温度になってきた。温度が上がると、彼の手の感触がだんだんとリアルに感じられて、私の心臓が跳ね上がる。
は体温高いのぉ」
「仁王くんが冷え症すぎるんじゃない? いつも女の子に暖めてもらってる?」
「さあな」
小さく笑いながら、いつもの『さあな』だ。私の首筋に密着した彼の左手は、暖まってくると、まるで冬眠から覚めた生き物みたいにゆっくりうごめいた。
私と仁王くんの間の距離は、ちょうど彼の手の長さくらい。
それくらい距離があるというのに、まるで彼の息遣いが耳元で聞こえるかのように錯覚してしまう。
仁王くんの手は、私の首に溶けて張り付いてしまったかのよう。いつしか私の肌に、しっくりと馴染んでいる。動いているのかいないのかわからないくらいの動きなのに、確実に私の肌を刺激していた。
我慢できず、仁王くんから目をそらす。
私が漏らした声は、空に溶けているといいけれど、彼はきっと逃さなかっただろう。
彼の手に、私がとりこまれてしまいそうな感覚に陥った瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。彼はそれを計ったように立ちあがる。
「……さて、かったるいが授業じゃ」
手を取って立ち上がらせてくれた。私が腰が抜けたかのようになってしまったこと、見透かしてるみたい。
私の首で暖を取った彼の左手は、私の右手よりもだいぶ暖かい。
「……ちょっと、私が先に梯子降りるよ!」
 はっと我に返って走る。
「なんじゃ、パンツ見ちゃろうと思うとったのに」
 さっきまでの静かな空気とうってかわって、彼は明るく笑った。

******

まるで、じわじわと効いてくる毒薬みたい。
仁王くんと、昼休みを屋上で過ごした金曜のその夜は、長い時間をかけてお風呂に入っても、首筋に残る彼の手の感触が消えることはなかった。
それは、時間を追うごとにどんどんリアルさが増してくる。
私の脳に、身体の奥に、彼の指の感触が増殖する。
 
俺はいつでもお前を殺すことができる。

そんな宣言をされた気分だ。
お風呂であったまってから、布団に入って身体を丸めた。
目を閉じると、仁王くんの手の感触が全身に広がるみたい。
脳裏に残る彼のすずしい眼差しのイメージとは裏腹に、彼の指の感触はひどく生々しい。
寝がえりを打っても、目を閉じても何をしても、仁王雅治は私の脳から遠ざからなかった。
私は仁王くんが好きだけれど、胸を焦がして苦しみたいわけじゃない。
がばっと布団から出て携帯を取りだした。
こういう時は、合コンに限る。

******

翌日の土曜日は、去年同じクラスで仲良しだった子たちと駅前のカラオケ屋。
、誘った時は気のない返事だったから、もう来ないと思ったよー」
「へへ、やっぱり久々にいいかなーって」
「人数ちょうどよくなるから、が来てくれてよかった! 今回の子たち、結構レベル高いよー」
私と、女友達4人とが個室でわいわいやってると、男の子たちがやってきた。隣町の私学の子たちだ。
「よぉ、よろしくー。へー、立海の子たちみんなカワイイじゃん」
そんなお決まりのすべり出しで、わたしたちはワイワイ騒いであっという間の数時間を過ごした。
ちょっと見た目の良い、ノリの軽い男の子たち。
バカみたいな話で大袈裟に盛り上がって、メルアド交換して、かわいーじゃん、彼いないの? アハハ、誰にでも言ってるんでしょー。とか話して。
切れ目のないバカみたいな楽しい話、友達になるのかそれ以上なのかの微妙な距離感。
なんの痛みも伴わない、心地よい空気、程よい刺激。
ああ、楽だ。
こういうのが、私の道。
今日の喧噪で、私はリセットされるだろう。
ふと、右手で首筋を抑える。
大丈夫。
もう、毒は消えているはず。

********

月曜日に学校にいくと、いつのまにか12月になっていた。
、土曜日なんかかっこいい子たちと歩いてたじゃん。見たよー」
教室ではクラスメイトの子たちに声をかけられた。
「うん、ミカの友達の北学の軽音部の子たちとカラオケ行ったんだ。みんな、チャラくて面白かったよー」
「いいなー、今度私も誘ってよ」
「うん、行こ行こ!」
そんな話をしていたら、ふっと空気がかわるのを感じる。
「悪い、そこ俺の席」
仁王くんが現れた、
「あ、ごめんごめん」
クラスメイトがあわてて前の席を立ちながら、彼を見た。
「今、の合コンの話してたんだけどさ、仁王くんは合コンとか行かないの?」
クラスメイトが言うと、彼はふふっと笑う。
「誘われたら行きたいもんじゃの」
「またまたー。ま、仁王くんは合コンなんかするまでもないよねー」
モテるもん、なんていう言葉が言外にあって、そして仁王くんはそれを否定も肯定もせず。
「で、ええ男はおったんか」
仁王くんの声を聞いて、彼が椅子に腰を下ろすことによって動いた空気を感じて、蘇る感覚。
首筋に手をあてそうになって、あわててやめた。
「……まあまあかな」
俺よりいい男など、いるわけがない。
彼の心は手に取るようにわかる。
土曜日にバカ騒ぎをして、やっと取り戻した私の足元の立ち位置はあっというまに崩れてしまった。
仁王くんの雰囲気は、世界が違う。
ああやってカラオケ屋で会って騒いでちゃらちゃら遊ぶくらいの、ちょっとかっこいい男の子たちとは、まるで惹きつける力が違う。
だから、私は彼を好きになったんだ。
だけど、世界が違うってことは、私とは、ない。
彼は私に本気にならない。
なぶり殺されるだけだ。
仁王くんが前を向いた隙に、右手で首筋に触れた。
毒は消えていない。
それどころか、どんどん力を増している。

その日、私は、早退をしてしまった。
毒が全身にまわってしまっているんです、なんて理由は言わなかったけれど。

昼過ぎに家に帰ってベッドに入って、溜息をつく。
ちょうどお母さんは出かけていて、ラッキー。具合悪いって言って帰ってきちゃったなんて知れたら、ほらみなさい土曜日はあんなに遊びまわってあんたときたら受験生なのにちょっとは真面目に勉強しなさいなんちゃらかんちゃら、ってお説教がうるさいのが目に見えてる。
部屋着に着替えて、ベッドの中で携帯電話をいじって、データの中の写真を見た。
うさぎを抱っこしてる仁王くん。
この写真を、こうやって自分の部屋でしみじみと見るのは初めてだ。
やっぱり、彼は素敵。
ふうっと溜息をつく。
あーあ、好きな男の子の写真を見てひとりで溜息をつくなんて、私の柄じゃない。
そんな初心な方じゃない。
だからこそ、わかるんだ。
仁王くんとは、私の出方ひとつでもっと近くなることはできるだろう。
なんだったら、彼に抱かれることだってきっとそんなに難しくはない。
けれど、彼はまるで風のように私を通り過ぎるだけ。それを覚悟で抱かれたとしても、私は淡い期待をするだろう。彼が私をもっと好きになってくれるかもしれないって。
そんな期待はおそらくかなわなくて、それでも一度彼と触れ合った後の私は、もっと彼と近づきたくて彼が欲しくなって、焦がれて焦がれて、今まで経験したことのないような胸の痛みにさいなまれるだろう。
彼があの時、屋上で私の首に触れたりしなければ。
あの冷たい指が、だんだん温まる感覚さえ知りさえしなければ。
こんな気持ちにはならずにすんだのに。
ただの、気楽な憧れですんだのに。
好きで、そしてあと一歩で抱き合えそうで、それなのに絶対に手に入らないって、生殺し。
携帯の中の仁王くんは、涼しげなまなざしで優しくうさぎを見つめてる。
写真を眺めてたら、メール着信を知らせるメッセージ。
どきりとしてあわててメールを見ると、土曜日にメルアドを交換した男の子からだった。
仁王くんのことが頭をよぎったけれど、彼とはメルアドなんか交換してない、そういえば。私、ばかみたい。彼からだなんて、あるはずがない。
ふーっとため息をつきながら、一度カラオケに行っただけの男の子と他愛ないメールのやりとり。

『どうしてる?』
『学校、早退しちゃった』
『遊びにいかね?』
『ママにしかられる』

なんてね。普段なら気が紛れるそんなやりとりは、今私が侵されてる毒にはまったく効果がなくて、いつしかメールの返事をやめてしまった。
 
********

仮病をした翌日は、いきなりの憂鬱なお知らせ。
午後から、風紀委員の検査があります、だって。
思わず声を出してしまう。
真田くんと柳生くんの風紀委員のコンビ最悪なんだよね。
ネチネチネチネチ、うるさいの。ネクタイの結び方一つにも文句をつけてくる。
とりあえず所持必須の生徒手帳を確認しようと、上着のポケットに手をやり、ハッとする。
ない。
生徒手帳だけはいつも上着にしまってあるはずなのに。
やだ、生徒手帳不携帯なんて、チェックされたらすごくめんどくさい。

私があわててゴソゴソとカバンや机の中をさぐってると、あの空気が漂う。
確認しなくてもわかる。
仁王くんがやってきたのだ。
椅子にすわる気配。
「おはようさん。、どうしたんじゃ? 忘れ物でもしたんか?」
私は顔も上げず、生徒手帳の捜索を続けた。
「んん、今日、風紀検査があるんでしょ。生徒手帳、忘れちゃったかなーって……」
ほー、そうか。と相変わらずの気のない返事に、続く言葉。
「落したのと違うか? たとえば、屋上なんかで」
はっと顔をあげると、目で笑うあの表情。
その余韻だけを残してすぐにまた前を向き、あとは尻尾が揺れるだけ。

昼休み、お弁当を食べてから歯磨きをして、深呼吸。
私は運動部じゃないからわからないけど、試合の前ってこんな感じ?
なくしたかもしれない生徒手帳なんて、放っておけばいい。
そうすれば、私はこれ以上心乱されることはない。
なんてね。
仁王くんに毒を盛られてから、私はさんざん気持ちを振り回されたけど、もう沢山。
そう、振り回されるのはもう沢山。
なくした生徒手帳は、果たし状。
逃げるわけにはいかない。
女を甘く見ないで。

屋上で迷わず給水タンクのところに登っていくと、日陰と日なたの境目のところに仁王くんが足を投げ出して座っていた。
梯子を上って来た私を見て、笑う。
「パーティー会場へ、よォーこそ」
ひらひらと手にしているのは生徒手帳。
日差しで輝く髪の色は明るくて、やっぱり綺麗だなと思う。
一歩一歩近づいて、彼の目に私が映っていることを確認した。
「パンツ丸見えじゃ」
この前と同じひとこと。
「……」
 私は彼の投げ出した足を、ぐいと両足でまたいで、そのまま彼の上に跨った。
「お……」
 仁王くんはさすがに目を丸くして、それでもすかさず、生徒手帳を持っていない方の手を私の腰にまわした。条件反射みたいな、馴れた手つき。
「そうじゃなくて!」
私の腰から彼の手をひっぱがして、自分の両手で彼のそれを掴む。
彼の手の生徒手帳がコンクリートに落ちた。
ずるりと腰がすべった彼はそのまま仰向けになって、私は彼にマウントした状態。
私の身体の形に、日差しが切り取られたようになり、彼の上に陰を落とす。
仕掛けられるのを待ってるなんて、私の柄じゃない。
どうせ夢中になってぼろぼろになるなら、自分から仕掛ける方がいい。
「俺に、どんなことをしてくれるんじゃ?」
私に両手首を掴まれたまま、彼はにやりと笑った。
「……何をしてほしいの?」
私が言うと、彼は目の前に垂れ下がった私のネクタイを口にくわえて、ぐいと引っ張る。
「俺をめちゃくちゃにしてくれて、ええぜよ」
ネクタイを引っ張られた私は、彼の顔に近い。
「仁王くんって、そんなにおしゃべりだっけ?」
「こういう時は、『その口をきけないようにしてやる』って言うもんじゃろ」
「……言われなくてもわかってる!」
私は彼に跨って両手をつかんだまま、強引に口づけた。
獲物を捕食するように。
食べつくしてやるんだから。
絡む舌の音が、静かな屋上の空気に響いて、空に溶けていく。
私の中に彼の毒がかけめぐり、そして体中にいきわたる。痛みは痛みでなくなり、甘さに変わった。
息が苦しくなるまで続けて、唇を離す瞬間、彼の下唇を軽く噛んだ。その唇から甘い息がもれる。
彼の甘い吐息は、私の脳を溶かしそう。
もう一度覆いかぶさって、彼の唇と舌を味わった。
冷たかった彼の手首が、熱くなってくる。
彼の両手は抵抗を示さないけれど、私の身体の下で焦れたように腰をよじらせ、足が私の太股を擦った。
私の舌に反応する彼の動きが激しくなると、おしおきのように軽く唇を噛む。そして、もう一度、私のペースで舌を絡める。仁王くんの喉から聞こえるのは、かすかにうめくようなくぐもった声。
呼吸を整えるために、私は一度身体を起こした。
「……これで終わりか?」
彼は私を見上げながら言う。相変わらずのポーカーフェイス。
「そんなわけないじゃない」
 捕らえられた獲物は従順だ。手を解放しても、両手をハンズアップしたように置いたまま。
 私は彼のネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをひとつ、ふたつと外しながら首元に唇を寄せた。
 露出した鎖骨に歯を立てると、彼は軽く息を飲む。
 続いて、クシュンとかわいらしいくしゃみ。
 きまりわるそうに鼻をすする仁王くんは、うさぎよりも可愛らしかった。
 私は思わず吹き出してしまう。
「……くくくく、ごめんごめん仁王くん。寒がりだったね」
鼻の下を指でこする彼のしぐさに、私はなんだか我に返ってしまった。
笑いながら、彼のシャツのボタンを一番上まではめた。
「なんじゃ、ここまでか」
「だって、寒いでしょ?」
「……シャツのボタンを止めたくらいじゃ、寒気はおさまらん。もっと暖めてくれ」
 ふてくされたように言う。
「こういうの、慣れっこ?」
 上に跨ったまま私が言うと、彼は妙に真剣な顔。
「そんなわけないじゃろ。めちゃくちゃにされるのなんか、初めてに決まっちょる。……たまらんの、クセになりそうじゃ。で、暖めてはくれんのか?」
 ボタンは留めたものの、ネクタイの乱れた彼は確かに寒そうだ。
 ふうっと息を吐くと、もう一度彼の上に覆いかぶさってぎゅっと彼の頭を胸に抱きしめた。
 初めて触れる仁王くんの髪は、想像以上に柔らかい。
 さらっとした手触りをイメージしていたけれど、ふわっとした洋猫の毛みたい。
 触ってみてよかった。仁王くんに。
 こんな気持ちのいいもの、触らなかったら、損だ。
 胸の痛みなんて、いくらでも我慢できる。
 私、部活もろくにやってなかったくせに、恋くらい真正面から行かなくてどうするの。
 身体を起こして、落ちた生徒手帳を手にした。
「少しは暖まった? 寒い思いをさせてごめんね」
 コンクリートについた膝が痛くなってきた。
 立ち上がりながら、ふと思い出す。
「そういえば仁王くん、パーティー会場って言ってたけどどういうこと?」
 彼は自分の髪を軽く掻きまわしたた後、伸びをする。
「そいつを見てみんしゃい」
「え?」
 ジャケットに仕舞おうとした生徒手帳をもう一度取り出すと、それはよく見たら、仁王くんの生徒手帳だった。
「あれっ、これ私のじゃないじゃん」
 仁王くんの顔写真の下に、仁王雅治と名前が入って、そして生年月日。
「……12月4日……あ、今日誕生日なの?」
 そんな私の反応を確認すると、立ち上がった彼は私の手から自分の生徒手帳を取り上げた。
「俺の誕生日パーティー会場ぜよ、今、ここが」
 逆光の彼の髪は太陽に透けてきらきら光っていて。
「……仁王くんの誕生パーティーにしちゃ、地味じゃない?」
 私がスカートのほこりを払うと、彼は穏やかに笑った。
「いや、十分じゃ」
 ええもん、もろうたしな、と彼はまた笑う。
 仁王くんは、クールな表情のイメージが強かったけど、笑顔も似合うんだな。
 ふとそんなことを思う。
 昼休みが終わって、午後、風紀検査で。
 私たちの何気ない学校生活は続くけど、多分、これからは少しだけ違うはず。
 私、もっとちゃんと仁王くんを好きになろう。
 彼が私を好きになるくらいに。

 そう、私の恋は、ここから始まる。
 ……To be continued……

 というナレーションが私の心で流れた時。
 仁王くんが、片手にシュシュを弄んでいるのが目に入った。
 私の髪を束ねていたはずの淡いピンクのシュシュ、いつのまに落としたの!? と私は自分の髪に触れるけど、あれ、私のシュシュはちゃんとある。
 不思議に思いながら彼の手元を見ていると、自分のスカートのあたりが妙にスースーすることに気づいた。
「……!」
 私は両手でスカートを押さえて、彼の手元をもう一度見た。
「……ちょ……、ちょっと! それ、私のパンツ!」
 そう、彼が手にしてる淡いピンクのものは、シュシュではなく私のパンツだった。
「いつのまに……! ちょっと、返して!」
 私がスカートを抑えながら追いかけると、彼は『プリッ』なんて言いながらひょいとその手をわざとらしく高くかかげる。
「ええじゃろ、誕生日プレゼントじゃ」
「よくない! これから風紀検査なんだから!」
「ははは、真田も女子のスカートの中身までは検査せんよ」
「そういう問題じゃない!」
 私が大慌てしてると、彼は本当におかしそうに笑う。
 憎たらしい! 可愛いなんて思ったの、大間違いだった!
「返すのはええが、中身と交換ぜよ」
 そして、飄々と言うのだ。
 私は彼が差し出すパンツをひったくった。
「……ちょっと、パンツはくから、向こうむいてて!」
 笑いながら震える仁王くんの背中を睨みつけながら、慌ててパンツをはいた私は、そのまま急いで梯子を降りた。
 後から降りてくる仁王くんの声が背中から追いついた。
「引き換えのブツは、今日中に頼むぜよ。誕生日プレゼントは当日にもらわんとな」
「……わかったわかった!」
 もー、こんな場面、考えてもみなかった。
 照れたらいいの? すねたらいいの? 可愛くして見せたらいいの?
 せっかく、うまくやったと思ったのになー。
「……、パンツ脱がせて怒ったか?」
「えっ、いや、別に怒ってないけど……、いや、怒ってるよ! っていうか、そういうわけじゃないけど……」
 もう、どう言っていいかわかんない。
 私がおたおたしてるのに、彼は涼しい顔。
 屋上から校舎への扉を、彼が開けてくれた。
 外の空気から校舎の中へ戻ると、急に現実に引き戻される。
 さっき、仁王くんの上に覆いかぶさって私のペースで唇を奪ったのは夢?
 結局、私は彼にからかわれてる?
 振り返るのがこわくて、そのままトントンと階段をおりる。
「なあ、
 私の名を呼ぶ彼の声にも、私は足をとめるだけ。
「こっち、向いてくれんのか」
 あのきれいで掴みどころのない、飄々とした笑顔を思い浮かべて振り返ると、仁王くんはやけに神妙な顔。
「なに?」
「……シビれさせてくれて、ありがとうな」
 仁王くんの手がふっと私の方に伸びて、そして一瞬戸惑うように止まった。次にゆっくりかざされたその大きくてきれいな手は、ぽんと私の頭の上に置かれて、そのままそうっと髪を梳く。
 あの時、あんな遠慮なしに首筋に触れた彼とは別人みたい。
 するり、と髪を束ねたシュシュが落ちた。
 あ、とそれを拾おうとすると、階下からドスドスという重い足音。

「仁王!」

 聞き覚えのあるその声。
「ヤバい、副部長じゃ……」
 仁王くんがつぶやくと同時に姿を現したのは、風紀委員長の真田くんだった。
 私は一気に血の気が下がるのを感じる。
 よりによって、こんな場面で真田くん……!
「仁王! お前はいつも風紀検査の時に逃げてばかりだが、今日はそうはいかんぞ! しかも、このようなところで不純異性交遊とは、たるんどる!」
 不純異性交遊って!!
 仁王くんは、ククと笑いながらしゃがんで私のシュシュを拾い上げた。
「ほれ、真田」
 そして、それをポンと真田くんに放った。
「なんだ、これは!」
のパンツじゃ」
「なっ……なんだと……!」
 真田くんはシュシュを手にしたまま声を震わせ、顔をカッと赤くする。
「ちょっと、仁王くん!」
 真田くんが言葉を失っている隙に、仁王くんは私の手をつかみ、階段を駆け下りる。
「今じゃ、逃げるぜよ」
 階段の踊り場を曲がる時にちらりと振り返ると、真田くんは私のシュシュを振り上げて固まったまま『待て仁王! のパンツをどうしろというんだ!』と怒鳴っている。
 真田くん、よく見て、それパンツじゃないよ! と私が叫んだ声は届いただろうか。
 私の手を掴んだまま『さあ、これから誕生パーティ本番じゃ』とささやく仁王くんの声に、私の手が熱くなるのは、もう止められない。

(了)

2012年12月4日

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