● ラブ タンバリン  ●

何はおいても、家で母親が腕によりをかけたご馳走と手作りの菓子が豪勢に振舞われる日である。海堂家においては、バレンタインデーというのはそういう日であって、クリスマスや正月や家族の誕生日などとなんら変わりのない「ご馳走の日」なのであった。

「ああ、海堂の家は男兄弟だし、お母さんとお父さんはすごく仲がよさそうだからな」
 海堂薫が以前なにげなくそういう話をした時に、テニス部の先輩である乾が穏やかに笑いながら言っていた。俺ん家は共働きだからそこまでは盛り上がらないけどな、と苦笑いをしながら続けていたことを覚えている。
 その当時にどうして乾とバレンタインデーの話になったのかは定かではないが、つまり中学生になった今、バレンタインデーというのが「家でご馳走を食べる日」というだけではないということは海堂もとっくに知っている。
 そのことをしみじみと思い知らされたのは、去年の2月、つまり中学1年の時のバレンタインデーの日のテニス部の部室でのことだ。
 2月14日は、クラスで誰が誰にチョコをもらってなどという話で浮き足立つのは何も今に始まったことではないし、小学生のころからそういった雰囲気があったことは彼とて承知はしているが、「自分にとっては関係ない、どうでもいいこと」としか感じていなかった。
 去年の2月までは。

「おいおい、マムシー、チョコもらったかー?」

 去年の2月14日のこと。
 放課後の部室にイライラするほどに元気のいい声で入ってきたのは、同じテニス部の桃城武だった。
「あぁ? なんだよ、テメーは相変わらず騒がしいな」
 さして気にも留めずにあしらいながら着替えを続けていると、桃城は得意げに片手にさげていた紙バッグの中身を見せてきた。
「俺、結構クラスの女子とかからもらったぜー」
 紙バッグの中には、色とりどりのラッピングされたチョコレートとおぼしきものが、いくつも入っていた。中には、むき出しのブラックサンダーなどもあったが。
「ま、義理とか友チョコだけどな。で、マムシ、お前は何個もらったんだよ?」
 ニシシーと笑いながら言う桃城を、海堂はギロリとにらみつけた。
「テメーみてーなバカと違って、俺はそういうの興味ねーよ!」
「ほらほら、そういう堅ぇ事言ってっから、チョコもらえないんだぜー、マ・ム・シ!」
「うっせー!」
 つかみ合いになったところを、新井に止められたっけ。
 そういう思い出の2月14日だ。
 どうだっていい。
 しかしながら、何事であっても桃城にだけは負けることは気持ちが穏やかではいられない。などと思いつつも、この件に関しては自分にとって分が悪いということは海堂はよくわかっていた。
 桃城はあの調子で、気のいい男である。クラスで男子でも女子でも友達も多いし、よくクラスメイトたちに菓子をもらって食べている姿も見かける。一方自分は、気さくと言う雰囲気からは程遠いし、気安く話をする女友達もほとんどいない。
 そんなことを考えては、ぶんぶんと頭を振って、ぎゅっとバンダナを締めた。
「……別にいらねーしな!」
 2年生になってからの冬、この2月。
 3年生が卒業をした後、青学テニス部を率いるのは、次期部長の海堂薫なのだ。
 つまらないことに気を取られている場合じゃない。
 テニスバッグを抱えて教室を出て部室に向かおうと、教室の後ろの出入り口を出た瞬間に軽い衝撃。誰かとぶつかったことはすぐにわかった。
「……悪ぃ」
 ぶつかった瞬間おどろいて後ろに下がり、目が合ったクラスメイトはだった。
「あー、ごめんごめん、急に出てくるからびっくりした……」
 彼女はそう言いながら顔を上げて、そしてぎょっとした顔で海堂を見る。
「あれっ、海堂くん? わ、びっくりしたびっくりした」
「ああ? なんでそんなにびっくりすんだよ」
「だって、バンダナ。いつも教室ではしてないから」
「……ああ」
 確かに彼はいつもバンダナは部室で着替えをしてからしか付けないが、さっき気合を入れるためについ手にとってしまったのだった。
 今更外すのもおかしなものだから、彼は少し決まり悪そうに片手で頭を触るだけ。
「それより海堂くん、部活に行くところ悪いんだけど、これやりなおしだって」
 彼女が差し出すレポート用紙を受け取った。
「は?」
「理科の実験レポート。もう一回実験をやって提出しなおしだってさ」
「……マジかよ……」
 眉間にしわをよせて、思わずうなってしまう。
 先日の理科の授業では実験があって、その結果をおのおのポートしろという課題が出ていたのだが、海堂は実は理科の実験があまり得意ではなく少々自信がなかった事実は否めない。
「私、今日日直だったからさ、先生にことづかっちゃって。あと、先生がこれも海堂くんに渡しとけって」
 チューインガムのケースのような白いものを二つ手渡された。
「ああ?」
「抵抗器。課題は授業の時と同じだよ。この抵抗器を直列と並列につないで、それぞれの合成抵抗を求めよって。授業の時に渡した抵抗器とはまた違うスペックらしいけど、まあ多分20Ωと30Ωくらいじゃない。それでヤマはって計算しちゃえば」
「……」
 情けないことに、海堂は彼女の話の後半にはついていくことができなかった。
 黙ってその二つの抵抗器を受け取って、内心「乾先輩に相談しよう」と一瞬思うものの、すでに引退した先輩に次期部長がこんなことを相談する情けなさに、またため息が出た。
「ほんっとイヤそうだね、時間あるなら、今日それ手伝ったげようか?」
「ああ?」
 低い声でつい機嫌悪そうな声を出してしまうのだが、決して彼は怒っているわけではない。
「海堂くん、1年の頃から実験苦手だったでしょ。うちの部室、今日使ってないし、おいでよ。ちょっと待ってて」
 は急いで自分の席から荷物を取って、彼の元へ戻った。
「化学部も3年引退したのかよ」
「うん、とっくに。しかも2年は私も含め、幽霊部員ばかりだからさー」
 彼女は苦笑いをした。
 は1年の時も海堂と同じクラスだった。
 前述のとおり、彼女は化学部なのであるが、一見そういった雰囲気はなくどちらかというと華やかで賑やかで、クラスのメンバーでよくカラオケなどに出かけたりの様子も多く、化学実験などとは縁遠いタイプだ。日直の時の日誌も、ひらがなや誤字脱字が多く、海堂が一緒に日直をこなす時は彼女の誤字脱字を修正することでイライラしたものだが、どうやら彼女は理系科目の方が得意のようだった。
「電圧計と電流計の仕舞い場所くらいは私でもわかるから、大丈夫だよ」
 廊下を歩きながら振り返って言う彼女の髪は1年の頃より長くなって、ふわりとなびいた。廊下の窓から吹き込む風で一瞬乱れた髪を片手で押さえて、その時に白いうなじがのぞいた。
 は、多分まちがいなく、男女の差なくたいがいのクラスメイトが好意を持つタイプだ。人あたりがよく、愛嬌があって、それでいて同年代よりもほんの少し大人びた整った顔立ち。
 1年生の時の授業の初めての理科実験で同じ班だったのが、彼女だ。
 その時の実験の課題が、確か活性炭と酸化銅を銅に還元するとかそういったものだと、海堂は記憶している。グループごとに道具がセッティングされ、教師が課題の内容と実験方法を説明したのだが、当時さっぱり内容が頭に入ってこず、そして男子3人女子2人の5人グループの中で、「実験をひっぱっていくのは男子でしょ」的な雰囲気が漂い、しかしその時の男子3人は海堂も含め、なかなか実験のスタートに手が出なかった。その時、が「じゃ、まず活性炭と酸化銅を混ぜよっか」と言って、計量をしてそれを乳鉢に入れて、ハイと海堂に手渡した。その後、手早くアルミ箔や試験管を準備しグループメンバーに説明をして実験を進めていったのだ。その時のに対して、グループ内の男女全てから「きゅん」という音が聞こえた気がする。何しろ、実験が進まないでいて居残りになると、大変面倒だったので、その時のの頼もしさといったらない。
 それ以来、班の中の男子では、「って、いいよな。結構カワイイし楽しい奴だし、実験の時かっこよかったし。あいつ、字はヘタだけど結構成績いいみたいだよなあ、国語以外は」などと、の株が急上昇したのだが、海堂は話題には加わらなかった。感じていたことはまったく同じではあったのだが、彼はそういった事に同調してわいわいと話す性質ではなかったから。
 1年以上たって、そしてまたに実験を手伝ってもらうのか、と思うと自分の進歩のなさに少々がっくりきたが、こればかりは仕方がない。苦手なものは苦手なのだ。
 化学部の部室、といっても、準備室とつながった実験室のひとつがそれとして設定されているだけで、海堂も授業でいつも通いなれた部屋であった。
「ええと、電圧計と電流計と、コードと……」
 幽霊部員といいながらも、はてきぱきと必要物品を出してきてくれた。
「はい、これでつないで計測すればオッケーよ」
「……あー、サンキュ、悪ぃな」
 言いながらも、海堂は授業で説明を聞いたはずのその接続の仕方をさっぱり思い出せない。とりあえずポケットに仕舞った二つの抵抗器をテーブルに置いた。
「海堂くんって、テニス部の部長になるんだっけ?」
 は話しながら、抵抗器を赤いコードでつないでくれた。
 海堂は内心ほっとする。
「ああ。手塚部長の後をしっかりこなさねーとな」
「すごいよねー、あのテニス部で部長なんて。ええと、まず直列からでいい?」
「え? あ、直列、直列な、ああ」
 は二つの抵抗器を真っ直ぐにつなげて説明をしてくれた。
「テニス部って全国で優勝したじゃん、あの時校内放送で実況して、みんなで応援して、すっごい盛り上がったよー」
 話しながら彼女が電源装置のスイッチを入れると、電圧計と電流計の針が振れた。
「ほらっ、海堂くん、まず数値読んで!」
「お、おうっ! 電圧計が……6V、電流計が120mA……」
 海堂はあわててそれをルーズリーフにメモした。
「配線図もメモしといてね」
「おう、わかってる!」
 抵抗器の配置と電圧計や電流計の接続もメモした。
「……って、なんでこういうの得意なんだ? 化学部とか、さ」
 ふと、彼は尋ねた。
 去年の理科実験の時は班でわーわー盛り上がって、そんな話を聞くタイミングがなかった。
 は抵抗器をつなぎなおしながら、ちらりと海堂を見た。
「別に得意ってほどでもないけど、うち、お兄ちゃんが理系の大学行っててさ、こういうの好きだから、なんとなくわかるだけ。化学部入ったのも、運動とかキライだし、化学部だと楽そうだなーって思っただけだよ。実際、重曹つかってカルメ焼き作るくらいしか具体的な活動はしてないしさー。海堂くんの部活の感覚とはぜんぜん違うよ」
 苦笑いをしながら彼女は言った。
 そういえば教室で何人かでバリバリとカルメ焼きを食べていたことがあったが、あれはこの実験室で作られたものだったのか、と海堂は思い返した。
「そういえば去年の今頃は、3年の先輩が男子にチョコを渡したいからって、ここはずっと料理実習室みたいになってたよ。アルコールランプでチョコ湯煎したり」
 は思い出し笑いをしながら、「次は並列ねー」と言いながら電源装置のスイッチを入れる。
 バレンタイン?
 チョコ?
 思いもがけないタイミングで思いもがけない言葉をの口から聞いて、海堂はびくりとする。
「海堂くん、計測器読まなきゃ」
「あ、ああ? ……うわあっ!」
 電圧計は直列の時と同じく6Vだが、電流計の針が思い切り右に振り切れそうになっている。
「やべえ! これ、壊れてねェか!」
 自分の心の中がそのまま装置に出たようで慌ててしまい、思わずガタンと立ち上がった。
「海堂くん、落ち着いて、これが直列と並列の違いなんじゃない! 抵抗器を並列につないだほうが抵抗が小さくなるから、電流も大きくなるんだよ」
「あ、ああ、そうか」
 ハァハァと呼吸を落ち着けながら、495mAと読み取った値をメモした。
「並列の場合、合成抵抗の大きさは6V÷0.495Aでだから12Ωね」
「えっ、もう一度言ってくれ!」
 は笑いながら海堂のルーズリーフに数式を書いてくれた。
 相変わらず、女子にしては字が雑だ。
「……去年、もチョコ作ったのかよ?」
「え?」
「……さっき、言ってたじゃねーか。去年はここでチョコ作ったって」
 海堂が配列をメモしながらぼそぼそと言うと、は、ああと明るい声。
「あ、その話ね。うん、最初の頃は作りながら全部みんなで食べちゃってね、楽しかったー。なかなか上手くできないから、残った材料のチョコが一番美味しかった」
 思い出したのか、おかしそうに笑う。
「でも、さすが化学部の先輩だけあって、きちんと分量のレシピを守って火加減やなんかのコツがわかったら結構上手くできたよ」
も……作って、誰かにやったのか」
 海堂はきわめてさりげなく聞いた。さりげなかったはずだ。
 しばしの沈黙。
 あまりの長い沈黙に、思わず海堂はルーズリーフから顔を上げた。
「オイ、そんなに黙るんじゃねーよ!」
「あ、いやいや、海堂くんがそんなこと聞くの意外だったし、その……なんて答えたものかと思っちゃったものだから……」
「はあ? ……なんでだよ、別に答えたくねーんなら構わねーよ」
 どうして自分はこんな調子になってしまうのかわからない。
「そんな、別に隠すほどのことじゃないんだけどさ……隠しても、海堂くんはもしかしたら聞いてるかもしれないなーと思って……」
「……なんだよ、気になるじゃねーか、そこまで言ったんなら、言えよ!」
 再提出になった課題を手伝ってもらっている立場ながらも、ついついきつい言葉尻になってしまう。どんな調子で会話をすればいいのか、わからなかったから。
「いや、そんな期待されるほどの話じゃないよ。去年、実験室でチョコ作って……桃城くんにあげたんだよね」
「桃城だとぅ!!」
 海堂は怒鳴って立ち上がり、その勢いで実験室の丸椅子がガターンと吹っ飛んだ。
 彼女は目を丸くしてびくりとする。
「えっ、びっくりしたびっくりした、大きな声出さないでよ!
 悪ぃ……と言いながら椅子を拾い、海堂の心臓はドンドンと深い大きな鼓動を始める。
「……、お前、桃城が好きなのかよ……」
 クラスメイト同士が交わしている軽い会話のようにしようとしても、自分のドスのきいた声が実験室に響くと、どうもそんな調子にはなっていないと気づいている。
「ええ、そんな取調室みたいにしないでよ。そんな……別に好きというほどじゃないけど、去年、ちょっと桃城くんっていいなって思う出来事があって……」
 思わずクワッと彼女を見据える。
「……あいつが、何をしたんだ!」
「去年、部活やってる時間に、実験室に納品があったんだよね。業者の人が台車で納品に来て、ちょうどその時先生は職員室で手が離せなかったから、部員たちで運んどいてとか言われて。すっごい重い物品だったから、私たちと業者の人で四苦八苦してたら、掃除当番で通りがかった桃城くんが、軽々と運ぶの手伝ってくれてさー。ちょっとかっこよかったんだよねー」
「……そんだけかよ!」
「えー、別にいいじゃん! それがたまたま1月のことだったから、チョコ作って、私、別にあげるあてもなかったし、桃城くんにあげよーって思って……」
「で、どうだったんだ!」
「ええ? どうって?」
「だ……だから、お返し、とか返事とか……」
 海堂は去年部室で桃城が、自慢げに紙袋にはいったいくつものチョコを披露したことを思い出した。あの中に、のチョコがあったのか。
「ええっ、なんでそんなに食いつくのよ、海堂くん! お返しって……確か、ホワイトデーの昼休みに桃城くんがうちのクラスにきて、お徳用源氏パイの袋を差し出して『好きなだけ食っていいぜ』っていうから、二つほどもらったかな」
「そんだけかよ!」
「それ以上、どうしろっていうの!」
「つ、つきあうとか……」
「だって、私、別に好きですとか言ったわけじゃないし、チョコあげただけだし! ……だいたい、桃城くん、彼女いるでしょ? テニスバッグ持った、ボブの他校の子と歩いてるの見かけたことあるよ」
 桃城に彼女!? と思いながら、ああ、と海堂は思い当たった。
「……そいつ、別に彼女じゃねーよ。対戦したことある学校の部長さんの妹だ。テニス部の」
「はあ……」
 するすると電流が流れていたはずの実験室の雰囲気が妙な感じになってしまった。
「……あのさー、私、その、去年ちょっといいなって思ってチョコあげたけど、そんな、桃城くんにはいい感じの子がいるのわかってるし、私、なんとも思われてないし、もうそれ以上追及しないでよね」
 海堂は自分の心のうちが、妙に粟立っていることを否めない。
 どうしてか、イライラする。
「お徳用源氏パイなんだからさ、ほら、私ってつまり、桃城くんにとって、十人力っていうか、あれ、違うな。十人並み? ええと……」
「……十把一絡げって言いたいのか」
「あっ、それそれ! 十っていう字が入ってた気がしたんだよね!」
「別に好きじゃねーんだったら、十把一絡げでもいいだろ」
 言いながらも、海堂は自分がイライラしている理由が明確にわかった。
 桃城は、あの紙袋の中のチョコに、こののチョコを十把一絡げにしてたのか。
「……確かにそうだよね」
 は珍しく眉間にしわをよせて、電流計やなんかを片付け始めた。
「大体さー、バレンタインってのがおかしいよね。男女平等とか言ってさ、年に1回、ノリとは言え、女子から男子に告白する日みたいに設定されちゃって。ホワイトデーは単にその義務的なお返しにすぎないじゃん。もっと、男子から女子に告白する日みたいなのがあった方が平等じゃない? 例えば、バレンタインの半年後の8月くらいにさ」
「その頃だと、お盆と重なるじゃねーか。お盆といや、日本人はいろいろ忙しいだろうが」
「……そっか。いや、別に半年後ってのは例えであって。9月とか10月でもいいんだよ」
「くだらねえ」
 海堂は思わず言い捨てた。
「そんな日、必要ねーだろ。男は思い立ったら、いつでも言やいいんだ。365日、いつでもバレンタインだろ」
 イライラした気持ちで言い捨てると、が片付けの手を止めて目を丸くして彼を見ている。
「……ンだよ」
「いや、海堂くん、かっこいいこと言うなーって思って! 男は毎日バレンタイン、なんかすごくない!」
 言われてみて、海堂ははっとする。
「……お盆よりもマシだって話だろ!」
「いやいや、いいよー、365日バレンタイン、なんかいい話聞いちゃった……!」
 は笑顔ではしゃいで話す。
 くだらないことでニコニコと笑うの姿は、去年からずっと見ていた。
 そういう一つ一つが、なんでもない出来事を楽しくする。
 彼女の周りはそんな風にふわりと暖かくなり、そんな彼女を好きだった。
「コラ! その話は忘れろ! 絶対ぇ、他ですんじゃねーぞ!」
 なのに、自分は結局いつものように低い声で怒鳴ることしかできないのだ。
 顔が妙に熱いことだけは自覚していた。
「えー、わかったわかった」
 は、実験時にしばっていた髪をはらりとほどく。
 やや色素の薄い髪が肩に落ちた。
「じゃあさ、私が桃城くんにチョコあげてお返しが源氏パイだったとかさ、そういうのももう蒸し返さないでよね、絶対!」
「……わかってる!」
 イライラした声で答えて、器具を片付けるを横目で見ながらも、「……最初にやった直列の場合の合成抵抗の式と答えを教えてくんねーか」と尋ねなければならない自分が、これまた少々情けなかった。



 翌日の教室で、そんな実験結果をレポート用紙に清書したものを、机で見直していた海堂は、しかしそれで今度こそパスできるのかどうか自信がない。
 レポートの式を検算していると、後ろの方の席から「が……」という会話が聞こえてきて、ふと集中力が途切れた。
 後方の席に集っている男子数人が話していたのだ。
「今年、誰かからチョコもらえそうか?」
「いやー、女子たちに根回ししてっけど、あいつら結構女子だけで食っちゃうだろ」
「だよなあ? 去年、化学部ではもチョコ作ってたみてーだけど、あれ結局誰がもらったんだろうなあ」
「あいつ、男いねーのかな? 人気あるだろ?」
「でも、誰かとつきあってるとか聞かねーよな。ぜってー彼とかいそうだけど」
「今年は誰かにチョコあげんのかな」
「でもさー、あいつからチョコもらえなくても、あいつが誰にもチョコやらなかったらそれでいくね?」
「まあなー、ああいうちょっとカワイイのが、別に誰ともつきあってもなかったら、それでいいよなー、なんとなくー」
 笑いながら話す男連中の話を、聞くともなく耳にしながら、海堂は昨日実験室で覚えたような苛立ちがよみがえった。
 これは、何だろう。
 わかっている。
 誰に、というのではない、自分に対してだ。
 彼らとまったく同じように感じている自分にだ。
 1年前も、同じように感じていた自分にだ。
 バレンタインなんて、くだらない。
 からのチョコなど、必要ない。
 ただし、それはが誰のものにもならずにいれば、の話だ。
 後ろの席のくだらない男たちのように。
 誰のものでもない彼女を見ていられたら、それでいい。
 そんなことを自分は考えていたと、初めて気づいた。
 2年生の冬になって、ようやく。
「あっ、海堂くん、レポートできた? 計算式、直列と並列、間違えてないよね?」
 突然、背中をばしんとたたきながら言うの声に思わず飛び上がる。
「わ、びっくりした! そんなに驚かないで、ごめんごめん!」
 海堂のリアクションに、は目を丸くする。
「……直列と並列、ただでさえ自信ないのに、そんなこと言われたらビビるだろうが!」
「うわ、ごめん! 大丈夫、抵抗の数値の大きいほうが直列で、小さい方が並列だよ」
「けど、針がグワーンとなった方は、並列だっただろ!」
「だから、その場合は抵抗が小さいんだってば!」
 思わず頭を覆ってから、海堂はつぶやいた。
「悪ぃ、昼休み、もう一度実験つきあってくんねーか……」
「いいけど、もいっかい図に描いて説明しようか?」
 心配そうに言うに、海堂は「いい、自分で考える」と言ってレポート用紙を机に仕舞った。


「だからさ、つまりは直列にした方が並列よりも合成抵抗が大きくなるんだよ」
 昼休み、実験室であわてて電流計などを出そうとするを海堂は静止した。
「いや、午前中に改めて考えて、もう大体わかったんだ、それは」
「あ、そうなの。だったら、もう実験しなくてもいい?」
「……まあな」
 そう言いながらも、実験室を出て行こうとしない海堂に何かを感じたのか、もそのまま実験室のテーブルの傍らに立って海堂を見ていた。
「どうしたの?」
「……お前、もしも……もしも、桃城がお徳用の源氏パイのお返しじゃなくて、お前とつきあいたいって返事してきてたらどうした?」
 は目を丸くする。
「ちょっとー、その話はもうナシって昨日言ったじゃん」
「どうすんだよ」
 抗議を意に介すことなく問う海堂に、はしばらく沈黙。
「……そんなの、わかんないよ」
「つきあうのかよ」
「だから、わかんないって! だって、今は1年前の気持ちとは違うし、その時だって好きかどうかだってよくわかんなかったし!」
 怒ったように言うに、海堂はふうとため息をついた。
「……ま、そりゃそうだよな、悪ぃ」
「海堂くん、どうしたのよ」
「桃城は、俺はまあ、あいつとは気が合うとは言いがたいが、いい奴だからな、そりゃどうなるかわからねーだろうよ」
「だから、桃城くんのことはもういいじゃんよー」
 は決まり悪そうに言う。
「そうだ、あいつのことはどうでもいいんだよ」
 海堂はキッと強い眼で彼女を見た。
「お前が去年あいつにチョコを贈って、その返答次第ではどうなってたかわからない。もしかして、もしかして万が一、つきあうことになってたかもしれない。でもそれはわからない」
「だから、もーいいってー!」
「だから!」
 海堂の声が実験室に響いた。
「俺とだって、どうなるかわからないだろ」
「は?」
 今まで見た中で、一番大きく目を見開いた彼女だったと思う。
 が、それに見とれている間はない。
 早く続きを言わないと、勢いがしおれてしまう。
「お前がバレンタインに誰にチョコをやるのか、お前が誰かから告白されるのか、それは俺は知ったこっちゃない。けど、まず……俺にしとけ」
 彼女は目を丸くしたまま、言葉もない。
 そりゃそうだろう。
 海堂は深呼吸をした。
「だから、まず、俺を好きになるかどうか考えてみろって、言ってんだ」
 言いたいことはこんな風じゃないのに。
「いや、待て、ちょっと待て……」
 海堂はもう一度大きく深呼吸した。
「……言っとくが、何も、昨日実験を手伝ってもらったからってんじゃねーぞ。そもそも……1年の時の酸化銅の実験の時から……好きだとは思ってたんだ」
 言えば言うほど、怒った口調になるのはどうにかならないか。
 我ながら思うけれど、仕方がない。
「誰かに先を越されるのだけは、絶対に我慢ならねぇ」
 誰のものでもない彼女を見て満足するのは、もう卒業だ。
「……私、そんなにモテないよ。源氏パイだし」
 それは、たまたま周りが腰抜けばかりだからだ、と心でつぶやきながら、苦笑いする彼女を睨みつけた。
「びっくりした、まだバレンタインは来週なのに」
「男は毎日バレンタインだって言っただろうが」
「それは忘れろって言ってたじゃん」
 くく、と笑う彼女をまた睨みつける。
 はじっと海堂を見た。
 その視線から、思わず目をそらしそうになってぐっとこらえる。
 俺を見るがいい。
 頭の先からつま先まで、俺を見ろ。
 海堂は思った。
「……俺は理科の実験や数学は少々苦手だが、少なくとも国語はよりはよくできる。そして、まずまちがいなく、桃城よりはいい男だ」
 思いつく限りの自分のアピールポイントを言ってみて、そしてもう一度の視線を受け止めた。が、こんなにじっと真摯に人のことを見つめるのを知らなかった。
 きっと、彼女について、知らないことは沢山あるだろう。
 沈黙の中、彼女の視線が熱く、そして自分の顔も血が上っていることを否めない。
 言うだけ言って、あとをどうすればいいのか、さっぱり考えていなかった。
 その時、予鈴がなる。
 水面に石が落ちたようだった。
「……。もし、お前が俺を好きになれそうだったら、来週のバレンタイン、俺にチョコをくれ」
「えっ、チョコ? 海堂くんが、チョコ?」
 なんと期待できなさそうなリアクションだろうか、と海堂はため息をついて机の上のルーズリーフをつかんだ。
「返事はその時でいい」
 海堂はぶっきらぼうに実験室を飛び出して、その後教室ではほとんどと視線を合わせなかった。


 放課後、部室では当然ながら桃城武と顔を合わせる。
 毎日のことだ。
「よぉー、マムシィ! 来週はバレンタインだよなー。今年はチョコはもらえそうか? 次期部長さんよぉ」
 言う者によってはまさに殴り合いのケンカになりかねないようなことも、この男が言うとそれほどではない、というのは共に過ごす時を重ねたからだろうか。
「うっせーな、バーカ。お前はどうなんだよ」
「俺か? 俺は人気者の桃ちゃんだからねー、今年も沢山もらえると思うぜー」
「……そりゃよかったな。で、その中に、本命チョコとやらはあんのか」
 桃城は意外そうに海堂を見る。
 彼がここまで話題につきあうとは思ってもみなかったからだろう。
「はあ、本命チョコ? いやー、そういうのはどうだろなー。俺はそういうキャラじゃないからなー。まあ義理チョコ奉行っていうか……」
「……去年、ウチのクラスの奴が手作りチョコ渡したって言ってたぜ」
 なんでもないように言うと、桃城はハッとしたように額をたたいて笑った。
「そうそう、だろ! 理科室で荷物運んだお礼にってさー。あいつ、俺のクラスでも人気だったし、俺めちゃくちゃ自慢しまくったぜー。まあ、今年はもうもらえねーだろうけどなー」
 嬉しそうに笑って話す桃城を見て、ため息をつきながら海堂はバンダナを締めた。
 もしもが、好きだという気持ちを添えてチョコを渡していたら、この気のいい楽しい男はどうしていただろう。
 人は、その時のきっかけによってどうにでもなるものだ。
 だったら、その運命を自分の力でつかむまで。
 思わず、くくっと笑う。
「バカだな、もらえるわけねーだろ」
「なっ、うっせーな、バカマムシ! お前に言われたくねーよ!」
 そんな調子で終えた金曜日の後は、学校はそのまま祝日も込みで三連休に入る。
 バレンタインデーは翌週だ。
 連休の最終日、海堂は近所の公園でランニングの合間に休憩をしながら天をあおいだ。
 週があけてから、バレンタインデーまで数日ある。
 なんと長いことか。
 考えたこともなかったが、バレンタインデーに告白をして、ホワイトデーに返事を待つ女子というのは、こんな気持ちで一ヶ月を過ごすのか。
 そんなイベントごとの日にこだわるなんて、なれないことをするものじゃない。
 去年のは、どんな気持ちで1ヶ月すごして、そして源氏パイ(お徳用)を受け取ったのだろうか。
「いやいやいや、くそっ、桃城とか源氏パイのことはどうでもいいんだ!」
 ぶんぶんと頭を振って、ドリンクを一口飲もうと動かした視線に、ふと記憶にある温度のものが入ってきた。
「あー、いたいたいた! 海堂くん!」
 が走ってきた。
 飲みかけのドリンクを思わずむせてしまう。
 げほげほと咳をする海堂の前で、が、大丈夫? 大丈夫? とうろたえている。
「げほげほ、だ、大丈夫、げほげほ、だが、お前、どうしたんだよ!」
「どうしたって! この公園のあたりでよくトレーニングしてるって、前に言ってたじゃん! あ、ほら、これ渡そうと思って」
 紙袋をがさっと差し出した。
「ええとね、チョコレートじゃなくて正確にはチョコクッキーなんだけど。だって、ちゃんと作れるかどうかわからなかったから早々に取り組まないといけないと思って、でも早めに出来上がったらそれはそれで、いつ渡せるかわからないからちょっと日持ちのするものがいいかなーって思って。あ、日持ちがするといっても、保存料とかは入ってないから、早めに食べてね、お腹壊すことはないと思うけど」
 まくしたてるを片手で制止する。
「待て、ちょっと待て。まだ、ぜんぜん14日じゃないんだが……」
「毎日がバレンタインって言ってたのは海堂くんじゃん。なんか、こう……待てないというか、待たせたくないというか……気が変わってたらどうしようとか思って……」
 は睫毛をふせて困ったようにうつむいた。
「いや、その……これをくれるってことは……ってことでいいのかよ」
「去年は桃城くんにあげたくせに、って思ってる?」
「思ってねーよ!!」
 思わず怒鳴ると、彼女はまさにお日様のように笑った。
「……桃城くんにもそうだけどさ、私、今まで、ちゃんと誰かを好きって心で向き合ったことがなかった。なーんかいいよね、とか、楽しい、とか。だって、それで十分楽しいし、それ以上なにか言ってみて、残念な思いしたくないじゃん」
 そう言ってから、彼女は深呼吸をする。
 植物が水を吸い込むように。
「……けど、金曜に実験室で海堂くんをじっと見てて、もし、他の女の子が海堂くんにバレンタインにチョコをあげたりして、それで海堂くんがその子のことを好きになっちゃったりしたら、絶対いやだなあって思ったんだよね」
 海堂はカァと顔が熱くなるのを感じた。
「……俺はそんなにモテねーよ」
 言ってから、金曜の会話を思い出して苦笑いをした。
 チョコクッキーの入った紙袋を、彼女の手の上からぎゅっと両手でつつんだ。
「……せっかく届けてくれて何だが……14日は14日で、改めてもらえるとありがたいんだが……」
 海堂が照れくさそうに言うと、は意外そうに彼の顔を覗き込んだ。
「え? あ、いいけど、海堂くんそんなに甘いもの好きだった?」
「……彼女からのバレンタインチョコ、自慢したいだろうが。……部室とかで」
 言ってみると、思ったより嬉しそうなのリアクション。
 OBの先輩にも頼んで実験室フル回転するね、と満開の笑顔。
 実験室かよ、と言いながらも紙袋越しの手の柔らかさを確かめて、離せない。
 柄にもなく、頭の上で祝福の鐘が鳴っているような気がした。

2013.2.11 「ラブ タンバリン」
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