● ラブ&ピース!  ●

だいたい男子ってバカでさ。
 ほんと、いつも大笑いさせてくれる。

「ええ〜? 寮の救急箱にコンドームゥ?」
「何か、おかしいだーね? 去年から俺が寮の衛生委員なんだけど、ノムタクが『いかなる突発的な状況にでも対応できるように救急箱を設置しているわけだから、コンドームもラインナップに入れるべきだよ』って提案するから、なるほどなって思って入れておくようにしたんだーね。そしたらこの前、それを観月が見つけて、『なんですか、これは!!』と説教しだして、参っただーね」
 同じ班の柳沢は、よく男子寮でのバカみたいな話をしてくれるんだけど、今日の話も私は腹をかかえて笑った。
「確かに衛生用品には違いないけど、寮の救急箱にコンドームはないわー。ノムタクって2組の野村くんだよね? あの子、そんな事言うんだ〜。あ、でも結構言いそう!」
 私は我慢できなくて、足をばたばたさせて笑う。
「そんなに笑うことないだーね。セーフティーそしてラブ&ピースのために、重要な一品だーね。愛と平和!」
 柳沢は気取って唇をとがらせて、両手の親指と人差し指でハートマークを作って胸のあたりに掲げてみせる。そんな表情と仕草がおかしくて、もう私はすっかりゲラスイッチが入ってしまった。
 あー、ほんと、男子はバカだ。
「で、そのラブ&ピースのための一品は、救急箱に設置してから順調に使用されてるの?」
 笑いすぎてにじんだ涙をぬぐいながら、私は尋ねてみた。
 すると、柳沢はまた唇をとがらせる。
「衛生委員として、補充の必要があるかどうか定期的にチェックしてるけど、購入してからまったく減る気配はないだーね。残はきっちり12個。説明書だけは、頻繁に開かれてる痕跡はあるけど」
 私はまた笑い出す。
「俺たち、こんなに万全で準備してるっていうのに、愛と平和のチャンスはなかなかやってこないだーね」
「っていうか、そんなの寮の救急箱に整備しないで、個人で用意しとけばいいじゃないの」
 私が正鵠を射抜く一言を言ってやると、柳沢はきっと私を睨みつける。
はわかってないだーね。来るか来ないかわからない愛と平和のために自分でしっかり用意して、その備蓄品がまったく使われないままでいたら非常に空しいだーね。寮の備品と思えば、空しさも人数割りできるだーね」
 なるほど、それが本音か。
 また、大笑い。
 柳沢はこういう子。
 
 彼は2年生だった去年と、そして今年が同じクラスで、そもそも人なつこいしゃべりやすい奴だから、結構こんなバカ話をする面白い友達。
 多分、柳沢と同じクラスになった子で、柳沢と笑って話したことのない子なんていないと思う。男の子でも女の子でも。
 とにかく、それくらい人当たりのいい、面白い奴。そんな風だから、彼女くらいいてもおかしくないとは思うけど、テニス部の補強組で忙しいからか、こういう『超安全牌』な性格が災いしてるのか、彼にはなかなか愛と平和はやってこないらしい。
 まあ、そういう私も、普段バカ話をして大笑いする相手は柳沢みたいな子だけど、つきあう相手となるとちょっと違う。
 やっぱり、男の子っぽいスマートな子がいい。結局、女子ってそんな風だから、柳沢にはなかなか愛と平和が訪れないのかもしれない。


「よう、
 昼休みに購買に行くと、私の名を呼ぶ声。
 振り返るとそこにはパックの牛乳を手にした、赤澤の日焼けした顔。
「ああ、赤澤」
 4組の彼は、柳沢と同じテニス部で部長だ。男子寮のコンドーム話がのど元まで出かかったけど、そういえば赤澤は柳沢たち補強組とちがって自宅からの通学だし、柳沢の『空しさ頭割り』の頭数には入ってないんだよね。っていうか、彼はその頭数に入ってたとしても、空しさは割り勘しなさそうだけど。
「……最近、桐生とは会ってるか?」
 彼からその名が出ると、さっきまでのバカ話を思い出してぱんぱんに膨らんでた私の笑い袋がシュとしぼんだ。
「あー、まあぼちぼちかな」
 そう言うと、赤澤は眉間にきゅっとしわをよせて困った顔。
 ああ、そんな顔をしないで。
 ちなみに、桐生っていうのは、私の彼の名前。赤澤と同じ4組。
「……そうか。よかったら、今度の試合でも一緒に応援に来たらどうだ?」
 彼が精一杯気を遣ってるのを感じて、私はあわててしまう。
「え? いいよいいよ。なんていうかさ、別に気にしないでよ」
 こういった会話で察しがつくと思うけど、まあ、私と桐生くんは去年からつき合い出したけど、3年生になってからは上手くいってないのだ。
 そもそも彼とつき合い出したのは、去年も私と同じクラスだった柳沢を通して、赤澤の友達の彼がコンタクトを取ってきてっていうなれそめだった。
 で、彼がこんなに私たちのことを気にしてくれる理由も、実は私はわかってる。
 つき合い始めのなれそめも赤澤に関係しているならば、私と桐生くんが上手くいかなくなった理由も赤澤に関係しているのだ。
 というのは、桐生くんは赤澤とダイビング友達なんだけど、春先に赤澤が彼を伊豆に誘って、その時に出会ったっていう女の子と彼がどうのこうのっていうことになって、それがきっかけだからね。私たちが上手く行かなくなったの。
「別に気遣ってるとかそんなんじゃねえよ。皆でわーっと遊びに行ったら、盛り上がって楽しいんじゃないかってだけだ」
 めっちゃくちゃ気遣ってるじゃんよ。
 私は心で苦笑い。
「うん、また今度ね。あ、パン売り切れるといけないから、じゃあ!」
 私は手を振ってパン売り場に向かった。
 そして、パンを買って向かった先の校庭の中庭にいるのが、くだんの桐生くんなのである。
 私は深呼吸をした。



 実にシンプルな話。
 この日、私と桐生くんはずっと先延ばしになっていた別れ話をするに至ったのだ。彼も、赤澤や柳沢たちの手前、なかなか言い出しにくかったのだと思う。でも、こんなこといつまでも続けてたって、ばかばかしいだけだから。
 これでやっと赤澤も、中途半端に修復を促そうと気遣う日々から解放されるだろう。
 放課後、私は校舎を出てようやく一つの儀式を終えたことにほっとする。
 そして、次は第二の儀式だ。
 終った恋に涙すること。
 女子は、自分に酔うのが好きだからね。
 そんな風に自嘲気味に考えながら歩いていたら、思いがけずその儀式が早々に始まってしまったことに慌てる。
 家に帰ってからゆっくり泣こうと思ってたのに、もう涙が出てきてしまった。
 これは困った。私、学校で泣いたりする柄じゃない。
 校門に向かおうとしていたけれど、引き返して、中庭の木の裏あたりで立ち止まった。
 一度涙が出ると、なかなかおさまらないものだから、仕方がない。
 くしくも、今日別れ話をしたのと同じ場所で、私は人に見られぬよううつむいて涙を流した。
 しかし、世の中は気が利かないもので。
「おうっ、! また明日だーね!」
 ちょうどそのあたりは教室からテニス部の部室への近道になっていて、柳沢が走り抜けて声をかけてくる。うつむいたまま知らんぷりしてると、彼の軽い足音が止まった。
、無視すんなって。挨拶してるだーね!」
 なんと奴はわざわざ引き返して来るのだ。
 しかたなしに、ちょっと顔を上げて手を振ると、目が合った。
 柳沢は『ヤベ』という顔をしてる。私、めっちゃ泣き顔だったんだろうな。しかも、相当機嫌悪そうな。
 そのままそそくさと行っちゃえばいいのに、そうしないのが柳沢だ。気まずそうにしながらも、何かを言おうとする。
「あー、何だ、泣くんだったら、俺の胸でも貸してやるだーね」
 唇をとがらせて言うのだ。
 あーもう。
 上手くないよ、柳沢!
 多分、私に『何バカなこと言ってんのよー!』ってつっこませて終らせようとしてるんだろう。
 ほんと、男子はバカなんだから。
 私はキッと顔を上げて柳沢のネクタイを引っ張って彼を引き寄せると、ワイシャツの胸元に思いっきり顔をくっつけてやった。
「およっ!」
 彼の間抜けな声を聞きながら、彼のシャツで涙と鼻水をぬぐってやる。
「遠慮なく借りたから!」
 そう言って顔を上げると。
 柳沢はまるで悪者に銃をつきつけられてホールドアップでもするかのように両手を上げて、困り顔。
 私は吹き出してしまう。
「じゃあね、バイバイ!」
 笑って手を振った。
 恋の終わりの第二の儀式は、柳沢のホールドアップで、唐突な終わりを迎えたらしい。
 その日、私は家に帰って泣くことはなかった。
 どちらかというと、あの柳沢の間抜けなホールドアップを思い出してクククと笑ってた。
 柳沢、あんなリアクションじゃ、愛と平和はやってこないよね。

*********

 翌日、学校で柳沢と顔を合わせても、彼は昨日のことに触れはしなかった。
 それは予想はついてた。柳沢はすごくおしゃべりだけど、聞きたがりじゃない。自分のことはすごくいろいろとおもしろおかしく話すけど、意外に人のことを根掘り葉掘り聞いてきたりはしないのだ。それは、興味がないとかじゃなくて、なんていうの、結構気づかいする方なんだよね、彼。
 多分そういうとこが、彼がいろんな人から好かれる要因のひとつなんだと思う。
 恋が終った翌日というのは、ちょっとやけくそな気分で、体育の授業があることをすっかり忘れていた。いや、覚えてても変わりはないんだけど、私はあまり体育が好きじゃないから、『あー、体育かー』っていう落胆感が突然でショックでかいというだけ。しかも、特に嫌いな球技。
 たらたらグラウンドに行くと、ほとんどの生徒は揃ってる。
 今日は男女ともにサッカーで、4組との合同だ。
 先生が笛を吹いて、『当番はボールやストップウォッチを用意するように!』とか叫んでる。って、そういえば私、当番じゃん!
 ヤベ! と思いダッシュしようとすると、柳沢が私の背中をポンとたたいた。
「お前、今日はなんだかボケーッとしてるから、当番は俺が代わるだーね」
 そう言うと、小走りで倉庫に向かう。
 一緒に走ってるのは、隣のクラスの当番……桐生くんだった。
 私はしばらく、二人の後ろ姿を眺めてた。


 放課後、テニスバッグを背負って教室を飛び出した柳沢を追って廊下に出た。
「おっ、、また明日な」
 いつものような軽快な挨拶。
「ね、柳沢。今日、どうして体育の当番代わってくれたの?」
 私が尋ねると、彼は一瞬困った顔。
「……言っただろ、お前がボケーッとしてただからだーね」
「私がボケーッとしてるのなんていつものことじゃん」
「まあ、そう言われればはいつもボケーッとしてるだーね」
 私が睨みつけると、彼は悪い悪いと片手を前に出す。
「4組の当番が桐生くんだったから?」
 そう言うと、やっぱり柳沢は困ったように唇をとがらせる。
「別に。特に意味はないだーね」
「ふーん、そっか。じゃあね」
 私は足を止めて手を振った。
 そして、同じく大きく手を振って廊下を駆け抜ける柳沢の後ろ姿を眺めた。
 今日のグラウンドで見た彼の背中がやけに広かったのは、やっぱり気のせいじゃなかったみたいだ。
 そして、昨日顔を押し付けた彼の胸が、思ったよりしっかりと厚くて男らしかったのも、多分気のせいじゃない。
 柳沢は察しのいい子だ。
 私があんなところで泣いてるとしたら、その理由は簡単に想像がついたのだろう。聞かないし、言わせないけど、ちゃんとわかってるんだ。

********

 それからも柳沢はバカ話で私を笑わせてばかりで、かわらない毎日。
 でも、どちらかというと、私の方が変わってしまった。
 教室で、柳沢を目で追うことが多くなった。
 柳沢とは去年も同じクラスだったのに、あんなに男らしい背中をしてるっていうことにずっと気づかなかったことが不思議で、もっと何かあるのかなってつい見てしまう。
 見てると、とても困ったことになってきた。
 柳沢はああいう子だから、当然いろんな人とおしゃべりするわけだけど、彼がクラスの女の子と話しをしてたりすると、私はひどく気持ちが乱れるのだ。
 柳沢がいろんな女の子と笑い合って話すのなんて、もうずっと当たり前の光景なのに。
 そして、今まですごく心地よかったはずの柳沢の距離感が気に入らなくなってきた。
 バカな話をして笑い合ってふざけて、そういうの最高に面白かったはずだし、そういうことをさらりと気を遣わせずに楽しませてくれる彼の雰囲気が好きだったはずなのに。
 どうして、誰にでもするのと同じくらいの優しさでしか、触れそうで触れない安全な距離感でしか、私に接してくれないんだろう。
 そんな風に思ってしまう。
 これは困ったなーって、鼻歌をうたいながら校舎を出ようとしていたら、
「ラブ・ピース&ロックンロール!」
 と大声が。
 ぎょっとして振り返ると、赤澤。
「なによ、突然」
 柳沢の『愛と平和とコンドーム』を思い出して、なんだかあわててしまう。
「なにって、が今フガフガくちずさんでたのジョン・レノンの『イマジン』だろ。ラブ&ピース!」
「あ、ああ、そうだったかも」
 やだ、私、無意識に『愛と平和と柳沢』のことでも考えてたんだろうか。
 大きくため息をついた。
「……、まあだいたいはもう知ってるけど、大丈夫か?」
 私はどきりとする。
 大丈夫じゃない。
 毎日教室で柳沢を目で追って、彼が女の子と話す度にはらはらするのは、非常に気疲れする。
 なんて思ってると、
「けど、まあ桐生とのことは、はっきり決着をつけてよかったと思うぞ、俺は。のことを、いいなっていう男は他にも結構いるし。なにかあればすぐに俺に言ってこい」
 という赤澤の言葉ではっと顔を上げる。
 ああ、桐生くんのことか!
「えっ、あ、ああ、うん。そうだよね、ほんともう、大丈夫だから!」
 私はあわててそう言って、なんだか照れ隠しにまたイマジンを鼻歌で唄う。すると、
「ラブ&ピース!」
 またしても背後から声が。
「やっぱり愛と平和は重要だーね!」
 今度は柳沢だった。愛と平和の伝道師。
 突然のことに、私は顔が熱くなりそうで戸惑ってしまう。
「二人とも、部活は?」
 うわずった声で私が言うと、赤澤がくいっと外を指差した。じっとり蒸し暑い今日は、雨だ。
「雨でもテニス部、室内で映像ソフト使ったり、あといつもあれやってるじゃん。『聖ルドルフ第一体操』」
 柳沢が芝居がかったそぶりで肩をすくめた。こいつは、またこういう大げさなのが似合うのだ。
「今日は機材の調子が悪いらしくて、中止。オフになっただーね。明日はもう週末だし、久しぶりにのんびりできるだーね」
 にっと嬉しそうに笑う。
「ああそうだ、赤澤、、飯食ってかねえ? 今日は寮の調理師さんが休みで、飯ないんだわ」
「おっ、たまにはいいな。、どうする?」
「うん、行く行く!」
 そういえば、去年は赤澤と柳沢と桐生くんとで時々ご飯食べたりお茶したりしてたなあ。結構楽しかったんだ。
 私たちはめいめいに傘をさして校門を飛び出た。
 私たちでよく行った店があって、今回もそこに行くんだって思ってたら、『この前、淳が旨いって言ってた』って柳沢がお好み焼きの店をチョイス。
 ああ、もしかして気をつかってんのかな。
 この二人、ほんとすごく気をつかうけど、気をつかってるように見せないように必死だったりする。
 いい奴なんだよね。
 お好み焼きはおいしくて、三人で話は盛り上がって、楽しい時間はあっという間だった。
「おっ、もうこんな時間か。俺、ちょっと買い物があるし、そろそろ出ようぜ」
 赤澤が水を一口飲んで立ち上がった。
「やべー、雨もぜんぜんやまないだーね」
 外をのぞきながら柳沢が言った。
 彼の言葉どおり、店を出ると来た時よりも本降りの雨が容赦なくアスファルトを打ち付ける。本格的な雨の匂いだ。
「じゃあ、今日は楽しかったな。また、来週な!」
 雨の中でも熱い男・赤澤は大声を出して駆けて行った。
 私の家は、その店からだとルドルフの男子寮と方向が同じだから、柳沢と一緒に歩き出す。
「そういえば、外で一緒にご飯食べるとか久しぶりだよね。皆、三年になったら部活忙しいし」
「まあ、そうだーね。忙しくなくなったら、きっとそれはそれで物足りないものだーね」
 そういえば、柳沢はテニス部の補強組としてトレーニングは忙しいし、それだけじゃなくて意外に学校の成績もいいから結構勉強してるはず。ぜんぜん、忙しそうにしないんだよね、こいつ。
 私は隣を歩く柳沢を見上げた。
 そんなに長身でもないのに、やっぱり大きく見えるな。
 不思議。
 そして、隣を歩いてて、いつも笑ってくれて、手を伸ばせば触れるはずなんだけど、なんだか遠いんだよね。
 不思議。
 もうちょっと近づけないのかなあ。
 
 なんて呑気に考えながら歩いてたら、雨は大変なことになってきた。
 一発雷が鳴ったと思ったら、ものすごい豪雨に。
 最初は走ってみたんだけど、私も柳沢もすぐに諦めて、さしていてもほとんど用をなさない傘を手に、ルドルフ寮の玄関にかけこんだ。
「こりゃ参っただーね。、ちょっと寮で雨宿りしていくだーね」
 ずぶぬれになった柳沢は、ようやく寮にたどりついて安堵のため息とともに言った。
「うん、そうする。ちょっと家に電話するわ」
 お母さんに電話して、雨宿りしてから帰ると告げ、私も一息ついた。
 ルドルフ寮は別に女人禁制というわけではなく、受付で学年を記載して学生証を見せれば誰でも入れるのだ。
 私は鞄をさぐった。うん、あるある、今日の体育で使ったジャージ。
「ねえ、ちょっとどっか着替えるとこある? ずぶぬれだからジャージに着替えるわ」
「ああ、奥に個室のシャワー室があるから、そこを使うといいだーね。ああ、ちょっと待つだーね」
 そう言うと、彼は廊下を走って、そしてすぐに戻ってきた。手にタオルとカゴに入ったお風呂セットを差し出す。
「よかったら使うだーね」
「あ、ありがと」
 なんていうか、ほんと、すっとさりげない。
 こういう気づかいが、ほんと、上手。
 でも、これが私以外の女の子でも、きっと彼は同じようにするんだろうなあ。
 そういうとこが、やっぱりちょっと遠い。
 そんな事をつらつらと思いながら熱いシャワーで雨を流して、ちょっと落ち着いた。
 シャワー室を出てきょろきょろしてると、「106」と書いてある部屋の扉から短パンにTシャツの柳沢がひょこっと顔を出した。
「お、すっきりしただーね?」
「うん、ありがと。ドライヤーってある?」
「ああ、あるけど……」
 彼は言って、ちょっと戸惑った顔をする。
「借してもらってもいい?」
「いいけど、俺の部屋だーね」
「あ、そうか、ごめん。入られたくない?」
 私が言うと、彼はぶんぶんと両手をワイパーのように振る。
「いや、俺はいいけど、が嫌かと思って」
 なんだかこんな風にあわてる柳沢が意外。
「柳沢がいいなら、別に嫌なわけないじゃん」
 そう言うと、彼はうやうやしく頭を下げてホテルのボーイのように寮の部屋に私を招き入れた。
 そういえば、男子寮の部屋って初めてだなあ。
 私は借りたドライヤーのコンセントを差し込んで、失礼にならない程度に部屋を見渡した。意外にすっきりしてる。そういえば、同室は同じクラスでダブルスコンビの木更津くんだっけ。あの子、きれい好きらしいからね。
「そういえば木更津くんは?」
「淳は実家が千葉だから、今日の部活がオフになった時点で帰った」
「あっそうか」
 寮に入ってる子でも、結構近いとこの子も多いんだよね。
 床に腰をおろして柳沢のベッドにもたれかかりながら、ドライヤーのスイッチを入れて髪を乾かし始める。
 柳沢と木更津くんの部屋は、漫画とかゲームとかCDがそれなりにあって、いかにも男の子同士楽しくすごしていそうな感じの部屋だった。漫画やCDを見て、ああ、あれ知ってる、あれは何だろうって、いちいち見てしまう。もし、同じの好きだったらいいな、なんて思いながら。
 柳沢のスペースと思われる棚に並んでるCDは、どうも洋楽が多いようだった。残念、私は洋楽はそんなに詳しくない。イマジンくらいならくちずさめるけど。
 そんな風に視線だけで男子部屋を大冒険しながら、ちら、と柳沢を見るとどうにも居心地悪そうな感じ。
 ドライヤーのスイッチを切って急に部屋に静寂が訪れると、柳沢はびくんと驚いたように顔を上げる。
「あ、何か飲むだーね?」
 そう言うと部屋を飛び出して行った。
 そして、持ってきたのは『柳沢』とマジックで書いてあるレモンフレーバーのヴォルヴィックのボトル。
「これ、結構旨いだーね。最近の気に入り」
 そういって差し出してくれた冷たいそれを、きゅっと口に含むと確かにさわやかな風味が口の中にひろがって、ほっとした。
「うん、美味しい。ありがとう」
 ありがとう、と言ってから、私はふと気づく。
 そういえば、いつも改めて柳沢に『ありがとう』とか言うこと、なかったな。
「あのさ」
「うん?」
 ヴォルヴィックのボトルにキャップをして、私はひと呼吸。
「この前さ。体育の当番代わってくれたのさ」
「ああ、だからあればお前がボケーッとしてるから……」
 あの時と同じ事をくりかえそうとする柳沢の口の前に指を差し出し、彼の言葉を止めた。
「じゃなくて。ありがとうって、言おうと思って」
「うん?」
 柳沢はまた中途半端な返事をする。わかってる、とも、何のこと? ともとれるような。
「あの前の日も、胸貸してくれたでしょ」
「あー」
 言いながら柳沢は少し赤くなる。
「あれは……あれも、当番のことも……まあ、は泣いてるより笑ってる方がいいと思っただけのことだーね」
 あれ?
 気のせいかもしれないけど。
 柳沢とのいつもの無難で安全な距離が、少し近くなってるような気がする。
 いつもはわかるようでわからない、柳沢の体温や息づかいが、想像できるような気がする。
 そんな彼をじっと見て、目が合うと彼はあわてて立ち上がった。
 いつもは目が合ったら、にかっと笑ったり面白い顔をするのに。
「な、何か音楽でもかけるだーね」
 彼は自分の机のオーディオシステムのスイッチを入れた。
 そして流れたのは、イマジン。
 確かに、スピーカーの前に置かれてるジャケットのむさい丸眼鏡のおっさんはジョン・レノンだ。
「あ、これは結構、淳が好きなもんだから……」
 柳沢の声のトーンが少し高い。私から視線をそらす。
 穏やかな曲なのに、私の心臓は激しく律動する。
 愛と平和。
 今までで一番、柳沢の近くにいるような気がする。
 今なら、いつもみたいに無難で楽しい以外の話もできるんじゃないだろうか。
 ねえ、。今、勇気を出さなければ、私はこれからずっと、教室で柳沢が他の女の子と話すたびにヒリヒリした気分にならないといけないんじゃないの。
 私は部屋中に響くくらいに深呼吸をして、言った。
「愛と平和! ラブ&ピース!」
 ぎょっとした柳沢が私の目を見る。
「や、柳沢、愛と平和のために必要はものは何!」
 私がびしりと言うと彼は飛び上がった。
「は、はいっ!!」
 そして、部屋を飛び出して、戻った時に手にしていたのは救急箱だった。
 床に座り込んだ私たちは、まるで発掘したばかりの宝の箱でも開けるようにうやうやしく救急箱を開陳した。
 そして、開けて一番上に、例の愛と平和のための一品が置いてあった。
「………ねえ、ふつうこういうのってもっと下の方とかに置いておくもんじゃない?」
「いや、まあチェックしやすいようにと思っただーね」
 こんなとこにあって開けたとたん目に入ったら、そりゃ観月くんも一言言いたくなるわ。ちょっと吹き出してしまいそうになるけど、今はそういう場合じゃない。
「で、これはまだ誰にも使われてないの?」
「確認してみるだーね?」
 彼が手慣れた様子で箱を開け、中身をとりだして数を数えると、たしかに12個入りの箱であることに対して、12個のブツ。見事未使用である。
 さて、本題だ。
「衛生委員として、使用期限が来る前にまず使ってみるっていうのはどう」
 私は割と真剣な顔をしていたと思う。だって、柄にもなく余裕がなかったから。
 私の目をじっと見る柳沢はちょっと眉間にしわをよせた。
「愛と平和のためにだーね?」
「そう、ラブ&ピース」
 彼は手にしていたものを1個切り離して握りしめる。
 手を伸ばして、そっと私の髪に触れた。
 思ってた以上に、私はどきどきする。髪の毛の先の方を触られているだけなのに。
 柳沢はしばらく逡巡するように私の髪に触れながら、その指をだんだん髪に深くさしこんできて、手のひらで私の頭に触れる。思わず息をつく。
 気がつくと、彼の顔が目の前にあった。
 目を閉じると、彼の唇が私のそれに触れる。
 いつもアヒルみたいにとがった唇だって思ってたけど、それは思いがけずふっくらして柔らかくて気持ちがいい。そういえば、オーストラリアに生息するカモノハシのくちばしは、鳥のくちばしみたいに固くなくて触るとぷにぷにしてるって聞いたことある。ふふ、柳沢はアヒルじゃなくてカモノハシだったんだ。
「……何をにやにやしてるだーね?」
 唇を離して、柳沢は戸惑ったように私を見る。
「うん? 気持ちいいなあって」
 柳沢は乾かしたばかりの私の髪をくしゃくしゃっとなでて、もう一度キスをする。今度は、さっきの触れるだけのではなくて、そうっと遠慮がちに舌を入れてきた。ぷっくりした唇、なめらかな舌。
 私、柳沢に近づいてる。
 いつものおしゃべりよりもずっと。
 一旦体を離して、彼はぷはーと大きく息をついて、私を抱きしめたままベッドにもたれかかった。
「……キスすると、もう絶対にそれだけじゃ我慢できなくなるって赤澤が言ってて、『お前、こらえ性のない奴だーね』なんて思ってたけど、本当だっただーね」
 私を抱きしめる柳沢の体は熱い。
 あの時ホールドアップしていた両手は、今は私をぎゅっと抱きしめてくれている。彼は私を立ち上がらせて、そのままベッドに横たえさせた。
 そして、私の上に覆いかぶさってくるものの、どうも戸惑った顔。
「……俺、こういうの慣れてなくて、どうしたらいいもんか、ちょっと悩んでしまうだーね」
 そんなこと言われても、だからといって私があーしろこーしろ言うわけにもいかないじゃない。
「したいようにすればいいじゃない。そういうのはちょっとヤダ、とかあったら、その時は言うから。……普段、おしゃべりしてるのと一緒だと思う」
「教室で話をしたりするのと?」
「そう」
 すると、柳沢は少しほっとした顔で、そうっと私のジャージの上着の裾から手を入れた。お腹のあたりに彼の手が触れる。思わず私は声を上げそうになる。初めて素肌に触れる、彼の手。指は少しだけ冷たかったけど、すぐに私の体温と同じになった。柳沢はジャージをすこしだけまくり上げると、お臍のあたりにキスをした。ぞくりとする。
 彼の手や触れ方は、とても気持ちがよかった。
 そうだ、彼と初めて会った時のことを思い出す。
 親しくなり始めた頃、私は気づきもしなかったけれど、彼は軽い感じでしゃべりながらも、それで相手がどう思うのか、どう反応するのか、いつもきちんと見極めていたんだと思う。それで、相手を傷つけないように、楽しませるように、そんな風にして仲良くなってきた。
 そういう子だったんだよね。
 柳沢の手と唇が少しずつ上がって来る。お腹のあたりを触れていた手が、すうっと背中にまわり、背骨を確認するようにゆっくり触れていた。もう片方の手は、脇腹のあたりをさする。
 柳沢と初めて口をきいた時、もう最初っから面白くていいやつだなーって思ったっけ。
 今も、こうやって触れられてるだけなのに、困ってしまうくらいに気持ちがいい。
「……ええと、これ、外すのちょっと難しいだーね」
 もごもごと申し訳なさそうに言う。ああ、ブラジャー。
「あ、えっと、自分で外す。あの、脱いじゃっていいのかな」
「え、ああ……そうだーね……」
 なんだか柳沢に触れられて、こんなに気持ちよくなってしまったことがひどく照れくさくて、私はさっさと自分でジャージを脱いで裸になって、くるりと柳沢のベッドにもぐりこんだ。
 ちらりと振り返ると、彼もTシャツと短パンを床に放り投げているところ。
 するっと彼もベッドに入ってきて、中の温度がいっぺんに上昇する。男の子の体温って高いなあ。そんなことを呑気に思っていられたのはつかのま。
 柳沢の手はするりと私の腰に触れる。思わず体が震えた。
 彼はゆっくりと腰骨からヒップのあたりに指をはわせ、私の反応を確認するように触れ続ける。片方の手が胸に伸び、同時に柳沢が少し震えながら息を吐くのが聞こえた。どんな顔をしてるのかは、彼が私の胸に唇を寄せているところだから、見えない。彼の唇と舌の感触を胸の先端に感じながら、私は声を上げて体を震わせた。だって、彼が顔を動かすたびに彼の長い前髪がさわさわと胸の辺りに触れるから。そんな思いがけない刺激に、我慢できなかったのだ。
 私のそんな反応に彼は驚いたのか、顔を上げる。ちょっと心配そう。
「どうしただーね? 嫌だっただーね?」
 私はあわてて首を横に振る。なんだか顔を見られるのが恥ずかしい。
「ううん、前髪がね、くすぐったかっただけ」
「ああ、ごめんごめん」……
 彼はあわてて前髪をかきあげるけど、それはさらさらと落ちてくるばかり。くすっと笑ってしまいそうになる。その前髪がね、結構気持ちよかったの、なんてさすがに言えないけど。
 そんな、彼のゆっくりとした優しい愛撫は確実に私の体をとろけさせていた。
 柳沢は時々自分の猛りを押さえるように震えながら、私の体の輪郭を確認するように指と唇で触れ続ける。彼との会話が心地いいように、彼に触れられるのは、びっくりするくらいに気持ちよくて、私の頭の中はおかしくなってしまいそうだった。
 無意識に片足を持ち上げて、太股の内側で柳沢の体をさする。
 やっぱり彼の体は熱い。
 彼の手が太股の内側をするりとなでてくれて、私は泣きそうな声が出てしまう。今までのペースだとその先にたどりつくのはまだまだだろうか、なんて思っていたら、そのまま彼の指は太股の奥に侵入してきた。今までの彼の愛撫で私のそこは言い訳のしようがないくらいに濡れているわけだけど、恥ずかしいとかそんなことを思っている余裕もない。少し遠慮がちに、でもするりするりと滑らかに動かす彼の指は、私の体を一気に熱くした。そして溶かして行く。
 やだ、ここ寮だからあんまり声だしたくないのに、どうしよう、と私が熱をもてあましていると、私の唇を、柳沢のふっくらとしたそれが覆った。
 今度は最初から、舌をからめてくれる。
 準備もなにもないまま、飛行機から突き落とされたみたい。
 私はあっというまに、達してしまった。
「だ、大丈夫だーね? 何かまずかっただーね?」
 私の反応に驚いたのか、柳沢が動きを止めて私の顔を見た。
「まずくない。気持ちよかったから、いっちゃったの」
 いちいち言わせないで欲しい。
 顔を見られるのが恥ずかしいから、ぎゅっと枕に顔をうずめた。
 ああ、そういえば当たり前だけどここ、柳沢のベッド。柳沢の匂いがするな。
 なんだか、すごくほっとする。全身柳沢につつまれてるみたい。
「あの、そろそろ愛と平和のための一品を使ってもいいだーね?」
 顔を上げると、柳沢がさきほどの一個を指につまんでいる。
「なんていうか、血液がすべて一カ所に集結して、脳みその血液が少なくなってバカになった感じがするだーね」
 すごく真面目な顔で言うから、私もおかしくてつい笑ってしまう。
「私もバカになってきてると思う。ぜひとも、そろそろお使いください」
 そう言うと、彼はいそいそとパッケージを開封して、熟読したであろう説明書の手順にて、それを装着していく。
「それで、その……」
 柳沢は私の両脚の間に体をすべりこませてきて、もごもごと口ごもる。
「なんていうか、角度はどんな感じだーね?」
 彼は自分のものに手を添えながら、困ったように尋ねる。こういうの、改めて聞かれても恥ずかしいけど、しょうがないか。
「ええと……こんな感じで大丈夫だと思う。ゆっくり……して」
 少し腰の位置を調節しながら、柳沢の胸に触れた。
 あの時、結構男らしいって思った柳沢の胸は筋肉質でしまっていて、やっぱりきれいな体をしていた。ほんと、かっこいいな。あー、私、やっぱりどんどんバカになってきてるみたい。
 柳沢は片手で私の手をぎゅっと握りしめ、顔を私の髪にうずめながらゆっくり腰を落としてくる。ちょっときつい。私が、ん、と声をもらすと彼は一度動きを止めた。
「大丈夫だーね?」
「うん、大丈夫。そのまま、ゆっくりね」
 脚を大きく開きながら彼を迎え入れ、私たちの恥骨同士がぴったり当たる頃、柳沢は体を起こしてぶるりと震えた。
 そして、何も言わずにキスをする。
 柳沢のあの、とても気持ちのいいキス。
 それで、私の中がまた潤うのがわかる。
「……、まずいだーね」
「え? 何が?」
「動いたら、あっというまに出てしまいそうな気がするだーね」
 彼は本当に困った顔をして言うのだ。
 私は彼の前髪に触れた。
「それはそれでいいじゃない。ね?」
 そう言って彼の首にぎゅっと抱きついた。
 ゆっくりと始まった、彼の腰の律動。最初は少しきつかったけれど、今はすっかりスムーズで、奥から掻き出されるような感覚に私は声が押さえられない。柳沢は苦しそうに顔をゆがめながら、一瞬律動のペースを早めると腰を奥に押し付けたままくぐもった声を漏らし、私を強く抱きしめる。
「ごめん、やっぱりあっちゅーまだーね」
 私も彼をぎゅと抱きしめ、髪を撫でる。
「うん、別にいいって。気持ちいいし」
 彼はブツのマニュアル通り、即座にブツを始末し、私の髪をなで、キスをした。
 やっぱり柳沢だな。
 私、今はちょっとバカになってるけど、前はもっとバカだった。
 こういう子は面白くて友達にはいいけど、恋をする相手は違うって思ってたこと。
 普段から、ちゃんと人の気持ちを察して丁寧におもしろおかしくつきあってくれる子は、やっぱり何をしても最高なんだ。体に触れ合うのも、会話をするのと一緒だもの。やっぱり柳沢だ。ちょっと感動。
 私は、軽いキスをしてくれていた彼をぎゅっと抱きしめて、舌を絡めた。
 多分、いや絶対、大好き。
「……時に、。あの、愛と平和ラブ&ピース第二弾、というのはアリなものだーね?」
 ちょっと遠慮がちに尋ねる彼の唇を引っ張った。
「救急箱の備蓄品がある限りはね」
 なんて気取って言ったけど、実はむしろそうしてください、と思ったことは内緒。
 あわてて救急箱に向かってベッドを飛び降りる彼の傍らで携帯が鳴った。
 びくりと飛び上がった彼は裸のまま、携帯を確認する。
 メールのようだ。 
 それを見て、柳沢は額をぴしゃっと打った。
「あちゃー! この雨で総武線が止まって、淳は千葉への帰省を断念するんだと!」
 私もベッドで飛び上がった。
「じゃあ、帰ってきちゃうじゃない!」
 あわててベッドの下のジャージを拾い上げて身につけた。
「えっと、じゃあ私、帰るね。」
「あっ、だったら、その、おおおお送って行くだーね」
 彼もあわててTシャツと短パンを着る。
「ありがと。でも、木更津くん帰って来るまでに、部屋の痕跡をなんとかした方がいいと思うから。救急箱片付けたり。だから、一人で大丈夫だよ、ありがとね!」
 私は忘れ物がないか確認して、あわてて部屋を飛び出た。
 寮の受付で帰宅のチェックをするのも忘れない。
 私、大丈夫だよね。髪も整えたし、普通にしてるよね。
 外はまだやまない雨。
 けど、ぜんぜん気にならない。
 私の髪にそうっと触れる時の柳沢の顔を思い出す。
 あんな風な顔は初めて見た。
 やっと、やっと、私だけの柳沢を見ることができた。

**********

 週が明けて学校で柳沢に会うのは、きっとひどく照れくさいだろうなと思いつつも、やっぱり早く会いたいからわくわくして登校した。
 学校では、だいたい私が先に教室に来て、それから朝練を終えた柳沢が来るっていうのが通常。
 教科書を広げてると、ゴトン、と柳沢の席から音がする。私はあわてて振り返った。
「あ、おはよ!」
「おう、、おはようさんだーね」
 あれ、こっちが拍子抜けするくらいに普通だ。
 で、いつもはこのあと、週末にあったテレビのお笑い番組の話なんかでもりあがるんだ。
 でも。
 この日は、柳沢は授業の予習に集中して、お笑い番組のことについて話しかけてくることはなかった。
 忙しいのかな?
 それだけのことかもしれないんだけど、恋めいてバカになった女子っていうのは、えてしてこういうひっかかりを簡単にやりすごすことができない。
 二人で愛と平和の確認をした日から二日あけたこの日、柳沢は明らかにいつもより私によそよそしい感じがした。
 なに、照れてるの?
 なんて、前向きに解釈しようとしてみるけど、まあ話しかけたらいつもみたいに軽快におしゃべりはしてくれる。けど、向こうから話しかけてきたりバカみたいなことでちょっかいかけてくるとかが、まったくないのだ。
 こういうのって、いやな予感。
 学食で友達とご飯を食べながら、おしゃべりの内容には上の空で私は考えた。
 もしかしたら、私は失敗したのかもしれない。
 だって、よく考えたら、柳沢にちゃんと『好き』って告げることもせず、たまたま部屋に行ったからって、なんだかすごくあせってあんなことをしてしまった。
 それに、そもそも私はまだ桐生くんと別れたばかりだ。まあ実質3〜4ヶ月前から疎遠ではあったけど、正式に別れたのはあの時柳沢に泣いてるのを見られた日。
 そういうのって、どう思われるんだろう。
 柳沢はどう思ったんだろう?
 たまたまあの時、柳沢もちょっとムラムラしてて、そして私がいいよっていうサインを出したからやったっていうだけのこと?
 そして、そんな風な私に幻滅した?
 十分、考えられる!!!
 そんな着想をしたとたん、私は相当落ち込んだ顔になっていたようで、一緒にご飯食べてた友達が『あれ、ちょっと、どうしたの?』なんて声をかけてくれるけど、私は愛想笑いもできない。

 そういうのをどうリカバリーしたらいいのか、というかそもそもリカバリー可能なのかわからなくて、とりあえずなるべく柳沢の顔を見ないようにして、放課後はさっさと教室を飛び出た。
 だって、もう、泣きそうなんだもの。
 これは儀式とかそんなんじゃない。
 案の定家まで我慢できなくて、いつかの木の陰でめそめそ泣いた。
 どうしよう。
 タイムマシンがあったら、金曜に戻ってあのことを取り消したい。
 そんな事を考えてたら、背後から響いてきた軽快な足音がぴたりと私の目の前で止まった。
「あー、何だ、泣くんだったら、俺の胸でも貸してやるだーね」
 そう言って両手を広げているのは、当然柳沢。
 あの時と同じ台詞だけど、顔がやけに真剣だ。
 私はびっくりして目を見開いて彼を見上げた。
 そして深呼吸をすると、またあの時と同じようにネクタイを引っ張って、ワイシャツで涙と鼻水をふいた。
 あの時と違うのは、柳沢の両手は私をぎゅっと抱きしめてくれていること。
「どうして泣いてるだーね。教室を出て行く時から泣きそうな顔をしてたから、あわてただーね」
「どうしてって」
 私は顔を離して、彼の顔を見上げた。
 ばしん、とその胸をたたく。
「だって、柳沢がなんかよそよそしいから! ああいうことして、嫌われたのかと思って」
 彼はなんだか泣きそうな顔になる。
「違う、俺は……がどう思ってるのかわからないから、ちょっと心配だっただーね。あの時、帰りにを送って一緒に歩きたかったけど、もしかすると本当ははそういうのは嫌で、つまり『彼氏ヅラすんな』って思ってるのかもしれないなって……」
 彼の言葉を聞いて、私は自分の髪を軽くかきまわした。
 恋をすると、どうも血液がどっかヘンなところに集まっちゃうんだ。
 それで、お互い、ちょっとバカになるんだね。
「バーカ。手をつないで一緒に帰りたいよ」
 そう言って、彼の唇を引っ張った。すると、やっと柳沢は面白い顔をして笑う。
「うん。ラブ&ピース!だーね」
 いつかやってたみたいに、両手の親指と人差し指でハートを作ってみせる。
 私たちは校庭から手をつないで歩いた。
 部室までだからほんの短い距離だけど。
 柳沢は心配そうに『救急箱の備蓄品の中身が1個減ったということを他の奴にチェックされるかもしれないけど、どうしよう』なんて言ってる。
 男子はバカだね。
 同じ銘柄の新品を一箱買ってきて、入れ替えておけばいいじゃない。と言うと、『ああ!』と手を打つのだ。
 ほんと、男子はバカなんだから。
 でも、いいの。
 ラブ&ピース!

(了)
2009.6.21

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