● ラブレター(前編)  ●

やわらかい風とともに、かすかな潮の香りが私をつつむ。
二年前は、こんな匂いに気づきもしなかった。
立海大附属中に登校する道すがら、そんなことを思いながら私の胸は新しい環境にむかってかすかな不安と大きな期待にざわめいた。
私は二年前、小学校を卒業するまでここ神奈川に住んでいた。
けど、父親が一時的に九州に赴任しなければならなくなって中学入学直前に引っ越したのだ。当時、立海に入学することを楽しみにしていた私はかなりがっかりしたけれど、また神奈川の家に戻ってくるからという言葉を信じてすごしてきた。
そして期日の2年後父親の仕事も神奈川に戻って、私は見事立海大附属中への編入試験にも合格して、こうやって無事登校しているというわけ。
九州では熊本に住んでいて、そこももちろん楽しかったけどこうやって神奈川に帰ってくると、やっぱりここが好きだなあって思う。前に住んでた時は、海の近くに住んでるなんて意識したこともなかったけど、風も匂いもぜんぜん違う。

!」
学校に到着すると、約束どおり門のところで友達のヒカリが待っててくれた。
小学校の頃からの友達で一緒に立海に入るのを楽しみにしていた友達の一人。
こうやって帰ってきた私を優しく迎えてくれる友達がいるって、いいなー。
「やったー、ほんとにまたと学校ですごせるんだね!」
春休みに一度会ったけど、制服姿のヒカリは初めて見る。私と違って制服を着慣れた彼女は、なんだか先輩みたい。でも、心強い!
「うん、クラス、どう?」
私が言うと彼女は苦笑い。
「さすがに同じクラスにはならなかったよ、そう上手くはいかないねー。でも隣のクラスだよ。がA組で、私がB組」
「そっかー、やっぱ同じクラスは無理かー。でも隣でよかった! お昼とか一緒に食べれるね!」
私が言うと、ヒカリもうんうんとうなずく。
「あ、そうそう、ほら」
クラス名簿が貼ってある掲示板の方を指しながら、ヒカリが言う。
「あれ……」
そこには、背の高い厳しそうな先生が貼りだされたクラス名簿を見上げている。
「あ、担任の先生? 若い先生だけど、なんか怖そうだねー」
私が眉をひそめて言うと、ヒカリは一瞬目を丸くして私を見て、次に大声で笑った。
ってば! 先生じゃないよ、あれ、真田!」
「え?」
「ほら小学校の時、塾で一緒だった真田弦一郎だってば」
「ええーっ!?」
私はもう一度まじまじと彼を眺める。
すごく背が高くてがっちりしてて、顔立ちもすっかり大人の男の人みたい。というか、とても同い年には見えなくて、もう絶対先生だと思ったんだけど!
あっけに取られてじっと彼を見ていると、つい、と真田くんが振り返った。
私とヒカリを見る。眉間にはなぜか軽くしわが寄ってて、なんだか怒ってるみたいな顔だ。
「……か、久しぶりだな」
そして、私の前に立ち名を呼ぶ。
「九州から戻ってきていたのか」
一歩私に近づいた。
その瞬間。
ありありと思い出す。
神奈川から引っ越す前日、私は真田くんに手紙を渡した。
それは、確か、こういう書き出しだったと思う。

『真田弦一郎様
私、真田くんが大好きです。
真田くんが勉強を教えてくれたり、親切にしてくれたこと、忘れない。
私が引越してしまっても、時々でいいから私のことを思い出してくれるとうれしい……』

当時、私よりちょっと背が高いくらいの真田くんは、利発でかわいらしい整った顔をして、まじめでかっこよくて頼りになって、大好きで、別れるのが辛かった。
、どうかしたか?」
目の前の、見上げるほどの長身の、ひどくごつくて腹の底にひびくような低音でしゃべるこの人が、あの真田弦一郎くんだなんて!
そして、あの手紙……! あの手紙がこの人に……!
混乱した私は目の前が真っ暗になった。



脳貧血のような状態に陥った私は、ヒカリと真田くんに、まるで連行される宇宙人のような感じで保健室に連れて行かれた。真田くんはひどく心配してくれていたみたいだけど、ヒカリが『私がみとくから』と言うと、静かに保健室を出て行った。
、大丈夫? どうしちゃったの? 真田に何か言われた?」
彼女も心配そうだ。
私はベッドに横たわり大きく深呼吸をした。
「……ううん、なんでもないよ。なんかさ、ほら、やっぱり編入するってちょっと緊張するみたい」
そう言うと、ヒカリは納得したように笑った。
「そっかそっか。だよね、他の子はみんななれたものなのに、自分だけ新入生なんだもんね。あ、でもさ」
ふと思い出したように言う。
「ほら、真田。あいつもA組だよ、確か。塾に行ってたとき、と結構仲良かったじゃん。まじめだし怖そうに見えるけど、結構面倒見いいと思うし、頼りになると思うよ」
私はがばっと体を起こした。
真田くんと同じクラス!?
「どうしたの、大丈夫?」
「……うん、大丈夫。そっか、真田くんと同じクラスなんだー。なつかしいなー、真田くん……」
私は言いながら、真田くんに渡した手紙の内容が頭を駆け巡る。
『私のことを思い出してくれるとうれしい』 の続きはなんて書いたっけ……。
とにかくあの手紙!
私、真田くんに 『この手紙、私が神奈川に帰ってきてまた真田くんに会える日まで、開けないで持っていてね、約束して』 なんて言って渡したんだった。
心臓がドキドキする。
あの手紙、真田くんはまだ持っているんだろうか。約束したとおり、読んでないだろうか。
いやな汗が出てくる。
「ちょ、ちょっと、大丈夫? 顔色悪いよ!?」
忘れかけていた、2年前のラブレター。
すっかり面変わりした、初恋の男の子。
ただでさえ刺激的な初登校の日に、それはあまりにも激しすぎるスパイスだった。
とにかく、私の立海登校一日目はこんな有様。


*************


授業も始まったその翌日、私はA組まで来てくれたヒカリと一緒にお弁当を食べていた。
「そうそう、真田ってすごいんだよ」
彼の名前が出るたび、私はどきりとする。
ちなみに私が小学生の時に真田くんを好きだったこと、もちろん誰にも話してないからヒカリも知らないことではあるんだけど。
「すごいって?」
「テニステニス。ほら、小学校の時からジュニアで強かったらしいじゃん。で、この立海は去年一昨年とテニス部は全国優勝でさ、真田自身も中学では全国トップクラスの選手らしいよ。雑誌とかにも取材されるし、もう有名人だって」
「へえ!」
私はちょっと驚いて姿勢を正し、ちらりと前の方の席の真田くんを見た。真田くんと同じように背の高い、けれどもう少し線の細い眼鏡をかけた男の子と話しながらお昼を食べている。
そういえば、九州に行ってからも『真田くん、どうしてるかなあ』なんて思ったりしたものだけど、よもやテニスでそんな有名人になってると思いも寄らなかったから、チェックしてなかったなあ。
「で、あいつ、昔からすっごいまじめでしょ。それは相変わらずでね、今は風紀委員長なんだよね。あのガタイあの風貌で超お堅いもんだから、迫力あるんだわー」
言いながらヒカリはおかしそうに笑う。
「ま、私はまだ小学校の頃から知ってるからそんなにおっかなくはないけど、学校では結構みんな一目置いてるよ」
「そっかー」
私はもう一度、自分の席でぴしっと背筋を伸ばしてお弁当を食べている真田くんをちらりと見た。
確かに迫力あっておっかない、というのが一般的な印象だろうなあ、今の真田くんでは……。
?」
ヒカリがふと不思議そうに私を見た。
「なに、って真田苦手だった? 塾ではよく勉強教えてもらったり、一緒に帰ったりして結構仲良かったじゃん」
「えっ? あ、うん、別に苦手じゃないよ! うん、確かにいろいろお世話になった!」
私はあわてて取り繕う。
「ほら、ただ、さ……」
そして少し声をひそめた。
「なんか、真田くん、メチャクチャ背も伸びてるし、こう面変わりしちゃって、久しぶりに会った時ぜんぜんわかんなかったんだよね。びっくりしちゃって」
一瞬きょとんとしてから、ヒカリはくくくと笑う。
「あ、そっか。そういえば『先生?』なんて言ってたっけ。確かにそうかー、私なんかは小学生の時からずっと真田を見てるけど、は二年ぶりだもんね。小学生の時の真田から、今の真田を見るとギャップはすごすぎるかもしんない」
「でしょ?」
私は思わず身を乗り出した。
「でも、まあ中身はたいして変わんないよ」
そう言うとヒカリは席を立った。
「ねー、真田ー!」
そして大声で真田くんを呼ぶのだ。私はぎょっとしてしまう。
「なんだ、大崎?」
真田くんは弁当箱を片付けて、律儀に立ち上がって私たちの方へやってくる。一緒に話していた男の子もそれに倣った。
ね、3年からの編入でちょっと緊張してるみたい。真田、昔なじみだし、せっかく同じクラスになったんだからいろいろ面倒見てあげてよね」
真田くんは、ずいと私の前に立って腕組みをする。ものすごい迫力!
彼が何かを言おうと口を開く前に、真田くんと一緒にやってきた男の子が言葉を発した。
「ああさん、そういえばあなたは編入でいらしたのでしたね。気遣いができず、申し訳ありませんでした」
改めて見ると、彼は私のすぐ斜め前の席の子だった。柳生くん、だっけ。
「ワタシは柳生といいます。真田くんと同じテニス部で、そして風紀委員です。席も近いことですから、何でも聞いてくださいね」
背は高いけれど、物腰やしゃべり方が柔らかで優しそうな男の子だった。ちょっとほっとする。
ありがと、と言おうとすると、今度は低い険しい声が響いてきた。
「柳生、お前の手を煩わせることはない。は俺が小学生の時に塾が同じだったのだ。それに、今期は俺がクラス委員だ。、何かあったら俺に聞け。学内のことも案内しよう」
言ってる内容は親切なのに、眉間にしわをよせたような厳しい表情で話す彼はド迫力だ。えーと、真田くんってこんなんだっけ?
、午後の授業は教室を移動する。慣れない校舎だ、案内しながら連れて行ってやるから、早く支度をしろ」
ええっ、しかもせっかち!
ヒカリは無責任に『頼んだよー』なんていいながら自分のクラスに戻っていった。柳生くんは『さすが真田くん、責任感が強いですね』などと感心した風に微笑む。
あわてて授業の用意をした私は、真田くんと教室を出て廊下を歩いた。
「この学校は敷地内も広いからな、最初のうちは迷うだろう」
「うん、敷地内どころか学内もまだよくわかんない」
「きちんと案内をするから、俺の傍を離れるな」
歩きながら、私の頭に思い浮かぶのは塾で一緒だったころの真田くん。
ええと、あの真田くんがこうなって、この真田くんは、あの頃のあの可愛い真田くんが成長した姿で……。
あー、なんか混乱してくる。
「よぉ、真田」
歩いていると、ふと飄々とした声が真田くんを呼び止めた。
声のする方を見ると、長身だけど少し猫背の、明るい色の髪をした男の子。
目が合うと、彼はくくっと笑った。ちょっと不思議な雰囲気の、きれいな顔をした男の子だった。
「ああ、なんだ仁王」
「いや、な、珍しい光景じゃのぉ思うて」
やわらかく笑いながら、その仁王と呼ばれる子は言った。
「何がだ」
真田くんは少しいらだったような声で答える。
「その子、A組の編入生じゃろ? うちのクラスの男どもが、隣に美人さんの編入生が来た言うてさわいどったぜよ。真田、もうモノにしたんか?」
明らかに冗談ぽくからかう調子で言っている彼に、真田くんは雷を落とした。
「いかがわしいことを言うな! 編入生に学内を案内することはクラス委員の務めとして当然のことであろう!」
隣で私はびっくりして飛び上がってしまう。けど、その仁王くんは彼のそんな調子には慣れっこのようで、おかしそうに笑うばかり。
「そうじゃのぉ、すまんすまん。サン言うんか、俺は隣のクラスの仁王じゃ、よろしゅうな」
そう言うと手をひらひらとさせてまた廊下を歩いて行った。
「すまない、あいつはいい奴なんだが冗談がすぎる男でな。あれでもテニス部の優秀な選手だ」
「ああ、あの人もテニス部……。テニス部の子ってみんな、親切そうだね」
そんなことを言いながら、私はなんとなく今の真田くんのキャラをちょっとだけ把握したような気がした。
真田くんと連れ立って歩きながら、午後からの授業がある理科室に案内された。授業が始まるまで少し時間があるから、まだ席についてる子は少ない。
「実験のある時以外は席は特に決まっていない」
そう言いながら、真田くんは一番前の席に腰を下ろした。
もこのあたりに座るといい。わからないことは俺が教えてやる」
ああ、そういえば。
私は5年生の時に塾に入ったんだけど、初めてその塾で真田くんに会った頃のことを思い出した。
そこは私にしたらちょっと背伸びをした塾で、勉強が進んでて最初の頃はぜんぜんついていけなかったんだよね。学校の違う子ばかりで(ヒカリが入ってきたのは6年になってから)、気軽に聞けるような子もいなかったし。塾の授業が始まる前の時間は、ぜんぜんこなせないままで持ってきた宿題で気が重くて、ため息をついてばかりいたっけ。そしたら、そんな様子を見て、真田くんが勉強を教えてくれるようになった。話し方とかはちょっとぶっきらぼうだけど面倒見が良くて、嬉しかったなあ。
そうだ。
私が書いた真田くんへの手紙の続きは、確かこんな風だったと思う。

『塾で初めて会った時は、ちょっとだけ話しにくい男の子だなって思ったけど、私、真田くんと話せるようになって本当によかった。
二年したらまた神奈川に戻るから、きっと立海に編入します。また真田くんと一緒に勉強したい』

その続きは……なんて書いたっけ、思い出せないな……。
でも、確かこんな風に書いた。そう、真田くんがこんな感じに親切にしてくれたこと、すっごく嬉しかったんだよね。思えば、真田くんのこういうとこ、変わってないんだなあ。
見た目はすっかり変わってしまった彼の横顔をじっと見た。
「……なんだ?」
その視線に気づいたらしい彼はぎろっと私の方を見る。
「えっ、ううん、なんでもないの。あの、真田くん、すっごい背伸びたんだなあって思って」
「うむ? ああ、そうだな。小学生の頃からしたら、だいぶ身長は伸びている」
「身長だけじゃなくて、なんかこう、大人っぽくなったというか、最初、ちょっとびっくりしちゃった」
少しずつ今の真田くんにも慣れてきた私は、ようようそんなことを話し始める。
「そうか? 確かに、年齢よりもかなり上に見られることが多いな」
彼はむすっとした様子で答える。
「しかし、も……」
ちょっと眉間にしわをよせたような顔で私を見た。そういえば、塾でも真田くんはそんなにいつも笑ってるわけじゃなくて、どっちかというとまじめくさった顔ばかりしてたっけ。ただ、今ほどいかつい顔じゃなかっただけで。
「髪も伸びたし、背も伸びたではないか」
そして、それだけを言う。
「まあ、そりゃ2年もすれば髪も背も伸びるよね」
私は笑った。
真田くんだけじゃなくて、そりゃあ私もちょっとは変わっただろうけど。
そういえば小学校の5〜6年の頃って、ほんと男子がガキっぽくて意地悪でイヤだった。今思い出すと、笑っちゃうようなことばかりなんだけど。
「でも、真田くんて、よくよく思い返すと見た目以外はそんなに変わってないね。真田くんはあの頃からまじめで落ち着いてたし。塾でも、他の男子って意地悪でうるさいし、『お前、今日はブラジャーしてねーのかよー!』とか言って背中バンバンたたいてきたりさ。バッカみたいだったよねー」
私が笑って言うと、真田くんは急にぎろりと怖い顔をして睨みつけてくる。
え? 何か、怒ってる?
「あ、あの、昔の男子の同級生っていうのは苦手だったなーって話だよ。でもほら、真田くんが塾のクラスの子なんかに『うるさいぞ!』とか言って注意してくれたじゃない。ああいうの、助かったなーって思って」
真田くんはまだ不機嫌そうな顔のまま。
昔の真田くんって、こんなんだっけ? こういう場合、どうしたらいいの?
「ほら、小学生の頃って、まだブラジャーしてたりしてなかったりで、よく男子はそういうのからかってきたりしたじゃん。あ、でもさすがに私は今はもう毎日ちゃんとブラジャーしてるから大丈夫よ」
ちょっと冗談めかせてで対応してみる。
真田くんはさらに不機嫌そうな顔になって、私の方から目をそらすと教科書を広げた。
ダメだ、こういうのはどうもダメみたいだ。難しいな、真田くん。
私は軽くため息をつく。
そして、再度頭を駆け巡る懸案事項。
手紙のことだ。

真田くんはあの手紙読んだ?
それとも、読まずに持ってる?
とっくにどこかへやってしまって、もう忘れてる?

そのことを思うと、私はカーッと顔が熱くなってもうどうしたらいいかよくわからなくなって、机に突っ伏してしまった。
「ど、どうした、!」
するとすぐに真田くんの心配そうな声。
あわてて顔を上げる。
「お前は昨日も具合が悪くなっただろう。どこか悪いのか?」
真田くんの顔は真剣。
そうだ、初めて塾で声をかけてくれた時も、私がこうして塾の机に突っ伏している時だった。『もー、宿題ぜんぜんわかんなかったー』って泣きそうな気分でふてくされてた時。そしたら、『どうした。勉強、わかんないのか』なんて声かけてくれた。
「……ううん、大丈夫大丈夫。だって、新しい学校で二日目だもん。まだ落ち着かないだけ」
そう言うと真田くんは『そうか』と言いながら、それでもちょっと心配そうに私を見てから、また教科書に視線を落とした。
真田くん、昔と変わってないような気もするんだけど、やっぱりよくわからない。
それにしても、手紙……どうなんだろう!!!
あー、もう、どうしよう!!
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