● 恋は時限爆弾(5)  ●

 三年になってからの時間の流れはやけに早くて、あっという間に夏が近づいて来る。
 試合で、正レギュラーである俺の出番もそろそろだろう。
 そして、いつもの教室では明日に席替えを迎える。
 その日も、俺はいつものようにに、自分アッホやなーなんて言いながら過ごして、俺にそんな風に言われては笑うを見ていた。
 はきっと、いつかの日直の男みたいに、他の奴に「バカじゃね?」なんて言われても、こうして笑ってるのだろう。そういう奴だ。
 でも、いろいろ考えたのだが、にアホとかボケとか言っても良いのは、どうしても俺だけのような気がする。
 大体、東京の奴が「バカ」とか言うのは、品がなくてよろしくない。
 それに、も他の男から「バッカだなー」なんて言われたら言い返せよ、と思う。まあ、そんな事気にしなくて、言い返さない奴なんだけどな。そもそもバカじゃないから。
 そんなわけで、が他の男からいらん事を言われたりしないように、席替えをしてもまた俺の隣になったら良いのだと、俺は考えた。
 尚、そんな小細工は打ち合わせさえすれば簡単な事だから、俺はにその提案を持ちかけようと思いつつ、なぜか言い出せないまま一日は過ぎて行った。

 もう一度、俺の隣にならへん?

 たったそれだけの一言に、はどんな顔でどんな返事をよこすだろう。
 あれだけ、ベタでわかりやすいと思っていたなのに、俺はその予測がつかなくて切り出す事ができないのだった。この俺が一体どうして、と自分でもおかしい。
 今更にそんな事を、と思うけれど、でもならきっと笑ってくれる。
 そう自分に言い聞かせつつも、すでに放課後を迎え、アカン、が帰ってまう前にとっつかまえとかな、なんて慌てていると跡部から呼び出しのメールが来た。
 今日は部活のない日なのに、またこんな忙しい時に限って!
 俺は舌打ちをしながら、教室を後にする。
 は女友達と教室でしゃべっていて、多分まだ帰らないだろう。そう希望的観測を念じつつ、俺は鞄をひっつかむと跡部のクラスへ走った。
 跡部の用件は、新しく部室に入れるトレーニングマシンの機種と見積もりについてで、しばしその相談で俺は足止めを食ってしまった。機種についてだけ俺はカタログを見て意見を述べ、後は宍戸にでも相談しておいてくれと言い渡してから俺は跡部の教室を出てきた。
 だいぶ時間を食ってしまったが、はつかまるだろうか。
 俺は少々焦りながら廊下を早足で歩いた。
 すると、途中で俺を呼び止める声。
 俺ははっと足を止めた。
 
「……侑士、帰るとこ?」

 真知子だった。
 いつもの上品な笑顔に、少し緊張したような真剣な表情が混じっている。
 足を止めた俺は、ゆっくりと彼女に歩み寄った。

「うん、まあな」
「そっか、今日は部活ない日だもんね。……一緒に帰らない?」

 真知子はいつものように、ちょっと首をかしげて笑いながら俺に言う。
 強気な表情だけれど、その奥にはちらちらと、『断らないで』と祈るような眼が見える。ああ、こいつのこういうところが、好きやったなあと俺はまた懐かしく思い出した。

「俺、ちょっと用事あんねん。悪いけど、先、帰っといてんか」

 それでも俺はそう言って、彼女に軽く手を上げると教室に向かって歩き出した。

「侑士」

 真知子は、また俺の名を呼んで、俺について歩いてくる。
 俺は驚いて彼女を見た。こういう時、ああそう、と言ってするりと帰ってゆくのがいつもの彼女のはずだったから。

「ちょっと話があるの。用事すむの、待ってても良い?」

 人気の少なくなった廊下に、静かな声が響く。
 ゆっくりと歩く俺と真知子は、既に教室まで来てしまった。

「俺の用事は、少々時間がかかると思うねんけど。教室に忘れモンしとったりな、色々あんねん」

 彼女の言いたい事を、俺はわかるような気がした。
 彼女は強い目で、じっと俺を見る。

「じゃあ、私の話を先にすませるわ。ここで聞いてもらって良い?」

 ろうそくの炎が風で揺れるように、彼女の強い目は時折ぐらつきながらも、しっかりと俺を見ていた。
 俺はその目を受け止めながら、ゆっくりうなずいて教室の前で足を止めた。

「……うん、そんで……?」

 彼女の目を見たまま、俺は静かに言った。

「一年の時は、ごめん。私も子供だったと思う。いろいろ侑士の良いところが、わからなかった。だから侑士がまだ私の事、嫌いじゃなかったら……」

 彼女が強い目のその奥で、泣きそうな顔をしているのが分かる。
 俺は、やっぱり自分はガキなのかもしれないなと思った。
 いつも大人でクールな彼女は、俺が思っていたより弱い女の子だったのかもしれない。俺は、そんな事もわからなかった、ダメな男だ。

「……そうか、うん……おおきにな。多分、真知子が俺にそない言うてくるん、すごい勇気要ったやろう思うわ……」

 こんな時に、気の利いた言葉はいらない。
 俺は思った事をそのまま、丁寧に言った。

「……俺も最近また真知子と話すようになって、ちょとワクワクしたりしてな、いろいろ考えててんけど……」

 俺は彼女の弱いところをわかってやれなかったダメな男だけれど、せめてきちんと自分の中の本当の言葉を言おう。それが、俺なりの誠意だ。

「……けど俺な、結局のところあんだけ真知子に言われたけど、あの頃とちっとも変わってへんねん。きっと真知子が思うほど、俺大人ちゃうねんわ。相変わらずアホアホ言うし、ボケもツッコミも要求するしな。考えたけど……やっぱり正直言うて、一緒におってもきっとまた同じ事の繰り返しやと思う。もう少し早うにはっきり言わな思ててんけど、真知子がどういうつもりかわからへんかったし、ごめんな」

 真知子の表情は変わらないけれど、鞄を持っていない方の手はぎゅっと白くなるほどに握り締められていた。

「だからな、もう真知子と一緒に帰られへん。じゃあ俺、忘れ物のプリント取ってこなあかんし、もう帰っとき」

 俺は、彼女に感謝の意をこめつつ、そう言い放った。心の中では、今までありがとうな、とつぶやきながら。
 彼女は大きく深呼吸をすると、静かにうなずいた。
 俺は真知子に背を向けると、とりあえず教室に入った。
 がいるとは思えないけれど、まずは仕切りなおしだ。
 が、俺の意に反して、教室には一人、窓際のいつもの席にがいた。
 お馴染みの、あのびっくり顔をして。
 俺も少々驚いてしまったが、しかし俺はまっすぐ彼女の方へ向かった。正確には彼女の隣の俺の席へ、だが。
「おう、ちょと忘れ物してん。歴史の課題のプリント」
 そう言って机の中を探りながら、俺はちらりとを見た。
 彼女は何も言わず、居心地悪そうにうつむいている。
「……あれ、ないわ。どっかやってもうたんかな。、あのプリント持ってる?」
 俺が顔を上げて言うと、はぎょっとしたような顔をして、そして小さな声で答えた。
「あるよ」
「さよか、せやったらコピーさしてや。明日提出やからな、今日は持って帰らんとヤバいわ。ちょと、一緒に購買のコピー機んとこまで付き合うてんか」
 俺が言うと、は一瞬ちらりと戸が開けっ放しの廊下を見た。
 多分、その視線の先には真知子がいただろう。
「……貸してあげるから、コピー行ってきたら?」
 は消え入りそうな声で言う。
「どうせもう帰るとこやろ? 購買から戻ってきたら遠回りになるやん。はよせんと、購買かて閉まってまうやんけ」
 俺はなんとしてもここからを連れ出して、明日の提案をしなければならなかった。

もう一度、俺の隣にならへん?

 その一言を伝えるのだ。
 俺がせっつくと、は渋々というようにうつむきながら俺と教室を出た。
 俺たちが教室を出る時、真知子がくるりと背を向けて廊下を歩いて行くのが、見えた。

「忍足くん、早くしないとコピーできなくなっちゃうよ」
 は律儀に鞄からプリントを取り出し、焦ったように俺に差し出す。
 教室からしばらく歩いた俺は歩くスピードを少しずつ遅くして行った。
「ええねん。プリント、実は持ってるねん」
 俺がそう言うと、は足を止めた。
 俺も立ち止まって彼女を振り返った。
 俺を見上げるは、悲しそうな、怒ったようなまっすぐな顔で、そんな彼女の顔は、俺は初めて見た。

「忍足くん、今回のはちょっと違うんじゃない」

 凛とした彼女の声は、俺の胸に突き刺さるようで、俺は戸惑う。
 彼女は俺の返事も待たずに続けた。

「……さっきみたいな事がどういう効果を持つのか、わかってるんでしょう。女の子を断って、その場から別の女の子と連れ立って去って行くなんて」

 プリントをぎゅっと握り締めたまま、俺を見据えて言う彼女は、いつも俺にアホアホ言われて笑っている彼女の顔ではなかった。

「……ああ、わかっとる」

「本当に忍足くんがプリントをコピーする必要があるんだったら百歩譲って仕方ない事だけど、あんな嘘をついてわざわざ私を連れ出すなんて、ずるいんじゃないの」

 の一言一言はしっかりと強くて、俺は何も言えない。
 言わなければならない一言が、どうしても言えなかった。
 彼女は肩を震わせながら深呼吸をした。

「自分の恋にケリをつけるのに、あんな形で私を利用するなんて」

 は泣き出しそうな声を絞り出す。

「今まで忍足くんがどんな事を私に言ってもそれはまっすぐな事だと思ってたけど、これは違うでしょ。私には何をしても傷つかないと思ってるの?」

 はプリントを持った手を振り上げて、そしてその行き場のなくなった手で、バンっと俺にプリントを押し付け、そのまま俺に背を向け走って行く。

 が廊下で足を止めて俺を睨みつけた時から、俺の中のもう一人の俺は、『早く、明日の事を言うんだ』と必死に叫んでいた。
 けれど、俺はそれができなかった。
 俺は、ずっとに甘えていたのかと、初めて気づいたから。
 俺が調子に乗って何を言っても、怒りもせず、泣きもせず、呆れて笑っていてくれていた。そんな彼女に甘えていた俺は、まったくどうしようもないガキだった。
 俺は、ついにを傷つけてしまったのだ。

もう一度、俺の隣にならへん?

 昨日から用意していたその言葉は、ついに今日、に伝える事ができなかった。




 翌日、隣の席のは、頑なに俺を見なかった。
 それはもう頑なに廊下の方を向いてばかり。
 それでも俺の心は決まっていた。
 が俺の隣の席は嫌だと言っても、昔のように俺を好きな気持ちがなくても、構わない。俺はもう一度、彼女の隣に座ろう。そして、もう一度俺の方を見てもらえるように、じたばたしてみよう。彼女には、一年の時に格好悪いところを見られている。今更格好つけたって仕方がない。

 席替えの時間がやってきて、は相変わらず俺を見ないまま、すっと席を立ってクジを引きに行った。俺は、彼女が紙切れを開いて番号を確認し、新しい席に移動するのをじっと見つめる。彼女の座る席を確認して、俺は胸をなでおろした。彼女の隣の席はまだ空いている。
 当然ながら、次にクジを引きに行った俺の手には、その目当ての席の番号の紙。
 まあ、千の技を持つ天才としては、これくらいはせんとな。

 新しいの席は、廊下側の一番後ろという上等な席だった。
 その席で、相変わらず廊下を向いたままの彼女の隣に、俺は静かに腰を下ろした。早くこっち向けや、と念じながら彼女を見ていると、ようやくちらりと顔を向ける。
 そして、隣にいる俺を見て、あの、最高に驚いた顔。
 俺はその顔を見ると少しほっとして、なんでもないように言うのだ。

「ああ、せや、これ」

 そして、が握り締めてくしゃくしゃになった歴史のプリントを彼女の机の上に置いた。どや? ちゃんと中身も埋めたるで?
 は複雑そうな表情で、じっとそのプリントを眺めていた。

「……昨日、すまんかったな。がどう思うのかわかっとったけど、傷つけよう思うてたんとちゃうねん」

 うつむいたままのをじっと見つめながら、俺は静かにゆっくりと言った。
 すると、ようやくはため息をつきながら顔を上げて俺を見る。
 俺を見る彼女は、またあのびっくり顔に加え、やけに戸惑ったような顔。
 昨日の泣きそうな顔より、やっぱりこっちの方が良い。
 どちらかというと、俺の方が泣きそうな顔かもしれないが。

「……でもね、傷つくよ」

 やれやれ、と言うようにつぶやく彼女に、俺もため息をついた。
「せやな、ほんま、ごめん。けどあん時、俺、ほんまにに用事があってん」
「用事? 何?」
 のリアクションはいつものようにストレートだ。
 だから、ついつい俺もいつものように振舞ってしまう。
「いや、もうええねんけど」
 俺が思わせぶりに首を振りながら言うと、案の定彼女はムッとした顔。
「何よ、言いかけてやめるなんて、いやらしい」
 そんな風に言う彼女に、俺はちょっと嬉しくなって、元気が出てきた。
 本当にコイツは、思ったとおりの反応をしてくれる。
「せやかて、もう済んでもうたし、事後承諾になってまうもん」
「はあ? 何?」
 はイライラしたように聞き返す。
「俺な、ウチのテニス部では『千の技を持つ天才』て言われてるねん」
「はあ?」
 相変わらず、わけのわからないような顔をしている彼女に、俺は続けた。
「せやからな、席替えのクジに細工するなんて、お茶の子さいさいやっちゅうねん」
 はちょっと怒ったような顔から、またあのびっくり顔に戻って、俺の指先にあるクジ引きの紙と俺の顔とを交互に見つめた。
 どうやら、鈍いコイツもようやく理解したようだ。

「席替えの打ち合わせしようやって話そうと思ててん、昨日。けど、怒って帰ってもうたしやな、しゃーないし、が隣の空いとる席を引くん祈っとったんやんか。ええ席引きよって、ホッとしたわ」

 はぽかんとしたまま、俺の渡した歴史のプリントを握り締める。おいおい、提出せなあかんのにクシャクシャになってまうで。
 彼女は何も言わず、昔俺に振られた時に見せたよりもさらにパワーを増したびっくり顔で俺を見るばかりだった。

「おい、聞こえてんのんか? このラジオ、チューニング合うとらへんのとちゃう?」

 ま、そもそも東京じゃKiss-FM神戸は入らへんねんけどな、なんてスットンキョウな事を考えながら、俺はのこめかみをつついてみた。

「……電池切れかけ」

 すると彼女はそれだけ言って、机にうつぶせになってしまう。

「『あいつは元カノやねん』とか話したくらいから、そろそろ気付けやって思ててんけどなあ。『恋は普段の積み重ね』って言うたん、自分やろ」

 うつぶせた彼女に、俺は笑いながら言った。
 電池が切れかけたらしいラジオからは何も返ってこない。
 仕方がないので、俺は 『忍足侑士のオン・ザ・レイディオ、この番組は……』 と彼女に向かって自前のラジオ番組を流してみた。
 なあ、自分がツッコまへん限り、このウザいラジオ、ずっと続くねんで。
 そう思いながら俺がアホみたいにインチキDJを続けていると、彼女の肩がクックッとおかしそうに震える。はよ顔上げて、あの呆れたようなびっくりした顔、俺に見せろや。
 一年の時はなんでもなかったあのびっくり顔は、時限爆弾のように今になって俺の中ではじけて、俺を心からワクワクさせるから。

(了)
「恋は時限爆弾」

2007.10.28

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