リナロール



雲雀恭弥はその日も応接室のソファに身を預け、一人ゆったりとした時間を過ごしていた。
彼は「学校」が好きだった。
彼が自由に生きる事を何一つ邪魔しない、学校。
彼の王国。
生徒とも教師とも、交わらない。
しかし、彼に不愉快な思いをさせた者は遠慮なくかみ殺す、という信条が徹底できているこの社会は快適だった。
大人になってゆくというのは、そういった自分の力の範囲をどんどん広げてゆく事なのだろう。
そんな事を考えながら、執務室で目を閉じようとしていると、ドアがノックされた。
はっと目を開けて顔を上げると、彼の返事も待たず扉が開いた。
思わずトンファーを握り締める。

「雲雀くん、寝ていたのかしら? ごめんなさいね、建物委員から緊急の調査があるの」
 入ってきたのは女だった。
「……なんだ?」
 トンファーを袖の下に押し入れて、不愉快そうに答える。
 この女の顔と名前は知っている。確か、、だ。
「防災強化という事で各居室の安全対策に、外部調査が入ることに決まったんですって。調査までに、各教室はそれぞれの担当の先生が整備するそうなんだけど、こういう管理者がはっきりしていない居室は建物委員がチェックしておかなければならないの」
 てきぱきと話すが、その声と口調は穏やかで、耳障りではない。
 彼女は昔からそうだった。
 雲雀が一年の時、委員会総会で初めて彼女と会った。
 最上級生だった彼女が議長をしていたのだ。自己紹介をした新入生の彼に、
「雲雀くんね、よろしく」
 と言っていた。
 今では風紀委員長の彼を「雲雀くん」などと呼ぶ人間は、学校中で彼女くらいしかいないだろう。
 そう、二年前は上級生だったけれど、今では同じクラスの彼女しか。
「で、それって具体的にどうすればいいの」
 雲雀はソファから体を起こして冷ややかに言う。は手に持ったファイルをぱらぱらとめくって、一枚の紙を彼によこした。
「そんなに難しくはないわ。そこにチェック項目が書いてあるでしょう?保管庫の上に物が載ってないか、避難の際につまずくコード類がないか、保管庫は耐震対策をしてあるか、とか。それらの項目にひっかからなければ良いの」
 言って、今度は部屋の見取り図を取り出した。
「あとね、ソファやなんかは、扉に向かってこう、置くようにって」
 は今あるソファをくるりと90度回転させるような手振りをした。
「有事の際に避難しやすいように、ですって」
 言いながらくすっと笑う。
「……ばかばかしい」
「そうね、ばかばかしいけど、やっておいた方がいいわ。外部評価でやってくるオジサンたちにワイワイいじられるのは、きっと面倒よ」
「まあ、そうかもしれないね」
 彼が言うと、はさっそくソファを動かそうとする。
「おい、待て、触るなよ! 後で風紀委員の連中にやらせる!」
 雲雀は怒鳴ると、キッとを睨んだ。
「余計な事はするな。第一あなたに力仕事はできないだろう」
 は驚いた顔で雲雀を見た。
「……ごめんなさい。……でも、私、今はもう大丈夫なのよ」
 二年前、委員会総会で彼を「雲雀くん」と呼んだは、会議の途中で倒れた。もともと色白な彼女の肌が、すうっと透けるようになって青ざめていったのを、覚えている。そのまま病院に運ばれ、しばらく学校で見かける事もなかった。生まれつき心臓が悪いのだと、後日どこからともなく聞いた。ふと気が付いたら、先輩だったはずの彼女は同じ学年、同じクラスになっていた。
「去年、やっと心臓の弁を入れ替える手術が終わったから、ほんと、もう普通の人と同じように動けるのよ。昔は会議中に倒れちゃって、雲雀くんをびっくりさせてしまったけれど……」
 思い出したように笑う。
「……人工弁置換術か。弁の固定のために抗凝固療法を伴う」
 雲雀はの方を見る事もなくつぶやく。
「よく知ってるのね?」
「鈍重な草食動物じゃないんだ、常識くらいある。つまりあなたは、普通の人より出血しやすいし、血だって止まりにくい。普通の人と同じなんかじゃない」
 雲雀は立ち上がると、彼女の手から部屋の見取り図をひったくった。
「チェック項目にそって完璧に整備しておく。それでいいんだろ?」
 は大きな目でじっと彼を見上げていた。
「あと、保管庫に転倒防止金具をつける事と、部屋に懐中電灯を設置する事が必要だわ。これは先生に予算申請して、物が届き次第持ってくるわね」
 彼女の言葉に、雲雀は返事をせず、またソファに横になった。
 は黙って部屋を出てゆく。
 一人になった部屋で、彼は目を閉じた。
 が入ってくる前よりも、なんだか落ち着いて一眠りできそうな気分だった。
 なんだろう、気のせいか、応接室の空気がふうわりとかすかに甘く、彼を包み込んでいるようなそんな感じがした。

 が雲雀のいる応接室を再度訪れたのは、その三日後だった。
 手に、金具と懐中電灯を持って。
 それらを雲雀に渡すと、チェックシートを見ながら部屋の点検をした。
「うん、ばっちりね。これなら調査もすぐパスするわ。あとはその金具と懐中電灯だけ、お願い」
 雲雀はわかったわかった、というように首を振る。
 そして、はっと思い出したようにを見た。
「……そうだ、これは純粋な興味で聞くんだけどね、心臓の弁を入れ替える手術って言うと、つまりその間、心臓は止まっているわけだろう? あなたは、どれくらい心臓を止めていたの?」
 は一瞬目を大きく見開いて驚いたような顔をして、それから、きゅっと結んでいた唇を緩めた。一言一言ゆっくり話す。
「……私は、そうね、45分くらいだったと聞いてるわ。その間、心臓を止めて、人工心肺で血液を流して、呼吸は人工呼吸器で。45分間、私は自分で脈を打つことも呼吸をすることもできず、死んでたの」
「……ワオ」
 雲雀は小さくつぶやいた。
 そんな彼を見て、彼女はおかしそうに笑う。
「死んでたんだけど、こうやって、もう一度生まれたのよ。前より元気になってね」
 その時、机の向こうの窓から、さあっと風が入ってきた。
 風はの長い髪をふわりとなびかせると一息ついて、また次に強くて少し冷たい一撃を部屋に送り込んできた。
 は大きなくしゃみをする。
 雲雀はあわてて窓を閉めた。
 彼女はくしゃみの後、ハンカチを出して口元を押さえながら何度か咳をした。
「大丈夫?」
 雲雀は声をかけながら、以前に感じた不思議な甘さが広がっている事に気づいた。
「うん、大丈夫。ちょっとね、鼻炎気味なだけよ」
 は恥ずかしそうに笑って言った。
「……匂いは、それ?」
 雲雀はハンカチを指して言った。
「あ、ごめんなさい、ちょっと匂い強いかな。男の子はこういうの、嫌いでしょう」
 あわててハンカチをポケットにしまった。
「手術をする前ね、心臓がドキドキしたりする時、ラベンダーの匂いをかぐと、すごく落ち着いてたの。薬を飲むほどでもないなあっ、ていう時にね、すごく助かってた。今でも習慣で、ハンカチに少しオイルを落としてるの。おまじないみたいなものよ」
 は髪を整えると、ファイルを手に持った。
「それにしても、この部屋、いいわね。保健室はヘンな先生がうるさいし、私も時々ここで休みたいくらいだわ」
 笑いながら言う。
「お断り」
 彼のその当然の返答は予測済みだったようで、は別段気分を害する様子もなく、部屋を出て行こうとする。
「なんてね」
 雲雀の静かな一言で、彼女は足を止めた。
「僕が使ってない時なら、時々休むのは構わない。たしかにあの保健医には、閉口するだろうからね」
「……ありがと」
 は振り返ったまま笑うと、部屋を出て行った。
 初めて会議で会った時と同じ笑顔だ。
 雲雀は深呼吸をする。
リナロール, 酢酸リナリル, ラバンデュロール, リモネン。
ラベンダーオイルの成分だ。
鎮静効果はリナロール、酢酸リナリルによる。
「おまじないなんかじゃない」
つぶやくと、もう一度大きく呼吸をしてソファに身を預け、目を閉じた。






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