● 図書館警察・柳蓮二編  ●

 普段私が図書館に行く用事といえば、友達との待ち合わせだとか、試験前の勉強だとか、まあそんなところ。
 つまり、本を借りて読むようなことなんてほとんどないんだけど、それでも今言ったみたいな用事でそれなりには図書館に出入りしているから、おそらく学年一の図書館常連だろうF組の柳蓮二くんの顔は見知っていた。
 その日、図書館にいた友達に、貸す約束をしていた漫画を渡しに来て、図書館をあとにする時、たまたま柳くんと一緒になった。
 あ、また図書館にいたんだ、ほんとに読書好きなんだなーなんて思いながら、私はバイバイと彼に軽く手を振って先に歩いていこうとしたところ、彼に名を呼ばれた時は一瞬空耳かと思った。だって、そりゃこうやって軽く挨拶はするけど、まさにそれだけの関わりしかしたことない。

 足を止めて振り返ると、もう一度私の名を呼ぶものだから、空耳ではなかったと確認できた。
 私は目を丸くして、近づいてくる彼を見上げた。
「うん、なに?」
 彼の用件は単刀直入だった。
「年末に借りていた本は返却したのか?今日が返却期限だっただろう」
 コートに学校指定のマフラーという冬の帰り支度をきちんとすませている彼を、私はぽかんと見上げるばかり。
「年末にが貸出手続きをしていた、『基本の魚料理』という本だ」
「……あ、あー! あれ!」
 そうそう、そうだ。12月の終わりがけに図書館で借りたんだった。年末年始を挟むから、貸出期限は長くなるけど長くなりすぎて油断して返却日を忘れそうだなあって思ってたっけ。
「柳くん、人が借りてる本まで把握してるの? すごすぎ」
 イヤミ半分で言ってみたけど、彼はふっと笑うだけ。
「貸出カウンターでの後ろに並んでいたから、たまたま見ていたんだ。なかなか良さそうな本だったじゃないか。俺はいつも小説ばかり借りるから、たまにはああいったものに目を通すのも悪くないと思っていて今日書棚を見たが、見当たらなかった」
 私は肩をすくめて、手に持っていたマフラーを首に巻いた。
「柳くんも借りたかったの? ごめんごめん。あの本、私はお正月にじっくり読んで堪能してね、年明け早々図書館に返そうと思って学校に持ってきたら、同じクラスのジャッカルが『良さそうな本じゃねーか、学校にそんな本あったのか』って読みふけっちゃって。返却期限までまだしばらくあったから、いいかなーってそのまま貸しちゃったんだよね……」
 そのあげく、返却日の今日まですっかり忘れてしまっていた。やばい。
 柳くんは、きゅっとその秀麗な眉をひそめた。
「……又貸しか……。もっともしてはならぬことだということは、わかっているのだろうな」
 冬空みたいなひんやりした声が廊下に響いた。
「あ……うん、そうなんだけど、ジャッカルいいやつだし、軽い気持ちでつい……」
 柳くんのやけに真剣な空気に、私は言葉選びが慎重になる。
「……ジャッカルが返却期限に気づいて返しておいてくれてるといいんだけど。あ、私、カウンターで聞いてくる」
 といって踵を返そうとした瞬間に下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。当然、図書館も閉館時間だ。
「ええと、ジャッカルに電話してみる」
 バッグから携帯を取り出してアドレス帳を調べた。そういえば、ジャッカルの携帯の番号って私、知ってたっけ?
「ジャッカルは携帯を持っていない」
 相変わらず静かな声で柳くんが言った。
 気まずい沈黙が私達の周りにじわじわと広がる。もっとも、気まずいと感じているのは私ってことだけど。だって、柳くんは何を考えているのかさっぱりわからない。
「……今日はコート整備で部活は早めに終了している。ジャッカルはおそらく切原赤也にゲームセンターにでもつきあわされていることだろう」
 そう言うと、取り出した携帯をプッシュした。
「……ああ、赤也か。柳蓮二だが……」
 それだけ言うと、柳くんは顔をしかめて電話を耳から話した。
 離れていても彼の携帯から漏れ出る、さわがしいゲーセンの音。
「……ジャッカルも一緒か? そうか、取り込み中に悪いな。手が空いてからで構わないので、俺に電話をしてくれと伝えてくれないか」
 それだけを言って電話を切り、携帯を手にしたまま私の方に向き直った。
 私は少し驚いて、彼のその優雅な所作を見つめる。なに、柳くん、私が返却期限を破ってしまいそうなことを心配して、ジャッカルに連絡をとってくれてるの?
「そういうわけだ」
 そういうわけだ、と言われても。
 今日は金曜日で、明日明後日は週末。今、ジャッカルから本を奪還したとしても結局は図書館に返すのは月曜になってしまう。金曜に返すはずだった本が月曜になってしまっても、そりゃ規則を破ったということでいけないことではあるけど、まあ仕方ないんじゃないかなあ。すいませんでしたって、返却カウンターで一言謝れば、命まで取られることはないと思う。思う、じゃなくて絶対取られないって。
 と、思うものの、目の前の柳くんの重苦しい雰囲気に、そんな軽口はたたけなかった。
「……えと、あの、じゃあもしジャッカルから連絡があって本の行方がわかったら、教えてもらっていいかな?」
 私は一度しまった携帯をふたたび取り出して、柳くんと番号の交換をした。
「どっちにしろ、返却するのは月曜日になってしまうかなあ……」
 私はさっき考えていたことをぽろりと口に出した。
 柳くんは携帯をバッグにしまい、バッグのショルダーを肩にかけ直した。
 そうして、私の隣を通り過ぎて行く時に囁いた言葉こそ、空耳だったのだろうかとあわてて振り返った。

 図書館警察に気をつけろ。

 彼は確かにそう言った。
 彼の言葉を確かめようと振り返ったけれど、柳くんはすでに廊下の角を曲がってしまっていた。
 図書館警察に気をつけろ。
 図書館警察?
 なにそれ、聞いたこともないんだけど……。
 言葉の不気味さだけが私の心に妙に重く、澱のように沈んでいった。


※※※※※※※※


 金曜の夜、家の自分の部屋でくつろいでいた私はすでに柳くんとの会話など忘れかけていて、録画してたテレビ何から見ようかなーなんて考えていたところ。
 ベッドに放り投げていた、マナーモードにしたままの携帯が振るえていた。あわてて手に取ると、柳くんからの着信。
「あ、はい、もしもし……」
 少々動揺しながらも、電話に出た。
か? 柳だ」
 見えはしないことは承知で、こくりと頷いた。
「ジャッカルから電話があった」
「えっ、ほんと? どうだった? ジャッカルは律儀だから、ちゃんと図書館に返しておいてくれたかなあ」
 私は甚だ希望的な言葉を口にする。
「残念ながら、物事は楽天的にはいかぬようだ。ジャッカルは『基本の魚料理』を、更に精市に貸したらしい」
 電話口のむこうの柳くんがどんな表情をしているのかは、わからない。でも、彼が私の間抜けづらを想像するのは、きっと容易なことだろう。
「はあ? せいいち?」
「幸村精市。立海大附属中テニス部の元部長だ」
 あのテニス部の幸村くんに!?
「……どうしてまた幸村くんが……」
 混乱しながらも、なんとかそれだけを尋ねた。
「どうということはない。精市は魚料理を好むからな、ジャッカルが手にしているのを見て興味を持ったのだろう」
 幸村くんに請われて断りきれないジャッカルの姿が目に浮かんだ。
「あの、それで、結局あの本は幸村くんが持ってるのかなあ」
「精市は健康に留意しているから、就寝が早い。今電話をしても、布団の中だろう。週末の練習試合には顔を出すと言っていたから、明日学校で聞くがいい」
 聞くがいいって、私が直接!? 
「心配するな、俺も顔を出すつもりでいるから、一緒に聞いてやる」
 私の心を見透かすように、柳くんは言った。
「ほんと? ありがと」
 柳くんは練習試合の始まる時間だとかを手短に教えてくれて、それで通話は終了。
 何がなんだかわからぬまま、私は明日の土曜日、休日だというのに制服で学校に行くはめに。
 でも、ちゃんと責任持って本を返却できなかった私が悪いんだから、仕方がない。
 あ、図書館警察って何? って聞くのを忘れちゃった。

 その夜、夢の中で私は小学生低学年くらいの子供に戻っていた。
 自分の部屋のベッドから起き上がり、廊下に出ると暗くて見たこともない通路。それでも私は部屋を出て、その暗く長い廊下を歩いて行かないといけないことを覚悟していた。だって、もうすぐ私の部屋には図書館警察が来るから。部屋を出て廊下を歩くと、背後から気配。振り向きたくないけど、振り向かずに入られない。廊下の角を曲がって深呼吸をしてから振り返る。やつはまだ追いついてこない。廊下の角に隠れて、こっそり姿を見よう。おそるおそる覗くと、そこにはトレンチコートに目深に被った帽子で顔を隠した長身の人物。それが図書館警察だと、夢の中の私は知っていた。声にならない声で、図書館警察はささやいている。なぜか私にはひとことひとこと、はっきりと聞こえる。
『本を返さんか!』
『本を返したまえ』
『本を返すナリ』
 帽子から見え隠れするその顔は、なぜだかテニス部の面々の顔に次々と変わっていった。
 私は暗い廊下を走って逃げる。
 ちがう、ちがうの。今、本はみんなの部長の幸村くんが持ってるの。返却日を過ぎても手元に持ってるのは、私じゃなくて幸村くんなの! 悪いのは私じゃない!
『俺のせいだっていうのかい? 悪いのは、禁止されている図書の又貸しをした子じゃないのかい? 図書館の規則を破った子には、図書館警察のおしおきが待ってるんだって知らないはずはないよね?』
 いつのまにか私の足は動けなくなり、廊下の壁に追い詰められていた。
 誰か助けて。もう絶対に本の又貸しはしません! 図書館の本の返却日は守ります!
 子供の姿をしている私は、そうやって叫ぼうとしたけれど、声が出なかった。
 迫りくるトレンチコートの図書館警察が恐ろしくて、夢の中の私はぎゅっと目を閉じた。
『だから言っただろう』
 新たな、聞き覚えのある声に私はゆっくり目を開けた。
 図書館警察の姿は消えてはいない。
『図書館警察には気をつけろと言ったはずだ』
 帽子の下の顔は冷ややかな口元の柳くんだった。

 冬の朝だというのに、私は寝汗びっしょりで目が覚めた。
 ……オシッコちびりそうなくらいに怖い夢だった。
 枕元に置いてあるペットボトルの水を一口のんだ。
 夢の中の図書館警察を思い出した。
 ……怖かった。風紀委員長の真田くんの顔で「本を返さんか!」と言われたどしょっぱつがきいた。幸村くんの「おしおきが待っている」には腰が抜けた。
 ……昨日からやけに私に親切にしてくれる柳くんも、図書館警察だった。
 それでも……。
 あの面々を思い出すと、私を逮捕する図書館警察は、まだ柳くんだったらちょっとはましだな……。
 そんなことを思いながら時計をみて、私は飛び起きた。
 やば! 柳くんに言われていた時間、もうすぐじゃん! 怖い夢見てたわりに熟睡してた!
 
 あわてて制服に着替えて学校に向かい、テニスコートに歩いていくと同じように制服でマフラーを巻いた柳くんが優雅に歩いていた。今朝の夢の中の、図書館警察の姿をした柳くんを思い出してどきりとする。
「おはよ! 柳くんは試合出ないの?」
 私が言うと、彼はくすっと笑った。私はなんとなしにほっとする。うん、落ち着いたおだやかな柳くんだ。今朝の図書館警察はただの夢。それに、昨日柳くんが図書館警察なんて言ったのも、きっと私の聞きちがい。
「俺たち3年はもう引退している。試合に顔を出すというのは、後輩たちの成長ぶりをチェックするだけだ」
「あ、そうか、そうだよね」
 私ってば、あほみたいなこと聞いちゃったな。なんだかんだ言って、どうにも内心は図書館の本のことで動揺してるみたい。
「ところで、には残念な知らせがある」
「えっ?」
 いきなり残念って、なに!
「精市はこの週末、家族で泊まりの旅行に出かけているらしい。戻るのは明日の夕方だ」
「え……ってことは……」
「精市が本を持っていたとして、回収できるのは早くて明日の夕方ということだ」
 一瞬がくぜんとしてから、はっと我に返って深呼吸をした。
 トレンチコートの図書館警察は夢なんだよ。
「そっか、だったら仕方ないよね。土日は図書館の返却カウンターの人もいないし、やっぱり遅れて月曜に返却するしかないよね。いろいろありがとう、柳くん」
 私がそう言うと、柳くんはその細い目を一瞬見開いた気がした。澄んだ鋭い瞳が見えたのは気のせいだろうか?
「……こっちへ来い」
 柳くんはそう言うと校舎の方へ向かった。
 私は逆らう理由もなく、そのまま彼の後をついていく。
 校舎に入った彼は、図書館に向かい、何事もないように鍵を開けて中に入った。
「あれっ、図書館って土日祝日は開いてないんじゃなかったっけ?」
 柳くんはふっと笑って鍵をポケットに入れた。
 柳くんがどうして図書館の鍵を持っていて、こうやって手慣れたように出入りしているのかなんて、きっと聞いても答えてくれないだろう。私はため息をついて肩をすくめた。
「昨日、俺が言った言葉を覚えているか」
 誰もいない図書館に、静かな声がひびく。
「昨日言った言葉?」
 私語を叱る司書の先生も図書委員もいないというのに、私は習慣でつい声が低くなる。
「図書館警察に気をつけろ、と言ったはずだ」
 私の脳裏にトレンチコートと帽子の恐ろしい図書館警察がよぎった。
「図書館警察?」
 しらばっくれて言うけれど、私の声は震えていたと思う。
「図書館警察を知らないのか?」
 柳くんの声はやわらかい。
「……知らないよ。だって、実は図書館で本の貸出するの初めてだもの。そういう細かい規則とか、入学の時に聞いたかもしれないけど、忘れちゃってると思う……。図書館警察って何なの?」
 書庫に沿って歩きながら、柳くんは棚の本のひとつひとつを眺めては時々大きく息を吸う。図書館の空気を吸い込むことがよっぽど好きみたいだ。
「その名の通りだ。図書館の本が期限内に返却されない場合、借り主に罰則を与える。本を破損・紛失しても同様だ」
「ば、罰則?」
 夢の中で幸村くんの顔をした図書館警察が言っていた言葉を思い出して、ぶるっと震えた。
「罰則って、ほら、あれ? 返却が遅くなった日数だけ、次の本を貸し出すことができませんってやつだよね?」
 震えた声のまま私が言うと、柳くんはあの穏やかな笑顔のまま。
「そんなものだといいんだがな」
 柳くんは図書館警察なんだろうか?
 夢の中の最後のシーンがよぎる。
「ところで、はこれまで一度も本を借りたことがないというのに、どうして思い立って本を借りたんだ? しかも魚料理の本」
 図書館の中にさあっと外の太陽の光が入ってきた気がした。
「ああ、あの本ね」
 私たちは書庫の森を抜けて、窓際の机の椅子に腰を下ろした。
「うちのお父さん、釣りが趣味でいろいろ魚を釣ってくるんだけどさ、魚さばくの結構大変みたいでお母さんたまに大爆発して怒っちゃうんだよね、大漁だと。私は魚好きでさ、そういう時、お父さんがあわててお魚を知り合いの料理屋さんにあげちゃったりすると、『あー、私それ食べたかったのにー』って思ってたわけ。だから、これはひとつ自分でもさばけるようになってみようかと思ってあの本借りたの」
「ほう」
 柳くんは面白いものでも見るように目を見開いた。
「それで、成果はどうだったんだ」
「もうばっちりよ。もともと家には包丁とかは揃ってるし、魚はお父さんがばんばん釣ってくるから失敗なんか気にせず冬休み中にがんがん練習したもん。お母さんには、食べ切れないからもう下ろさなくていいって言われるくらい。今、ちょうど上達してきて面白いさかりなのにね」
 私が言うと、柳くんはくくくと笑った。
「そうか、それは何よりだな」
 窓の外を見ると、冬だというのにほっこりした積雲ができている。
「明日の夕方には精市は帰宅をする。おそらく帰宅をしたら、練習試合を見に来るはずだ。本のことはその時に確認しよう」
 図書返却の話題に戻って、私の気分のトーンが下がる。
「……でも、明日本を受け取っても返却するのは月曜になっちゃうよ」
 すがるような声で言うと、柳くんはやさしく笑った。
「何のためにここに連れてきたと思っている。明日、本を受け取ることができたらカウンターにおいておけばいい。月曜に見た担当者は、金曜に返却されていたものが返却手続きをするのを忘れていたのだと思うだろう」
 彼の言葉に、私は目の前がぱあっと明るくなった。
「……ありがとう、柳くん……!」
「明日の練習試合は午後だ。では、また学校で」


※※※※※※※※


 翌日の朝、私は興奮した指先で携帯電話で柳くんの番号を探し、通話ボタンを押した。
「あ、柳くん? おはよう! 今、電話いい?」
「ああ、どうした」
「あのね、あのね! 今朝、お父さんが平目釣ってきたの! 大きいやつ! で、『こんな大きいのどうするのよ!』ってお母さんが怒っちゃって、お父さんがそれをなだめるためにドライブに出かけちゃって、平目はほったらかし。これはチャンスだって思って、さばいちゃおうと思うんだよね。大物に挑戦してみたかったの。お母さんがいいたら、そんなに食べ切れないからやめて! って叱られるだろうからいないうちにやっちゃおうかって。だから、柳くん、食べに来てくれない?」
「……俺がか?」
「都合わるいならいいけど。どうせ午後には学校に行くし、昨日、私に聞いたじゃない。本を借りた成果はあったのかって。返却日を破って図書館警察につけねらわれるはめになっただけのことはあるって、納得していってよ!」
 少々強引に誘うのは、少しでも平目を減らしたいから。
 柳くんは、わかった、とだけ言って電話を切った。
 
 2時間後、玄関のインターフォンが鳴った。きっと手が離せないだろうと思って、鍵は開けてある。
 私はキッチンから走り出て扉の前で声を上げた。
「柳くん? 開いてるから入ってきて!」
 がちゃりとノブがまわされて、制服にコートを着た柳くんが姿を表した。と、同時にぎょっと目を見開く。その視線の先には、私が手にしている刺し身包丁があったのは言うまでもない。
「あ、ごめんごめん、今佳境に入ってて。これじゃジェイソンだよね」
 入って入ってと彼をダイニングに招き入れた。
「今、えんがわを外してるとこ」
 柳くんは興味深そうに私が平目と格闘しているところを背後から眺めていた。
「やっぱり大きい魚やると面白いよ。私、料理はそれほど好きじゃないけど、魚さばくのははまるねー。お刺身好きだし」
「さくにしたものは昆布ではさんで冷蔵庫にでも入れておくと、晩に食べるときに美味しいぞ」
「あ、そっかそっか、なんかそんなことを本にも書いてあった気がする。柳くん、料理くわしいの?」
「それほどでもないがな」
 なんて言いつつも、柳くんは少なくとも私よりは料理についての造詣は深いようだった。
 私が平目のさくをどーんと刺し身にして、さあ食えみたいに出すと、柳くんは苦笑いをして『無礼を承知で言うが、少々台所を借りていいか』と言って、ジャケットを脱いで腕まくりをした。
 柳くんが手早く加工してくれた末にテーブルに広がったのは、塩をした平目を湯引きにしたお茶漬けと、平目と野菜のカルパッチョ。
「ああそうか! こんな風にすればいいんだ! 私、刺し身で食べることしか思いつかなくて! さすが柳くん、すごいな!」
 ちょうどお腹も減ってきていた私は茶漬けをばくばく食べる。あっさりとした塩のお茶漬けに平目の歯ごたえ、なんともいえない。
 柳くんは言葉少なに、それでも満足そうに平目を平らげていた。
「……ね、本借りた甲斐あったでしょ? 返却日は守れないかもしれないけど」
 返事はなかったけど、目の前の皿を空にしたってことでよしとする。
 さて、私は平目の残骸を片付けて制服に着替えた。
 二人で家を出て、学校に向かう。

「幸村くんって、何時くらいに旅行から帰ってくるのかな。学校が閉まる時間までに間に合うといいんだけど」
「今日の試合は観に来るつもりでいるらしいから、間に合いはするはずだ」
 柳くんの言葉が心強い。うん、彼は図書館警察じゃない。だって、だとしたら私の不正な返却を手伝ってくれるはずがない。あれは、ただの夢。
 学校へ行くと、私たちは図書館へ直行した。
「柳くんは観なくていいの?」
「昨日見てデータ収集はすんでいるんだ。結果はすでに予測がつく」
 そう言って、窓際の席に腰掛けて書棚の本を取り出し読みふけった。
 ふーん、あとは幸村くんを待つばかりか。
 窓から差し込む光に照らされて本を読む柳くんは、とてもきれいだった。
 普段目を細めたような表情が多いけれど、よく見ると彼は目が小さいわけじゃない。時折見開くその黒い綺麗な目は、しっかりしたまつげにふちどられている。本を読むためにうつむく角度を、少し上から眺めるのがベストアングル。なんてね、彼が読書に集中しているのをいいことに、私はじっくりと柳蓮二を観察した。
 冬の陽だまりはここちがいい。
 私は自分が溶けるような感覚で眠りに落ちていくことに抗わなかった。



 柳くんの声で目を覚ますと、太陽の位置が変わっていることに気づいた。
「あ……幸村くん、来た?」
 柳くんの手には携帯電話があった。
「幸村の乗った列車が遅れているそうだ。練習試合を見に行けそうになくすまない、と連絡があった」
 私はねぼけた頭でその意味を吟味した。
 幸村くんが来れない?
 つまり、私は本の返却期限を守れないって確定したということ?
「……そ、そっか。だったら、仕方がないよね。明日、素直に図書館で謝ることにする……」
 私の脳裏には、あの時見た夢が蘇った。トレンチコートの恐ろしい図書館警察。
「図書館警察が黙ってはいない」
 柳くんの声が響いた。
 さっきまで休日に忍び込んだ誰もいない図書館は、不思議に落ち着く場所だったのに、今は不意によそよそしい空気になっている。
「……ねえ、柳くん。図書館警察って何なの? 冗談で言ってるんでしょ? そんな、学校の七不思議じゃないんだから、いるわけないじゃん」
 そう、どう考えたって図書館警察なんているはずがない。
 なのに、この不安な重苦しい空気はどうしてなんだろう。
 歴史ある立海の図書館は古い蔵書も多くて、決して不快じゃないけれど独特の匂いがする。古い紙の、ほんの少し埃っぽい匂い。さっきまでそれは窓から差し込む太陽の光とあいまって、私を眠りに誘う香りだったのに、今では毒薬のように感じた。
 押し黙っている柳くんに、私は思わず尋ねた。
「……一体私はどうなってしまうの?」
「……図書館警察は単独組織ではない。図書委員の作った規則に基づいて、罰則を執行する図書館警察が各委員それぞれから選出されている。例えば、風紀委員では弦一郎だ」
「えー! 真田くん!」
 突如現実味を帯びた話に、いきなりの展開。
 夢の中のあのとりわけ恐ろしい図書館警察が思い出されて、つい恐怖の声を上げてしまった。
「そして、生徒会から選出されている図書館警察官は……この柳蓮二だ」
 夢の最後を締めくくった図書館警察は柳くんだった。
 柳くんは、私の味方だと思ったのに。
「……やっぱり柳くんも、図書館警察だったんだね……。もしかしたら、図書館警察から私を守ってくれようとしたのかもしれないなんて……甘かったかな……」
 太陽の光が差し込まなくなってきた図書館はぐっと温度が下がり、周りの書庫は少しずつ私に向かって距離を縮めているような気がしてきた。
 図書館警察なんているはずがない。
 言葉にして頭でくりかえしていても、柳くんの忠実な部下のようなハードカバーの古い本や高い天井まで続いている書庫に囲まれていると、私は今までいた世界から全く違うところに迷い込んでしまったようだった。つまり、図書館警察が取り締まっている世界に。
 携帯電話をしまった柳くんは立ち上がると、ずいと私に近づいた。
 ふわりと白檀の香りが私の鼻をついた。その香りに酔ったように、一瞬頭がくらりとする。
「図書の返却日を破った罪にあたり、図書館警察が処罰を与える」
 少し前まで、彼のそばで安心してうたた寝をしていたことが嘘のよう。
 図書館の空気は冷たくて、柳くんの冷ややかな声に私の足は震えた。
 逃げ出したいのに、体が動かない。逃げ出したところでこの図書館は、図書館警察に包囲されているのかもしれない。
 椅子に座ったまま片手で机にしがみついている私の前に、柳くんの身体が覆いかぶさる。
 なめらかな動きで、柳くんの白い手が私の頭を抱え、唇が私のそれを覆い、熱い舌が侵入する。
 私の震えが止まって、一瞬後にまた震える。今度は熱を伴う震え。
 ひととおり私の咥内をかきまわした舌が離れて、私はようやくふうっと息を吸う。
 これで、図書の返却日を守れなかった罪は赦されるの?
 そんな私の心を見透かすように、柳くんは私の前髪をかきあげ、じっと目を見た。
「言っておくが、図書館警察の処罰は容赦ないぞ」
 もう一度くちづけて、今度は私の身体を抱きしめた。
 身体をまさぐる手が制服のブレザーをさぐり、前のボタンを外した。ワイシャツに直接彼の大きな手がふれる。柳くんの手はひんやりした印象だったから、その熱に驚かされた。
「……私、どうしたらいいの?」
 次に唇が離れた瞬間、搾り出すように言うと、彼のふっという低い笑い声が響いた。
「あと10秒経ってわからなかったら、その時にもう一度質問しろ」
 そう言うと、私の耳を軽く齧ったあと、また激しいくちづけ。
 右手でワイシャツの上から身体をさぐり、左手は軽く私の足を撫でた。
 どれだけ時間が経ったかはわからないけれど、私が柳くんにもう一度質問をすることはなかった。
 正解なのかどうかはわからないけれど、私は柳くんの背中を抱きしめて、その舌をからめることに精一杯だったから。いつしか私の身体はこの図書館の中に溶け出してしまったような感覚で、椅子に座ってはいるものの自分で自分の身体を支えてる自信はなかった。
 夢中でなされるがまま彼に身体を預けていると、下校時間を告げるチャイムとともに、彼は私から身体を離した。
 まるで何事もなかったかのような彼の表情に、私はあわてて服を整えた。あたりに溶け出していた意識を集中させる。
「……図書館警察って、みんなこういうことするの? 私、どうなっちゃうの?」
 図書館の不穏な空気は消えない。
 うつむきながら、つぶやく私の前に、柳くんはひざまずくようにして顔をのぞきこんだ。
「心配するな。他の図書館警察には指一本触れさせない。を処罰できるのは、この柳蓮二だけだ」
 私が目を丸くして彼を見つめると、柳くんは少し逡巡してこう付け加えた。
「……俺がは今までに刑をを執行したことはない。俺が処罰するのは、だけだ」
 そう言うと、私の下から仰ぎ見るようにしてもう一度くちづけた。どうしてだか、今度はちょっとばかり遠慮がちな触れるだけのキス。図書館警察というより、中世の騎士みたい。私はそっと彼の髪に触れた。
 その時、柳くんのブレザーのボケットが大きく振るえる。
 彼は唇を離して、ポケットの携帯を見た。
「……ああ、精市からメールだ。今、テニスコートにいるらしい」
「えっ、まじで!」
 私は飛び上がって図書館を飛び出した。
 二人でテニスコートにかけつけると、そこには私服姿でいかにも旅行帰りといった感じの幸村くんが立っていた。
「赤也はなかなかよくやっているようじゃないか」
 幸村くんの話もそこそこに、私は彼の目の前に走り寄った。
「幸村くん! 本は? 『基本の魚料理』は?」
 突然の私の言葉に、彼が怪訝そうな顔をするのも無理はないだろう。
「ほらっ、ジャッカルから借りていったでしょ? 図書館の本!」
 そこまで言って、ようやく思い至ったようで幸村くんは明るい笑顔になった。あ、笑うとやさしい顔してるんだ。夢の中の図書館警察の姿とは大違い。
「ああ、あの本ね。すまない、ジャッカルが又貸しになるんだけどって渋ってたんだけど、あまりによさそうな本だったから。俺、魚料理が結構好きなんだよ」
「そうなんだってね、昨日、柳くんから聞いた。お魚、美味しいよね」
 私が言うと、彼はまたにこっと笑う。
「あの本、もともとは、さんが借りてたのか。ごめんね、心配させただろう。でも、安心していいよ。貸出期限を確認して、俺がちゃんと金曜に返却しておいたから。一言伝えておけばよかったな」
 私は安堵のあまり足の力が抜けてしまいそうになった。
「そうなんだ……! よかった、安心した。どうなることかと思った!」
 私のリアクションを見て、幸村くんはまた笑う。
「で、あの本を読んで、だいぶ参考にしたのかい?」
「そりゃもう。今日なんか、こーんな大きな平目をさばいたところ」
 安心した私はつい饒舌になる。
「へえ、それはすごいな」
 幸村くんは楽しそうに目を輝かせた。
「是非一度ごちそうになりたいものだ」
 いつでもどうぞ、と私が言いかけたところで、すっと柳くんが私の前に立った。
「悪いな、精市。のさばいた魚は俺がいただくことになっている」
 幸村くんは一瞬目を丸くして、それから悪戯っぽい目で私と柳くんを見比べた。
「そうなのか? それは残念だ。金曜、本を返した時にさんが借りた本だとわかっていれば、声をかけたのに。そうすれば、美味い魚をごちそうになれたかもしれなかったのにな」
「残念だな、結果が全てだ。じゃあな、精市」
 柳くんは楽しそうに笑うと、踵をかえすので、私もそれに倣う。
「……そういうことだ、
「えっ? そういうことって?」
 時折、柳くんは頭が良すぎるからか話が唐突。
「興味を持ったものを手にするのは、早い者勝ちということだ。図書館警察なんていやしない」
「……えー!!」
 私は夢にまで出てきた、あの恐ろしいトレンチコートの図書館警察を思い出して絶叫した。
 この二日間の恐怖は何だったの?
「……ほんとに、ほんとに嘘?」
 彼は笑ってうなずいた。
「いるわけがないだろう。図書館警察など。返却期限が遅れたペナルティは、その日数だけ書籍の貸出ができなくなるだけだ」
「……ひどい……」
「普通、信じないだろう」
 だって、柳くんのあの真剣な表情で淡々と言われたら……。くそ、でも悔しい……。
「ああ、しかし、真実の部分がいくばくかある」
 私はびくっとして彼に向き直った。
「……を処罰できるのは俺だけで、俺が処罰するのはだけだという点だ」
 ひょうひょうと言う彼が憎たらしいのだけど、彼から受けた『処罰』が蘇って、北風の中身体が熱くなる。
「……でもさ、本は結局幸村くんが金曜のうちに返却してくれてたじゃん。つまり、私は返却期限を守ってたってことじゃん。だから、あの……処罰は、冤罪ってことじゃない?」
 悔し紛れに言ってみた。
 柳くんは足を止めて私を見た。
「言われてみればそうだな。だったら、どうする。あの処罰はなかったことにするか」
 表情の読めない彼の心の内は、多分それほど複雑ではないのだと思う。
「……そんなの……やられっぱなしですませるわけないでしょ。あれでしょ、倍返しでしょ」
 私があほっぽく言うと、彼は声を上げて笑った。
「そうか、お手柔らかに頼む。姫君」
 片手を胸に当てて凛と微笑むのは、私の図書館警察官。

2014.1.26

参考 スティーブン・キング;著、白石朗;訳「図書館警察」
 

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