モクジ

● 夕方上昇気流  ●

廊下側の窓際の、前から4列目。
 新しい私の席は、まあまあのロケーションか。
 そう思ったのもつかの間。
「おう、か。よろしくな」
 低く落ち着いた声で、きりりとしていながら穏やかな笑顔。私のすぐ前の席に腰をおろした大きな人影は、橘桔平だった。
「あー、うん……」
 私は露骨に面倒くさそうな声になってしまうけど、彼はそんなことなど気にしないで、席に着くと手早く机に教科書をしまう。
 去年の秋頃、この不動峰中に転校してきた彼のことが、私は少々苦手だった。 
 始業の声を聞きながら、私は自分の椅子の位置を動かした。橘は背が高いから、まじめに黒板を見ようとすると、位置関係的にどうしても彼の後ろ姿が目に入る。少しでも視界に入らないようにできないかな、と試行錯誤してみるけれど、どうも無理みたい。はぁーとため息をつきながら、廊下を向いて頬づえをつくと、先生の怒号が飛んだ。授業は始まってるんだぞーって。あーあ、橘のせいで、怒られちゃったじゃん。


 2年の時も同じクラスだったこの橘桔平って子がどういう子かっていうと。
 テニスが強くてテニス部の部長で、後輩から慕われてて、背が高くて男らしくてなかなかかっこよくて、優しくて親切で、わりとまじめで成績もまあまあよくて、としか言いようがなくて、つまり同級生で彼を悪く言う人なんてまずいないってこと。
 そんな彼を、どうして私は敬遠してしまうのかというと、それにははっきりとした理由があった。
 以前私がつきあっていた人は、一学年上のテニス部で、つまりは橘が作った新テニス部の前にあったテニス部の部員だったんだ。去年、テニス部に転校生が乗り込んできて「2年の橘だ。俺より強いと思う奴は前へ出ろ」なんて言ったなんて話を彼から聞いた時は、ウソでしょそんな昭和の熱血マンガの主人公じゃあるまいし、なんて思ったものだった。そいつと同じクラスだろ、と聞かれたけど私は橘のことなんてよく知らないし、彼から愚痴混じりの話を聞き続けたっけ。そのうち、橘がテニス部の1年を従えて新しいテニス部を作ろうとしてるんだとか、どんどん状況は変っていった。まあそんなテニス部の事情は、どうでもいいの。肝心なのは、橘の新テニス部がどんどん力を増して行くのと同時に、私の彼はどんどん機嫌が悪くなっちゃって。彼がいつも部活で軽く練習して、それから楽しく一緒に帰ってっていうのが私たちの日課だったのに、テニス部のトラブルがあってからなんだか疎遠になってしまって、彼が高校進学したと同時に自然消滅というのが現実。
 今となってはそのつきあってた彼に激しく未練があるとかでもないんだけど、なんていうか、私としては「橘は、なんでそんなに暑苦しいの! みんな楽しく中学生らしい部活やってただけなのに! 私の恋まで邪魔しやがって!」というのが正直なところ。
 そう、橘は暑苦しいよ!
 なんでもできて、人から慕われて、ツッコミどころもないしさ、控えめなようでいていつも自信満々だしさ。
 私はね、彼のそういうところが苦手。

!」

 先生の声で私はハッと我に返る。慌てて顔を上げると、先週の英語のミニテストが返却されているとこだった。
 受け取って点数をチェック。あー、気になってたとこやっぱ間違えてた。悔しいな、と思いながら自分の席に戻る時、ちらりと橘の机の上の彼の答案を見る。私より2点上だ。私はそれを見たなんてそぶりもなく、自分の席についた。私は勉強はあまり好きじゃないし成績だってそんなによくないけど、英語だけは頑張ってるし自信もある。けど、橘も結構英語が得意みたいで、テストの点数では負けることも多い。そういうとこも、腹立つんだよね。
、今回はどうだった?」
 ふいに橘がいつもの穏やかな笑みを浮かべた表情で振り返る。わ、びっくりした。
「え? まあまあ……」
 急に答案隠すのも悔しいし、私は机の上の答案をそのままにそっけなく答えた。
「ああ、この問題な」
 私が悩み抜いて間違えたところを指して彼は言う。
「ここ、俺も悩んだな。これは……」
 何か教えてくれようとするものだから、私は今度こそ答案を折り畳んだ。
「あ、いい。自分で調べるし。その方が勉強になるから」
 そう言うと、橘は軽く息をついて笑った。
「そうか、そうだな。悪かった」
 男の子っぽい仕草で手をふると、前を向く。
 私と橘はいつも英語のテストではわりと上位の方だから、橘は勝手に英語仲間と思ってるのかな。こういうとこも、苦手。何、自分の方が点よかったからって、上から目線? もうほっといてよねー。


 あー、もうテンション下がる。
 家に帰って、友達から借りたDVDでも観ようかななんて思ってたところ、母親からおつかいの指令。おつかい財布を手に近所のスーパーまでぶらぶら歩いた。おつかいで頼まれたのは牛乳だけど、財布の中を見ると500円玉がいくつか入ってる。よし、好きなジュースやお菓子買っちゃお、それくらいしないと今日はすっきりしないよ。席替えと橘のせいで、くさくさしてる。
 そりゃ、確かに橘は何一つ悪いことしてないよ、悪くないよ。だから私もキライってわけじゃないけど、なーんか気に入らない。
 あー、くさくさする。
 暑いしさ。
 空を見上げると、7時すぎてるけどまだまだ明るくてアスファルトからのじんわりとした熱が、私の素足をつつみこむ。
 もうすぐ夏休みだってのにさ。
 私は、去年の夏に、つきあいだしたばかりの彼といちゃいちゃと遊び歩いたことを思い出す。
 初めてつきあった男の子と、初めてのキス、初めて肌をふれあうこと。初めてづくしの去年の夏は本当にわくわくだった。抱きしめられてキスされて。それは、「大事にされてる」っていう感覚で、私はとろこそうになったっけ。
 そんななにもかもが、太陽の下のかき氷みたいにすっかり消えてなくなってしまった今年の夏。彼とくっついて過ごすの、楽しくて好きだったのにな。別に、欲求不満ってわけじゃないけど、そういう男の子がいなくなってしまったのは正直寂しい。
 ま、私も今年は受験だしいいんだけど。地元のお祭りもなにもかも、友達と行くからいいんだけどさ。
 自然消滅の彼とは、お互いなにも決定打つはない。飛行機雲のしっぽみたいな感じ。だからといってふっきれてないわけじゃないし、いいんだけどさ。
 ふてくされた気分を解消できないまま、スーパーのチルドコーナーでヨーグルトやプリンなんかを存分にカゴに放り込んむ。レジでお金を払い、お母さんに頼まれた分よりだいぶたくさんの物が入ったレジ袋を手にして店を出た。来たときよりほんの少し涼しくなって、見上げると茜空。雲の底のもこもこしたところが、夕日にほんのり照らされてきれいなピンクだった。
 近道をして、スーパーの裏の自転車置き場を通って道に出ようとした時。
 自転車置き場の方から、私の名を呼ぶ声がした。
「夕飯の買い物か?」
 橘桔平だった。
 当然、学校の外で彼と出くわすなんて初めてだから、私は一瞬どうリアクションしていいのかわからない。
 彼は制服姿で学校帰りみたい。ちょうど自転車置き場から自転車を出すところで、学校の鞄の他に、前のカゴにはスーパーで買い物したらしき物が入ってる。しかも、スーパーのレジ袋じゃなくて自前のエコバッグってやつで。
「……え? あ、うん、お母さんに頼まれたものをちょっとね」
「そうか」
 彼は明るい笑顔を浮かべる。
 じゃ、と私はそそくさと彼に背を向けて自分の家に向かって歩き出す。これ以上、話すこともないし、面倒くさい。だいたい、たいして仲良くもない同級生と学校の外で会ってしまった時くらい気まずくて面倒なことってないよね。
 来た時よりも早足で私が歩いていると、背後からかすかな金属音。そして重いしっかりとした足音。
「重そうだな、自転車のカゴにのせていくといい」
 なんと、自転車で追いついてきた橘が私の隣で自転車から降りて、さっさと私の手から牛乳とおやつのの入ったレジ袋を取り上げると自分の自転車のカゴにのせるのだ。
 えー! なに、一緒に帰るってこと?
 たぶん、私は露骨に面倒くさそうな顔をしていたと思う。
「家はこっちなのか? この時間、暗くなるのが早いからな。先生も、女子は特に気をつけろってこの前のHRで言っていただろう?」
「え? はあ? ううん、別に大丈夫なんだけど……」
 橘の自転車のカゴから荷物をひったくって走って帰るほどには、私もパワーはない。まったく、橘のこういうとこが苦手なんだよね……。面倒くさいなあ……
「……橘は夕飯の買い物頼まれてるの?」
 仕方ないから、ちょっとは会話の努力をしてみる。橘の大きなエコバッグをみたら、それは聞かざるを得ないよね。
「ああ、うちは夕飯作りは俺の役目なんだ」
「えっ?」
 私はナチュラルに驚いて声を上げてしまう。
 橘が夕飯作り?
 彼はくすりと笑った。
「結構うまいぞ。うちは両親とも忙しいから、俺が作るんだ。ばあちゃんとひいばあちゃんが一緒に住んでるから、地味な和食がほとんどだけどな」
 へええ!
 私は目を丸くしたまま、隣で自転車を押して歩く橘を見上げた。
 料理までこなしてしまうとは、なんとまあ非の打ち所のない子なんだ。私は軽く息を吐いた。
 部活も勉強も家庭も、まったく言うことなしで、ほんっとにキラキラした中学生活を送ってるよね、橘は。普通の中学3年っていったらさ、もっとなんかこう、自分のことで精一杯で悩み多きものじゃいの? って、私のことなんだけど。 橘は、どうしてこう、ツッコミどころがないんだろう。
「……そうなんだ、夕ご飯作るなんて、すごいねー……」
 私はそれくらいしか言いようがなくて。彼はちらりと私をみて、また穏やかに笑う。何? 「どうせコイツ、料理しないんだろうな」って思って笑ってるわけ? ひがみっぽくそんなことを思って、私はむすっと黙り込んだ。
私たちは本当に話題もないし、黙ったままどんどん歩く。隣からは橘の自転車の車輪の音。きっとよく手入れされているのだろう。静かなものだった。
 自分の家が近くなるとこころもち、私の歩くペースが早くなる。さっさと家に帰り着いて、橘とわかれたい。
「……ところで、
「なに?」
 唐突に名を呼ぶ彼に、私はぶっきらぼうに返事をする。
は……やっぱり、俺に腹を立てているのか?」
 そして出てきた言葉に驚いて、思わず歩くスピードを緩めて橘を見上げた。
「え? は? 何が?」
 確かに私は橘のことは苦手だなあと思うし、彼に対して愛想はないけど。その態度をとがめられたってこと?
 彼は少し改まったような顔をしている。
は、あの先輩と、つきあっていただろう」
 橘の言う意味を理解するには少し時間がかかった。
 いつのまにか、私の歩くスピードはゆっくりになっている。
「……それが、何?」
 橘が言う「先輩」っていうのは、間違いなくテニス部だった私の元彼のことだろう。だけど、それが何なの。私の顔は険しくなっていたと思う。
 橘はお構いなしに続けた。
「俺たちが作った新テニス部と、以前からのテニス部に確執があったのは、も知ってのことだと思う。が、先輩と上手くいかなくなったとしたら、もしかするとその原因の一つがテニス部のトラブルかもしれないし、そうだとしたら申し訳なかったと思ってた。は去年から同じクラスなのに、いつも俺を避けるようだから、少し気になっていたし、俺がやったことで間接的に迷惑をかけたかもしれないと思ったんだ」
 私の足は止まった。
 たぶん、口はあんぐりと開いて、そして間違いなく殺人光線が出そうな目で橘を見ていただろう。
 橘って、どういう男なの。
 私が彼とつきあってたことに気づいてたのは、まあわかるよ。私、時々テニスコートに行ってたから。だからといって、どうしてこう、ずかずかと土足で入り込むようなこと言うの。こういうこと話してどうしようっていうの。橘の自己満足じゃないの? 自分がご立派な人だからって、どこまでそれを人に押しつけるの。
 私にとって橘は今まで「苦手」な男子だったけど、たった今から「キライ」な男子に昇格した。
「……そうだね、橘の言うとおりだよ。私は今は彼と自然消滅で別れてるし、それはテニス部のことがきっかけだったと思う。はっきり言って迷惑したし、むかつくよ。だけど、だったら何なの。私は、今、彼がいないし寂しいから、橘がつきあってくれるの? 抱いてくれるっていうの? だったら、そうしてくれる?」
 立ち止まり、彼をにらみつけながら私は口早に言った。いつも落ち着いてて、動じることのない彼が、少しだけ戸惑ったような顔になり、一瞬開いた口をまたぎゅっと閉じた。橘はテニス部の仲間たちとテニスだけやってればいいよ。人望のある子かもしれないけど、クラスメイトだからって余計なことに口出さないで。皆が橘に好感を持ってるんだと思ったら、大まちがいなんだよ。
 私は、言ってやったという気持ちで、足を一歩踏み出した。
「俺は、」
 すると橘が何かを言いかけるので、なによ? とまた足を止めてしまう。
「俺は、相手が誰でも勃つというわけじゃなくて、」
「はぁー?」
 橘の言葉に、私は思わず大声を上げて目を丸くして彼を見上げた。
 私の声に、今度は彼が驚いたようだった。
 なんなの、こいつ!
 ひと言何か言ってやろうと思ったけど、もう我慢がならなくて私はつい走り出した。あと1ブロックで家に着くから。たとりついて、家の門に手をかけようとする瞬間。
「おい、!」
 自転車に乗った橘が、私の前に先回りをした。
「これ、忘れてるぞ」
 橘は自転車の前のかごにのっけた、私のおつかいのレジ袋をぐいと差し出す。
 私は何も言わずにそれをひったくって、がしゃんと門を開いてそれを閉めもせず、家の中に飛び込んだ。


 家に戻った私は、牛乳の入ったレジ袋を台所に放って2階へ駆け上がる。「ちゃんと冷蔵庫にしまっていきなさい! あっ、また余計なもの買ってきてー」なんて、お母さんの小言が響いてるけど、そんなの聞いてる気分じゃない。
 なんなの、一体、なんなの、橘は!
 さっきの、奴の言葉が頭でリピートされる。
 だいたい自分の新テニス部を設立したとばっちりが気になったからって、どうして他人のプライベートに踏み込むの。
 それに、勃たないって、何なの!
 そりゃ私もけんか腰で言ったけど、なに、あの言い草!
 
 最悪!
 最悪に無神経な男だ。

***

 翌日、登校すると私の前にはいつもの大きな背中。
 深呼吸をする。
 イヤな男にいちいち腹を立てていても、こっちが損なだけだ。橘桔平は、私にとってはこのクラスに存在しない。そう思うことにする。
 私が席に着くと、橘はいつものように振り返って、おはよう、と言う。
 当然私は、無視をした。
 授業でプリントを前から回す時も、私は手元だけを見て顔は上げない。彼がじっと振り返ったままの時もあるけど、私が発してる話しかけるなオーラを察知してか、彼は幸い何も言わずそのうち自分の机に向かう。そうそう、それでいいよ。

 さて、7月も半ばが近い。
 部活をやっている子たちは、練習に忙しそうで、みんな生き生きしてる。私は帰宅部だから、女友達と夏休みに遊びに行く予定を相談したり、受験する予定の高校のことを話し合ったり、そんな日々。
 毎日は楽しいけれど、私は、欲張りなのかなとも思う。
 もしかして、あの彼とまだつきあってたら今年の夏はまた違った夏だったのかもしれないと思ったり、橘みたいに部活に燃えてたら、そういうのも充実した毎日なのかもと思ったり。ああ、油断してたら久々にいやな奴のこと思い出しちゃったな。部活に燃えるっていうとついね。

 その日も暑い一日で、家に帰ってまずアイスを食べようと冷凍庫を開けると、アイスの箱の中が空っぽ。そういえば、夕べお風呂上りに最後の一本を食べて、箱をそのままにしちゃったんだった。昨夜の自分がうらめしい。お母さーん、アイスないよー、と言おうとしてテーブルのメモを見た。そういえば、お母さんは今日は友達と飲みに行くって言ってたっけ。メモには「冷蔵庫におかずあるからね」っていう内容。どうせお父さんはいつもどおり遅いし、外食なんだろうな。私としては、晩ご飯より、まずアイスだよ。こんなんだったら、学校帰りに寄り道をして買ってくればよかった。
 制服から楽なワンピに着替えて、もう一度未練がましく冷凍庫を開けてみる。一個くらい奥に入ってないかな。希望むなしくアイスはみつからなくて、大きなため息。こんな暑くちゃ、ご飯食べる気にならないよ。しばらく台所をうろついて、窓の外をちらちらと眺める。
 下校してきた時から比べると少し日が翳って、暑さはマシになっただろうか。
 アイスをあきらめきれない私は、台所の棚からおつかい財布を引っ張り出して、中身を確認。よし、アイスを買えるくらいのお金はある。私はおつかい財布と家の鍵を持って、サンダルをひっかけ外へ出た。うわ、思ったよりまだ暑い。でも、一旦外に出たらひっこみがつかないし、帰りには冷え冷えのアイスが手に入るんだから、問題なし!
 私は日陰を選んで歩いて、スーパーに向かった。
 スーパーのチルドコーナーは私にとってパラダイスだ。涼しいし、大好きな冷たいお菓子がいっぱい! あれもこれも買っちゃおうかな、という誘惑に駆られたけど、ばれるとお母さんに怒られるし、アイスを1本だけ買うことにした。今はまってる梨味。それだけをかごに入れてレジを通る。当然エコバッグなんて持ってきてないから、小さめのレジ袋にアイス1本だけを入れてもらった。
 袋をカサカサと持って、食べながら帰ろうか、帰ってからゆっくり食べようか、とわくわく考えながらスーパーの裏口の方へ出た時。
 あー、と思わずうんざりした声が出そうになる。
 見覚えのある自転車と人影。
 橘桔平だ。
 そういえば、あの時もこのスーパーで会ったんだった。
 不可抗力で目が合ってしまう。
 けど、私はそのまま見なかったことにして、彼の隣をすりぬけた。
 あれから、一度も口はきいてない。話しかけるなってことを察してるんだろう。さっさと家に帰ってアイス食べよう。

 すれ違った瞬間、彼が私の名を呼ぶ。
 はあーっというため息とともに、私は一応足を止めて振り返る。
「何? 何か、用事?」
 私が足を止めると、彼は自転車置場にきちんと自転車を並べた。
「……この前は、」
 橘が言いかけると、私はだまってきびすを返して歩き出した。
 まったく、もう何も聞きたくないっての。
 あの時の腹立たしい屈辱的な気分を思い出して、イライラする。
 歩き出した私の目の前を、風が通った。
 それは二人乗りの自転車で、私の前を通り過ぎた少し先で、キキィと耳障りな音を立てて止まった。
「おっ、じゃね? 久しぶり!」
 振り返って明るい声で言うのは、私がつきあってたテニス部のあの彼だった。彼の自転車の後ろには、制服姿の女の子。多分、同じ学校なのだろう。私の方に背を向けているから、顔は見えない。彼女は振り向きもしなかった。
 彼は私の背後にいるだろう橘を、一瞬だけ見るけど興味なさそうにまた私に視線を戻した。
「元気そうだな、じゃあな!」
 それだけを言うと、ヨイショとペダルを漕ぎ出してさっさとスーパーの駐車場を出て行った。
 私はしばらく呆然とその姿を見送る。
 彼とは、別れ話だとかそんなこともなく自然消滅だった。
 疎遠になった頃、今日はメールあるかな、私からするとしつこいかな、なんてそんなことばかり考えてたっけ。
 さっきの彼は、たまたま通りすがった昔なじみの友達に軽く声をかけたってだけの、本当に何の含みもない明るい態度。それが悪いっていうんじゃない。彼が悪いっていうんじゃない。
 けど、私って、たったあれだけで終わらされる程度の価値なんだって、改めて思い知った。
 自転車から降りることもなく、振り返って表情ひとつ変えずに、笑ってひと言挨拶するだけの。
 去年の夏の甘い思い出は、一体何だったんだろう。
 アスファルトからの熱は暑いのはずなのに、アイスも食べてないのに、私の身体は冷えて固まっていくようだった。早く帰らないとアイスが溶けてしまう、と思うのになぜか足が前に出ない。



 いつのまにか近くなっている私の背後の気配。
 その声で、私はハッと我に返り、すうっと息を吸った。息を止めていたらしい。
 振り返ると、橘が少しだけ眉間にしわをよせて私を見ている。
 身体が動くようになった私は、機敏だった。
「何だってのよ!」
 アイスを持ってない方の手のひらで、思い切り橘の胸を叩いた。
 多分、かなりの力で叩いたけれど、橘は驚いた顔をするだけで、びくともしなかった。
「一体、何よ! もう私に話しかけないでよ! ほんっとに腹が立つんだから! 聞かなくてもわかるでしょ、私はああいう風にさらっと、別れ話さえなしに捨てられたの! 橘には勃たないって言われるし、私はそんなもんなの!」
 どうしようもない怒りや苛立ちや、言いようのないイヤな気持ちが身体から溢れるようで、自分でもどうしたらいいのかわからない。私の片手はまだ振り上げたままで、もう一度、渾身の力で橘の胸板を叩いて走り出そうとした。
 それなのに前に出られないのは、私のその手を橘が掴んでいたからだ。
 橘の力はものすごく強くて、手が痛いくらい。
 彼は私の手をぐいと引っ張って、自転車置場の壁に押し付けた。
「そうじゃない、そういうことじゃない!」
 橘はひどく真剣な顔を私に近づけた。私の方が感情的になっていたはずなのに、橘の勢いに押されてしまう。南風が吹いて、ふわりと橘の熱が私を包んだ。少し汗の匂い。夏が来た日に感じる匂いに似てる。
 橘の手をふりほどこうとしたけれど、びくともしない。
「そうじゃないって、どういうことよ……」
 どうしてこんな展開になるの。私は戸惑って、弱々しい声で聞き返す。
「勃たないわけがないだろう」
 はあ?
 橘ってば、勃つとか勃たないとか、どうしてこう、時々不似合いなことを突然口にするの!
「手を離してよ、アイス溶けるから、もう帰りたいの!」
 私が必死でそう言うと、橘はやっと私の手を離した。そして、がしゃん、と自転車を出してくる。
「乗れ。家まで送る」
 そんなことを言うものだから、私はあわてて走り出した。
「やだ、自分で帰るからいい!」
 道に出ようとしても、彼の乗った自転車にふさがれた。
「いいから乗れ。アイスが溶ける前に家に帰りたいんだろう」
 彼は決して怒った風でもないし、威圧的でもない。なのに、どうしてこんなに迫力があって力強いんだろう。橘は、自転車に乗ったまま、片手でまた私の腕を掴んだ。
 怖いわけじゃないのに。
 どうしてだか、彼の流れに逆らえない。
 だって、きっとなんとか手を振り払って走り出しても、彼は追いついてくる。
 引き寄せられるまま、橘の自転車の後ろに乗ると、彼は「しっかりつかまっていろ」と言ってぐい、と私の手を彼の腰にまわした。文句を言う間もなく、自転車は力強く出発する。橘につかまっていない方の手にぶらさげているアイスの入った小さなレジ袋は、結露しはじめていた。
 少しずつ日が傾いていて気温は下がっているはずだし、風に吹かれているはずなのに、橘がまるで夏の高気圧みたいに熱風を放出しているのか、私の周りは夏の匂いと熱につつまれたまま。カーブを曲がるたびに、思わず橘につかまる手に力が入ってしまうけど、橘のお腹は鉄板でも入っているみたいに固くて、そりゃ私ごときの力で胸を叩いたくらいじゃびくともしないよね、と改めて思った。
 いつのまにか私の胸の奥のどろどろとした怒りは鎮まっていて、流れる景色と夏の風を実感する。どうして橘はこんなことするんだろうな、なんて思いながら。
 自転車のスピードが緩まり、私の家の前で止まる。橘の自転車はブレーキをかけても、耳障りな音はしない。橘の腰から手を離し、すとんと下りた。
「ありがと、じゃあね」
 私は少しは落ち着いたものの、橘と目を合わせたくないし、そそくさと家の門に手をかけた。
 カタン、と自転車のスタンドをたてる音がする。
「俺は話をするのが上手くないが、も人の話を聞かないよな」
 相変わらず、静かに力強い彼の声。
 今度は手をつかまれたわけじゃないけど、私は振り返って彼を見た。
 橘はちょっと困ったような顔。
 私は軽く息をついた。
「話を聞くったって、何の話があるっていうのよ、だいたい」
 私が言うと、彼は頭を掻く。私は自分の口調が、以前のようにとげとげしくないことに、我ながら驚いた。
「……そうだな、正直なところ、俺は回りくどい話は苦手なんだ」
 橘はショルダーバッグを肩にかけなおすと、真正面から私を見据えた。
「俺はを抱こうと思う」
「はあっ?」
 私は家の前だというのに、つい声上げてしまった。
が言い出したことだろう」
「はあっ? ああ……」
 以前、スーパーから一緒に帰った時のことを思い出した。私が橘を「苦手」から「キライ」になったきっかけの出来事だ。
「アイスが溶けるぞ」
 橘はお日様のように笑って、私が開きかけた門をついと押した。

 なんだろう。
 橘は乱暴だったり強引、というわけじゃないのに、近くにいるといやおうなしに巻き込まれてしまうような、そんな強い流れを持っている。
 私を抱こうと思う、なんて突然の宣言をした彼を、結局私は家に招き入れることになって、「家に誰かいたらどうするつもりだったのよ」って私がぶつぶつ言うと、「そうだな、それは考えてなかったな」なんて朗らかに言いながら、丁寧に玄関で脱いだ靴をそろえていた。とても自然な動作で、いつも家できちんとしてるんだろうな、靴そろえなさいって怒られてばかりの私とはおおちがい、なんて思った。
 自分の部屋に入って、私は「あっ」と声をあげる。
「どうした?」
 橘が驚いたように私の顔をのぞき込んだ。
「まじでアイス溶けるじゃない、もう!」
 私はあわてて袋を破る。
 棒アイスは溶けかけていて、かろうじて棒にしがみついてる状態。まったくもう。あわててかぶりつく。溶けかけてても、美味しいものは美味しい。
 橘は大慌てでアイスを食べる私を見て、おかしそうに笑った。
 どういうつもりなんだろ。
 さっき言ってたことは本気なのかな。
 でも、そういうつもりじゃないと部屋に来ないよね。っていうか、なんで私も部屋につれてきちゃったんだろうなあ。とにかく早く平らげなきゃと、頭が痛くなりそうなスピードでアイスをかじっていった。よし、完食、と思った瞬間、ぎりぎりで棒にくっついていたアイスがつるりと滑った。
 あー!
 私の口に入りそこねたアイスのかけらは、頬を伝って首の方に滑っていく。やだもー。
 ティッシュで拭こうと、手を伸ばした私の視界は塞がれた。
 目の前にかがみこんだ橘が、私の首筋のアイスのかけらを舐めとる。
「ちょっと、なに……!」
 驚いた私は、当然声を上げてしまうけど、次の瞬間別の意味での声が漏れることになる。
 アイスが伝った道筋を、橘の舌がだどった。
 滑らかな、ベルベットの感触。
 くらり、と立ちくらみのように目の回りがゆれて、足がふらつくけれど、私の背中は橘の大きな手で支えられていた。
 そっと寝かされるように、ベッドに横にされた。
「美味いな」
 橘はちろりと唇を舌で舐めた。
「梨の味は初めてだ、うん、美味い」
 そう言いながら、カッターとアンダーシャツを豪快に脱ぎ捨てた。シャツの下の橘の身体は、びっくりするくらい見事な筋肉だった。日焼けをして、鍛えあげられた身体。
 彼は私のワンピースのボタンに指をかけた。
「え? ねえ、ちょっと待って……! ホントにするの?」
 落ち着かないまま私が言うと、橘は手をとめた。
「うん? そうだ、物事には順序があるな」
 それだけを言うと、ふわりと私に覆い被さる。
 私の唇を、まるでアイスを食べるみたいに彼のそれで包む。熱い風のように入り込む舌。私の舌をとらえると、たっぷりとした動きで絡め続ける。彼の匂いは、私の鼻腔を通って脳をつきぬける。
 その瞬間、私はわかった。
 橘は、まるでこの季節の太平洋高気圧だ。
 天気予報で見かける、力強いグルグル。周りを熱い空気でいっぱいにする。そんな空気の渦に巻き込まれてしまったら、自分も熱い風になって一緒に空へ上るしかないよね。
 橘がボタンをはずしていくのを、今度は私は止めはしなかった。下着を押し上げて、ぎゅっと胸を掴まれ、声を上げる。ワンピースをはぎ取られ、裸になるのはあっという間だった。
 私の服を丁寧にベッドの横の椅子にかけた後、橘はカチャカチャとベルトを外し制服のスラックスと下着を脱いだ。彫刻のモデルにでもなりそうな太ももが私の目を射る。そして、当然、その股間のものも。おそらく、平均をだいぶ上回るんだろうなっていう彼の物が、夏のひまわりみたいに自信満々にそそり立っているから、私がついじっと見てしまっていると、橘は少し恥ずかしそうに笑った。
「つまり、こういうことだ。説明はいらないよな」
 そう言って、ゆっくり私にかぶさった。素っ裸になった私たちは、お互いの肌をぴったりくっつける。橘の指と唇が、私の身体を愛撫していった。鎖骨から胸の先端を舌でなぞられ、私は自分の身体の奥が、どくん、どくん、と泡立つのがわかる。溢れるのがわかる。
 私は、橘桔平っていう大きな上昇気流のど真ん中に吸い込まれ、どんどん空高く上っていっている。
 橘の指が、私の中に入り込むけれど、もうこれ以上の準備は必要ないことが、彼にはわかっただろう。私は背中を反らせて、彼のその愛撫に反応するけれど、本当はもう来てほしくて仕方がない。
 私のそんな反応に気づいたのか、橘は一度身体を離した。私が無造作においた、無印良品の避妊具の小さな袋を開ける。前に買って、机の奥に忘れてたものだ。
「すまない、使わせてもらう。本来は俺が用意しなければならなかったな」
 私は枕に顔を埋めて、くくっと笑ってしまう。なんでこんなタイミングで、いちいちそんな律儀なこと。橘って、ほんとよくわからないなー。
 軽くひねった私の身体が仰向けにされ、そして片脚をぐいと持ち上げられた。
 橘の先端が、私の入り口を探る。ラテックス越しにも、溶けた鉄みたいな熱が伝わる。私が待ちきれずに腰を持ち上げると、ぐっ、と彼は腰を進めた。
「……あっ……」
 思いがけないきつさと、どこまで入ってくるの? という深さに、つい腰が引ける。けれど彼は私の腰に手をそえて、決して逃さなかった。もうだめ、というところまで入ってきて、そして一気に引き抜かれて、また思い切り奥まで。
「あ、あ……! んんんっ」
 さっきまでの上昇気流は、ほんの穏やかなものだったんだって気づいた。これじゃ、まるで竜巻だ。
 私の腰を押さえて激しく腰を動かす彼の吐息が、私の耳をくすぐる。密着したお互いの肌が汗ばんできた。
「や、あ、待って、待って……!」
 私はまったく自分をコントロールする余地も与えられず、どんどん上空につきあげられてしまう。橘の肩にしがみついて、恥ずかしげもなく声を上げた。繰り返される橘の動きで、私はあっけなく絶頂を迎えた。それは隠しようもない反応で、当然それに気づいた橘は一旦動きを止めて私を抱きしめた。私の呼吸が整うよりも先に、橘の呼吸のリズムがゆっくりになる。私は自分の収縮がおさまってきて、橘がまだだったことに気づいた。思わず顔が熱くなる。なんか、私ばっかりひどく興奮してる? この微妙な間をもたせようと、私が何か言おうとすると、橘はすぐに唇をふさいだ。あの、溶けるような熱いキス。目を閉じてその感触に身を任せていると、橘が動き出した。ちょっと、まだ早い!
「……あ、まだダメ……」
 橘はお構いなしに動きを続ける。さっきよりは少しゆっくりだけど、それでも敏感になっている私には刺激が強すぎる。なのに、橘は片手で私の胸をぎゅっとつつみ、さらに刺激を加えるのだ。
「あっ、もう……!」
 身体を左右に振って抗おうとするけれど、当然彼の力から逃れることはできない。
「う、う……」
 あまりの強い快感の波に、私は涙声になってしまう。彼の動きは、今度は緩急があって、ゆっくりソフトに腰を回すと思えば、貫くように深く激しく突く。焦らされるように、それでも強く確実に掴まれつれて行かれる感覚。橘ってば、ひどい。まったく容赦がない。
 私が泣きそうな声を漏らしていると、耳元の橘の息もだんだん荒くなってきた。私の脚をぐいと広げると、両手でがっしり腰骨をつかみ、私を貫く動きが激しくなる。ぶわ、と中で彼自身が一層膨張したような感覚。我慢できなくて、私は部屋中に響くような声を漏らしてしまう。橘の上昇気流は天井知らずだ。空に上がり続けると何がある?
 頭の中が白くなった。
 そうだ、空の上には雲。ラピュタみたいな雲。空に上がって吸い込まれて巻き込まれて、その中は自分ではどうしようもない嵐。
 自分でも驚くくらいの矯声を上げながら、橘の肩にしがみついて、私は気が遠くなりそうな絶頂に達した。橘が苦しそうな声を漏らして、そして私の身体に体重を預ける。その間も、私は苦しいくらいの快感の波に見舞われていて、どこかへ吹き飛ばされないよう橘にしがみつくことで精一杯だった。彼の頭をかき抱き、その短めの髪の中に指をうずめる。橘は、私を抱きしめたまま大きく呼吸をすることをしばらく繰り返してから、そして、がば、と身体を起こすと自分のものを私から抜き取った。避妊具を手早く始末する。
 私は、身体がベッドに張り付いてしまったように力が抜けて、何もできない。身体が重くて、だけど中に火の玉が宿ったみたいに熱くて、ぐるぐる回っているみたい。
 私の額にかかった髪を、橘の指でそっとかきあげられた。
 真上から私をじっと見る。そして、今度はそっとくちづけた。橘はいつも、きゅっと口を結んでいる印象があるけど、唇は意外に滑らかで柔らかい。目を閉じてその感触を楽しんでいると、身体が離れる。カサ、という音。目を開けてみると、橘が避妊具をもう一つ封切るところだった。
「え? ちょ、ちょっと、もう? また?」
 私があわてて言うと、橘は顔を上げてそして、ハッと眼を見開く。
 彼の視線の先には壁にかけた時計。
「……すまない! 夕飯の支度をしないといけない時間だ! ばあちゃんたちが、腹をすかせているかもしれん」
 彼は飛び上がって、服を身につけはじめた。
「あ、そういえば! 買い物はいいの?」
「ああ、今日はもう時間がないから、いい。家に作りおきのものがいくつかあるから、なんとかなる」
 私が呆然としていると、すっかり身支度を終えた彼は眉間にしわをよせて私を見た。
「すまないな、また学校で! ああ、戸締まりはきちんとしておけよ!」 
 そう言って私の頭にポンと手を載せると、急いで階段を降りていった。玄関の扉が遠慮がちに閉まる音がする。
 夏の嵐が通り過ぎた後、私はしばらく自分がどうすればいいのか、さっぱりわからない。
 部屋の中に残った橘の匂いは、まだ彼がここにいるかのように生々しかった。

****

 夏の嵐が通り過ぎた日は金曜だったから、私は週末でそれなりにクールダウンできた。それでも、いったいあの出来事は何だったのか、橘に会ったらどんな顔をしたらいいのかっていうことは、何一つわからなかったけれど。
教室で彼と顔を合わせるのはちょっと気が重いな、なんて普段よりぐずぐずとした足取りで校舎に向かっていると。
!」
 私を呼ぶ大きな声。声の主は、見なくてもわかる。
「よう! おはよう」
 至っていつもどおりの朝の挨拶をする声の主を振り返ってみて、私はぎょっとした。
 それは、当然私の推察どおり橘桔平だったんだけど、なんと。
 彼は、春からこっち少しだけ伸びかけていたその髪を、まぶしいくらいの金髪にしていたのだ。
 朝の太陽が透けて、それはキラキラと光っていて。
「なに、それ!」
 それまでいろいろ考えていたことがすべて頭から吹き飛んでしまって、とにかくそんな言葉しか出ない。
「うん? ああ、これか」
 彼はなんでもないように、くしゃっと髪をかきまわした。
「けじめたい」 
 ぽろりとこぼれた九州弁。
「今度の全国大会で、思い切り試合ってケリを付けたい奴がいるんだ」
 へえ。
 橘はそれ以上は話さないけど、なんとなくその吹っ切れた表情や輝きだけはしっかり伝わった。
 男の子って、こういうとこ、うらやましいな。
「それで、
「うん?」
「全国大会、見に来てくれないか。応援をしに」
 そして、まっすぐに私を見ながら言うのだ。
に、応援に来てほしいんだ」
 橘の言葉のひとつひとつが、光の矢のように私を貫いた。
 なのに、私は。
 何も答えず、彼を置いて早足で教室に向かった。

 

教室で、目の前の大きな背中を感じながら、私の胸はドクンドクンと大きく跳ねている。
 なるべく橘を見ないようにしても、これまでみたいにはいかない。どんなに顔をそむけても、うつむいても、彼の渦を感じる。橘が教室内を歩いて、すとんと自分の席に腰をおろすと、ふわりと彼の身体の匂いが鼻をくすぐる。
 そうなると、もうだめだ。
 彼の匂いは私の脳に染み入るようだった。身体がしびれてしまう。
 目を閉じても逃れられない。
 わかってる、私は、橘が好き。
 それなのに、どうして朝、彼にあんな態度を取ってしまったのかも、わかってる。


 その日、私は一旦家に帰ることをせず、スーパーの裏の自転車置場で空を眺めていた。
 そう、橘と会ったスーパーだ。
 夏の空は、夕方とはいえまだまだ雲が力強い。穏やかな天気の今日は、雲の形もなめらかで、てっぺんはおいしそうなモクモクとした形。
 自転車置場の屋根の日陰にいても、汗がじわりとにじむ。
 ふわふわとした雲が静かに散っていくのをいくつか見届けた頃。
 シャーッという自転車の音が聞こえた。
 そうっと振り返ると、金色。
「……!」
 驚いて目を丸くした橘に、私は軽く手を振った。
「あのさ、ちょっとそのまま待っててくれる?」
 彼にそう言うと、駆け足でスーパーに入り、すぐに戻った。
 橘は自転車のスタンドを立て、腕組みをして律儀に待っていてくれた。
「はい、これ」
 私はアイスを一本差し出す。
「うん? もらっていいのか?」
「そう、溶けないうちに食べよう」
 それは、あの時に溶けてしまった梨の味。
 今度は買ってきたばかりの冷え冷えで、カッチリした歯ごたえが心地いい。
「うまいな、これは気に入りだ」
 橘は嬉しそうな笑顔を見せた。
「あのさ」
 私は半分くらいアイスをかじったところで、橘の顔を見上げる。
「私、橘のこと、好きだよ」
 そう言うと、橘はまさに目をまん丸にしてアイスを手にしたまま、じっと私を見た。
「アイス、溶けるよ?」
 ああ、と彼はぺろりと残りを平らげる。
「……朝、俺がちゃんと言えばよかったのか。ずるいな、は」
 残った棒をかじりながら、苦笑いをした。
「うん、そうだね」
「おい、ずるいって本気で言ってるわけじゃないぞ」
 彼はあわてて壁にもたれた背を浮かせた。
 私はアイスを食べ終えて深呼吸をする。
「だって、これでいいのか、わからなかったんだよね。どうして橘が私をあんな風に抱いたのか、どうして橘が私に試合を見に来てくれなんて言ってくれるのか。私、橘に好かれるようなこと何もしてないのに」
 私、何も頑張ってないのに、橘に抱かれて、彼のセックスはとてもよくて、その後「試合を見に来て」なんて言われて。
 橘はアイスの棒をパキンと折って、少し考え込むような顔。
「俺は……に嫌われたかと思った。その、この前……あんなふうに俺は、つい自分を抑えきれないままを……。そのあげく、飯の仕度があるからなんてあわてて帰ってしまったしな」
「ああ……!」
 思い出して私は笑った。あわてて晩御飯の仕度をする橘を思い浮かべると、おかしくて仕方がないのだ。
「俺は、話をするのが上手くないんだ。前もここから、と一緒に歩いて帰っただろう? その時に……ああいう風に話すつもりじゃなかった。つまらないことばかりしゃべって、を怒らせて」
 そうだ、それで、私は「橘がつきあってくれるの? 抱いてくれるっていうの?」なんて八つ当たりをしたんだ。
「そんなにもうまく反応できずに、またおかしなことを言ってしまって、よけい怒らせてしまったな。あれは、違うんだ。あの時、がそう言うんだったら、そりゃあ俺はすぐにでもを抱きたかったけど、だからってそうしたら、まるで俺は誰が相手でもいいみたいだろう?」
 困ったように続けた。
 橘がそんなことを考えてたなんて、ぜんぜんわからなかったな。
「……だけどさ」
 私が言うと、彼は背中を丸くして私の顔をのぞきこんだ。
「橘がどうして私をそんな風に思うのか、わからないよ。去年も同じクラスだったけど、ろくに話したことも、仲良くしたこともなかったよね」
 あんなセックスをしておいて何だけど、だって、本当にそうなんだもの。
「……ああ」
 彼は金色の髪をくしゃくしゃとかきまわしながら、思い切り笑顔を浮かべた。
「俺が不動峰に転校してきて、最初の英語のテストで、俺はよりちょっとだけ点数がよかっただろう?」
 橘ってば、イヤなこと覚えてる。
「張り出された成績の前で、たまたま俺と目があって、はものすごく悔しそうな顔をしたの覚えてるか? 俺は悔しがりな奴、好きなんだ」
「ええー?」
 彼の意外な言葉に、私は思わずそんな声。
「いいだろう? 試合、見に来てくれるよな?」
 私はアイスの棒の先っぽをくわえて、さっき橘がやったようにパキンと折って、そしてコクリとうなずいた。
 西日に透けた、橘のまぶしいくらいの金色の髪と力強い目はまるでライオン。
 きっと彼は、夏うまれの獅子座に違いない。
 今度、誕生日がいつか、聞いてみよう。

(了)
モクジ
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