「おはようさん! なぁなぁちゃん、お菓子ちょーだい!」
朝、自分の席で教科書をそろえていると、私より少し後から教室に飛び込んで来たのは、小柄だけど体中が元気で爆発しそうな男の子。冬場だというのに、トレードマークの豹柄タンクトップに、シャツ一枚を羽織っただけ。
遠山金太郎は毎日がハロウィンだ。
「もー、金ちゃん。ちゃんと朝ごはん食べて来てるん?」
毎朝の挨拶代わりみたいな私たちのやりとり。
「部活の朝練終わったら、腹減るんやもーん」
私がハイチュウを差し出すと、それまでへの字口だったのがお日様みたいな笑顔になって、いっぺんに三つくらい口に放り込んだ。
「歯にくっつかへんように気ぃつけなあかんでー」
「わはってふ」
もごもごと口を動かしながら、元気良く大声で返事をした。
つられて笑ってしまう。
ご機嫌な子犬の千切れそうに振り回す尻尾が、彼のそのお尻に生えているように見えたから。
去年の春、この四天宝寺中に入学して教室に入った時に初めて会った金ちゃんは、今よりもっと背が小さかったっけ。きょろきょろ落ち着かなくて、不安な子犬みたいで。
初めて中学の制服で登校した私は、いっぺんに大人になった気分で、だいぶ気が大きくなってたから、そんな彼がまるで子どもみたいに見えておかしかった。
で、言ったの。
『キットカット半分食べへん?』
って。
そう声をかけた時の金ちゃんの笑顔は、まるで真夏の太陽。
『ほんまに? おおきにぃ〜!』
そして、私が半分に割ってあげたキットカットを一口で食べると、もぐもぐと口を動かしたまま嬉しそうに笑った。
で、その中学初日の金ちゃんは、教室に担任の先生が来て『おいおい、遠山の席はそこちゃうで』と言われても、『いややー! ワイはこの席がええー!』と、私の隣の席から離れなかった。
当然、翌日にも私の隣の席でニコニコ笑って、『ちゃん、お菓子ちょーだい』と手を差し出すのだ。えー、なんでやねん! などと言いつつ、飴ちゃん一個あげただけでも嬉しそうな金ちゃんは、なかなかに可愛くて。
そうやって、何回席替えがあっても金ちゃんはわがまま言って私の隣の席に座り続けて、もうすぐ1年。
初めて会った日以来、私はこの怪獣くんにお菓子を与え続けている。
「そんでな、そんでな、南海電車に乗ろうとしとったらな、テレビで見たことあるお笑い芸人がおってん。で、謙也が『一氏に隣でモノマネさすねん!』って走って追いかけてな、」
金ちゃんはいつも休み時間に、お菓子をほおばりながら、ひっきりなしに楽しげに話をして、本当にご機嫌な子犬だ。明るくて楽しい金ちゃんはクラスの人気者で、いろんなクラスメイトからお菓子をもらっているから、お腹を減らす間もないと思うんだけど、昼休みにはいつも『腹減ったー』とお弁当を広げるから不思議。
さて、入学以来、隣の席の怪獣の飼育係をしている私には、お菓子を与える以外にも、もうひとつ重要な役割があった。
金ちゃんは我が四天宝寺中のテニス部なんだけど、これが1年ながらにかなり強い有力選手らしい。暴れん坊で雑な金ちゃんが、テニスラケットだけは本当に大事にしてるんだ。で、そんな金ちゃんなんだけど、放課後にクラスの男子たちと遊んでると、夢中になって部活に行く時間を忘れてしまうみたいなのだ。
「ちょお、金ちゃん、そろそろ部活行かなアカンのとちゃうん!」
私が帰り支度をしながら声をかけるけど、金ちゃんは男子たちと遊んでて聞かなくて、結局私が引っぱって行くわけ。お菓子で釣って。
「金ちゃん、もうすぐ2年生やねんから、しっかりせなあかんやろ!」
「そやねん、今年はワイが四天宝寺を全国優勝させたんねん!」
当然のように大きな事を言う。
「せやったら、もちょっとちゃんと宿題もやって居残り少なくして、授業終ったら遊んでやんとさっさと部活行くとか、せなあかんやん」
「えー? 勉強イヤやー!」
なし崩し的に金ちゃんのオヤツ係になった私が、どうしてこんなにお母さんみたいに面倒を見てるかというと、まあちょっとした理由がある。
テニス部の部室まで金ちゃんを連行すると、そこにはいつもの笑顔。
「おう、今日もご苦労さん」
一氏先輩相手にプロレスごっこをやってたのは、忍足先輩だ。3年の。
明るい色の髪に親しみやすい笑顔、ちょっとかっこつけてるけど、気さくなひと。
「毎度毎度、ゴンタクレを大人しぃさせて連れてこれんのは、くらいやで。これからも頼むわ」
「もぉ、いっつもかなんですやん! 忍足先輩、迎えに来たってくださいよ、3年で引退したし暇なんちゃいます」
私が言うと、『アホか、先輩にむかって、暇はないやろ!』なんて笑って言い返す。
「謙也こそ女の子にアホはないやろ、なあ、ちゃん」
プロレスごっこには加わらずに穏やかに笑うのは、白石先輩だった。文句無しに整った笑顔は、これでもかというくらい甘い。
金ちゃんは既に、忍足先輩たちのプロレスごっこに合流してしまっている。
「ほんまですよねえ、忍足先輩は口悪すぎます」
「なんやと、! 覚えとけよ! おい、ちょぉ待て金太郎、イテテテテ……!」
金ちゃんに技をかけられながら、忍足先輩が叫ぶ。
私はくくくと笑って、彼らに手を振って校門へ向かった。
金ちゃんの先輩たちは、こんな具合にすごく優しくて面白くて、かっこいい。
初めて金ちゃんを引っ張って来た時は、ちょっとびっくりしたっけ。
特に、忍足先輩と白石先輩は下級生にもすごく人気があって、こうして金ちゃんを連行して来た時に、気軽に話せるのが結構楽しかった。
こんな風に学校生活をおくっている私が、中学校に進学して心に決めてることが、ひとつあった。
バレンタインデーには、素敵なひとに、チョコレートをあげたい。
そういう決心。
「で、誰にあげるん?」
正門で待ち合わせた友人達との話題は、この時期もっぱらそんなネタ。
友チョコだとか男友達にいくつもあげてワイワイなんてのは、小学校高学年で卒業だ。
中学生になったんだもの、ひとつだけのチョコを、ドキドキしながら素敵なひとに渡したい。
「えー、うちはねー」
私が言うと、友達の一人が『何言うてるんー』と笑う。
「は金ちゃんにあげるんやろ」
私はわざとらしく、うんざりというように両手を上げてみせた。
「アホかー。バレンタインデーやで? ハロウィンちゃうねんで?」
じゃあ誰やねん、なんて笑ってわいわい言いながら、私たちは駅ビルの特設会場でチョコを冷やかして帰る。
さて、誰にチョコレートを贈るのか。
私が照準を合わせてるのは、当然テニス部の3年生の先輩だ。
3年生の誰かって?
実は、忍足先輩にあげたいなって思ってる。
白石先輩もすっごいかっこいいし好きなんだけど、私は結構忍足先輩が好き。白石先輩は私に『ちゃん』なんて言って優しいけど、やっぱりどこか子供扱い。忍足先輩は『!』と呼び捨てで、すぐにアホアホ言うけど、そういうとこ嫌いじゃない。
ね、ああいう忍足先輩にチョコ贈って、意外そうな顔されるの想像すると、すごくワクワクする。
別に告白しようとか、そういうんじゃない。
かっこいい先輩相手に、ちゃんとしたバレンタインっていうのを、やってみたいの。
だって、もう中学生だもん。
それに、3年の先輩は今年で卒業だしさ。
そんな野望を持っている私が登校すると、この日はすでに金ちゃんが先に教室に来ていて、じゃがりこをボリボリと食べていた。
「朝からよぉ食べるなあ」
「あっ、ちゃん、おはよーさん!」
じゃがりこの隣には、バウムクーヘンが置いてある。クラスメイトの誰かからもらったのだろう。
「なあなあちゃん、ジャンプ読んだ? まだやったら貸したるよって」
金ちゃんはいつも早売りを買ってるから、月曜の朝にはすでに読み終わったのを貸してくれて、結構重宝するんだ。でも……。
「……今週はええわ」
私が言うと、金ちゃんはつまらなさそうな顔。
「えー? そうなん? せっかくちゃんのために持ってきたんやでぇ」
金ちゃんの机に積まれたお菓子をちらりと見た。
実は、私は知ってる。
金ちゃんに朝イチにお菓子をあげたい女子は、クラスにたくさんいるんだ。
別に、隣の席の私に遠慮しなくてもいいのに。
私だけが金ちゃんにお菓子をあげていいなんてワケじゃないんだから。
金ちゃんは、誰からもらったお菓子でも美味しく食べるんだから。
明日のバレンタインデーには、クラス中の女子からさぞかし沢山のチョコをもらうんだろうな。
「あ、そうや、金ちゃん」
昼休み、女子の仲良しグループで食後のお菓子を食べながら、振り返る。
バレンタインデーを翌日に控えて、私たちは作戦会議を開催していた。
作戦会議なんていう割に、肝心のチョコは『前日に買いに行ったら、ええのんが安くなってるんちゃうん』なんてセコい感じで、まだ用意もしていないギリギリっぷりなんだけど。
皆で食べてたキットカットを一つ渡すと、金ちゃんは嬉しそうにすぐその袋を破いた。
「テニス部の先輩たちって、やっぱりバレンタインには、よーさんチョコもらうん?」
私が尋ねると、金ちゃんはさして興味なさそう。
「さー、ワイは知らん」
「沢山もらいすぎて、放課後あたりやと受け取ってくれへんなんてことあると思う?」
「そんなん、チョコなんてどんだけでも食えるやん」
「それは金ちゃんだけやって」
もっとちょうだい、と手を出す金ちゃんに仕方ないなーとキットカットをもう一個渡した。
「忍足先輩って、甘いもの嫌いちゃうよね?」
私が聞くと、金ちゃんは不思議そうな顔?
「謙也はパフェとか好きやで。なんで?」
「うち、明日のバレンタインで、忍足先輩にチョコあげたいなって思てんねん」
金ちゃんは目をまんまるくする。
「なんでぇー?」
「なんでって、バレンタインやん。忍足先輩、かっこええし、チョコあげたいねんもん」
私がそう言うと、金ちゃんは二個目のキットカットも食べないまま、ガタンと立ち上がった。
私より5センチくらい背が低い金ちゃんが、私を見下ろすアングルっていうのは、ちょっと珍しい。
「あかんあかん! なんで謙也にお菓子あげんねん! ちゃんの持ってるお菓子は全部ワイのもんや! 明日、謙也にチョコ持って来ても、ぜーんぶワイが食ってまうからな!」
そして、大声で叫ぶのだ。
私はびっくりしたし、クラスメイトがいる教室の中でそんなことを大声で言う金ちゃんに、怒れてきてしまった。
「何言うてんねん! 金ちゃんには毎日お菓子あげてるやろ! バレンタインくらい先輩にチョコあげてもええやんか!」
「あかん! ワイが食う!」
私たちの言い合いに、周りの子たちがまあまあと止めに入るけど、なんだか私はおさまらない。
「そんなん、金ちゃんに食べられてまうくらいやったら、明日は何もお菓子持ってけぇへんわ!」
私はそう言い捨てると、教室を走り出た。
その日の私はもう金ちゃんと口もきかず、放課後はすぐに友達と学校を後にする。『喧嘩しなやー』となだめられながら、皆と駅ビルのチョコ売り場に行くけど、結局私は何も買わなかった。すっかり気分も盛り下がって、せっかくのバレンタインが前日からすでに台無しになってしまった。
こうなると、どうしたってリカバリーできない。
中学生になって初めてのバレンタインは、始まる前に終った。
翌日、学校に行くと、この日も金ちゃんは先に来てた。
遠足に行くみたいなリュックを持ってきて、嬉しそうにクラスの女の子たちから渡されるチョコレートを収納してる。
金ちゃんがもらうチョコは、ブラックサンダーみたいないかにも友チョコって感じのものから、本気がかいまみえる手作りチョコまで様々。
「あっ、ちゃんおはようさん! ワイにチョコは?」
けろっとした満面の笑顔で言うものだから、私はやっぱりカチンときてしまう。
「ないって昨日言うたやろ!」
謙也にやるんか、とかしつこく言う金ちゃんを無視して机に向かう。
大体おかしいでしょ?
自分は誰からでも何でも嬉しそうにもらうくせに、どーして私が忍足先輩にチョコあげようとすると邪魔するの、金ちゃんは。
金ちゃんは可愛いと思ってたけど、こういう子供っぽいとこが、やっぱりいやだ。
さて、バレンタインに朝から大漁の金ちゃんだけど、ちょっと様子が変だった。
1時間目の授業の時から、お腹がグーグー鳴ってるのだ。
「……遠山、お前の腹の虫がやかましぃて授業にならんし、特別に許可したるよって、そのリュックにつまったチョコを食うてんか」
先生が見かねて声をかけるけど、バレンタインのチョコは特別なのか、金ちゃんは首をぶんぶんと横に振ってチョコに手をつけない。
その日の午前中は、初めて耳にする金ちゃんの腹の虫の音を聞きながらの授業がずっと続いた。
昼休みの昼食は、私は購買行くわ、と一人で教室を出た。
なんとなく、いつもの仲間とのチョコの話題に加わりたくなかったから。
購買でサンドイッチと牛乳を買って、教室に戻る前に校庭のベンチの前で足を止めた。
今日はひとりで、ここで食べてこうかな。
そんな事を考えてると、耳慣れた声が私の名を呼ぶ。
「ちゃーん!」
思わず漏れた溜息。
「……だから、チョコもお菓子もないで」
走ってやって来たのは金ちゃんで、私はしっしっと手を振る。
それでも金ちゃんは、ぐい、と私のまん前までやってきて私を見上げる。
大きな目をじいっと見開いて。
「ちゃん! ワイ、ちゃんのことが好きや好きやって思いながら毎日おるのに! 早売りジャンプかて、ちゃんのためにいつも持ってきてんのに!」
そして大声で言う。
「ちょっと、金ちゃん……!」
静かにしてやと、なだめても彼はきかない。
「毎日毎日、大好きなちゃんの隣の席で、ちゃんからお菓子もらうの楽しみにしとるのに、どーして今日、チョコもらわれへんねん! ワイ、これ以上どないしたらええねん!」
金ちゃんは、ぴょん、とベンチに飛び上がって、今度は私を見下ろした。
ぐい、と私の肩をつかむ。
ひどく怒った顔をしてる。
何すんねん、と私が言う前に、金ちゃんの顔が近い。
そして、次の瞬間、左耳に軽い痛み。
かぷり、と私の耳に金ちゃんが噛み付いたのだ。
「かぶってまいたいくらい、好きやのに!」
耳元で叫んで、やっと顔が離れた。
怒った顔のままの金ちゃんの眼はまっすぐ強くて、この寒い中、捲くったシャツからのぞく腕は細くしなやかなのに筋肉質。いつも子犬みたいなはずの金ちゃんは、今、NHKのテレビか何かで見た野生の肉食獣みたいだった。
しなやかで容赦のない、強い獣。
私の耳たぶには、金ちゃんの鋭く熱い歯の感触が残ってる。
力の抜けてしまった私は、へなへなとベンチに座り込んだ。
まばたきをし損ねた目に、涙がにじんだ。
「わぁーー、ごめんなちゃん! 痛かったんか!」
慌てた金ちゃんは、眉毛をハの字にしておたおたと私の周りを飛び回る。どうしていいのかわからないみたい。
「……大丈夫やて、そないに痛ないし……」
私は左手で耳を押さえた。
さっきの熱を逃がしたくなかったから。
右手の指で、ちょっとにじんだだけの涙を拭く。
痛かったわけでも、悲しいわけでもないの。
「まったく、もう」
つい、そうやってつぶやいた。
金ちゃんはあいかわらず、ごめんーごめんーと騒ぐ。
金ちゃんが子犬じゃないことくらい知ってたよ。
だけど、いつまでたっても、同じだから。
私にも他の誰にも、いつも同じようにお日様みたいに笑うから。
私にだけ見せる彼に会いたい。
ずっと思ってた。
やっと姿を見せてくれた、優しい強い獣。
私は大きく息を吐く。
「うちの方こそごめんな、大人げなくチョコあげへん、なんて言うて」
チョコ、買ってくればよかった。
今日という日を、いつものじゃない特別なチョコを金ちゃんにあげる、特別な日にすればよかった。
金ちゃんは、二カッとお日様みたいに笑う。
「大丈夫やで、ちゃん」
そう言うと、お母さんの手作りだっていう豹柄の巾着袋に手をつっこんだ。
そこから出てきたのはキットカット。
「昨日、ちゃんからもろたやつや。……今日、ほんまにちゃんからチョコもらわれへんかったら、これ食べよ思ててん」
「……他に沢山もろてるやん」
「アレは別や。今日のチョコにはちゃんのがないとアカンやん」
金ちゃんはそう言うと、その小さな袋を開けてキットカットをパキンと割ってくれた。
「ちゃんと初めて会うて、コレもろて食べた時な、なんてウマいんやろって思てん」
二人でもぐもぐと食べるキットカットは確かに美味しい。
「な、ウマいやろ。今日は、ちゃんとチョコ食べるまでは、お菓子食べヘんって決めててん。腹ペコやったでー」
金ちゃんの腹の虫の絶叫を思い出して、くくくと笑ってしまう。
「ワイ、お菓子はみーんな好きやけど、ちゃんからもらうモンだけは、ぜーんぶ特別やねん」
これから、ずーっと一緒に食べよな、なんて言うけど金ちゃんのペースでお菓子を食べてたら大変なことになってしまう。
でも、とりあえずキットカットを食べる時は、二人で一緒に半分ずつって、今日、決めた。
(了)