君が僕を知ってる



 放課後、本格的なトレーニングに入る前に海堂薫は念入りにストレッチを実施していた。
 もちろんそれは彼だけではなく、他のテニス部員も同様なのだが。
 隣でストレッチをしている同じ2年の桃城武が、彼に話しかけてきた。
「なあマムシ。お前、サンとつきあってるって本当か?」
 何気ないように言う彼のその言葉に、海堂は若干あわてた気持ちになりながらも、いつものようなムッとした顔で桃城を睨んだ。
「……んなわけないだろ、コラ」
 思い切り凄んでみせる。
「いや、何か、山崎がさ」
「ヤマザキって誰だよ」
「ああ、同じクラスのサッカー部のヤツ。そいつが、お前とサンはつきあってるのか、なんて聞いてくるからさ」
 桃城は面白そうに続ける。海堂はすぐにその山崎というのが、図書室でに詰め寄っていた男だと理解する。
「……ああ、あいつか。誤解したんだろ。あいつが、図書室でしつこくをマネージャーに勧誘してるトコに、俺が本を借りに行ったからな」
「へえ」
 桃城はまだ何か聞きたそうに海堂を見ている。海堂はつきあってられない、とばかりに顔をそらしてストレッチを続けた。と、桃城が体を起こす。
「おい、噂をすればだぜ?」 
 彼のその言葉で、海堂はつい顔を上げた。
 コートの外に、がいたのだ。海堂は少し驚いて膝を立てた。
 そして次の瞬間、もっと驚いた。
 の傍に駆け寄っていったのは乾だった。
 乾は折りたたんだ紙をに手渡し、彼女はそれに目を通すと乾を見上げて笑った。
 しばらくそのまま二人で話をしている。
 普段教室では、ほとんど女子生徒としか話をしないが、楽しそうに乾と話している姿は意外だった。しかし、長身の彼女は乾とのバランスもよかったし、その様子は思いがけず自然だったのだ。
「……あれ、乾先輩? なんだ、サンて乾先輩の彼女だったのか? なあ、マムシ?」
 桃城が驚いたように言う。
「……シラネーよ!」
 海堂はついつい怒鳴った。
 視線の先では、乾がに手を振ってコートに戻って行った。そしてコートを後にしようとすると、海堂は目が合う。海堂に気づいた彼女は、手を振ると笑って近づいて来ようとしていたが、海堂は立ち上がり背を向けて走り出してしまった。

 翌日の教室で、は相変わらず休み時間には本を読んでばかりだった。
 そんなつもりはないのに、海堂は時折その彼女のうつむいた横顔を眺めた。
サンて乾先輩の彼女だったのか?』という、桃城の言葉が頭に響く。
 別に、それでいいじゃないか。ちょっと意外だっただけだ。
 そんな事を思いながら彼女を見ていたら、彼女ははっと何かを思い出したように顔を上げて振り返る。そして海堂と目を合わせた。
「ねえ、海堂くん」
 彼に話しかけた。突然の事に、海堂はびくりと驚いてしまう。
「……んだよ」
「海堂くんが前に言っていた、食事の事なんかにもうるさい先輩って、もしかして乾さんの事?」
 乾さん、というその呼び方が、またやけに彼女を大人っぽく見せて、そして同時にそんな風に呼ぶ関係というのはどういうものなんだろう、と考えてしまい彼は一瞬言葉につまった。
「……そうだよ」
 ぶっきらぼうに答えた。
「やっぱりそうだったのね。もしかしたらって思ってたんだけど。テニス部って人が多いから、なかなか思いつかなかったわ」
 本に栞をはさんで、頁を閉じながら彼女は笑った。
「……俺もが乾先輩の彼女だとは、思いつかなかったよ」
 あいもかわらずぶっきらぼうに言うと、は目を丸くする。
「私が? 乾さんの? 違うわよ」
 あわてたように手を横に振る。そんな彼女を睨みつけるように見た。
「乾さんはよく調べ物に図書室に来るの。私はほら、部活に入っていないから受付にいる事が多いし、レファレンスも担当するから、よく話をするのよ」
 興味ない、という風に彼女の話を聞きながらも、心の中で『桃城のバカヤロウ、早とちりじゃねぇか』と毒づく。
「図書委員では定期的に会議があって、生徒の希望する図書の購入を検討するんだけど、結構リクエストって来ないのよね。乾さんがいつも本をリクエストしてくれて、よくその本が入ることが多いのよ。……海堂くんが借りていった本も、前に乾さんが希望申請して入った本なの。昨日も、新しく希望する本と、これから調べたい本のリストを受け取ったのだけど、あの人熱心ね」
 へえ、と思いながらも、内心はあいかわらずすっきりしない。
 何て言ったら良いのだろう。
に物を尋ねるのも、彼女から本を借りるのも、乾の後追いだったのか?と思うと、やけに面白くない気分だった。
授業開始のベルが鳴ると、海堂はに何も言わず、乱暴に教科書を机の上に出した。

翌日、いつものようにストレッチをしていると、また桃城が隣にやってきた。
「山崎にさ、サンは乾先輩とつきあってるみたいだぜ、と言ったら結構ショックを受けてたみたいだ。あいつ、サンが好きだったんだろうなァ」
海堂は何か言いかけるが、面倒なので何も言わず黙ってストレッチを続けた。
「しかし、乾先輩とさんか、お似合いだよなァ。秀才カップルって感じでさ、サンは背も高くてキレイだしさ、なあマムシ?」
 感心したように明るい声で話しかけてくる桃城を、海堂はキッと睨んだ。
「ウルセーよ、お前!」
 言い合いになりそうな二人の傍を、乾が通った。
「おい、お前らまったくあいかわらずだな。練習に集中しろよ。手塚だったら、容赦しないところだぞ?」
 言いながら通り過ぎると、彼はコートの端へ歩いてゆき、その先には昨日と同様がいた。
「……練習に集中しろって、自分は彼女が来てるんだぜ?」
 桃城が肩をすくめて言う。
「だから、お前、ウルセーって!」
 また怒鳴った。
 乾はから何か紙袋を受け取った。
さん、悪いね、最近はこんなところまで出張させてしまって」
「受付当番じゃない日ですから、良いですよ。試合が近くて大変なんでしょう?」
「ははは、まあね。ありがとう、図書委員にさんみたいな人がいて、助かるよ」
 乾は紙袋を開けると、満足そうに眺めた。
 中からは何冊かの本が出てくる。
 そして、眼鏡をきらりと光らせて、海堂と桃城の方を見た。
「ふっふっふっ、お前ら、楽しみにしとけよ。新しい練習メニューと新しい汁が、これで更に完成度を増す事になる」
 乾は本をめくりながら、ニヤニヤとベンチに向かった。
 桃城はまっぴらごめん、といった風にランニングを始めた。
 海堂はと目が合うと、今日は走り去ることなく一歩二歩と近寄った。
「……乾先輩に、あんまりヘンな汁を作らせるような本は貸さないでくれよな」
 はおかしそうにくすくすと笑って、頷いた。
「テニス部の練習は校舎の窓からは見えないし、いつも見学してる人も多いから、あんまり見かけた事ないのよね」
 は物珍しそうに周囲を見渡す。
 彼女の言うとおり、その日も他校からと思しき偵察や、女子の見学者が多かった。
「……今日、見て行ったらいいじゃないか。どうせ帰宅部で暇なんだろ?」
「それもそうね」
 彼女が頷くのを見ると、暗くなる前に帰れよ、と言い残して海堂はくるりと背を向けランニングに向かった。
 ランニングを終えて、素振りやサーブの練習をしていると、じっとコートの端にまだがいるのが、視線の隅に入ってきた。
 いつも教室や図書室にいるイメージしかない彼女が、テニスコートの傍らにいるというのは、どうにも変な感じで、それでも悪くはない、と海堂は思った。
 辺りが暗くなりかけたころ、はっとコートの外を見たら、彼女はもういない。
 彼の言葉を忠実に守ったのだろう。
 練習を終えて帰る頃、ちらりと図書室の方を見たが、当然ながら明かりはついていなかった。

 
 海堂が待ちかねたとばかりに弁当箱を広げると、がやってきた。
 彼は初めて口をきいた日のように、不機嫌な顔はしない。
「……んだよ?」
 それでもつい、ぶっきらぼうに対応する。
「昨日、練習を見ててね、すごく面白かったわ」
 は気にすることなく、珍しく興奮した様子で話してきた。
「あ、ねえ、テニスの事、ちょっと聞いても良い?」
「……乾先輩に聞きゃいいじゃねぇかよ」
 ついついそんな風に言うと、は不思議そうな顔をした。
「どうして? 海堂くんはいろいろ聞かれるのイヤ?」
 目を丸くして彼をのぞきこんでくるは、やけに可愛らしくて、つい目をそらした。
「……イヤってわけじゃないけど、乾先輩の方がいろいろ知ってて答えられると思っただけだ」
 弁当箱を開けて、玉子焼きを口に放り込んだ。
「海堂くんの方が、同級生だし話しやすいわ」
 海堂は思わず顔を上げてから、また弁当箱に視線を向けた。
「……何が聞きてぇんだよ」
 もごもごと言うと、は自分の椅子を彼の机のところに持ってきて、座った。
「ほら、海堂くんが打ってた、あのギューンって曲がる球、あれってどうやるの?どうしてあんな風に曲がるの?」
 彼女はサンドイッチをほおばりながら聞いてきた。
 海堂は驚いた顔で彼女を見る。
「……でも知らない事なんかあるんだな」
「当たり前じゃない!」
 その質問に答えると、彼女は、初めて一緒に帰った日に海堂がしたように、次から次へと昨日見た練習について質問を投げかけてきた。
 そういえば、弁当を一緒に食べるなんてのも初めてだ、と話しながら気づいた。
 同じクラスで、席も近いのに。
 少し前、話しをするようになるまでは、存在すら気にも留めていなかった。
 同じクラスなのに。
 でも、今では、彼女は自分を知っているし、自分も彼女を知っている。
 自分も彼女も前から変わらぬ存在なのに、不思議な感じだった。
 それでも、それは決して悪くない。
 そう、悪くない。
 乾先輩、俺、を知ってますよ、同じクラスですから。
 と、いつか言ってやろうと思った。


2007.2.18




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