棋譜



 三年生になった私は、穏やかな気持ちで指定された席についた。
 私が通う、この青学中等部は平和だ。
 なんたって、男の子も女の子もイイトコの子が多いから、皆親切で穏やか。私はそれほどイイトコの子ってわけじゃないし、見た目が十人並みならば、オツムの出来もまったく普通だけど居心地が悪い学校じゃない。
 だからクラス替えも、そんなにドキドキしたりしなかった。
 そして私の新しいクラスでの新しい席は、窓に近い席でちょいと後ろ。
 うん、なかなか悪くない。
 席について、必要なものを机にしまいふうっと息をつく。
 すると、私の目の前に真っ黒な大きな壁ができた。
 ちょっと驚いて視線を上げてゆくと、その黒い大きな壁の上にはちょこんと、ドリアンみたいなツンツン頭が鎮座している。
 乾くんだ。
 この人は一年のときも同じクラスで、当時から背は高いほうだったと思うけど、なんてまあ大きくなったんだろう。
 私は本当に驚いてしまい、ちょっと口をあけて彼の背中を見上げていた。
 この乾くんっていうのは、変わった男の子だった。
 眼鏡を外すとなかなかの男前で、背も高いしで、黙っていれば「かっこいい」タイプの男の子なんだと思うけど、はっきり言ってかなりオタクっぽいのだ。それでも部活は文科系じゃなくて、運動部の花形テニス部で。
 そう、変わった子だったよなあ、と私は彼の背中を見ながら一年の時の事を思い出していた。
 すると、まるで私のその念が通じたかのように、ふいに彼が振り返った。
 オタクっぽいなんて思い出してたところだったので、ちょっと気まずい気分になってしまう。
「やあ、後ろはだったのか。俺が前だと、黒板見えにくくないか? もし何だったら席、代わろうか?」
 振り返った乾くんは、一年生の頃より顎のあたりがごっつくなって、声も低くなって、すっかり男の人という感じになっていて、私はまた驚いてしまった。
「……んん、いや別に大丈夫。先生から見えにくくて、かえって良いよ」
 私はワンテンポ遅れて、照れ笑いをしながら言った。大きな乾くんの後ろはかえってありがたい、というのは本当だった。
「そうか。もし気が変わったら、いつでも言ってくれ」
 乾くんはそう言って笑うと、また前を向いた。
 ああ、乾くんのこういうところは変わってないなと、私はちょっと懐かしくてほっとした。そう、乾くんは一年の頃から本当に穏やかで優しい人だったのを思い出した。
 そうそう、友達も「乾くんはせっかくかっこいいのに、オタクっぽくてキモくて、でも優しいよね」なんて、回りくどい褒め方をしてたっけ。
 私はカバンの中から、ポータブルマグネット将棋盤と本を取り出した。
 見た目も成績も地味な私は、趣味も地味で、のらりくらりと先生の追撃を交わして部活にも入らず、休み時間は友達と話す以外いつも一人で将棋をやっている。
 二つ折りになって金属でできた将棋盤を開き、詰め将棋の本を開いて、どこの問題までやったか思い出しながらページをくっていると、また乾くんが振り返った。
「……一年の時にも、一度に聞いてみようと思ったんだが」
 私は彼の声に驚いて顔を上げる。
、いつも詰め将棋をやってるが、対局はしないのか?」
「家ではよくおじいちゃんとやってたよ。でも、去年死んじゃってからは、あんまりちゃんと誰かと対局はしてないかな……。同級生はなかなか将棋するような子いないし、将棋部なんかないしね」
「へえ。休みの日も、そうやって家で詰め将棋したりしてるのかい?」
 乾くんはやけに楽しそうに笑って言った。私は、からかわれたような気になってちょっとムッとする。
「まさか。晴れた日は外に行くよ、私だって」
「外で何をするんだい?」
 言ってから、私はしまった、と思う。
「……いろいろ」
 言葉を濁す。
「区の将棋クラブに行ったりする?」
 相変わらず彼はからかうように言うので、私もムキになってしまった。
「まさか、そこまでマニアックじゃないよ。釣りをしたりする!」
「へえ、釣り。釣堀かい?」
 乾くんて、そういえばこういうどうでもいい事にしつこい人だったなあと、ちょっとうんざりしながら私はモゴモゴと答えた。
「ヘラブナ!」
「ヘラか、渋いね!」
 乾くんは笑いをこらえながら言った。
「いいじゃない。ブラックバスは口が大きくて怖いし、生餌を使うのはキライだし。ヘラブナだったら、えさはマッシュで簡単だし、こう浮きを見て……精神統一するのが好きなの」
 私は半ばやけくそで答えた。
「ごめんごめん、笑ったりして。ばかにしてるわけじゃないんだ。俺もヘラ、好きだよ。が言うように、あのウキのビミョウな動きで竿を上げるのって集中力要るしね。へラブナ、この辺だったらどこで釣れるんだい?最近はバスにやられちゃってるだろ?」
「……そういう穴場情報は簡単には教えられない」
 私はもう面倒くさくなって、本の詰め将棋の問題に取り掛かり始めた。
 乾くんは、私がそれ以上話をする気がないとわかったようで、前を向いた。
 そりゃあテニス部に比べたら、将棋やヘラブナ釣りが趣味の女子中学生っていうのは地味かもしれないけど、いいじゃないの、そっとしておいて欲しい。

 新しいクラスには、馴染みの友達もいた。
 私と同じでろくに部活もやっていない山木香織ちゃんは、一年も二年も同じクラスの、気の合う友達だった。その日は私たちは一緒に帰って、寄り道をしようと決めていた。
ちゃん、今日だいぶ乾くんと話してたね」
 帰り道で、香織ちゃんはひどく興味深そうに私に尋ねてきた。
「ああ、乾くんね。一年ぶりくらいに話したけど、あいかわらずキモいね」
 私はちょっと憤慨してそう言った。
ちゃん言うなあ。乾くんは、今じゃテニス部レギュラーであれでもすごくモテるんだよ、結構かっこいいって。優しいし」
 香織ちゃんは笑って言った。
「香織ちゃんだって一年の時、乾キモいって言ってたじゃない」
「冗談半分だって。ちゃんと乾が朝話してたの、周りの女子、結構ジロジロ見てたよ」
 香織ちゃんはからかうように言う。
「将棋とヘラブナ釣りの話をしてただけだよ。聞かれたから。乾くんて、聞きたがりじゃない。だから」
 私は思ったとおりの事を言った。香織ちゃんは、あいかわらずだねとまた笑った。

『聞きたがりの乾くん』は、それからも時々思い出したように私の方を振り返ると、私が詰め将棋の問題に取り組んでいるところを見ていたりした。私がなかなか詰められなくて悩んでると、一緒に悩んでみたり。
 最初はムッとしたけれど、基本的に憎めない人で、私はそんな彼にすぐ慣れた。
「……ところで乾くん、どうして人が詰め将棋してるトコなんか見るの? 面白い?」
 ある時、私は彼に尋ねた。
 すると彼は自分の机のノートを取り出してぱらぱらとめくってみせる。
「俺も休み時間はいろいろやる事があるんだけどさ、時々頭がパンクしそうになるんだ。そんな時に、が詰め将棋してるの見ると、丁度いい気分転換になるんだよ。自分がやると夢中になりすぎちまいそうだし、どん臭い奴がやってるのを見ると多分イライラする。は、それなりの難問をいい感じで詰めてゆくから、見てて面白いよ。頭の体操になる」
 彼はいつものように穏やかに笑って言った。
 私はほめられてるんだかバカにされてるんだかわからなくて、ちょっと照れくさくなった。そして照れくさいついでに、乾くんが出してきたノートに目をやる。
「乾くんはいつもノートにどんな事書いて、頭をパンクさせそうになってるの?」
「今は、トレーニングのインターバルで効率的にエネルギーを摂取するためのオリジナルドリンクを開発中なんだ」
 私はその大層な能書きのノートを見せてもらって、眉をひそめた。
「……なんでも栄養のありそうなものを、混ぜれば良いってモンじゃないと思うよ」
「……そうか?」
 不思議そうに首をかしげる彼を見て、私は思わず吹き出してしまった。
 うん、やっぱり乾くんは変わってる。変わってるよ。
 私の前の席の乾くんは、万事そんな調子だった。

 その日は、朝起きた時は晴れてたのに、私が学校に行く頃になると空は急に暗くなって、雨が降り出した。
 学校に着いて、制服についた水をタオルでふき取ると、私はいつものように席に座って教科書をしまい、将棋盤を出した。
 朝、ちょっと早めに来て授業が始まる前に、いくつか問題をやると本当に頭が冴えてすっきりするのだ。われながら渋い趣味かもしれないけど、運動部の子が朝練するのと同じだと思う。
 本を見て駒を並べようとしていると、いつもの黒い壁が前にやってきた。
「やあ、、おはよう。早いんだね」
 振り返って言う彼に、私は驚いて顔を上げた。
「……乾くんこそ、まだ部活の時間じゃないの?」
 彼は親指で外を指した。
「あ、そうか、雨かー……」
、たまにはさ、一局やらないかい?」
 乾くんはそう言って将棋盤を指差した。
「んん、いいよ」
 私はちょっと意外に思いながらも、駒を広げた。
 そういえば私も、人と対局するのは久しぶりだなあと、おじいちゃんと将棋盤を挟んでた時の事を思い出した。
「珍しいね」
「ん、何かさ、今日は一日部活の事は忘れて過ごそうかと思ったんだ。今日の気圧配置だと雨は夜まで続きそうだから、トレーニングもできないしね」
 乾くんは意外と嬉しそうに駒を並べて言った。
 そして、その一局はなかなか良い勝負だったけれど、ぎりぎり授業開始までに私の勝ちで終わった。
 乾くんは「おかしいな」と言うように首をかしげた。
「うーん……久しぶりにやったからな……」
 そのあからさまな悔しがり方は、普段の彼からするとちょっと意外で私は思わず笑ってしまった。
 彼は納得いかない、という様子のままでに授業に入って行ったが、その悔しさはずっと持続していたようで、昼休みになるととたんに、
「飯を食ったら、もう一局やらないか」
 と言って来た。
 乾くんとの勝負は、結構面白かったので私は承諾した。
 そしてさっさと弁当を食べると、私たちはまた駒を並べた。
 今度は乾くんは朝よりも慎重に駒をすすめていった。となると私もつい真剣になってしまう。テニス部に負けるわけにはいかない。
 そのお互いの慎重さのせいか、どちらも長考気味になってしまい、勝負は昼休みには終わらなかった。
 予鈴を聞きながら、乾くんは真剣な顔で言った。
、今日放課後は予定はあるか?」
「別にないけど」
「じゃあ、続きは放課後にやろう」
 正直、ちょっと乾くんに優勢な局面なのだ。でも、私だって引くわけにはいかない。
「いいよ」
 そう言うと、私はマグネット将棋盤の棋譜ををそのままに、そうっと机の中にしまった。

 放課後、乾くんは、さあ勝負とばかりに振り返る。
「待って、教室はしばらくは掃除が入るんじゃない?」
 私が言うと、乾くんはああ、と思い出したようにうなずいた。
「そうだな……じゃあ、掃除の入らない特別教室でやろう」
 乾くんはしばらく考えて、今日掃除が入らないだろう教室を指定してきた。
「俺は一度ちょっと部室に寄るから、先に行っててくれないか? すぐに行くから。棋譜、崩すなよ」
「わかってる!」
 乾くんはカバンを持って教室を走り出た。
 本当に勝負好きなんだなあと、私はちょっとおかしくなってしまった。
 乾くんのこういうところは、一年生の時にはわからなかったな、と改めて思う。
 私は乾くんの指定した教室に行った。
 そこは、標本室だ。理科の授業で使う部屋。
 ちらりとのぞくと、確かに掃除も入ってなくて人気もないんだけど、いろんな標本や図画がおいてあるその部屋はちょっと不気味で、私は一人で入る気にはならなかった。
 教室の前で立って、乾くんを待っていた。
 正直言って駒の並んだ将棋盤を持って立ってるなんて、いくらなんでも結構間抜けだから、早く来てくれないかなあと思う。
 すぐ行くと言ってたのに、私はそこに着いてからゆうに30分は待った。
 部室で、結局何か用事ができてしまったのだろうか。だったら一言連絡してくれればいいのに、と思うけれどそういえば私も乾くんも、お互いの携帯なんて知らないんだったと思い返した。
 テニス部の部室、行ってみようかなあと思っていたら、生物模型を持った香織ちゃんが通りかかった。そうか、香織ちゃんは当番だったのだ。
「あれ、ちゃんどうしたの?」
「……乾くんが昼の将棋の続きをやろうって言うから、待ってるんだけどね」
「へえ、乾くんと!」
 香織ちゃんは一瞬からかうように笑ってから、アレと眉をひそめた。
「あ、でも乾くん、情報室で見たよ、さっき」
「情報室?」
「うん、PCルームで。間違いない」
 そう聞くと、私は棋譜を崩さないようPCルームへ走った。標本室って言ったくせに、何やってるのかねえ、と憤慨しながら。
 私は何て言ってやろうかと思いつつ、扉に手をかける。が、そのまま扉の窓から乾くんの姿を見て、開ける事はしなかった。
 PCに向かって座る女の子と、その後ろからPCのディスプレイをのぞきこみ、何か話している乾くん。女の子は楽しそうに振り返っては乾くんを見上げて、二人はずっと話していた。
 私はなぜだかドキドキしてしまい、あわてて教室を離れた。一刻も早くそこを離れたくて、いつのまにか走っていた。
 そしてまだ将棋盤をまっすぐに持っている事に気づいて、立ち止まると私はその駒をぐしゃぐしゃと崩し、将棋盤も駒もカバンにしまった。
 勝負の続きする気がないなら、言わなければいいのに!
 私が不愉快に思ってるのは、それだけの事! 自分で言い聞かせるように心で言葉にしながら、走って帰った。
 雨の中を本当に雑に走ったから、靴もふくらはぎも泥だらけになってしまった。
 これも乾くんのせいだ。
 どうしてこんな嫌な気持ちになるんだろう。

 翌日はきれいに晴れた。
 私はいつものように少し早めに学校に行って、将棋盤を広げた。
 うん、いつもどおり。いつもどおりだ。
 けれどいつもどおりでない事が一つ。
 晴れた朝なのに、乾くんがやけに早く教室にやってきた。
 私の机の前に立つと、将棋盤を見た。
、昨日……」
 言いかける乾くんの言葉を、私はついつい遮ってしまった。
「乾くん、他に約束があるなら、そう言ってくれればいいのに」
「約束? 何言ってるんだ? 俺、下校時間になるまで待ってたんだぞ?」
 彼の言葉に私はきっと顔を上げた。
「だって、私も長いこと待ってたよ? 標本室の前にずっといたもの!」
 思わず彼を睨みつけた。
「標本室?」
「そう言ったじゃない」
「俺、情報室って言ったよ。ひょうほん室じゃなくて、じょうほう室」
「ええ?」
 私は思わず、昨日授業が終わった後の乾くんの言葉を思い返した。
「……標本室って、聞こえた……」
「そりゃ、標本室もありかもしれないけど、あんなとこで将棋するのはちょっとマニアックすぎるよ」
 乾くんはやれやれというように笑って言った。私は思わず顔が赤くなる。そうか、私がすっかり勘違いしてしまってたのだ。
「ご、ごめん……。香織ちゃんから乾くんを見たって聞いて、情報室にも行ったんだけど女の子と何か話し込んでたから、邪魔しちゃ悪いと思って……」
 私がそう言うと、乾くんはひどく落胆した顔をした。
「なんだ来てたんだったら、入って来てくれればよかったのに。あの子は知らない子だけど、PCの事を教えて欲しいと言うから、『待ち合わせてる人が来るまでなら』ってつきあってたんだよ。だいぶ長いことつきあうハメになってしまった」
「……ごめん、でもまあ建設的に過ごせたならいいじゃない。可愛い女の子だったし」
 思わず言うと、乾くんはムッとした顔をした。
「ちっとも建設的じゃないよ。彼女は俺のファンらしくてね、PCの事を聞きたいなんてのは口実だ。説明なんかぜんぜん聞いちゃいないし、俺の事ばかり聞きたがる。でも、俺はが来るかもしれないからあの部屋を出られない。まったく不毛な時間だったよ」
「そうか、本当にごめんね」
 私は心から謝罪をした。自分の勘違いが、とても恥ずかしかった。
 乾くんはふうっと息をついて、席に座って改めて将棋盤を見た。
「あれほど言ったのに、棋譜、崩したのか?」
 私はまたはっとする。
「あ、うん、重ね重ねごめん……」
 でも乾くんは、柔らかく笑った。
「いいよ。こうやってさ」
 将棋盤に駒を並べた。
「二人で、並べて行ったら再現できるんじゃない? 長考したからほとんど覚えてるだろ?」
「うん……」
 私たちは昨日の棋譜を再現するべく、駒を並べて行った。
 乾くんがやけににやにやと笑うので、私は気になった。
「何がおかしいの?」
「いや、の事でさ、三年になってから新しく得たデータ。頭は良いけど勉強嫌い、うっかりしてて早とちりって事」
 突然の言葉に、私はちょっとムッとする。
「頭よくないよ」
「携帯の番号聞いときゃよかったと思ったよ、昨日は。後で教えて」
 私の反論も無視して言う彼の言葉に、私は若干長考してから、うん、と答えた。
 私達の棋譜は、あと少しで出来上がる。
 今日こそは勝負がつくだろう。

 了

2007.3.10




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