● 恋の川中島大決戦  ●

 家のキッチンで私がパスタを茹でるための湯を沸かしていると、インターホンが鳴った。
 私は慌てて時計を見て飛び上がった。
 真田くん、もう来ちゃった! 彼が来る前に、急いでお昼ご飯を食べてしまおうと思ってたのに。
 いやいや、彼が早いわけではない。
 私の準備が朝からばたばたしていて遅かっただけなのだ。
 冬休みに入って数日たった今日、彼は家に来る約束をしていた。
 今日は、母親は朝から友達と中華街に行って帰りは遅くなるのだという事だったから。
 まあ、何だ、つまり、私と彼のXデーという訳です。
 だから私は朝からばたばたしていた。
 シャワーを浴びたり、きちんと上下そろいの可愛い下着を用意したりだ。
 そして、服はどんな感じでお迎えしたものか? というところで悩んでしまう。私がよく友達と遊びに行く時に着るようなのじゃなくて、真田くんの好きそうなちょっと可愛らしい服でも着ていた方がいいだろうか、でもどうせ脱ぐんだしな、いやそれではミもフタもない……なんて考え出したらいろいろと悩んでしまったのだ。これは、何だ、この場合、私は真田くんに脱がされる事になるのだろうか? だったら、ややこしくなくて、脱がせやすいようなものを着ておくのが気遣いというものだろうか? 
 しかし、とまた私は考える。
 そうした場合、例えば脱がせて頂いた後に、『真田くん、しわにならないようにそれハンガーにかけておいて』という訳にもいかないような気がする。だとすると、しわになるような服はダメだな、と私は候補に上げていた服をいくつか却下した。
 いや、自分で脱いで自分でたたむなり、ハンガーにかけるなりすれば良いのかもしれない。ああ、でも、そういった時にそういう『間』はどうなんだろうな、などと考え出すとと、時間はあっという間に何時間も経ってしまっていたのだ。
 そのうち私は考えているだけで疲れてしまい、かつ、そんな事をつらつらと頭でシミュレーションしている自分がバカみたいに思えてきて、結局のところそうそう頑張りすぎてもいないような無難なワンピースに決定した。さて真田くんが来る前にお昼ご飯食べとこう、と準備をしていたらもう彼が来る時間になってしまったというわけだ。
 私はコンロの火を止めて、あわてて玄関に走った。
「いらっしゃい、寒かったでしょ?」
 玄関を開けると、いつものショルダーバッグを掛けてマフラーをまいた真田くんがしかめっ面で立っていた。
 こういった日に、にやにやとにやけた顔で現れるのは彼らしくないけれど、なにもこれから川中島の合戦に臨まんとする武田信玄かのような顔(会った事ないけど)で来なくても!
「いや、大丈夫だ」
 彼はぶっきらぼうに言って中に入って来た。
「……あ、ごめん、私今、お昼を食べるとこなの。真田くんも、何か食べる?」
 私は彼をキッチンに案内しながら言った。
「俺は昼は済ませてきたが、まあ、つきあおう」
 パスタくらいなら彼も食べるだろう、と私は二人分を計量して茹でた。
「ごめんね、もっと早くに食べちゃおうと思ってたんだけど、なんだか遅くなっちゃって」
「いや、かまわん。飯は大切だからな、しっかり食っておけ」
 いや、そんな、腹が減っては戦はできぬ的なアレじゃなくてねえ。お腹が鳴ったりしたら、かっこ悪いなあって思ってるだけの事なんだけど。
 なんて思いながら、ボウルに出来合いの明太子ソースを開けて、そこにバターと明太子を追加して混ぜ始めた。茹であがったパスタにからめて、皿に盛る。
「真田くん、テーブルの海苔、取ってもらって良い?」
 先に座っている彼に、食卓の上の味付け海苔を取ってもらった。海苔の瓶を開けて、中から個別包装の海苔を引っ張り出した彼は、べろんとつながったままのそれを一瞬不満げに見て、ぺりっと一個を取って私にくれた。
 そういえば、真田くんの家では、海苔はきれいに一個一個切り離されてからきちんとしまってあって、大ざっぱな家の母親とは違うなあと感心したものだ。
 海苔を刻んでパスタにのせると、テーブルに運んだ。
「お昼っていっても、こんなものだけど、まあ食べて」
 真田くんはいつものように礼儀正しく両手を合わせてから、それを食べ始めた。
「おお、なかなか旨いではないか」
「そう? よかった。まあ、ほとんど出来合いのソースだけど」
 よく考えたら、私が何か作って彼に食べてもらうなんて初めてだ。しかも、美味しいなんて言われた。やっぱりちょっと嬉しいなあ。
 もりもりと食べている彼を、私はじっと見た。さすがに食べている間は、眉間に皺は寄っていない。
 あっという間に食べ終えた彼にやや遅れて完食した私は、皿を流しに運び、片づけをする間、真田くんに先に部屋に行っておいてもらうよう言った。なんかね、じっと見てられると落ち着かないから。姑みたいで。
 あまり待たせては悪いだろうと、急いで片付けをして私の部屋へ行くと、真田くんはこれまた難しい顔で正座しているのだ。敵陣に乗り込んだ武将といったところだろうか。
 いつも真田くんと一緒に宿題をやったりする時に使う折りたたみのテーブルを出しておいたので、私はそこにお茶を運んだ。
「ああ、すまんな」
 彼はそうつぶやいて、日本茶をすすった。
 私も彼の向かいに腰を下ろして、お茶を飲む。
 私たちは黙ったまま。
「あの、真田くん、お兄さんって帰ってきた?」
 私は何か会話でも、と、ふと思い出した事を尋ねる。
「ああ、帰ってきた」
 が、彼の返事はただ一言。そして、また沈黙が横たわる。
 まあ、あれだ。私も朝から緊張しているのだけど、どうも、真田くんもそれなりに緊張しているらしい。そして、なんというか、その緊張が伝わってくると私も更に緊張し、そしてその私の緊張がまた溢れ出し、という私たちは緊張スパイラルの中にいるような感じだ。
 何もこれから合戦が始まるわけじゃないんだから、まずはいつもどおりにしていればいいんだ。私は深呼吸をして、自分で自分にそう言い聞かせた。そう、いつもどおりに。いつも私たち、こうやって部屋に二人でいてどうしてたっけ? そうだ、宿題をやってたじゃない。そうそう、まずはいつもどおりの事から始めたら良いんじゃないの。
「真田くん、宿題、何の科目を持ってきた?」
 私が尋ねると、真田くんはけげんそうな顔をする。
「宿題は俺たちは早々にすませたではないか。そんな勉強道具など持ってきておらん」
 ああ、そういえば冬休みに入った直後に宿題はぜんぶやらされたんだった!
「あっ、そうか。でも真田くん、勉強道具持ってきてないって珍しい。じゃあ何持ってきたの」
 そう言って、私は何気なく床に置かれた彼がいつも持ってるショルダーバックを覗き込んだ。すると中には相変わらずのあの忌々しい石と、なにやらタオルと着替え(?)、そして紙袋が。
「ああ、いや、お前の家で風呂を借りるかもしれんと思ってだな……」
 珍しく勉強道具も何も入っていないその鞄の中身を見ると、この武将は完全に臨戦体制なのだと私は思い知らされた。そして、鞄の中のそのドラッグストアの紙袋の中身が何なのか、さすがに私にも察する事はできる。ラテックス製の例の物だ。この男、完全武装だ。
「……が、やはり気が進まぬというのならば……」
 私の様子を見て彼は心配そうに言うので、私は慌てて『ううん、そういうわけじゃないよ』と笑って見せた。
「そういう訳じゃないんだけど……なんていうか……」
 合戦よろしく、『いざ! いざ!』というこの感じはなんか違うと思う。
「あの……やっぱりちょっとくらい一緒に勉強とかしてから、とかの方がいいかなあって」
 私が言うと、また彼は眉間にしわを寄せて私を見る。
「お前が勉強とは珍しい事を言うではないか。しかし、このような時に勉強などしてもどうせお互い集中できぬのだし、効率が悪かろう」
 えっ、これはまたミもフタもない事を!
「だけど例えばね、ほら、一緒に勉強とかしながらちょっと話をしたりして、ちょっと良い雰囲気になってきて……みたいな感じだと、気分的な導入としていいんじゃないかと思っただけ」
 私がそう言ってみても、彼の眉間のしわはそのままだった。
「何だ? お前はいつも一緒に宿題をやりながら、そのような事を考えているのか」
 彼の言葉に、私は思わずテーブルを叩いた。
「違うよ! そういう訳じゃなくて、私は雰囲気の事を言ってるの!」
 ついつい大声を出してしまう。
 だって! どんな映画やドラマや少女漫画でも、こんな風に『いざ! いたさん!』みたいにして始めたりしないでしょ! なんかこう、ちょっといちゃいちゃして、そういう雰囲気になって……みたいな!
「だからといって、やる気もない勉強をするフリをしてみても意味がなかろう。まわりくどい」
 確かにそういわれると、まるで自分が『宿題プレイ』でも希望しているシチュエーションマニアみたいで恥ずかしくなってくる。
それにしても、真田くんへの、この伝わらなさ加減はちょっと腹立たしい!
 私たちの緊張スパイラルには、今度はどうもイライラ感も混じってきてしまったみたい。真田くんの表情は相変わらず険しいまま。
 まずいまずい。
 私は深呼吸を何回かした。
 真田くんがこういう子だっていうのをわかっていて私はつきあっているのだから、こういうところで腹を立ててしまってはだめだ。
 ここはひとつ、何かそれっぽい話でもして、空気を変えなければならない。
 私は気を取り直して、少し表情をやわらげ、真田くんを見た。
「あの真田くん、私、コンドームって見たことないんだけれど、見せてもらってもいい?」
 私がそう言うと、真田くんは一瞬意表をつかれたような顔をして、そして黙ったまま鞄の中から例の紙袋を取り出してテーブルに置いた。
 未開封、という事は、真田くんもまだちゃんと見ていないのだろうか。
 っていうか、私に勝手に開けて見ろという事?
 やれやれと思いつつも、私は紙袋を開けて中のものを取り出した。
 今度は私が意表を突かれる番だった。
 それは1ダース入り×2箱パックだったから。
 こんなに沢山買ってこなくても! と口に出しそうになって、ぐっと飲み込む。
 今時こういうものって、ちょっと可愛らしい雑貨屋のアメニティグッズのところなんかにも置いてあって、とてもさりげなくスマートに手に入れられるのだという事を、私でも知っている。だけど、多分真田くんはそんな事知らない。洒落た雑貨屋なんか行かないからね。だから、彼はド直球にドラッグストアのそのコーナーでブツを掴んでレジに持っていくという、最も難易度の高いやりかたで入手したのだろう。きっと恐ろしい形相で。それで、おそらく適当な『お徳用』をつかんでしまったのだろう。
 なんとなくそういった様子が想像できたので、私はそのあたりにはつっこまずにおいた。
 ぺりぺりとフィルムをはがして箱を開けてみると、中には取り扱い説明書が入っており、私はそれを開いて眺める。ふんふん、なかなかに生々しい事が書いてあって、私は読みながらちょっと緊張した。
 ふと顔を上げると、真田くんはもう一つの箱を開けて私と同じく取扱説明書を読み始めていた。その彼の表情はひどく真剣で、そしてぐっと眉間に深く深くしわが刻まれてゆく。うん、そりゃあ二人で使うものだけれど、どちらかといえば真田くんにしっかりと説明書通りに使用していただかないといけないから、しっかり読んでおいて。
 それにしても、そんなに長い説明書でもないのに、真田くんはものすごい形相で大分時間をかけて読んでいる。
 私はちょっと不安になってきてしまった。
「あの……真田くん、こんな事を聞くのは変かもしれないけど、真田くんってその……どうやってするのかっていうのを、学校で習った範囲外の実地的な部分について知っておいででしょうか……。言うまでもなく、私は初めてなんだけど……」
 私が尋ねると、彼はようやく説明書から顔を上げた。
「俺も初めてだが、おおよその流れと手順は心得ている」
 ああ、まあ、そうだよねえ。と私が肯いていると、お前はどうなのだ、と聞かれた。
「えっ、私? ああ、まあ常識的な事くらいは……」
 答えながら、真田くんはその『おおよその流れと手順』をどうやって学んだんだろう、と思うけど、それを尋ねたらまた私にも聞き返されるに違いないと思い、聞かずにおいた。
 しかし何だ。
 二人で避妊具の取扱説明書を読み、こうやって話をしていても、どうも気分が、これからいたす!という風にならないなあ。
 私は軽くため息をついた。
「むう、これは」
 真田くんは箱の中からブツを取り出すと、つぶやいた。
 真田くんの指には、びろーんと個別包装のつながったブツがつままれている。
「こういうものは、最初に全部切り離しておいた方が良いだろう。、そっちの箱の物も出して、全部切り離しておいてくれ」
 彼はそう言うと、ペリペリと丁寧に一個ずつそれを切り離し始めたのだ。
 ああ、そういえば真田くんの家の海苔、きちんと一個ずつ切り離されていたのもあの丁寧なお母さんに言われて、彼がお手伝いをしてやっていたのかもしれない。そして、彼が私として家にいたとき、家の食卓のあのつながったままの味付け海苔、気になっていたのだろうなあ。
 さっきパスタに乗せる海苔を取ってもらった時の事を思い出してしまった。
 それにしても。
 彼に言われた通り、私もペリペリとブツを切り離しつつ、またため息をついた。
 たしかに真田くんの言う事は理にはかなっているけれど、これから行為に至る男女の最初の共同作業がこれというのも何だかなぁ……。
「……、すまんな」
 突然の彼の言葉に、私はあわてて顔を上げた。
 彼は切り離し終えたブツをまた箱に戻しながら、あいもかわらずの難しい顔で言うのだった。
「俺は……手順……は心得ているが、その、お前の言う雰囲気というか……そういうものをどうしたらいいのか、さっぱりわからんのだ。俺はお前を抱きたいと思うし、そういう気持ちは強いのだが、俺がしっかりせねばならんという事に精一杯で、どうやったらお前を……安心させてそういった気分にさせてやれるのか、わからん。気分を害させてしまっていたら、すまない」
 ゆっくりと低い声で言う彼を、私はじっと見つめた。
 ロマンティックな映画や漫画だと、恋人同士は優しい会話や、ちょっとした触れあいなんかでドラマティックに燃え上がって抱き合ってゆく。でも、私はそういうのを見て、『こんな突然に盛り上がってしまって、避妊とかどうしてんだろ。常備しているのだろうか。だとしたら、まるで突然燃え上がったかような展開に見せかけて、結局最初からやる気満々だったということ??』なんて疑問に思ったりしたっけ。
 私と真田くんは、映画の登場人物でもないし、現実を生きている中学生だ。
 だから、ロマンティックな会話やシチュエーションよりも、おそらくすごく緊張しながらもドラッグストアで2箱パックをきちんと買って用意して来てくれた真田くんのそんなところが、私はとてもかっこいいと思うし、好きだな。
 彼を見ていたら、改めてそう思った。
 私はきちんと切り離したブツを彼がそうしたように箱に戻した。
 一個を残して。
「はい、これ」
 そして、その一個を真田くんに差し出す。
 はい、今から使う分です。
 私は若干照れながらも笑って彼を見ていると、彼は私の差し出した物を、私の手の上からぎゅっと握った。いつもより熱い、その大きな手。
 やっぱり私は真田くんが好きだなあって改めて思うと、私はその手の熱が伝染したように顔が熱くなって、思わずうつむいた。
 彼はその手を引き寄せて、私を胸に抱いた。
 今日の真田くんはいい匂いがする。
 ああ、これは真田くんの家のボディソープの匂いだ。
 きっと今日の私と同じで、朝からお風呂に入ったりして、落ち着かなく過ごしていたのだろう。
 ごめんね、大丈夫。私、ちょっと照れくさくて、緊張しすぎていただけだから、心配しないで。
 そう思いながら、ほっとした気持ちで彼の背中にぎゅうっと手を回していると、私の携帯の音がした。
「あ、ちょっとごめん」 
 そのメール着信音は母親からのものだったので、私は真田くんの腕から離れると携帯を手にし、画面を開いた。
「……どうした?」
 やや不安げに尋ねてくる真田くんに、私は申し訳ない気持ちで顔を上げた。
「お母さんと中華街に行ったお友達が、昼のバイキングで食べ過ぎて気持ち悪くなっちゃって、買い物は中止でもう帰ってくるんだって。お土産に美味しい肉まんがあるってさ。真田くんも食べていけば?」
 私が言うと、真田くんはやるせない顔で、片手に握り締めていたラテックス製のブツを箱にしまった。
「あの……ごめんね、ほら、でも川中島の戦いも第一次から第五次まで約10年の長きにわたり戦っていたって言うし、今日は第一次川中島の戦い、布施の合戦という事で……」
「俺は八幡原の合戦のつもりでいたぞ! 普通、川中島の戦いといったら雌雄を決する第四次のそれだろう! そもそも、武田信玄と上杉謙信の戦いというのはだな……」
 私がうっかり口走った事から、真田くんの風林火山についての長い話が始まってしまった。でもまあ、今日は大人しく聞いておく事にしよう。
今日の私たちの進展はほんのわずかだけど、今回の布陣により、次回は個別包装をぺりぺりと引き離す作業が不要なわけだから、今日よりも若干は段取りがスムーズだと思うよ、真田くん。

(了)
「恋の川中島大決戦」

2008.1.12

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