俺は、とつきあう事になった。
つきあう事に……なったんだと思う。
その時の事はあまり思い出したくない。
なぜならば、俺自身があまりにも情けなかったから。
雨が降る中、と向かい合って俺が言えたのは、『が他の男とつきあうのは嫌だ』という事だけ。
そんな俺の傘に……は入ってきてくれた。
それが、ほんのこの前の出来事。
それからの俺たちといえば。
特に何も変らない。
本の話をしたり、俺がテニスの話をしたり。
時間が合えば、図書館のあたりで待ち合わせて一緒に帰ったり。
そう、特に何も変らないのだ。
それが不満というわけではない。
と過ごすのは楽しいから。
ただ、俺は女の子とつきあったりするのは初めてで……つきあうっていうのは、どうするものなのか、さっぱりわからない。
もちろん俺だって、男と女がどうするのかなんて事はわかっているけれど、そういう事じゃなくて……。
俺が時々、妙にもどかしいそんな気分で斜め前の席の彼女を見つめていても、はいつも飄々と落ち着いていて。
しかも俺も彼女も、あんまりいじられキャラじゃないから、二人でいても公然とからかわれたりする事はない。
だから、俺たちの毎日はあの雨の日の前から、ほとんど変わらない。
「……海堂くん、どうしたの?」
俺がそんな事を考えながら歩いていたら、隣を歩くが不思議そうに顔を上げた。
「いや、何でもねーよ」
俺はぶっきらぼうに言う。
今日も部活を終えて、そして図書館へを迎えに行って一緒に帰るところ。
「そう? なんだか心配事でもあるのかと思っちゃった」
は俺の顔を見上げて笑う。
の優しい声や、穏やかな笑顔。
正直なところ、俺はそばでそれを感じるだけで幸せだ。
何もない、と首をふりながら彼女を見た。
そう、本当に、こうして二人でいるだけで俺は嬉しいんだ。
「あ……」
不意にが空を見上げた。
かすかに、雨粒が落ちてくる。
は鞄を探って、折り畳み傘を出した。
俺は何も言わずにそれを受け取り、開くとの上に差し出す。
彼女の淡いオレンジの折り畳み傘は小さくて、俺の肩はほとんどはみ出てしまうけど、構わない。
すっと俺の傍に身体を寄せてくる、彼女の柔らかな熱とかすかな髪の香り。
つきあうようになってから、三回目の雨の日だ。
雨の日に一つの傘の下で、と捨てられた子猫たちのように身体を寄せ合う瞬間は、俺は彼女とつきあっているんだなと実感する。
とても幸せな瞬間のひとつだった。
その日、俺は部活の前に図書館の入り口でと話をしていて。
「今日も図書委員の当番か?」
「ううん、今日は違うけど読みたい本があって」
「……部活終わるまでかかりそうか?」
俺が言うとはにこっと笑った。
「うん、終わったら連絡して。一緒に帰ろ?」
「……ああ」
そんな風に話していると、傍を桃城が通って、立ち止まる。
「お……」
立ち止まって、俺たちをじろじろと見た。
「最近、よく一緒に帰ったりしてるよな。マムシとさんて、やっぱりつきあってんの?」
奴はいつもの笑顔で、さらりと聞いてきた。
「うん、そう」
俺が一瞬あわてるのにも構わず、はあっさり笑顔で答えた。
「へー、そうか。マムシもやるなー」
桃城はそれだけを言うと、部室へ向かった。
俺はなんだか拍子抜けしてしまう。
「じゃあね、海堂くん」
もそう言って俺に手を振ると、図書館の中へ消えていった。
何が不満だとか言うわけじゃない。
ただとつきあうようになって、俺は自分がこんな風でいいのか、どうしたらいいのか、いつも少し戸惑ってしまう。けれどは、今までとちっとも変らない。いつもの落ち着いたままだ。
それが何だというわけじゃないけれど……。
どうして俺だけ、こんな落ち着かない気分なんだろう。
は……俺との事を一体どう思っているんだろう。
部活を終えた俺は、図書館でと待ち合わせ、一緒に帰った。
そう、二人でいるのは、とてもほっとするし楽しい。
でも、俺はこれでいいのか、よくわからない。
他の、彼女がいる男っていうのはどうしているんだろう。
もっとこう、男として彼女にしてやれる事はないんだろうか。
得体の知れない、もどかしい気持ちが俺の胸からはなかなか消えなかった。
帰宅した後、俺はいつものように自主トレに取り組む。
暗くなった頃、夜ランを始めた。
走るのは好きだ。
流れる景色、頬にあたる風、心地よい疲労とともに体に蓄積してゆく充実感。
元来ひとりでいる事が好きな俺は、走っている時間がとても好きだった。
それでもこの日は、ふと気づくとの家の近くへ向かっていた。
元々、いくつかのランニングコースのひとつではあったのだけれど。
彼女の家の近くで、俺は足を止めた。
は家で何をしているだろう。
本を読んでいるだろうか。
飯を食っているだろうか。
TVを見ているだろうか。
ほんの数時間前に別れたばかりで、明日もまた会えるというのに、まるで離れ離れの恋人を思うかのように俺は彼女の家を眺めていた。
そして、俺は自分の目を疑った。
いつも彼女を送り届ける家の門から、が出てきたのだ。
俺は首にかけたタオルを思わず握り締め、動けない。
は門を閉めて振り返ると、俺を見て笑いながらゆっくり近づいてきた。
「コンビニにね、牛乳を買いにこうと思ってたの。海堂くん、ランニング中?」
「ああ……」
「びっくりした。偶然会えるなんて、すごく嬉しい」
はにこっと笑う。
俺は、の事を考えながらしばらく立っていたなんて事がこっぱずかしくて、思わずそっぽを向いてしまう。
そして黙って、コンビニの方へ歩き出した。
「……海堂くん、走らなくて良い?」
「ああ、もうだいぶ走ったから……」
7分丈のパンツにキャミソール、薄手のシャツを羽織ったは、やはり学校で見るよりも大人っぽくてきれいだった。
そういえば関東大会の試合の時以外、まったくのプライベートで学外で会うのは初めてだ。そう、俺たちはまだ外でデートなんてした事がないから……。
「……よく、夜に買い物行くのか?」
「そうね、時々ね。うち、両親とも仕事で帰りが遅いから」
「暗いと……あぶねーだろ」
「この辺りはわりと明るいから大丈夫よ。今日は海堂くんも一緒だし」
コンビニの前に差し掛かったところで、傍をバスが通り、コンビニのすぐ先のバス停にゆっくりと停車しかけた。
その時。
が突然俺の手をつかんだ。
そして、彼女は俺を引っ張って走り出したと思ったら、そのバスに乗り込んだのだ。
驚いた俺が何を言う間もなく、プシュゥとバスの扉は閉まって、ゆっくりと大きく車体は揺れ、俺たちを乗せたバスは発車したのだった。
は俺の手を引いたまま、二人掛けの席へ腰を下ろした。
俺は通路側に座る。
「……ごめん、びっくりした?」
「ああ……」
俺は何を言ったらいいかわからなくて、静かにつぶやいた。
バスの中には俺たちのほか、数人の客のみ。
バスの排気ブレーキやなんかの音がやけに響いた。
「私もびっくりしちゃた」
はそう言うと恥ずかしそうに笑って俺を見た。
「……コンビニで牛乳買って帰るのなんてすぐ済んでしまうから……もう少し、学校の外で会った海堂くんと一緒にいたかったの」
小さな声だけれど、彼女は確かにそう言った。
俺はに手を握られたまま、その手元を見つめる。
手を取って、走って、連れ出すなんて。
俺が、彼女にしたかった事なのに。
あせるような気持ちがまた甦って、俺はドキドキしながらも落ち着かない。
「バス……どこ行くんだ?」
「わからないけど、降りて、そこからまたバスに乗って帰ってきたらいいじゃない」
は窓の外を見た。
バスの窓にはと俺の姿が映っていて、それはちょっと古いドラマか何かの、駆け落ちをする二人のように見えなくもなかった。そんな自分達を見て、俺はまた少しドキドキした。
俺たちを乗せたバスは、静かな住宅街のロータリーに入る。
そこが終点のようだった。
数人の乗客とともに、俺たちも下車する。
知らない町でもないし、たいして遠くまで来たわけでもないのに、まるで二人で旅をして来たような気分だ。
バス停のすぐ近くに自動販売機があって、俺たちはそこで飲み物を買い、バス停のベンチに座る。
「……別に、どこに行きたいっていうわけじゃなかったんだけど……」
はペットボトルの紅茶を一口飲んで言う。
「急に、ちょっと特別な事をしてみたくなったの。怒ってる?」
「いや、怒ってなんかいねーけど。……びっくりしただけだ」
俺はそんな事しか言えない。
ちがう、本当に言いたいのはそんな事じゃなくて……。
俺の隣で紅茶を飲んでいる彼女の事を、本当に好きだ、という気持ちだけが心の中で渦巻いて、どうしたら良いのかまったく途方に暮れてしまう。
「ごめん」
突然に俺が口にした言葉に、は驚いて顔を上げた。
「その……」
俺は立ち上がると、頭に巻いていたバンダナを外し一度ぐしゃぐしゃと髪をかきむしった。
そしてまた髪を整えると、きつくバンダナを巻きなおす。
「俺はが好きなんだけど、女とつきあうってどうしたらいいのか、わかんねーし……。俺は男なんだから、もっと……俺が、の手を引いてやりたいのに。いつも、学校から一緒に帰るくらいしかできねー」
は立ち上がると、バスの時刻表に向かって歩いた。
そして、指でなぞって確認をするとまた俺の前へやって来る。
「私も、男の子とつきあうって、どうするのかよくわからない。でも、海堂くんと一緒に帰ったりするの、楽しいし好きだわ。それだけでも楽しいけど、でも、ひとつの傘に入ったり、行き先のわからないバスに突然二人で乗ったり……『つきあう』ようになると、それまでした事のない事ができて、楽しいんだなあって、今、初めてわかった」
の言葉を聞きながら、俺はスポーツドリンクを飲み干し、ペットボトルを専用のゴミ箱に放った。
そして、の手をつかむ。
あまりに意気込みすぎていて俺の手の力が強すぎたかもと、あわてて力をゆるめると、彼女の手がぎゅっと握り返してくるのを感じた。
「……初めてのデートだよな、これ……」
俺は顔が熱くなるのを感じながら、そう言った。
「うん、そうよね。なんだか、すごく嬉しい」
は本当に嬉しそうな顔で俺を見上げた。そしてクスクスと笑う。
「ヘンなの。ほんの近所にバスで来ただけなのに、ものすごく特別な感じ。二人でいたら、特別な日じゃなくても特別だし、きっと特別な日もやっぱり特別よね。だからみんな、バレンタインやクリスマスって、浮かれるんだ」
言いながらまた笑う。
「あ、ねえ、海堂くんの誕生日っていつ?」
「俺? 5月の……11日」
「そっか、もうすんじゃったんだ。来年……誕生日の頃には、私たち三年生ね」
「は?」
「私は1月。1月の15日」
「の誕生日も来年か……」
俺たちは手をつないだまま、どこへという事もなくゆっくりと歩き出した。
静かな住宅街はもう人気がなくて、時折犬の吠える声が聞こえる。
どこの家も晩御飯を食べている頃だろうか。
「不思議ね。ほんの少し生まれる時が違ったら、私たち同じ学年じゃなくて、同じクラスにもならなかったよね。だからきっと、来年の海堂くんの誕生日では私、本当にすごく、誕生日ありがとうって思うんじゃないかな」
「誕生日ありがとう、か……」
が俺と同じ学年に生まれてくれて、ありがとう。
俺をと同じ学年に生んでくれて、ありがとう。
「バス、いつ来るんだ?」
「あと、20分くらい」
「そっか」
俺はの手を握った自分の手に力を入れる。
明日から、俺たちはまたいつものように過ごすだろう。
けれど、つきあうようになる前とは、やっぱり違う。
俺はが好きだし、は俺を好きだ。
その事を、お互い知っている。
そして俺たちの毎日には、ゆっくりとほんの少しずつ、特別な事が加わってゆくのだろう。
今日、こうやって二人でバスに乗ったように。
俺はもうあせらない。
来年のお互いの誕生日には、二人で感謝の言葉を伝え合う事ができるだろう。
(了)
2007.5.11