● むしろ神の子  ●

 私はアホである。
 天然だとか、アホの子だとか、そういった可愛らしいものじゃなくて、本当に正真正銘のアホなのである。
 そんなアホの私が、父親の転勤に伴う引越しで転校をしなければいけなくなって、ダメ元で編入試験を受けた立海大附属中に合格した時、そりゃあ両親の喜びようはハンパじゃなかった。私もあまりの意外さに驚いてしまい、喜ぶのにワンテンポ遅れたくらいだった。
 ちなみに合格のご褒美に、それまで母親にダメと言われていたまつ毛パーマが解禁となったのだけど、今思えばもっと値の張るものをねだればよかった。しょっぼい値段のもので喜んでしまった。まあ、アホだから。
 それにしても、私が花の立海大附属に編入できて喜んでいたのもほんの一ヶ月くらいだった。
 普通の人なら簡単に想像がつくと思うのだけど、私はアホだからわからなかったんだ。
 つまり、私は絶対的に言えば普通レベルのアホなので(多分)、普通の集団の中にいれば普通のアホなんだけど、ちょっとお利口な人の多い集団に入ると相対的な意味でずばぬけたアホになってしまうわけである。
 ああ、アホなくせに気取った言い方をしてもだめだ。わかんねー。

 つまりはっきり言うと、立海大附属はレベルが高くて勉強が難しくてついていけなくて、なんとわたくし、全教科のテストが追試でかつ補習。夏休みはほとんどそれでつぶれることになったのである。
 そういう正統派のアホなんです。

 クラスにはいい子が多くて、友達はすぐに出来てみんな勉強を教えてくれたり励ましたりしてくれるんだけど、夏休みともなるとやっぱりそれぞれに予定はあるし部活やってる子はそれで忙しいし、私は非常に孤独だった。
 そりゃ、さすがに追試とか補習って一人じゃないんだけど、大概は「数学だけ」とか「英語だけ」とかで、メンバーは入れ替わるから。
 先生もいい人だからあんまり怒りはしないんだけど、「全教科ってお前、前代未聞だぞ」と少々呆れ顔。私があまりにがっくりした顔をしてるから、「編入してきたばかりだから、しょうがないかー」とか慰めてくれはするんだけどね。
 あーあ、せっかく立海に入ったけど、こんなんじゃ高等部ではもっと大変かもしれない。留年とかもありえるし、高校は別のもっとレベルに合ったところを考えないといけないかな……。なんてしおらしく思いながら、いくつかの補習をこなしていた日々、私はふと気付いた。
 毎回の追試と補習におなじみの顔がいるのである。
 教科ごとにメンツの変動のあるなか、私以外にも毎回受けてる子が。
 なかなかきれいな顔をした男の子で、へえ、彼は私と同じくらいのアホなのかーとすぐに親近感を覚えた。
 斜め後ろから見る彼は、ちょっと線が細いけど姿勢が良くて、女の子みたいに優しそうできれいな顔をしている。こんな美少年なのに、アホなのか。
 私はどちらかというとがっつりワイルドなタイプの男っぽい男の子が好きなので、特に好みというわけじゃないけれど、賢い子ぞろいの立海で私と同じくらいアホの子がいるんだというだけで嬉しくなって、彼を見るたびついニコニコしてしまう。

「幸村、その課題を前に出てやってみろ」

 数学の補習の時、彼があてられた。私はさっぱりわからなかった課題で、当てられたらどうしようとドキドキしてたから思わずほっとする。
 へえ、幸村くんって言うのか。
 彼はちっともあわてることなく、すらすらと前へ出て解答する。
 へえ! アホでもちゃんと補習に出てればできるようになるんだ! さすが立海!
 思わず目を丸くしていると、板書して席に戻る幸村くんと目が合った。彼はにこっと笑う。その笑顔が可愛らしくて、私も思わず笑い返した。
 アホだけど、いい子なんだなあ。
 すさんでいた私の心が、いっぺんに潤った。
 補習中に美少年の笑顔で潤うって、ほんと、私もどうしようもないですね。ま、アホですから。



 その日は特に暑かった。
 補習が終って帰る頃はきっとまさに灼熱地獄。
 だけど、私はそれを免れることができるんだ。
 だって、この前受けた英語の追試、私は見事に落ちて追追試なのである。
 黒板に『追追試受験者:』と一人だけ名前を書かれている情けなさ。
 この補習の後が試験で、今回は合格するまで受けさせられるそうだから、帰るのは夕方になるだろう。
  皆が帰り支度をしている中、私はがっくりとしながらなんとかギリギリまで頑張ろうとノートに目を落としていた。
さん、帰らないの?」
 私の名を呼ぶ声に顔を上げる。
 帰り支度を終えた幸村くんだった。
 彼はいつもテニスバッグを持っている。どうやらテニス部らしくて、いつも補習の後に部活に行ってるみたい。すごいなー。
「うん、実は追追試なんだ、英語」
 アホ同士恥ずかしがることないよね、と思い私はズバリと言った。幸村くんは可愛らしい笑顔で、くくっと笑った。
「そっか。今度は合格しそう?」
「わかんないけど、頑張ってる」
 彼は私の手元のノートを覗き込んだ。しばらくそれを見ていると、手に持った鞄を一旦机に置いて、そして自分のノートを出して私に見せてくれる。
「この前の補習で、先生がこういう例文書いてただろ?」
 彼のノートは、すごくきれいにまとめられていて、量的には私の倍以上。彼の指した例文はなんとなく記憶にはあったけど、私は写してなかった。
「あー……そういえば」
「多分、この辺りが出るんじゃないかと思うよ。俺のノート、よかったら使う?」
 私はちょっとびっくりして彼を見上げた。
「え、いいの?」
「うん。英語の先生が来るまで、ちょっと時間あるだろ。この辺りと……あと、ここらへんの熟語を見ておいたらいいと思う」
 私は彼が指してくれたところを必死で見た。
「ありがとう! 幸村くん、いい人だね! ノート、明日に返すから!」
 彼はそのきれいな目を細めてまた笑った。ほんとキレイな顔してるなー。
「じゃ、頑張って。また明日」
 彼は再び鞄を手にすると、軽く手を振って教室を出て行った。
 やっぱりアホはアホ同士、助け合わないとね。アホの気持ちはアホが一番よくわかるんだ。私は感謝の念をこめて、彼の後姿を見送った。はっ、いや、こんなことしてる場合じゃない、あと30分弱くらいだけど頑張らないと!

 さて、問題の英語の追追試、わたくし見事合格いたしました。
 なにしろ一人しかいないんで、解答を終えるとすぐに先生が採点して結果を教えてくれた。
「おお、今回は一発合格か! 、すごいじゃないか!」
 と誉められた。先生は私はまだまだ落ちるだろうと、あと3回分くらいの追試の問題を用意してきたそうで、下校時間ぎりぎりまで帰れない覚悟していたらしいからすごく嬉しそうでめっちゃ誉められた。たまにはアホも得である。
 幸村くんが教えてくれたところはまさにビンゴで、アホの私でも試験直前に見ていたものくらいはなんとか覚えられたので、意外に良い点数だったようだ。
 私も、一発じゃ絶対無理って思っていたから、予定より大分早く帰れてゴキゲンだった。
 まあ、帰っても明日の補習の課題をやんないといけないんだけどね。
 グラウンドに出て太陽が照りつける中、足取りも軽く歩いていると部活をやっている運動部の子たちが見えた。みんな、頑張ってるなー。青春だ。
 テニスコートの近くを通ると、テニス部の辛し色のジャージに着替えた幸村くんがラケットを持って素振りをしているのが見えた。へえ、線が細いと思ってたけど、結構たくましいんだ。かっこいいじゃん。そう思って一瞬足を止めて見ていると、彼の視線がこっちを向いた。
 私は思わず飛び上がって、両手で「○」を作って見せる。
 追試合格したよ、のサイン。
 彼はすぐにその意味がわかったようで、にこっと笑った。
 そんな彼に私は大きく手を振って、スキップをせんばかりにはしゃいで校門を走り出た。
 明日の補習も頑張ろう。



 それ以来、幸村くんは私に勉強を教えてくれるようになった。
 私は結構な確率で追追試になっていたんだけど(ほんっとうにアホなんで)、幸村くんのノートを借りてポイントを教わるようになってから、追追試は一発で合格するようになり、先生も涙せんばかりに幸村くんにお礼を言っていた。

さんはきっと集中力と注意力が足りないんじゃない?」

 ある時、補習の後に彼に数学を教わりながら言われた。
 アホ仲間だからか、幸村くんは優しい顔をしながらも結構ずばりと言うのである。
「えっ、そうかな」
「そうだよ。その問題を解く時は、この公式を使うのがポイントって先生言ってただろ。そういうのさんのノートには書いてないじゃないか」
 言われてみれば、確かに私は授業中にあれやこれやどうでもいいこと(帰ったらおやつは何を食べようとか、今夜のテレビのこととか、友達との約束とか)を考えがちだ。でも、みんなそんなもんじゃないの? 私だけ? それでアホなの?
「あー……うーん、そうだね……。やっぱりアホだからねー」
「アホなのは仕方ないけど、もうちょっと物事に集中して、あと注意力も高めていった方がいい。きっとさん、やればできるんだからちょっとはマシになると思うよ」
 グサグサといいながらも最後にちょっと上げてくるところがさすがだ。
 なんていうか、幸村くんの教え方は上手い。やっぱりアホはアホ同士だ。
 幸村くんは、すごくいいアホなんだなー。私はつくづく感心する。



 補習と追試でぬりつぶされた夏休みの予定を前にして、私の目の前は真っ暗だったわけだけれど、アホ仲間の幸村くんのおかげで意外に充実してなんとか切り抜けられた今年の夏。幸村くんみたいな子がいるなら、高等部も頑張ってみようかなあなんて、ちょっと思うようになった。彼みたいに、アホでもやればできるのかもしれない。
 夏休みが終って学校が始まって、幸村くんは私とは違うクラスだったのだけど、私たちは時々一緒にお昼ご飯を食べたり、一緒に勉強をしたりそんな風に過ごしていた。
 初めて見た時は、きれいな男の子としか思っていなかった幸村くんは、テニスをする姿を時折見たりしたせいか、私の中では今ではとても男らしく感じる。

は、もっと丁寧にノートを取りなよ。こんな字じゃ、後で見返しても自分で読めないんじゃないか」

 そして、アホ同士のよしみか結構厳しいことを言ったりもするんだけど、さすがに私がヘコむと、『ふふ、でもだいぶ頑張ってるじゃない』なんてあの優しい笑顔を見せてジュースをおごってくれたりする。私はやっぱり基本アホなんで、そんなんで嬉しくなってまた頑張るわけで。



 けれど、事件は夏休みが終ってから早々に受けさせられた模擬試験の後に起こった。
 結果が出た頃に廊下に成績が張り出されていたんだけど、勿論私には関係ないから素通りしようとしたら、結構な人だかりだったので思わず足を止める。
 数人の男の子と、そして女の子がキャーキャー騒いでる声。
 なんだろう、と思ってみると、幸村くんとあと背の高い男の子たち。ああ、夏休みに何度か見かけた、幸村くんと同じテニス部の子たちだ。
「幸村くん、ずっとお休みしてたのに、さすがねー。すっごーい」
 女の子の声で、私は何気なく成績表を見ると、なんと。
 幸村くんが学年で三位だった。
 見間違いだろうかと思って、私は成績表に近づいた。
 一位が柳蓮二、二位が真田弦一郎、そして三位、幸村精市。
 と書いてある。
 えー、三位!?
 私とずっと一緒に補習と追試を受けてたアホ仲間の幸村くんが!?
 びっくりした私が穴があくくらいにその成績表を見上げていると、幸村くんが私に気付いた。そして彼にワイワイと声をかける女の子たちをかきわけて私の方にやってくる。
「やあ、は模試の結果、どうだった?」
 そしてあの笑顔で私に尋ねるのだ。
「え、えっ? ああ、私? いや、いつもどおりだけど……。幸村くん、三位ってなんで?」
 そしてわけがわからない私はこれまたアホみたいな質問。
「うん? ああ別に、いつもあんなものだよ?」
 なんでもないような彼の答え。
「えっ、だって、私と一緒で全教科追試の補習だったし、幸村くんもアホなんじゃないの?」
 私が言うと、彼はくくっと笑った。
「ああ、俺、去年の冬から夏前まで、病気でほとんど学校休んでたんだ。それで授業や試験が受けられなかったから。俺はアホじゃないよ」
 ずばりと言う彼。
 私の中で何かがガラガラと崩れる。
 幸村くんて、アホ仲間だったんじゃないの!
 手が届かないくらいにお利口な人だったわけ!?
 それに、成績発表で女の子にキャーキャー騒がれてるし。
 美少年だけどアホだからモテないんだって、勝手に思ってたんだけど!
 私はもうなんて言ったらいいのかわからなくなって、なんだか泣きそうになってしまう。

「アホじゃないならアホじゃないって、ちゃんと言ってよ!」

 それだけを言うと、その場を走り出してしまった。
 とにかく、私が勝手にアホ仲間と思い込んでいたのが恥ずかしくて、もう彼の顔を見てられなかったのである。超お利口な彼からしたら、私はどんなに別世界のアホに見えたことだろうか。
 走って、とりあえず購買でジュースでも買おうと思ってアミノ酸飲料を手に掴みレジに行くと、私がポケットから小銭を出す前に、レジに差し出される150円。
 そのきれいな指は幸村くんのものだった。
「……いいって、幸村くん!」
 私が150円を押し返そうしても、彼はまったく気にせずそのアミノ酸飲料のボトルを持ち、私の手をつかんで引っ張っていった。
「なんで、逃げるんだ」
 私を学食の隅の椅子に座らせ、優しいけど厳しい目で詰問する。
 ペットボトルのふたを開けて、私に差し出しながら。
「なんでって……」
 とりあえず私はペットボトルを手にして、ごくりと一口。
「俺がアホじゃないって、一緒に勉強してればわかるだろ。もっと注意力を高めろって言ったじゃないか」
 私が答える前に、彼は静かに言った。
「だけど、私はアホなんだから、言ってくれないとわかんないよ! アホじゃないならアホじゃないて言ってよ、恥ずかしいじゃない!」
 私はごくごくとペットボトルを半分くらい空にして、怒鳴った。
「そうか、言わなきゃわかんないか。うん、俺はアホじゃないし、女の子にだってモテモテだ」
 言った、はっきり言った!
 だったら、最初から言え!
 病気だったなんて大事なことも、知らなかったよ! あんなに元気そうにテニスしてたし! 私、幸村くんがそんな大変だったことも知らないで、単にアホだって思ってたなんて!
 そんな私の気持ちを見透かすように彼は続ける。
「けど、そういうの、が俺を気にしてればわかることだと思う。休んでたことだとか。夏前は、学校でほとんど俺を見たことなかっただろ?」
「うん、でも、私は春に転校してきたばっかりだし、見ても覚えてなかったんだと思ってた」
「でも、ウチのテニス部は全国でも有名なんだよ。俺はそこの部長なんだから、ちょっとくらい評判は聞くはずだ」
「……そうかもしれないけど」
 私がつぶやくと、彼は軽くため息をついた。
「アホじゃない俺はきらいかい?」
 そして優しい声で言うのだ。
「きらいじゃないけど、私、幸村くんとはアホ同士だと思ってたから、あんな恥ずかしい私の成績を見せたりアホっぷりを見せてたのに、自分だけ実はあんなにお利口でモテモテなんてずるいじゃないの! 私みたいなアホ、見たこともなくて珍しくて面白かった?」
 ドン! とテーブルにペットボトルを置いて言う私に、彼は笑ったままぐっと顔を寄せた。
「うん、そうだね、は本当にアホだから、面白かったよ。何から何まで言わなきゃわかんないかい? はアホだけど、俺はと一緒に勉強したりおしゃべりをしたりするのが楽しくて大好きだし、高等部でも一緒にいたいよ。言っただろ、は集中力と注意力が足りないって。だからアホなんだって。もうちょっと、きちんと俺を見て俺を気にしなよ」
 ……幸村くん、今、3回も私のことアホって言った……!
 私は思わず顔を両手で覆って俯いた。
 その顔がカアッと熱くなるのが分かる。
「ああ、もっとちゃんと言った方がいいかい? 俺はを……」
「わかった! わかったからいいよ!」
 私は顔を熱くしたまま、片手をぎゅっと上げて彼の言葉を制止する。
 初めて会った時のような、優しくてきれいな笑顔のまま、彼は私の手をきゅっと握って指を絡めた。初めて触れたその手は意外に大きくて男の子らしい。
 彼は私の手に指を絡めたまま、優しい声で 『冬休みは追試や補習だったら許さないから。一緒に遊びにいけないだろう』 とささやく。
 キレイな顔をしてお利口で、アホの子じゃなくてむしろ神の子かのような幸村くん。
 彼と過ごす時間は、どうも非常にスパイシーになりそうだ。

(了)

「むしろ神の子」
2008.3.28

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