ジュピター



 深夜3時。
 ある者は深い眠りの中にあり、ある者はこれから眠りにつき、ある者はこれから一日の始まりの準備をする。
そんな夜とも朝ともつかぬ時間帯に、彼らは疲れ切った表情でスタジオの片付けをしていた
「やれやれ、こんなトコで最高の演奏したって、もうお前は当分参加できねぇんだと思うと、ムナしいよなぁ」
 彼に向けられるであろう声に、茶渡泰虎はコードを束ねながら顔を上げた。
 そう、この深夜、彼はバンドのスタジオ練習を行っていた。
 しかし、ライブに向けての練習ではない。
 茶渡は当分、浦原のところでの修行に身を入れるつもりだった。
 だから、しばらくバンドの練習に参加できないのだという事を仲間に告げた。
 これから学校で補習が続くから、という理由を作って説明すると、仲間達は仕方がないという風に肩をすくめた。
それで「じゃあチャドの休業記念に、練習会をやろうぜ」という事になったのだ。
 深夜の安いスタジオを借りて、思い切り演奏をした。
 それまでライブで何度も演った曲や、練習中だった曲、メンバーの好きな曲の数々。
誰に聴かせるというわけでもなく、自分達のために。
「……補習が終わったら、また帰ってきてもいいすか」
 コードを所定の場所に仕舞って茶渡が静かに言うと、ドラムセットを片付けていた長髪の男が肘で彼を小突いた。
「あったりめぇだろうが。力仕事のできるベーシストがヨソに取られると、困るんだヨ!」
 アンプの電源を落としている細身の男も、うんうんと頷いていた。
 茶渡は黙ってスタジオ内のバンド仲間を眺めた。
 何を言ったら良いのかわからず、もくもくと片付けをする彼らを見つめる。
「チャド、ぼけっとしてんじゃねぇよ」
 長髪の男がスティックで茶渡の頭をつついた。彼ははっとして振り返る。
 ちょうどそこでは、小柄な女がキーボードをケースにしまってスタンドを折りたたんでいた。
「あ、さん、俺が運びます」
 茶渡はあわててキーボードとスタンドを持ち上げた。
「……ありがとう、チャドくん」
 彼女は茶渡を見上げて笑った。
 彼女……は、バンドの正式メンバーではない。
 彼らのバンドは、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルの四人編成が基本なのだけれど、曲目によってキーボードを入れたい時に、いつも彼女にヘルプを頼むのだった。
 今日はも呼ぼうと、バンマスでもあるドラマーのヤイチが声をかけた。
 彼女はヤイチと同じく大学生で、もう学校も暇だからと来てくれた。
 彼女がヘルプで参加するのを、メンバーはいつも楽しみにしていた。
 は大人しいけれど何かとよく気がついて、目立って何をするというわけではないのだが、彼女がいるとその場がなんとも居心地よい空気になってゆく。
 茶渡も彼女に会うと、いつもとてもほっとした気持ちになった。
 そして彼女の機材を真っ先に運ぶのは、毎回の茶渡の習慣だった。


 メンバーそれぞれ、借りた機材を元に戻したり、スタジオ内の掃除をしたりを終えて、そのがらんとしたスタジオの真ん中に、5人が手持ち無沙汰に集まった。
「……あー、久しぶりだな、こんな時間まで練習したの。やっぱ眠てーわ。じゃあ、またな」
 ギターのポンはあくびをしながら伸びをすると、手を振って部屋を出て行った。
「ライブ前でもこんだけはやんねぇよなあ。じゃ、チャド、しっかり勉強しろよ」
 茶渡の肩をポンポンとたたいて、ヴォーカルのタクマはヘルメットを手にする。
 茶渡はひたすら、頷いて彼らを見た。
「……みんな、寂しいクセに照れくさいわけヨ」
 残ったヤイチが、カカカと笑いながら茶渡に言った。彼はまた黙って頷く。
「4~5ヶ月くらいなんだっけ? ベンキョウが忙しいの。……適当に要領よくやって、また戻って来いよな」
 そう言って、右手を差し出した。
 茶渡はそれをぐっと握り締める。
「痛ぇよ、相変わらず馬鹿力だな」
 傍らでが笑った。
「ああ、、こいつを家まで送っていってやってくれよな」
「うん、ヤイチくんも気をつけて」
 ヤイチはバイクのヘルメットを手にすると、部屋を出た。
 まったくいつもの練習の時と同じ、解散だ。
 茶渡はなんだか胸が熱かった。
 いつもと同じように別れたら、またいつもと同じように会えるだろう。
 多分、皆、同じように思っているに違いない。
 スタジオを出ると、駐車場に停めてあるの車のところまで二人は歩いた。
 練習で遅くなってバスがなくなると、よく彼女の車で送ってもらう。
 赤い可愛らしい軽自動車だ。
 茶渡は彼女の車の助手席に乗るたび、どうにも落ち着かない。と何かを話したいのだけれど、二人になると何を話して良いかわからなくて、いつも彼女の言う事に相槌を打ったり答えたりするばかり。でも、それもいつもの事だから、彼女は別に違和感など覚えていないだろうけれど。
 この赤い車を見ると、そんな自分の落ち着かないムズ痒いような気持ちが甦るのだ。
「……やっぱりちょっと冷えるわね」
 は言いながら車のロックを解除した。
 二人、車に乗り込むと、がエンジンを始動する。シートベルトを締めようとすると、の小さな叫び声が聞こえた。
 茶渡は驚いて顔を向ける。
「どうしよう。燃料ランプがついてるの、すっかり忘れてたわ。ここに着く前に、ガソリン入れてこようと思ってたのに」
 身を乗り出して運転席のメーターを見ると、赤いマークが点滅していた。ゲージの針は「E」を差している。
「……信号のところのスタンドが、6時に開くと思う」
 茶渡は落ち着いた声で言った。クラスメートの誰かがアルバイトをしていて、確かそんな事を話していたのを覚えている。
「あそこまでくらいなら、なんとか行けるかな……」
 は少し心配そうに言って、エンジンを切った。
「大丈夫。ダメだったら、俺、押して行けるから」
 力強く言う彼を、は目を丸くして見上げた。
 そして笑う。
「……ありがとう。よかった、チャドくんがいて」
 彼女の言葉を聞いて、少し照れくさいけれど、茶渡は素直に嬉しかった。
「……コンビニでも行こう。6時まで、まだ大分あるし」
 腹が減った事もあって、彼はそう提案した。もそれに同意し、二人は車を出て通りを歩いた。


 表通りにはまだ結構賑やかで、深夜営業の居酒屋、ファミリーレストラン、バーやなんかの照明で通りは明るく、まるでまだ宵の口のように元気よく騒いでる者もいた。
 はボアのついたコートの襟元をきゅっと閉める。
 並んで歩いている彼らのすぐ横を、勢い良く走って行く者がいた。
 茶渡が気にも留めずにいると、後方からまた走ってくる者がいる。
「にいちゃん、そいつ捕まえて!ドロボーだ!」
 紺色のジャンパーを着た中年男が息を切らしてやってくる。
 茶渡はそれを聞くとすぐに走った。大柄で足も速い彼は、難なく中年男が追う男に追いついた。小柄な少年だった。
「チクショウ、離せ! 頼むから、離してくれ!」
 彼は暴れるも、それは茶渡にとって抵抗にすらならず、あっさりと首根っこをつかまれた。中年男とが小走りで茶渡に追いつく。
「チャドくん、大丈夫?」
 は心配そうに声をかけた。
「にいちゃん、ありがとう」
 中年男は肩で息をしながら、礼を言った。
「こら、クソガキ! 店の金を返せ!」
 一変、ドスの効いた声で少年に怒鳴り、彼のパンツの尻のポケットからビニールのケースに入った金を掴んで取り返した。中には、くしゃくしゃの千円札や5千円札が入ってるのが見えた。
 少年は相変わらずキィキィ叫んでいる。それは悲壮な叫びだった。
「……どうする? 警察に?」
 茶渡は少年の首根っこをつかんだまま、中年男に言った。
「……」
 男は、茶渡に取り押さえられたまま暴れる少年をじっと見つめた。
「おいガキ、お前ぇ、何歳だ?」
「関係ねぇだろ!」
 少年は叫ぶ。
「何歳かって聞いてんだろ!」
 男が怒鳴ると、少年はびくりとして、ゆっくり口を開いた。
「……16……」
 かぼそい声を聞くと、男は大きなため息をついた。
「……ウチのガキと一緒だよ。あのなァ、シケた屋台の上がりだが、これでガキ食わせてんだ。ガキはこんな時間にうろついてねぇでさっさと家に帰って、親父に叱ってもらえ!」
 言うと、拳骨でゴンッと少年の頭をこづいた。
「にいちゃん、ありがとうな。もうそいつ、離してやってくれ」
 もう一度茶渡に礼を言うと、少年を見てフンと鼻を鳴らし、去っていった。
 茶渡は言われた通り、少年を離す。脱兎の如く逃げてゆくかと思えば、少年はヘタヘタとその場に座りこんだ。
「大丈夫?」
 が驚いた顔で少年を覗き込む。茶渡も、特に痛めるような事はしていないのに、と驚いた。
 少年は短い髪を整髪料でツンツンと立たせ、安っぽいエナメルのジャケットを身につけていた。顔を手で覆っている。
「……どうした? 怪我をするような事はしてないつもりだが?」
 少年は何も言わずそのまましゃがみこんだまま。
「……だよ」
 何か言うがよく聞き取れない。
「なんだって?」
 茶渡が聞き返した。
「怪我は、これからするんだよ!」
 よく見ると、少年は肩を震わせてしゃくりあげていた。泣いているのだった。
「どういう事?」
 が困ったように尋ねる。
「……ノルマ、今夜までなんだ。さっきの金がなかったら、もう、俺はボコられるしかないんだよ!」
 ヤケクソのように怒鳴って、少年は泣き続けた。
「ノルマ?」
 茶渡がまた聞き返すと、少年は咽喉を震わせながら深呼吸をした。
「……チャムスのイベントのチケット」
 それだけを言うとまた顔を覆った。
 茶渡はようやく納得した。少年は、おそらくこのあたりの柄の悪いチームの使いっぱしりなのだろう。も大体の事情を察したようだった。
さん、チャムスって知ってる?」
 茶渡が尋ねると、は頷いた。
「ハコで時々、名前を聞くわ。よく喧嘩するから、出入り禁止になってるとこ多いわよ」
 どうやら血の気の多いチームのようだった。
 少年は青ざめたままだ。
「……自分がボコられるからって、人のカネを盗んでいいわけじゃない」
 茶渡が言うと、少年は立ち上がった。
「そりゃアンタはいいよ! デカくて力があって、キレイな女の人連れてさ! アンタみたいだったら、どうとでも言える!」
 涙を溜めた目で、少年はキッと茶渡を見上げていた。
 茶渡は前髪の間から少年をじっと見つめた。少年といっても、自分と変わらぬ歳だ。自分とまるで似たところのない彼を、なぜか懐かしい思いで見た。
 そして同時に、茶渡は自分で自分を守るのに精一杯だった頃の気持ちを思い出す。その、切ない張り詰めた気持ちは、彼を硬くした。
「……いくら必要なの?」
 その時、が静かに言った。茶渡がはっと彼女の方を見ると、少年も目を丸くして茶渡から視線を移した。
「……四万円」
 少年は、ゆっくり言ってを見上げた。
 は唇をほころばせる。
「一度ボコられて四万円なんて、ものすごく美味しい仕事ね。すごいじゃない」
 いつもの優しい笑顔で言った。
 今度は茶渡が目を丸くする。
 何か言おうと口を開く少年を尻目に、は茶渡に顔を向けた。
「ねえ、チャドくん、あまり怪我をしないボコられ方ってわかる?」
 音あわせで音をくれる時のように、彼に尋ねた。


「……立ってる時はなるべく前傾で……」
 茶渡が両足を広げて猫背になると、少年もそれに倣った。
「地べたに転がされたら、こう……体を小さくして、頭を両腕の中に入れて……ホラ、飛行機に乗ったらビデオで上映されるだろ、不時着する場合はって……」
 少年は首を横に振った。飛行機に乗った事はない、という意だろう。茶渡はしょうがないな、というように自ら地面に座り込んだ。
「こうやって……体を丸めるんだよ。脚と腕で腹や頭を守るんだ」
 茶渡がやってみせると、少年もころりと転がって真似をした。
「……アンタも殴られた事あるの?」
 ひとしきり実技の指導を受けてから、少年は起き上がって茶渡に聞いた。
「……あるよ。いやというほど」
「そんなに強そうなのに?」
 茶渡は上着をの汚れを払いながら少年を見た。
「俺の体がデカくて強いのは、人を殴るためじゃない、守るためだと、言われてるから」
 少年は茶渡を見上げ、少しの間見つめていたが、よくわからないというように顔をそらした。
「……で、どこなんだ? チャムスの溜まり場は」


 少年が向かったのは、この時間まだ賑やかなクラブの裏口だった。
 扉が開いたままの裏口の辺りで、高校生くらいの少年達が数人たむろしている。明らかに飲酒をした様子の、派手ななりの男たちだった。
「……奴らか?」
 少年はだまってうなずく。表情が硬く、震えているのがわかった。
「……どうする? 今日はやっぱり帰る?」
 が小さな声で少年に尋ねた。
「……今日、家に帰っても、奴らは絶対あきらめないよ……」
 少年は震えながら答える。
「じゃあ、今、行っとく? 今ならば、私たちが見ててあげられるわ」
「……見てるだけかよ?」
 少年は顔に『タスケテ』という文字を浮かべながら、すがるように茶渡を見た。
 彼の言いたい事はわかる。茶渡が出て行けば、あの人数くらいあっという間に片付けられるのもわかっていた。
 しかし、それは意味のない事なのだと思いながら、茶渡は少年を見つめた。
 少年に彼の思いが伝わったかどうかは、わからない。
 が、少年は茶渡とを交互に見ると、大きく深呼吸をし二人に背を向けた。
 そして、バーの裏口にゆっくり歩き出す。
 少年が歩み寄ると、男達はそれに気づいて目を向けた。ニヤニヤしながら彼を見る。
 口々に何かを言う男達に、少年は言葉を発した。しばらく怒号が飛び交い、少年の顔に拳が飛ぶ。
 茶渡は隣にいるが、びくりと飛び上がるのに気づいた。思わず肩を抱く。
 自分でも驚く行為だったが、それはその場ではどうしてもそうしなければならない気がして、彼女を包み込んだ腕は解かなかった。
 少年は何発か立ったまま殴られ、そして案の定地面に転がされた。
 男たちはここぞとばかりに、蹴りを入れる。
 茶渡が教えた通り、少年は体を小さくし、耐え続けていた。
 茶渡の腕の中で、は小刻みに震え、その両手を真っ白になるまで握り締めていた。
 男達は少年を蹴り続ける。少年は、声を上げる事なく、体を丸めたまま。


「おい、大変だ! サツが来たぞ!」
 茶渡はよく通る声を張り上げた。男たちは、はっと動きを止める。一人が裏口から店に顔をつっこみ、そしてまた顔をのぞかせると何やら指示を出した。すると男達は忌々しそうに、しかし恐ろしくすばやく、ある者は店の中に、そしてある者は路地の中へと消えて行った。
後には体を丸くした少年だけが残される。
 茶渡とはあわてて駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
 茶渡が声をかけると、少年はゆっくりと両腕の中から顔を上げ、膝を立てた。
「……大丈夫じゃねえよ。イテテテ……」
 鼻血をぬぐった。
「そんなテを使うんだったら、もっと早くやってくれりゃイイのに」
 ゆっくり起き上がる少年に、茶渡は思わず顔をほころばせた。
「バカ、奴らのフラストレーションが解消されなけりゃ、意味ないだろ」
 つい笑って言った。
 ちらりとを見ると、ほっとしたような笑顔で、ティッシュを少年に差し出す。
 三人はゆっくりと歩き出した。
「……俺、居場所なくてさ」
 ティッシュを鼻につめながら、少年はつぶやいた。
「チャムスの奴らといれば、そりゃ下っ端だけど、イベントの時ゃ一緒にデカイ顔できるし、言う事聞いてりゃ町を歩けるし……」
 すっかり乱れてしまった髪をいじりながら続けた。
「けど、最近もうノルマがキツくてさ。……これで、しばらくのんびりできるけど、でも結局また俺は居場所がないままなんだな」
 茶渡は、はっとしたように少年を見た。
 ああ、そうか。昔の自分を思い出したのは、これか。
 自分だけ居場所のない、その感じ。茶渡は嫌というほど知っていた。
 一護やバンドの仲間達と会って、すっかり忘れる事ができていたその感じ。
 茶渡は何と言ったらいいのかわからない。
 そう、まるで昔の自分に戻ってしまった気持ちだ。
 ついつい足を止めていると、がバッグから出した手帳に何かを書き留めて破り取り、それを少年に差し出した。
「しばらく暇なら、ドラムでもやってみない?そのバンド、ドラマー募集中なの」
 少年は目を丸くする。
「……ドラムなんかやった事ねぇよ」
「大丈夫、そこはいつもメンバー不足なの。未経験者でも親切に教えてくれるわ」
 茶渡は思わず彼女のメモを覗き込み、そして吹き出した。
 そこに書かれたバンド名とバンマスは、地元で有名な古株のスラッシュメタルバンドのものだった。今時珍しいハードコアさで新しいメンバーがなかなか定着せず、バンド内でも前に出られないドラムを誰も担当したがらず、慢性的にドラマー募集中のバンドだ。
「……俺にできるのかな」
 少年はそうっとメモを受け取って、それを眺めた。
「しばらくはパシらされたり、ドラミングの練習はキツいけど、カッパライの真似をしたり、殴られに行く度胸があるなら、十分できると思う」
 は真面目な顔で少年に言った。
 少年はとそのメモを何度か見比べ、そしてメモを小さく畳むと大事そうに尻のポケットに入れた。
「マトモな顔に戻ったら、電話してみるよ」
 つぶやいて、笑った。
「……じゃ、俺、家に帰るわ、あの……」
 髪をクシャクシャとかきまわすと、照れくさそうに二人を見上げる。
「……どうもありがとう」
 言って背を向けると、走り去った。初めて会った時のように。
 空は少し白み始めていた。
 茶渡は自動販売機でコーヒーを買うと、一本をに差し出す。
 に会うと、どうしてほっとするのか、わかった気がした。
 あの少年は、昔の居場所のない、周りに斬りつけてばかりだった自分だ。
 そしては、あの頃に出会っていても、まっすぐ自分を見てくれたに違いない。
 そんな感じが、いつも彼を惹きよせる。
 は缶コーヒーを受け取ると、力が抜けたように座り込んだ。
「ありがと……」
 プルタブを引くと一口飲んで、大きく息をつく。
「……怖いわね、人が殴られたりするの。チャドくんがいてくれてよかった。……あの子、立派な若手スラッシャーになるといいわね」
 言うとほっとしたように微笑んで、茶渡を見た。その笑顔をじっとを見つめながら、彼も隣に座る。
「チャドくんは、皆に優しいから、ほっとする」
 ごくん、とまたコーヒーを飲んだ。
 茶渡はコーヒーの缶を地面に置くと、はたとを見た。
さんこそ、皆に……誰にでも優しい。だって、これ……」
 上着のポケットを探った。
「メンバー皆にくれたじゃないか」
 ポケットから取り出したそれは、可愛らしいパッケージのチョコレートで、昨夜バレンタインだからとがバンドの皆にくれた物だった。
 複雑そうに言う彼を、は驚いた顔で見ていた。
 練習に入る前、からそれを手渡された時の胸躍る感覚と、当然ながらメンバー全員に渡されたのが分かった時の少しがっくりした気持ちを思い出しながら、茶渡は顔を赤くした。口に出してから、やけに恥ずかしくなって後悔する。
 チョコレートの包みをまたポケットに仕舞った。
 はそんな彼をじっと見たまま、コーヒーを飲んだ。
 茶渡ももう一度缶を手にすると、少しぬるくなったコーヒーをごくごくと飲む。
 黙ったまま。
 そうだ、いつも二人きりになると何を話そうと緊張するけれど、彼は本当はそんなに話がしたかったわけじゃない。
 のその優しい空気を感じながら、ただじっと、一緒にいたいのだ。
 茶渡はゆっくり目を閉じた。
 地面から伝わってくる、この愛すべき町の熱。
 バンド仲間に、屋台の親父、スラッシャー候補のパシリの少年……、そしてキーボードを弾く愛らしい人。
 いろんな人を、彼は守りたい。
 彼の巨きく強い拳は、守るためにあるのだとアブウェロは言った。
 その言葉を心に刻み付けて、彼は生きてきた。
 それでも彼は、時々無性に、彼自身も優しい何かに守られたくなる。
 アブウェロ、それはいけない事だろうか。
 コトンと缶を置く音がした。
「……ガソリンを入れたら、チャドくんの家に行く前に、家で朝ごはんを食べて行かない?なんだかすごくお腹が減ったわ」
 は両膝を抱えて、恥ずかしそうに笑った。
 茶渡は飲みかけの缶コーヒーを持ったまま、少しの間ぼうっとして、そして慌てて頷いた。頷きながら、口元がほころぶのがわかる。
 彼女を守ろう。
 そしていつか、そう遠くない先に、こう言おう。

 俺はあなたの分まで、優しくあり、皆を守る。だから、あなたは、その優しさを俺に向けて、俺を守ってくれないか。

 今はまだ言えないけれど。



2007.2.14




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