● 純愛だけど朝帰り(6)  ●

 元々小柄なが、まるでその身を縮こめるようにして俺を見上げるのを、俺は静かにじっと受け止めていた。
 何もに言うような事じゃない。ただの八つ当たりだ。
 わかっているけど、俺は言わずにはいられなかったのだ。
 大丈夫だよ、すぐに元気になるよ、どれだけ耳にしてきたかわからないそんな言葉を、簡単にの口から聞きたくなかった。
 俺はから離れて、通いなれた病院への道へ一人、歩を進めた。
 あの角を曲がれば、俺の入院している病院が見えてくるはずだ。
「幸村くん、待って!」
 早足で歩く俺を、が走って追いかけてきた。
「やっぱりダメ! 行かないで! 病院に行ったりしないで!」
 ぼんやりした女の子だと思っていたが、やけに強い口調で言って必死に俺を見上げている。あのまま、もう俺にはついて来ないと思っていたから、ちょっと意外で俺は足を止めた。
「どうして止める? どうせこれは夢なんだ。俺の好きなように、やるだけやってみたって構わないだろう? ここで手術を止めたら、現実の俺も手術を受けてない事になるかもしれない。万全とはいえないまでも、手術後の動かない体よりは大分マシな状態で全国大会にだって出られるかもしれない」
「違うよ、幸村くん! 幸村くんは……絶対に、手術から回復して全国大会には出られるんだよ! 絶対に、そうなの!」
 いつもなんだかへらへらっとしてたの目はひどくまっすぐに、ちょっと泣きそうになりながら俺を見つめながら、そんな事を言う。絶対に、なんてまるで小学生の子供が言うみたいな事だ。それなのに、の言葉からは不思議と強い力を感じる。
「なんだよ。絶対に、なんて。どうしてにそんな事がわかる?」
 無責任な気休めはいらないんだと、言ったばかりなのに。
「だって、幸村くんは……つまり、いわゆる……ヒーローなんだよ。どんな映画や物語や漫画でも、ヒーローは絶体絶命の危機に陥って、これはダメだ! ってなっても、必ず復活するでしょう? そうじゃないヒーローなんて見たことない。だから、幸村くんも絶対に病気が治って全国大会に出られるんだよ。誓ってもいい」
 の顔はものすごく真剣で、ものすごく必死に言葉を選んでいるのはわかるけれど、一体何を言っているんだ?
「別に俺はヒーローじゃないよ。そりゃテニスは強いけど、ただの中学生だ」
 俺がまた歩き出そうとすると、が俺の腕をぎゅっと握って引き止めた。
「そうじゃなくって!」
 は泣きそうな顔のまま、言葉を探すようにしばらく唇を噛み締めて空を見上げた。
「……私の世界では……私が目覚めている世界では、幸村くんは漫画の中のヒーローなの。私は毎週、その幸村くんが出てる『テニスの王子様』って漫画を楽しみに読んでる。だから、そんな漫画のヒーローが、全国大会に出られないわけがないんだよ!」
 俺は、ばかみたいな話を大マジメな顔でするをじっと見つめた。
 自分の胸をそっとさすった。
 今は、俺の胸には傷の痛みはない。けれど、あのギシギシときしむような痛みの感覚は俺の中にしっかりと残っていた。
「じゃあ、なに? 俺が病気で苦しんだり手術を受けたりする事は、が読んでるその漫画の中じゃ、ストーリーをドラマティックにするための演出にすぎないって事なのか? 俺がこんなに死に物狂いになっていても?」
 さっきからずっと、俺は言わなくてもいいような意地悪を彼女に言ってしまっているを、自分でもわかっている。夢に出てきてる女の子が、夢の中で何を言ったっていいじゃないか。
 だけど、今まで他人に言えなかったような事。

 俺を無責任に励ますな。
 どうして他の奴じゃなく、俺ばかりがこんな病気になる。

 俺の中でどす黒くうずまくそんな事を、なぜだか彼女にぶちまけてしまいたかったんだ。
 は俺の腕から手を離し、両手を自分の頭にやってそのふわふわとした髪をかきまわして頭を振った。
「幸村くん!」
 初めて聞く彼女の大声に、俺は目を丸くした。
「私だって、わかんないよ! そりゃ、私も最初読んでた時は『あー、立海の部長って病気なのかー。でも漫画だし、どうせすぐによくなるよね』なんて思っちゃってた。でも幸村くんとこうやって実際会って話したり、あと立海の皆が幸村くんのいない間にどれだけ頑張ってるのか見たりすると、皆本当にこの夏を必死で過ごしてるんだって思った。どう言ったら伝わるのかわかんないけど、幸村くんは絶対全国に出られるんだよ! 漫画だっていいじゃない! 演出だとしたっていいじゃない! きっと幸村くんのすごいリハビリで、びっくりするくらいすごい回復力で復活するんだよ! 漫画なんだったら、そういうおいしいとこだけ利用しちゃえばいいじゃない! だから手術やめさせるなんて、しないでおこうよ!」
 多分、はあんまり頭の良い方じゃないんだろうな。言ってる事がめちゃくちゃだ。
 だけど、どんな理路整然とした言葉よりも、彼女が俺に伝えたい気持ちはまるでホットミルクのように俺の胸の中に熱くやわらかく流れ込んできた。
「……じゃあ、なに、例えばシルベスター・スタローンの『ロッキー』みたいな、暑苦しくも奇跡的な何かが俺には起こるっていうの?」
「あっ、うん、多分そう! いや、絶対!」
 よくよく見ると、今日のは『大和魂』なんてダサいTシャツであいかわらずの黄緑色のビーサン。髪の毛は最初に会った時みたいにしばってなく下ろしていて、時々風にそよぐ軽そうな髪はふわりと可愛らしかった。
 夢に出てくるスピリットガイドにしては、まったくしまりのない女の子だ。
 申し訳ないけど、とても信憑性のある予言をするような子には見えない。
 俺はが胸元でぎゅっと握り締めている手を、右手でそうっとつかんだ。
「行こう」
 そして彼女を引っ張っていったのは、病院と反対方向の駅。
 別に彼女の荒唐無稽な話を信じるわけじゃない。
 俺はあんまり漫画を読まないし、彼女が言うようなヒーロー物もそう好きでもない。
 けれどが不器用な言葉で言ったように、この俺があの暑苦しい『ロッキー』みたいに必死になって、そして驚異の復活をとげるっていうイメージは、意外に悪くなかったんだ。
「……どこ、行くの?」
 なんだかまだ心配そうな顔をしているに、俺は笑って言った。
「関東大会の試合会場だよ。間に合うかな。はもう漫画で読んだかもしれないけど、俺も実際にどうやって負けたのか見たいしね」
 一瞬目を丸くした彼女の手を引っ張って、俺はひんやりとする駅の地下道に入っていった。
 俺たちは関東大会決勝の会場に向かった。
 はあいかわらずきょろきょろしていて、小動物みたいだ。なんだか笑ってしまう。
 立海と青学が対戦しているコートは、会場の地図を見るまでもなくすぐに分かった。
「常ーっ勝ーっ! 立海大!」
「青学ぅー! ファイトォー!」
 両校の声の限りの応援が聞こえてきたからだ。
 俺は時計を見上げた。
 今ごろ、すっかり麻酔の効いた俺の身体にはメスが入れられている事だろう。
 ギャラリーを抜け、俺はを連れてベンチコートの近くまで降りて行った。
 コートには真田と、そして奴と並ぶとまるで子供のような少年が立っていた。
 ああ、彼が噂の越前リョーマか。初めて見る。
 そうか、真田は彼に負けるのか。
「幸村くん、こんなとこまできちゃっていいの?」
 心配そうに俺の手を引っ張るに、くくっと俺は笑った。
「どうせ誰からも見えないんだ」
 俺はスコアボードを確認した。丸井・ジャッカルのD1と仁王・柳生のD2はそれぞれ6-1、6-4で勝っている。問題はシングルス。柳が乾に負け、赤也が不二に負け、そして真田に試合がまわってきたというわけか。
 ジャッカルがしきりに時計を見ていた。
 そうか、俺の手術が始まる前に勝利を決めて報告に来てくれようとしたんだな。
 直前の試合で負けた赤也は、食い入るようにコートの真田と越前を見ていた。
「……、真田の必殺技とか知ってるの?」
「え!? えっと、風林火山とかでしょ?」
「へえ。ほんとに試合、もう確認すみなんだな」
「……うん。だから言ったじゃない。幸村くん、きっと大丈夫なんだよ」
 コートでは審判の掛け声とともに試合が始まった。
 どうやら無我の境地を扱うらしい青学のボウヤは、しょっぱなからナックルサーブを打っていた。ほう、なかなかやるみたいだ。
「ところでの言う俺が登場するってその漫画、主人公は誰なんだい?」
 俺がコートを見つめたまま言うと、隣ではもじもじとする。
 コートのボウヤは、様子見をしているらしい真田に、どんどん技を繰り広げていた。
「……主人公は、ほら、あそこで真田副部長と試合をしてる青学の越前リョーマくんだよ」
 気まずそうに彼女は言った。
「へえ、あのボウヤか」
 俺たちはしばらく黙って真田の試合をじっと見ていた。
 手塚の零式までを使うボウヤに、真田は早速風林火山を発動させる。
 が言うとおり、俺の生きる世界はあのボウヤが主人公なのだとしたら、俺や真田、氷帝の連中やなんかもあいつの世界をまわしてゆくためのお膳立てにすぎないのか? あの手塚の肘の故障までも?
 目の前では、真田が押しつつもそれにくらいつく汗だくのボウヤ。
 けれど真田も歯を食いしばっている。
 その鍛え上げられた体を駆使して、今度は風林火山の「火」を繰り出していた。
 ギャラリーからは騒然とした声。
 そりゃあそうだろう。真田が一年生相手に風林火山を二つも出したのだ。
 どうなんだ?
 これも、『主人公』だというあのボウヤの勝利をドラマティックにするための演出なのか?
 手をつないだままののその力がぎゅっと強くなって、そして汗ばんできている事に気付いた。
「あ、ごめん、なんかドキドキしてきちゃって。二人とも、やっぱりすごいよね」
 俺がちらりと彼女を見ると、あわてて手を離した。
は、試合展開がどうなるのかもう知ってるんだろ? まあ、俺ももう立海が負けたっていうのは聞いてるし」
「うん、だけど……なんていうか……、やっぱり生きてこうやって戦ってるんだって思うとすごいよ。いったいどうなるんだろうって思う。どうなるかなんて、二人以外には決められないよね」
 やっぱりはヘンな事を言うな、とまた俺はおかしくなって、そして一度離れた彼女の手をもういちど握った。
 今、この世界でただ一人俺と話のできる女の子の手を。
 風林火山の「火」をボウヤに破られてから、それまで汗一つかいていなかった真田はギリリと厳しい目をして、そして汗をにじませながら試合を続けていた。
 あんな真田を見るのは久しぶりかもしれない。
 必死で、無様だよ。
 だけど、それがいいね。
 歯を食いしばって、強い目で、汗を流しながらボールを追う真田を、俺はじっと見ていた。
 常勝立海大なんて軽く連呼するけれど、勝ちつづける事がどれだけ大変な事なのか、俺たちはいやっていうほど知っている。そして勝利を得た時の、あの生きているという実感、あの心を震わせるような喜びを全員で共有する瞬間が楽しくてたまらないから、血のにじむようなトレーニングを重ねているんだ。
 だけど、同じくらいに優れた選手が100人いたとして、その100人が勝負をしたら勝つのは一人。
 てっぺんに立てるのはひとつだけ。
 真田、その力で予定調和を変える事はできないのか?
 俺が柄にもなく、こころでそんな風に叫んだ時、対戦相手のボウヤは恐ろしく高く飛び上がったかと思うと、見たこともないドライブをくりひろげた。
 そして静かに響く、『ゲームセット、ウォンバイ青学 越前7−5』という審判の声。
「行こう」
 青学のコールが鳴り響く会場を、俺とは後にした。
 は黙ったまま、心配そうに俺を見ていた。
「……ああ、大丈夫だよ。別にがっかりしてるわけじゃないんだ」
 俺は大会本部に寄って予備のラケットとボールを拝借し、使用されていないコートに入った。
「ちょっと打ち合ってみないか? ひさしぶりに、やりたくなった」
「えーっ! 幸村くんと!?」
 体育で軟式をやったくらいなんだよ、と渋るをコートに押し込んで、俺は軽くサーブをした。だいだい想像はついたけど、の動きはどんくさくて、小学生相手みたいなものだった。彼女は時々『私、ビーサンなんだよ!』と文句をいいながら、なんとかボールを打ち返してくる。勝負なんてものとは程遠いけど、スパンスパンとラケットのスィートスポットにボールを当てる感触はここちよくて、が『もう勘弁してー』と言い出すまで、僕は気分よくボールを打っていた。
、運動不足なんじゃないの」
 ラケットと同じく、本部のクーラーボックスから頂いてきたスポーツドリンクを彼女に差し出す。まだ十分冷たいそれは、俺の喉をなめらかに潤していった。
「だから、気象部なんだって言ったじゃない。体育、苦手なんだよね」
 まあ、見た感じで分かるけど。
俺が笑っていると、疲れたらしいはさすがに少々ふてくされた様でドリンクを口にした。
「……真田、組み立てがちょっと悪かったから負けちゃったけど、いい試合だったな。ねえ、こういうのって漫画だったら、きっとこの敗北を糧にして真田は次回は大勝利を上げるっていう展開の伏線にならない?」
 俺が言うと、はドリンクのペットボトルを持ったまま目を丸くして俺を見た。
「……ああ、なるほどね! 確かにそんな感じがする! 幸村くん、やっぱり頭いいね!」
「ふふ、こんなの、普通に考えつくだろ。がちょっと察し悪いんじゃないの?」
 またふてくされて可愛らしい顔になるのかな、と思って見ていると、彼女はふと真面目な顔になった。
「考えたんだけどさ、私にとっては、私が目を覚ました時の世界が自分の現実で、私はその世界でたまたま『テニスの王子様』っていう漫画に出てくる幸村くんたちを見てたけど、幸村くんが目を覚ましたら幸村くんの世界が現実なんだよね。結局、何が本当で何が誰の現実かなんて、わかんないや。私にとっては、幸村くんは夢に出てきてる男の子だけど、幸村くんにとっては私が夢なんだもんね。私、本当は生きていなくて、夢にすぎないのかも。なんだか不思議」
 真剣な顔で一生懸命話すを、俺はじっと見た。彼女の言いたい事、わかるような気がする。
「ふふ、じゃあ俺が目を覚まして本屋を探したら、学校で百葉箱の管理をする女の子の漫画かなにかがあって、そこでが見られるのかな?」
「いやだ、そんな漫画あるわけないじゃん! 私は、きっと、そんな……何にも出てこないよ。普通の中三だもん」
 は軽くそう言うと、ごくごくとスポーツドリンクを飲んだ。
「……そうそう、これさ、よーく見て」
 俺は首にかけていたチョーカーを外して、その真中の青い石を手のひらに載せた。
「ん? この石?」
 彼女は顔を近づけてそれをじっと見た。
 俺は、その彼女の顔を覗き込むようにして、の半開きの唇を自分のそれで覆う。
 テニスコートを走り回ったは少しだけ汗の匂いがして、それでもやっぱり部の男たちのとはちょっとちがう、女の子の匂い。に初めて会った時は、彼女に体温があって匂いがあるなんて想像もしなかったのに。
 はお尻に火がついたかのように立ち上がり、耳まで真っ赤にして目をまん丸にした。予想通りのその反応に、俺は思わず笑ってしまう。
 彼女はそれでもまたすぐに腰をおろして、決まりが悪そうにヘンテコなTシャツの裾をぎゅっと握り締めた。
 俺は自分の首から外した革ひものチョーカーをの首にかけた。
 そして、皮ひもに引っかかった髪の毛をそうっとはずしてあげる。
 初めて触れたの髪の毛は、見た目どおりふわふわと柔らかかった。
「え? ……これ……?」
 は驚いた顔をして、石を見下ろした。
「多分俺はもう大丈夫だから、が持っててよ。お守りなんだって言っただろう?」
「でも……いいの? 大事にしてたんでしょ?」
 は石と俺とを交互に見ながら、戸惑ったように言った。
「うん。昨日言ったように、海原祭には遊びにおいで。そして、俺が完全復活をとげる全国大会も見に来てくれ。がそれをつけてたら、俺はちゃんとを見つけるから」
 昨夜、痛み止めを増量してもらう時、看護師さんが言っていた。
 注射薬の痛み止めは明日の朝でちょうど終って点滴は抜かれる。そして、痛み止めはもう少し弱めの飲み薬になるらしい。
 痛み止めを増やしてもらって眠りについた時に見ていた、とのこの夢。
 多分、これが最後だろう。
 もなんとなくそれを察しているのか、泣きそうな顔をしている。
 でも、泣かないんだよね。はそういう子だ。
 泣いてしまったら、本当のさよならだ。
「……私にとっては、幸村くんが主人公だから」
「いやだな、クサいこと言わないでくれよ。俺はそんな柄じゃない」
 俺が笑っての頭に手をのせると、はちょっとだけ涙のにじんだ目を細めて笑った。
「今日、一緒に試合に来てくれてありがとう。俺はやっぱり手術を受けてよかったんだと思う。そして、試合を見ることができてよかった。が言う、俺たちが漫画だなんて話を信じるわけじゃないけど、きっと俺は全国大会には間に合う。今日ここに来たら、なぜかそう確信したよ」
 俺の言葉に、は一生懸命こくこくと肯いていた。こういうところが小動物みたいなんだ。彼女の髪のふわふわとした感触はしっかり手に感じているのに、何かを言おうとしているの言葉は俺の耳には聞こえてこない。、もう少し大きな声でしゃべってよ、聞こえない……。


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 はっと目を開けた僕は、点滴台の傍に立っている看護師さんと目が合った。
「あっ、おはよう幸村くん、起こしちゃった?」
 彼女は点滴のクレンメをきゅっと止めて、点滴を正確に注入するための機械のスイッチを切った。
「ちょうど、点滴が終ったのよ。これでもう抜くね。手が自由になるとだいぶ動きやすくなると思うよ。痛み止めはこれから内服薬になるから、昨日渡しておいたのを今日の朝ご飯の後から飲んでおいてね」
 看護師さんは、僕の手のテープを丁寧にはがしながら点滴の針を抜いた。
 その僕の手のひらには、あの、細くて柔らかいの髪の感触が残っている。
 小麦粉の山をふわっと触った時のような、あの感触が。
 そして、にキスをした時の彼女の柔らかな汗の匂い。
 点滴を片付けると、看護師さんはついでに検温をして行き、今日の検査の予定を僕に伝えた。夢の中で関東大会での真田の試合を見て、とボールを軽やかに打ち合っていた僕は、今からまた胸の傷をかかえてリハビリに臨まなければならない。
 ふと僕は床頭台を見た。
 そこにずっとぶらさげてあったはずの、ラピスラズリのチョーカーがなかった。
 ベッドとの隙間に落ちたのだろうかと、身体をかがめて探したけれどどこにもない。
 の『大和魂』なんて書いてあるヘンテコなTシャツの胸に、青い石がキラキラと輝いているイメージが頭に蘇った。
 僕はベッドから降りたついでに、そのまま立ち上がって窓辺へ歩いた。
 今日は天気がいい。
 先生に確認して、外を歩いてみよう。
 なにしろ僕は、漫画に出てくるヒーローみたいにありえないような驚異的な回復をして、そして全国大会で試合をしなければならない。
 僕が登場している漫画ではあのボウヤが主人公だっていう事だから、僕は負けるんじゃないかって?
 さあ、そう漫画みたいにはいかないよ。
 だって、これは僕の現実だもの。
 全国大会ではきっと、ヘンなTシャツに青い石を首からかけた勝利の女神が来るはずだから。


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 寝汗、というのとはなんだか違う。
 目が覚めた私はやけに汗だくで、腕がまるで日焼けをしたみたいにピリピリ痛い。
 そして、幸村くんの唇の感触。
 初めて間近でかいだ、男の子の汗の匂い。
 思い出しただけで顔が熱くなって、私は着替えのシャツと下着をつかんでバスルームに走った。
 そう、テニスコートを走って汗だくなのが、そのまんま。
 まさに、男の子と遊んで朝帰りをしちゃったみたいだ。
 夢を見ただけなのに、なんでこんな照れくさいの。
 そして、なんでこんなに胸が痛いの。
 なんとなく、わかってる。
 多分、あんな風に幸村くんの夢を見るのはあれが最後。
 もう、手をつないだり触れたりできない人を、そうなってから想ってしまうなんて、私、なんてズレてる。そして、最後にキスなんかして、幸村くんはずるい。
 私が好きになった人は、体温もあって、汗もかいて、辛い事があったら悩んでしまう、ちゃんと普通の男の子だ。
 男の子を好きになったら、なんだか胸がきゅっとなって、ちょっと泣きたくなるのは仕方ないよね。それで普通だよね?
 なんだか涙が出そうになって、だけど泣いてしまいたくはなくて、私はシャワーを浴びる前にあわてて洗面所で顔を洗おうとした。
 蛇口をひねって水を出してうつむくと、カツンと、洗面台に何かが当たる音。
 驚いて視線を下げると、私の首に革ひものチョーカーがぶら下がっていた。
 その先っぽには、青い石。
 勾玉のような形をしたピカピカと光るきれいな石。
 ラピスラズリ。
 私は蛇口から水を出したまま、それを手に持ってまじまじと見た。
 夢の中で、幸村くんの胸にずっとかかっていたその青い石。
 ひんやりと固いそれは、どれだけ擦っても握り締めても、消える気配はなかった。
『俺はを見つけるから』
 夢の中で幸村くんが言った言葉を思い出す。
 鼻の奥がツンと痛くなったけど、ぎゅっと下唇を噛んで涙は出さない。
 テニプリの全国大会での幸村くんの試合って、いつ頃掲載されるのかな。
 やっと関東が終ったところだから、来年? いや、再来年?
 その頃、私は何歳になってるだろう。
 でもまあいいや。
 私が何歳だって、ヘンなTシャツを着てなくたって、これを持ってればきっと幸村くんは私を見つけてくれる。
 さっさとシャワーを浴びよう。
 そして、今日は朝ご飯の前にコンビニまでひとっ走りして、ジャンプ、買いに行こう。
 うん、とにかくジャンプを買いに行こう。

(了)
「純愛だけど朝帰り」
2008. 3. 9

<タイトル引用>
純愛だけど朝帰り, 阿久悠:作詞, 作曲:花岡献治(憂歌団)

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