● 一人と一人  ●

 夏を感じさせる日差しの中、亜久津仁は上着を脱いで肩にかけ、その見事な上腕を日光にさらけ出しながらゆっくりと歩いていた。
 時計は9時13分を示している。
 当然授業は始まっていて、彼は校庭からクラスメイト達が勉強をしているだろう教室を見上げた。
 一限目の授業が何だったかと頭を巡らすと、仁は自分にとって出ても出なくてもよいと判断したものだったと思い出す。
 再度、学外へ出ようと思ったが、門へ出るのに通らなければいけないグラウンドでは体育の授業(口うるさい体育教師が担当していた)をやっており、正門から出てゆくのは得策ではない。
 仁は迷わず裏門の方へ向かうが、そこにはなぜかこの日に限って見回りの教師がいた。
 彼はふうっとため息をつくと、くるりと踵を返して校舎の裏手にまわる。
 そして、フェンスの下へ行くと上着と鞄を放り投げ、フェンスに右手をかけた。その上腕の筋肉がきゅっと見事なラインを見せたかと思うと、次には下半身の素晴らしい跳躍力であっさりとフェンスを乗り越えていた。
 上着を拾いほこりを払って、鞄を拾う。
 そして中から煙草とライターを取り出した。
 くしゃくしゃになったマルボロのソフトケースの中にはまだ4本残っていて、そこからやや折れ曲がった一本を取り出すと口にくわえ、火をつけた。
 彼の吐き出す煙はゆるゆると上昇して、青い空に溶けてゆく。
 
 二ヶ月前にテニス部に入って、試合をして、そして辞めて。

 思えば、彼にしては風変わりな時間を過ごしたものだった。
 越前リョーマとの試合は彼にとっては鮮烈な経験で、彼はああいう男に会うのは初めてだったし、そしてあんな自分を自覚するのも初めてだった。
 あんな試合の後に、温い相手と戦ったりできるものか。
 彼はそうやって退部を決め、それはまったく後悔していない。
 仁はそんな事を思い返し、ゆっくりと煙草を吸っては、空に昇る煙を見上げていた。

 その時だった。

 ドサリ

 と、彼の真横に鞄が落ちてくる。
 後少し位置がずれていれば、あやうく彼を直撃するところだった。
 舌打ちをして、眉をひそめながらその鞄に一瞥をくれ、ふと上を見上げると、彼はまたぎょっとする。
 フェンスの上から、一人の女子生徒がゆっくりと降りてくるのだった。
 彼女は下を見て仁の存在には気づいたようではあるが、それよりも、注意深くフェンスを降りる事に集中しているようで、ゆっくり一歩一歩フェンスの金網に足をかけて降りてくる。
 時間をかけて丁寧に着地すると、ふうとため息をついた。
 仁は手にした彼女の鞄を、乱暴に彼女に向かって放った。
「バカヤロウ、危ねぇだろうが! 放るんなら人のいねぇとこにしやがれ。俺に当たるところだった!」
 仁が怒りをあらわにして怒鳴ると、彼女は投げられた鞄を両手に抱きかかえ、じっと仁を見上げた。
「ごめんなさい。垣根で見えなかったの。当たらなかった?」
 彼女は仁に一歩近寄ると、驚いた顔で申し訳なさそうに言う。
「いや、当たりはしてねぇが……」
 仁は短くなった煙草をピンと指先で弾いてつぶやいた。
「ごめんなさい、不注意だった。今度ここを越える時は、ちゃんと下に人がいないか気をつけます。亜久津くん、怪我しなくてよかった」
 彼女は再度謝罪の言葉を述べると、ほっとしたように笑い、軽く頭を下げてからゆっくりとその場から去ってゆくのだった。
 仁は妙な気分で、彼女の後姿を眺める。
 彼女の顔には見覚えがある。
 名前はまったく知らないが、確か同じクラスだったはずだ。




 翌日の午後の教室で、仁は自分と同じ列の左側の席を見た。
 そこに、昨日出会った女子生徒が座っている。
 やはり同じクラスだった。
 仁は昨日感じた妙な感覚の正体がわかった。
 それは、彼女の「ごめんなさい」だ。
 仁は他人から謝罪の言葉を投げかけられる事など、しょっちゅうだ。

「すいません」「ごめん」「悪ぃ」「許してください」などなど……。

 しかしそれは、いつでも本来の「謝罪」という意味合いではなく、彼への諸々の畏怖・恐怖から出た言葉であり、その言葉を発する本人が保身する意味合いでしかない。
 いつしか仁はそんな言葉の意味に慣れ切っていた。
 けれど、昨日の彼女の「ごめんなさい」は、まったくストレートに単に自分の非を詫び、仁を気遣う、謝罪の言葉だったのだ。
 思えばそれは特別な言葉ではないし、ごく普通の人間の態度に違いないのに、仁はそんな「ごめんなさい」をずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
 亜久津仁にそういう言葉をかけるのは、どういった人間なのかと、この日、仁は彼女を時折観察した。
 彼女は、という名前らしい。
 小さな顔にくりくりとした目の、小動物のようなイメージの女子生徒だ。
 しかし、小動物の如き機敏さは持ち合わせていないようだった。

ー、早くしなよ! 遅れちゃうよ!」

 次は特別教室へ移動しての授業なのだが、は女友達にせっつかれながら、もたもたと準備をしていた。
 先に行くよー、と言い残してゆく友達の後を、彼女もあわてて追って廊下に向かう。
 教室の出口に近い後ろの席の、仁の傍を通った。
 その時、彼女と目が合った。
 は一瞬足を止め、かすかに微笑んで、ちらりと仁に目礼をする。
 そして、廊下を走って行った。

 そのほんの一瞬の出来事は、昨日彼女に「ごめんなさい」と謝罪をされた時と同じ感覚を仁にもたらした。
 それは例えて言うなら、締め切った部屋のよどんだ空気の中に、突然外の美しい空気が送られてきたような感じだった。
 彼の肺は、酸素をたっぷり含んだ澄んだ空気でいっぱいになる。
 彼が感じたのはそんな感覚だった。
 仁は立ち上がって、廊下へ出た。
 肺に吸い込んだ酸素が、体内の血中の赤血球と結合し全身をかけめぐる。
 それを実感しながら、彼はの後姿を眺め、ゆるゆると自らも特別教室へ向かうのだった。




 その日は朝から穏やかな風に青い空、雲はふわりふわりとゆっくり動いていて、気持ちの良い天気だった。しばらく雨も降っていない大気は程よく乾燥していて、上空に出来た飛行機雲はあっという間に消えてゆく。
 亜久津仁は珍しく空を見上げたりしながら、学校への道を歩いていた。
 時間はもう10時近い。
 授業に間に合わそうという気はさらさらないようだった。
 途中、公園を突っ切って歩いている彼は不意に足を止める。
 歩道の脇の草むらに、彼は視線を落とした。
 その草むらの中でしゃがみこんでいる後姿は、確かにのそれに見えたからだ。
 仁は立ち止まって、しばしその後姿を眺めるが、彼女は立ち上がる様子もなくじっとそのまま。
 ポケットに手をつっこんだまま、仁は歩道から草むらに足を踏み入れ、そうっと彼女の背後に近寄った。
「……オイ、どうした?」
 低い声で静かに話しかけると、彼女はびくりとして振り返り、そして驚いた顔で急に立ち上がった。
「あ、亜久津くん!」
 立ち上がってから、彼女は額を押さえるとまたしゃがみこむ。
「オイ、気分でも悪ぃのか?」
 怪訝そうに尋ねると、は恥ずかしそうに笑った。
「ううん、急に立ったから立ちくらみがしただけ」
「……こんなトコで何してんだ」
 仁の質問に、はそっと草むらの一部を指差した。
 彼女の指差した先を見るため、仁もの隣にしゃがみこむ。
 そこには、枯れ草や小枝で丸く編まれた小さなかごのようなものがあり、そして中には白と黒と茶のまだらの、ピカピカした小さな卵が3つ入っていた。
「ヒバリの巣。この前、卵産んでたの。猫や蛇に取られてないかなあって、最近毎日気になっちゃって」
 はその小さな卵を愛しそうに見ていた。
「……なんでこんな無用心なトコに巣を作るんだ?」
 思わず仁は声を上げた。
「さあ、なんでだろうねぇ」
 じっと卵をみつめていたはふと顔を上げた。
「……亜久津くん」
 今度はゆっくり立ち上がると、仁の制服の袖を引っ張り、その場から離れさせた。
「どうした?」
 草むらから出て歩道に入ったところで、は上空を指差した。
「ほら、親鳥がきた」
 彼女の指さす方を見ると、ピュルルルと鳴きながら羽ばたく小さな鳥がいた。
「あんまり見てると、用心して、卵抱かなくなっちゃうらしいから。どうしても見たくなっちゃうんだけどね〜」
 そう言いながら、彼女はその不器用に飛ぶ小鳥が、巣があったと思しきところへ降りて行くのをじっと見守っていた。
「……お前こんな事して、いつも学校サボってんのか?」
 仁は呆れたように彼女を見下ろした。
「ええ? ああ、うう〜ん、そうだねえ、そんな感じかなぁ」
 は気まずそうにうつむく。
「別に学校キライってわけじゃないんだけど、朝はどうもねぇ、学校行く途中でボーッとしちゃって、どうしても遅れちゃうね。なんか、ほら、朝イチのみんなが通学・通勤してるガサガサした時間が終わって、お昼になるまでの、すうっとした静かな時間帯ってあるでしょう? そういう時間が、好きみたい」
「……単にグズなんじゃねぇか?」
 仁が言うと、はおかしそうに声を上げて笑った。
「うん、そうね、それもある。あと、授業の途中とかで入っていくのも面倒くさくて苦手でね、ハンパに遅れちゃうと、もういいかーって、思い切りゆっくりして行く事になっちゃうの。ほら、だからこの前、亜久津くんに鞄ぶつけそうになった日。中途半端に遅刻しちゃったから出直そうと思ったけど、正門も裏門も先生がいて出にくくて、結局あそこから出たの。亜久津くんも同じだったんだって、おかしかった」
 そして、思い出したようにクスクス笑う。
 よくしゃべる彼女は、それでもベタベタとなれなれしい感じではなく、彼女の一言一言は、次々に仁の胸に吸い込まれ、そしてやはり美しい空気のように心地よく彼の身体中を駆け巡った。

 仁は普段、他人と接する事を好まない。
 他人が彼に示すのは、畏怖や恐怖、さもなければ露骨な好奇心、そんなものだ。
 それらは、彼がその感情を利用しようという時には便利なものだが、それ以外の時には疎ましいだけ。
 校内の一部の女子生徒達が異性としての彼に興味を示す態度(仁の男性的な魅力は、女子生徒にはアピールする事が多いようだった)にすら、彼はそのあからさまな媚の感情に嫌悪感を抱き、辛らつな一言で返すのが常だった。
 仁は、自分は人と関わる事を必要としていないと思っている。
 彼は自分自身だけで完成しているし、自分以外の誰かが、自分に何かを納得させる事などないから、と。
 だから。
 まったく関係のない女子生徒との無意味な会話を許すという事に、彼自身、驚いていた。

「……あの鞄、当たってたら、ブン殴ってたかもしんねぇな」

 仁はかすかに笑いながら、冗談とも本気ともとれないような口調で言った。

「あ、あれねえ、ごめんね。私もびっくりした! よりによって、亜久津くんに! って私も腰抜けそうになっちゃったけど、あそこから投げた鞄が当たったら、そりゃ痛いだろうから、私が悪いものね。殴られるような事にならなくてヨカッタ」

 は苦笑いをして胸をなでおろす。
 そうか彼女にも当然、仁が恐ろしい生徒だという認識はあったのか、と改めて思う。
 今は、どう感じているのだろう。
 仁はふと頭に浮かんだそんな疑問を、また我ながら意外に思う。
 彼らはそうやって話をしながら、ゆっくりと歩道を歩いていた。
 ちょうど今はが好きだと言う、朝のせわしい時間と昼までの間の、ぽっかりと浮かんだ離れ小島のような時間帯だ。
 犬を散歩させる老人、乳児をベビーカーに乗せて歩く母親、遊びまわる就学前の小さな子供、何をなりわいとしているかわからないスケートボードを抱えた青年、そんな様々な人種があちこちで、この離れ小島を漂っている。
 そして制服を着た明らかに中学生の仁とは、実はこんな場には不似合いなわけで、時にじろりと彼らに一瞥をくれてゆく者もいたりするが、仁ももそんな事を気にするわけがなかった。
 道を歩いていると、小さな軽トラックの屋台が店を開けたところだった。
 は足を止める。
 すると、トラックの後ろから50がらみの男がひょいと出てきて、くしゃくしゃの笑顔をに向けた。
「よう、ちゃん、今日も学校遅れたのか」
「うん、ヒバリの巣を見てたら、こんな時間になっちゃって」
「あんまり見てると親鳥が来なくなるって言ってるだろ」
「だって、卵がとられてないか、気になっちゃって」
「親が来てるか、おっちゃんがちゃんと見といてやるから、さっさと学校行けよ」
 言いながらも、彼は大きく笑った。
「たこ焼き食べたら行くから、焼いて」
 も笑って、そして隣の仁を見上げた。
「亜久津くんも、たこ焼き食べる? ここの、美味しいよ。350円、12個入り」
 仁は少々戸惑いながら、と屋台の店主を交互に見て、そして肯いた。
「おじさん、じゃあ二つお願い」
 たこ焼きが焼きあがるまで、仁とは屋台の傍のベンチに座る。
「……よく食ってくのか?」
「うん、ほら、なんか昼前に学校行って、ろくに授業も出ずにすぐご飯食べるって、ちょっとかっこ悪いじゃない」
「ヘンなトコに気遣うんだな」
「それに、ちょうどこれくらいの時間てお腹すくし、ここでボーッとたこ焼き食べてそれで学校行くって、キリがいいの」
 そう言ってから、はっと改めて仁の顔を見た。
「あっ、亜久津くん、授業、大丈夫? 私、今日の午前中の授業はここ最近ずっと出てたから、もう今日くらいいいかって油断しちゃってたけど」
「俺か? 俺はそんなもの、出ても出なくてもいい」
「そっか、亜久津くん、なんだかんだ言って成績良いもんね」
「……お前は、ギリギリなのか?」
 仁が言うと、はクスクスと笑う。
「亜久津くん、はっきり言うねえ。私は、そうだなあ、まあそこそこ。ベンキョウ、わかんなくなっちゃったら、ボーッとサボるのも楽しくなくなるから、適当にね」
 なかなか機敏な動きは見せないこの小動物は、要領は悪くないようだった。
 ぽつぽつと話す彼らに、屋台の店主がたこ焼きを届けてくれた。
「ハイ、マヨネーズもかけといた」
 店主は二人にたこ焼きのパックをひとつずつ手渡すと、またくしゃっと笑う。
ちゃんの遅刻仲間かい?」
 ちらっと仁を見て笑うとそう言った。
「うん、そんなところ」
 も笑って返した。
 焼きたてのたこ焼きは本当に熱くて、フウフウと吹きながら少しずつしか食べる事ができないが、外側はカリカリに焼けて中はトロッと熱く、そして大きな蛸が入っていて、確かに美味しかった。
「そうそう、亜久津くん、たこ焼きってたいてい爪楊枝が二本ついてくるじゃない。私、これって、二人でどうぞって事だと思ってたんだけど、違うんだよね」
「はあ?」
「ほら、一本で刺すと、たこ焼きがクルクルまわって食べにくいけど、二本で刺すとしっかり固定されるでしょ。それで二本ついてくるんだって。ここのおじさんに聞いて、やってみて、へ〜って感心しちゃった。亜久津くん、知ってた?」
「……いや知らねぇけど、そんな事……どうでもいいっつぅか」
 仁はつぶやきながらも一本の楊枝で食べていたたこ焼きを、二本の楊枝で刺してみた。
 確かにが言うとおり、食べやすかった。
 はちらりとそんな彼を満足そうに見て、自分のたこ焼きを食べ続ける。
 しばらくお互い、黙ったまま。
 仁が食べ終わったよりもだいぶ遅れても食べ終え、口元をティッシュで拭き取ると、仁の空容器も手にして屋台の傍のくず入れに放った。

「ヨシ、学校、行くかなー」

 はそう言うと伸びをして、ゆっくり歩き出した。
 仁は何も言わず、彼女の隣を歩く。
 彼女の歩くスピードは、彼の普段のそれよりひどくゆっくりだったけれど、自然と彼はそれに合わせていた。

 ああ、そうか。

 仁は隣を歩く彼女をちらりと見てから、空を見上げた。
 想像もしなかった事だけれど、と過ごす時間というのは、仁が越前と試合をした時に似ている。
 一人と一人。
 自分が放った何かを、相手が受け止めて、返す。
そして相手から返ってきたものを、今度は自分が受け止めて返して、それによって相手が動いてまた返ってくる。
 仁は越前と試合をするまで、自分が相手に何かを放る事しか頭になかった。
 相手から来た何かを受け取ったり、それに反応するために自分が動くなど、考えた事もなかったのだ。

 が彼に何かを伝えるたび、彼の胸は美しい空気で満ちて、彼の体内の血液を澄み渡らせる。
 自分は彼女に、何をどう伝えているだろうか。

 今、仁はと並んで歩いているけれど、二人、ではない。
 一人と、一人だ。
 仁は一人だし、も一人なのだ。
 仁は他人とつるむのは嫌いだが、一人と一人の関わりはなかなか悪くないと知った。
 越前との、あの試合のように。
 そして不意に、仁に憧れる後輩の小柄な少年や、寿司屋のおせっかいな幼馴染を思い出した。
 今度彼らに会ったら、彼らが自分に向かって投げるものを、今までよりももっと注意深く受け止めてみよう。

 そんな事を考えながらをじっと見ていると、彼の視線に気づいたがはっと顔を上げる。
「んん? なあに?」
「……、歩くの遅ぇな」
「ああ、ごめんごめん」
 仁の言葉に、彼女は笑ってそう言うと、懸命に歩く速度を速めるのだった。

(了)

2007.5.17

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