● 言うてるやんか  ●

 中学三年生が夏を迎えてそして終えてゆくのを、俺は何度見てきただろう。
 世の中には『また来年』なんて言う奴がいるけど、こいつらには……「中三の夏」は一度しかないんだ。
 俺はそんな事を思いながら、全国大会の準決勝で青春学園に負けたゴンタクレどもを見つめていた。
 金太郎と越前との一球勝負でメチャメチャになった会場について、俺は会場関係者と話をせねばならないが、そんな事はささいな事だった。

「ほな、先生はちょと会場の人と話してくるからな、ハッハー心配すんな!」

 俺はゴンタクレどもに大きく笑って言う。
 そうそう、俺はチマい事でガタガタ言う男とちゃうねん。
 上着の裾をひらりとはためかせながらガキどもに背を向けると、小春が俺を呼び止めた。
「あ、せや、オサムちゃん。さっき外でちゃんに会うたんやけど、なんやオサムちゃん忙しそうやしもう帰るって。しっかりやっとき伝えといてて言うてたで」
「……ナニー! サン、帰るてか!」
 俺はギッと金太郎を睨んだ。
「……お前が余計な事しくさるからやなー!」
 俺は帽子を脱ぐと口惜しさのあまり、ぎゅうと両手で握り締めた。


 サンは、ウチの学校の養護教諭で、俺より2つか3つ歳下の美人さんだ。
 テニス部の奴らはゴンタクレばかりで、テニスの練習ではもちろんの事、バカみたいな事でふざけては保健室の世話になっており、サンが入職してきてすぐに俺は彼女と親しくなった。
 当然ながら、俺はあっというまに彼女に惚れてしまったわけだ。
 しかし知り合ってからというもの、二人で飯を食いに行っても飲みに行っても、決して雰囲気は悪くないんだが、なかなかサンは俺の熱いアプローチになびいてこない。
 今回は俺たちが全国大会で東京に来ている間、ちょうどさんも学会で出張扱いで東京に来ているのだ。それで、空いた時間に試合を見に来てくれていて、終わったら茶でもしばこうやと言っていたのに、まあこういった状況だ。
 恨むべくは金太郎と越前なわけだが、結果的には顧問の俺にも非があるわけで。
 俺はがっくりと肩を落とし、お偉方の方へ歩いて行った。


 会場についての話が済むと、俺はあわてて外に出て携帯電話を取り出す。
 サンの番号を発信した。
 何度か呼び出し音が鳴った後、それが途切れ静かな声が聞こえた。
「もしもし……」
「おう、サン? すまんな、今、会場出られるとこやけど、どこや?」
「ウチ、もう地下鉄の駅やねん」
「ナニ? ほんっまイラチやな。ほな、ちょお、そこで待っとけや。すぐ行くから!」
 俺は電話を切ると、白石に指示を出して地下鉄の駅に走った。
 俺があせっている理由は、実は、あまり時間がないからだ。
 今日の夜は、まずゴンタクレどもに飯を食わせ、そしてその後に俺は他の学校の顧問の先生と交流のため飯を食いに行かねばならない。
 田舎のガキみたいな発想かもしれないが、俺はせっかくの東京の夜、サンとちょっと洒落たところで酒を飲んだりしたいのだ。
 そのためには、まずこの時間に茶でも飲んで、夜の時間の約束を取り付けておかねばならない。
 何しろサンも仕事で来ているのだから、飯の後にいきなり連絡しても先約があるかもしれないし、または仕事だからもう宿で寝る、と言い出すかもしれない。まあ、そんなちょっと真面目な奴なのだ。
 俺が息を切らせて地下鉄の改札に行くと、切符売り場のところで彼女を見つけた。
 俺は自分の顔がほころぶのがわかる。
 普段よりもきりっとしたスーツのサンはぐっと人目を引くくらいにきれいで、そのちょっと長身で姿勢の良い立ち姿は、人ごみの中でもキラキラ光って俺の目を惹きつけた。
 俺はその雑踏の中の彼女を見るのがなぜか嬉しくて、彼女からちょっと離れたところで足を止め、しばしそんな彼女を見つめていた。
 人ごみってのは、大阪も東京も変わらないはずなのに、「東京にいてるサン」は特別なような感じがしたから。
 しかし、彼女の方が俺を見つけたようでぼーっとつっ立っている俺に、あわてて手を振ってきた。
「お、悪ぃ悪ぃ」
 俺は今気づいたばかり、というように頭を掻きながら駆け寄る。
「オサムちゃん、まだ試合あるんやろ? 忙しいんちゃうん?」
 サンは会うなり、心配そうに言った。
「ああ、しかしほら、金太郎が会場メチャメチャにしてもうたやろ? で、次の試合は三日後になってん。……準決勝は負けてもうたけどな……」
「うん、残念やったね。でも、次の試合、しっかりやらな」
「当たり前や」
 俺はニカッと笑う。
サン、今日はもうオフなんか?」
「今日は午前中でおしまい。明日がな、自分のプレゼンやねん」
 そう言ってため息をつく。
「そっか、しっかりな。今夜は他の先生なんかと飯行ったりするんか?」
「ううん、特にそういうんはないけど」
 ヨシヨシ、と俺は心でうなずく。
「ま、とりあえずちょと茶ぁでも飲もや。疲れたやろ」
「そやね、でもウチより、オサムちゃんの方がお疲れとちゃうの」
 さんはにこっと笑った。
 俺たちは地下鉄の駅を上がってすぐのところにある喫茶店に入った。お手軽だが、仕方ない。

「なんかな……」
 サンはアイスティーの氷をかきまわしながら、少々憂いた目をする。
「例えば、実力の変らん選手が20人いたとするやん。でも、それに順位をつけるとしたら、1位から20位がつくわけで、ある人はもしかしたら1位になるような人でもちょっとした事で20位になったりするわけやん。……勝負って難しいなあ……」
 青春学園との試合の事を思い出しているのだろうか、サンは遠い目をしていた。
「せやな」
 俺もため息をついて、アイスコーヒーをチュウとすする。
「大人は結構気軽に、また来年があるなんて言うけど、そんなん嘘やからな。次なんてあらへん事かてあるし、大体、次があるなんて思う奴は勝たれへん。ウン、勝負は難しわ」
 ゆっくりと言った。
「優勝を狙った者にとっては、『優勝』とそれ以外しかないねん。俺たちは、決勝に行かれへんかった」
 自分自身に言い聞かせるようにつぶやく俺を、サンはじっとみつめて、そして口を開いた。
「……シンプルな事やけど、14歳や15歳で、それをきっちり噛み締めていかないとアカンて厳しいもんやね」
「そうや。でもそれをきっちりやって、そして次の試合に向かってるアイツら、すごい男たちやと思わへんか?」
 俺はサンに向かってニカッと笑う。
 サンは、まるで俺の中に入り込むような目でじっと黙った後、ふふっと笑った。
「……そやね。うん、みんなすごいわ。ウチも今回、それでちょとびっくりしてん。みんな、ほんま男らしなった」
「白石や謙也や小春が入学してきたんと、サンが入ってきたんと、同じ年やったもんな」
「なあ。みんな、ちっちゃかったのに」
 俺たちは、奴らが一年坊主だった時の事を思い出して笑った。
 俺はサンがこうやって、奴らの事を本当に気にしていてくれて、そしてよく分かってくれている事、それがいつも嬉しかった。
 サンは奴らに、頑張れなんて一言も言わないけれど、いつもきっと切ないくらいに応援してる。それがとても伝わってくるから。
「……ところでサン、今夜は特に予定ないんやろ?」
「ウチはないけど、オサムちゃんは何か女の人とゴハン食べに行くんとちゃうの」
「はあ?」
 彼女がいきなり言うので、俺はバカみたいな声を発してしまった
「小春が言うてたで。オサムちゃんは、スミレさんて女の人と食事に行く予定らしいって」
 俺はズルズルとすすっていたアイスコーヒーをむせそうになった。
 まったく小春の奴、わかっていてわざとビミョウな言い方をしやがる。
「……スミレさんて、ほら、アレやで。青春学園の顧問の先生おったやろ。あのバーサンやで、竜崎スミレ先生。あと、他の学校の顧問の先生とかな、何人かで交流を兼ねて行かなアカンねん」
「……そうやの」
 その時のサンの表情が、心なしかほっとしたように見えて、俺は不意に元気が出る。
「飯いうても、そんなん年寄りばかりとやからすぐ済むし、その飯の後にな、ちょと飲みに行かへんか」
 俺は肝心の話を、用心深く伝えた。
「何時くらいになるん」
「せやなぁ、9時とか、10時とかかなぁ」
「うーん、ちょと遅うなるなぁ」
「明日の準備やったら、今からやっといたらええやん。サン真面目やから、ほとんどできてるやろ?」
「もちろん準備は問題ないけど、遅なったら、東京は慣れてへんしなぁ。帰りが心配やわ」
「せやったら例えば、どっちかの宿の近くで飲んでやな、俺がサンのホテルに一緒に泊まるか、サンが俺の部屋に泊まるかしたらええやん。ハッハー、修学旅行みたいで、ワクワクせえへんか?」
 俺が、名案! とばかりに身を乗り出して言うと、サンは眉をひそめた。
「……オサムちゃん、いっつもそんな事ばっか言うねんなぁ」
 ふうとため息をついた。
 俺は盛り上がっていた心から、シュウとしぼむ音が聞こえるような気がした。
「……せやかて、サンがいっつもつれないから、毎回毎回言わなしゃーないやん」
「毎回毎回なぁ、ふざけてばかりおらんといて」
 眉をひそめて困ったように俺をとがめるサンの顔を、俺は帽子を握り締めながら見つめた。
 俺が口を開こうとすると、ポケットの電話が震える。
「あっ、悪ぃ……」
 俺は顔をそむけて、電話を受けた。電話の相手は白石だった。
「何や、ああ……? 流しソーメン? いや、負けたからナシやろ? ナニ、準備してもーたから? ああ、わかった、三位決定戦に備えなアカンしな。ええで、ごっつ高級な出汁とええソーメン使えや。うん、うん、竜崎先生が? わかってるって、もう行くし」
 俺はうんうんとうなずいて、電話を切る。
 大きくため息をついて電話をポケットにしまうと、サンが立ち上がった。
「忙しいんやろ?」
 俺は肩をすくめて伝票を手にし、席を立った。


「……俺、ふざけてるわけとちゃうで、いつも」
 店を出るとすぐにまとわりつくむっと暑い空気に、目を細めながら俺は言った。
「……」
 サンは少しうつむいたまま。
「オサムちゃんとおるのは楽しいけど、いつも冗談言うてるみたいやから……。どこをどう信じたらええのか、わからへん。ずっと前から」
 あいかわらず、少し困ったような、怒ったような顔をしている。
 でも、そんな顔もとてもきれいだった。
 俺は煙草を口にくわえ、火をつけずにしばらくそのままにしてフィルターを湿らせる。
「どう言うたらええねん。なんで、小春の言う事は信用して、俺の言う事は信用せぇへんねや?」
 少々キツイ感じで言う俺を、サンはキッと見上げた。
「……はっきり言うとな。これはウチの先入観かもしれへんし、失礼な事かもしれへんけど……オサムちゃん、誰にでもそういう事言うてそうやねん! そんなん真に受けて、いちいち傷つくん、ウチかてこわい」
 じっと俺を見上げてくる、戸惑いながらもしっかりと強いサンのまなざしを受け止めながら、俺はへなへなとしゃがみこんでしまった。
 ドラマや映画なら、「バカヤロー、俺にはお前だけだ」と怒鳴ってブチューといきたいところだが、現実ではそうもいかない。

 確かに、サンの気持ちはよくわかる。

 そして、俺には自分を正当化したい気持ちもある。

 俺はサンに、事あるごとにアプローチしてきたつもりだけれど、なんだかんだ言って、いつも照れがあったんだろう。そして、そんな照れが彼女を不安にさせていた。
 けど、男だって完璧じゃない。
 弱いし、恥ずかしい事もある。
 四捨五入して三十になろうという男が、中学生みたいにまっすぐに好きだなんて言えるか!
 でも……。
 俺がしゃがみこんだまま顔を上げると、そこには、なんだか泣きそうなサンの顔があった。

「……ッシ!」

 バチンと自分の手のひらで自分の頬をはたくと、俺は立ち上がる。
 口にくわえて火をつけないままでいた煙草を、ポケットにしまった。

「俺は今まで間違っとった」

 ゴンタクレどもにオーダーを出す時のように、胸を張って大声で言う。
 そんな俺を、サンは目を丸くして見上げる。

「そもそもやな、俺の方が年上やのに、なんで俺がオサムちゃんで自分がサンやねん。今から俺は自分の事、ちゃんて呼ぶわ」

「……」

 サン……いや、ちゃんは驚いた顔で黙ったまま。

「なあ、ちゃんが四天宝寺に入職してきた時の事、思い出せや。あの頃チビで先輩にイビられとった白石は、今や絶頂男で女の子なんか食いまくりなんやで(多分)。暗うてクソ真面目やったユウジも、今は立派なモーホー軍団や。俺たちが初めて会うた時から経った時間で、あいつら、あんなに成長してるねん。それに引き換え俺たちは、どうや? 何も変わってへん。会って話して、ボケてツッコんで、そんなんばかりや。今、この時間て、あいつらにとって最後の三年生の夏やけど、今の俺たちにかて、この夏はもう来ぇへんねんで」

 俺は一気に言うと、帽子をつかんでくしゃくしゃとした後、またぎゅっとかぶりなおした。何が言いたいのか自分でもわからなくなってしまったけれど、もどかしい気持ちを、思い切り吐き出したい。

「俺がどう言うたら、ちゃんに響くのかわからんけど、はっきり言うわ。ちゃんも、ええ加減覚悟せえや。ここらで俺と一発キメとけ。俺みたいなええ男、そうはおらんのやからな。言うとくけど俺は今夜、先生方とスッポンを食いに行くんや。こんなええ男をスッポン食うた夜に一人寝さしとくなんてな、アホのする事やで。わかってるか!?」

 俺はまた一気に言ってから、大きく深呼吸をした。一度ポケットにしまった煙草を再度くわえると火をつけ、ハードボイルド映画の主人公の如く気取って煙を吐き出した。
 と、俺の口からその煙草がすっと奪い取られ、そして俺の左頬に衝撃が走った。

「……こんな駅前でそないな事、デカイ声で言わんといて、ハゲ!」

 ちゃんは左手に俺の煙草を持ったまま、俺をひっぱたいたその右手を、今度はそっと、まだビリビリする俺の頬に添えた。

「……ごめんな、一度ひっぱたいてみたかってん。オサムちゃん、いつもウチをドキドキさすような事ばっかり言いすぎやから」

 そう言うと、一瞬わずかにうつむいて、そして恥ずかしそうに顔を上げた。
 俺の頬を何度かさすると、すっと一歩下がる。
 右手を胸の前でぎゅっと握り締めると、手に持ったままの俺の煙草を、そっとくわえて一口吸った。
 喫煙者じゃない彼女は、当然すぐさまむせて咳き込む。
「……スッポンのコラーゲンってお肌にええんやろ。自分ばっかりええモン食べてやんと、折に詰めて土産で持ってきてな」
 彼女はそっぽ向いたまま、まだ懲りずに煙草を口に運んだ。
「……スッポンのテイクアウトて聞いた事ないけど、あるんかいな」
 俺はあいかわらず咳き込んでいる彼女の指から煙草を奪い返して、自分の口に納めた。
「ま、俺様がたらふく飲み喰いしてくる事による、副次的効果の恩恵にあずかる方に期待しとけや」
 煙草をくわえたままニッと笑うと、ちゃんはまた俺に手を上げかけて、そしてプッとふき出すのだった。
 その笑顔には、それまでに時折よぎっていた不安の影はすっかりなくなっていて、俺は心からほっとする。
 彼女がこんな風に笑ってくれるなら、俺は何度ぶたれたって構わない。
「……オサムちゃん、ほんっまアホやな。そんな事より、ちゃんと髭剃ってきぃや」
 彼女はテニス部のゴンタクレに説教するような口調で言うと、振り上げた手で俺の顎の伸びかけの髭に触れる。
 まるで猫を手なずけるように、俺の無精髭をくすぐるその指の感触はなんとも甘美で、俺は背筋にビシィと電気が走る気がした。
 俺がその指を捕まえようとすると、彼女はするりと俺の横をすり抜け、地下鉄の入り口に向かった。
「ほな、またね」
 さらりと俺に手を振ってゆく彼女の後姿に、電話するでぇ、と俺は叫ぶ。

 そうだ俺は「傷つくん、こわい」なんて、クサい演歌の歌詞みたいな事を言った彼女に、言い忘れた事があった。
 俺はちゃんを傷つけたりせぇへん、と、これまた演歌ばりにストレートな一言を。
 それは、今夜、ゆっくり伝える事にしよう。

 いい歳をした男が、たまにはあのゴンタクレどものように、まっすぐ立ってみるのも悪くない。
 
(了)

2007.5.15

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