青春ハレンチ純情派



 まあ男っていうのは、なんと言ったら良いのか。
 多少の個人差はあれどんな男でも、ある部分ではものすごく馬鹿で仕方がない。
 俺はと話をしていて、彼女の部活動〜吹奏楽部でクラリネットを吹いている女の子なのだけど〜の話で、彼女が「なかなかアンブッシュアが上手くいかなくてね……」なんて言うのを聞くたび、辞書で調べた字面を思い出す。

『embouchure :管楽器における唇・舌・歯の位置・使い方』

 そして、一生懸命話をする彼女の可愛らしい唇なんかを見つめて、どうにもニヤニヤしてしまうのだ。
 勿論、俺はそんな事は表面に出したりしない。
 例えば、不二や菊丸あたりだったら、
『僕と君のアンブッシュアのマッチングを確かめてみないかい?』
 なんて言葉が、場合によっては気の利いた口説き文句にもなり得る事と思う。
 しかし俺、乾貞治の場合はどうか?
 試してみるまでもなく、『乾くん、イヤラシイ! ヘンタイ!』などと言われるのがオチだろう。
 そういうキャラなのだ、俺は。
 奴らも俺も、頭で考えてる事は同じなのに、この理不尽さ。
 でも、それは仕方がない事なのだと、今の俺はもう悟っている。



 この日は雨で部活がなく、俺とは教室に残って物理の課題をやっていた。
 数学と物理はの苦手科目で、そして俺の得意科目だ。
 それで俺は、このつきあって間もない大好きな彼女に、得意げに物理を教えているというわけで。ただ彼女はわりと頑張りやさんのようで、まずは自分で頑張ってみる、と俺の目の前で一生懸命課題に取り組んでいた。
 俺はすでにあっさりと課題を解いてしまい暇な時間、部活のトレーニングメニューの見直しなどをしつつ、時折のノートを覗き込む。
 うん、ゆっくりだけど解に近づいているようだな。
 俺はうんうんと肯きながら、彼女のノートとそして一生懸命考えてノートに向かっている彼女の顔をじっと見つめた。
 そう、こういう瞬間なんだ。
 俺が普段の冷静なデータマンから若干逸脱してしまうのは。
 うつむいた彼女の真剣な顔、ほんの少し開いて何かをぶつぶつつぶやいている、ふっくらとした柔らかそうな唇、きれいな髪の間から見える白いうなじ。
 彼女の視線は真剣にノートとテキストに向けられているのを良い事に、俺はじっと彼女を凝視する。

 そして心から、彼女に触れたいなあと思うのだ。
 
 俺が彼女に触れる事ができるのは、今のところ一緒に歩くときにつなぐあの小さな柔らかい手だけ。それだけでも勿論最高に幸せなのだが、人間とは欲深いもので、あの手の感触を知ると、じゃあこの髪はどんな手触りだろう、この唇はどんなに柔らかいのだろうと、俺の心を捉えてやまない。
 勿論24時間、始終そんな事を考えているわけではないが、時折俺はこうやってどうしようもない馬鹿な男になってしまうわけだ。

 そうやって食い入るように彼女を見つめていると、はふと顔を上げた。
 俺はあわてて、表情を取り繕って自分のデータノートに視線を落とす。

「うん、どうだ、解けたか?」

 俺は気取って眼鏡のブリッジを持ち上げ、彼女のノートを見た。

「これで合ってる?」

 彼女はノートを俺の方に向けて、心配そうに尋ねてきた。

「ああ、解は合ってるぞ。だいぶわかってきたじゃないか。ただ、解き方はこうした方が効率が良い」

 俺が彼女のノートに赤を入れると、彼女は真剣に聞いて、そして嬉しそうに俺を見上げる。

「うん、わかった。乾くんてすごい。本当にわかりやすく教えてくれるのね。私、物理なんて大嫌いだったけど、乾くんに教えてもらうようになって少しは好きになれた」

 俺の方に思い切り身を乗り出して嬉しそうに言う彼女の髪から、甘い香りが漂ってくる。
 が俺といるときの、本当に安心したような笑顔はいつも俺を最高に幸せにする。
 しかし同時に、そんなの甘い香りのする髪に触って顔を埋めてみたいなどと思っている自分がまた、どうしようもない男にも思えてしまうのだ。

 俺たちは課題を終えて、帰り支度をする。
 雨の中、俺は彼女が自分の傘を開く前に、俺の大きな傘を彼女の上に差し出した。
 そして俺たちは自然にひとつの傘の下で並んで帰る。

「今週末は、部活はある?」
 は隣を歩きながら俺に尋ねた。
「ああ、試合も近いからな」
「私も練習なの。一緒に帰れるね?」
 はそう言うと嬉しそうに俺を見上げた。
 小柄な彼女は、俺を見上げるには思い切り顔を上げなければならないのだけど、そんな仕草は可愛らしくて俺はとても好きだった。
「ああ、そうだな」
「……ねえ、日曜は乾くんの誕生日じゃない?」
「そうだ、覚えていてくれたのか?」
 俺は本当に嬉しくて、思わず声を上げた。
「それくらい覚えてるって」
 はおかしそうにクスクス笑う。
「日曜の帰り、ちょっとお茶してから本屋さんに行かない? 乾くんの読みたい本、プレゼントするから」
 俺とは、まだ休日一日を使うようなちゃんとしたデートはした事がなくて、今週末だって部活の帰りの寄り道だ。けれど、彼女がこうやって計画を立ててくれた事が、俺はとても嬉しかった。
「ああ、楽しみにしてるよ」
 それでも俺は冷静なふりで、そう言うだけ。
 でも多分、にはわかっている。俺がどれだけ浮かれているか。
 隣でおかしそうにクスクス笑っているから。
 俺の傘の下で、いつもより俺の近くを歩いているを見て、俺は本当に幸せな気分。
 そして今、二人の間に傘がなかったら。
 俺はの肩を抱いて歩きたいなあ、などと思いながら、彼女の家まで歩き続けたのだった。




 土曜日、部室で俺はジャージに着替える。
 今はまたレギュラーに戻り、学校指定のジャージとはおさらばだ。
 道具を持って、俺は鏡に映る自分をふと眼にした。
 そう、悪くない。
 180センチを越える身長に、バランスの取れた筋肉。このトリコロールカラーのレギュラージャージ。
 俺はなかなか悪くない。
 と並んで歩いて、肩を抱いたり髪に触れたりしても、おかしくない。
 キスをするのだって、きっと様になると思う。
 背の高い俺がかがんで、あの小柄なにキスをするなんて、ちょっと絵になると思わないか? その時は、俺が彼女の頭をそうっと支えるような感じで抱き寄せたらいいんじゃないかな。いつも一生懸命クラリネットを吹いているあの唇は、どんな風に反応するんだろう?
 
「おはようございます、早いッスね、先輩。何ニヤニヤしてんスか」

 そんな事を考えていたら、海堂がやってきてバタンとロッカーを開け、着替えを始める。
 いかん、俺はいつのまにかすっかり馬鹿モードになっていた。
 俺は若干気まずい思いで、部室を後にするのだった。

 朝っぱらから馬鹿モードになっていた自分を払拭するように、その日俺は、普段以上に身を入れてトレーニングをした。
 明日は俺の誕生日だ。
 そして、が俺を祝ってくれるんだからな。
 俺は最高の男でいなければならない。

 学内のトレーニングの後、海堂と自主トレの打ち合わせを終えると俺は門のところへ走った。が待っているはずだから。
 は校門のところで、同じ吹奏楽部の女子と楽しげにおしゃべりをしていた。
 俺の姿に気付くと、女友達はと俺に手を振って門を出てゆく。
「待ったか?」
「ううん、ちょっとだけ」
 は少々照れ屋なためか、俺とがつきあっていて一緒に帰ったりする事を、友達に見られたりするのを最初は恥ずかしがっていたけれど、今ではすっかり慣れたようだった。
 俺があまりにも堂々としているから、気にならなくなったのだろう。
 俺はとの事を友達にからかわれたりしても、まったく動じない方だ。というか、どちらかといえば自慢したいくらいなのだが、きっとはそういうのを嫌がるだろうと、いつも何でもないように振舞っている。その方が、周りもからかったりしない事を俺は知っているから。
「あのね」
 が嬉しそうな顔で俺を見上げる。
「うん?」
「友達がね、最近乾くん、なんだかかっこよくなったって言ってた」
 俺は喜びで頭の毛が逆立つような気がした。
「んん、俺がか?」
 いつものように冷静を装って答える。
「そう。最近またレギュラーに復帰したでしょう? それで皆、見てたんだって」
 俺はの女友達に評価されたという事よりも、俺が評価された事をとても嬉しそうに話す彼女のその表情に、とてもぐっと来た。
「乾くんて頭が良いし優しいからね、実は結構女の子に人気あるよ」
「ふうん、そうか」
 陳腐な言葉ですっかり舞い上がってしまう自分が情けないのだが、嬉しいのだから仕方がない。
 というか、はいつも、本当にストレートで素直な言葉を俺に向ける。
 勿論、場合によっては俺のマニアックさなんかを辟易して指摘する事もあるけれど、勉強を教えている時みたいに、彼女が俺を「すごい」と思う事はまったくそのままに伝えてくれる。そんな一言一言が、いつも俺を幸せにするし、強くするのだ。
 が喜んでくれるなら、俺はどんどんすごい男になってやろう。
 
 俺たちは、それぞれの今日の部活の話なんかをしながら帰り道をたどった。
 そして、ちょうど彼女の家の近くの公園で足を止める。
 俺も彼女もよくしゃべる方なので、大抵帰り道だけでは話が収まらずその公園で立ち話をしてゆくことになるのだ。
 この日は少し風が強く、俺は風上に立って彼女を風から守る。
 それでも若干強い風が、彼女の髪を乱した。
 小さく声を上げる彼女を、俺は大きな木の陰へ促した。
「今日は風が強いな」
 俺はそんな事をつぶやいて、木陰で風をしのぎながら髪を整えるを見る。
 髪の隙間から見えるうなじや後れ毛が、とても可愛らしかった。
 いつも俺のほんのすぐ傍にいる、
 俺がとても触れたいと思う女の子。
 ふうっと俺はため息をついた。

 正直に言うと、俺は、彼女とキスをしたいんだ。
 そして、体に触れたいんだ。
 明日の俺の誕生日に、そして俺がレギュラーに返り咲いたお祝いに、そんな願いをかなえたいというのはあつかましいだろうか。
 
 俺はを風から守るように、一歩近寄った。
 俺の胸のすぐ近くに彼女がいる。風でふわふわとなびく髪は本当に柔らかそうで、俺の身体と木の陰で巻き込む風は、彼女の髪の匂いをふわりと俺の鼻腔に届ける。
 俺はそうっと手を上げた。
 彼女のこの細い首と柔らかそうな髪に触れたら、どんな感じがするだろう。
 そして、もしその俺の行為を彼女が拒まなければ、きっと俺はそのまま抱きしめるだろう。
 俺はそんな感触を頭の中で想像した。頭の中での事と現実との境界線が、ふいにぼやけてしまう。俺の右手は、ゆっくりとのうなじに近づいていった。
 すると、はっとが顔を上げる。
「……あ、乾くん、何か……しようとしてる?」
 彼女は特に怒った風でもなく、普段どおりの口調で俺に言った。
 俺はといえば、持ち上げた右手をそのまま動かす事もできず、しばらく何も言う事もできず。
「……いや、あの……なんでもない。大丈夫だ」
 何が大丈夫なのだかさっぱりわからないが、すっかりあわててしまった俺はなんとかそれだけを言った。
「乾くん、これから自主トレあるんでしょう? そろそろ帰らないといけないね」
 は腕時計を見てから、俺を見上げて微笑む。
「そうだな、そろそろ帰るか」
 冷静なふりをしても、俺の心臓はバクバクといつもの1.5倍ほどの速さで動いていた。
 


 海堂との自主トレを終え、家の風呂につかって一息入れながら、俺は大きくため息をつく。
 今日の俺は最高に格好悪かった。
 油断をしているに、触れようとした。
 そして、それに気付かれて、やんわりと拒否されたんだ。
 湯船の中から桶で湯をすくうと、頭からかぶる。
 俺は、どうしたらいいのか、まったくわからない。
 こんなことは初めてだった。
 俺は彼女に近づきたい。彼女に触れたい。
 でも、どうやったらいいのかが、わからないのだ。
 柄にもなく、15の誕生日に彼女と何か進展をなんて焦った自分は、まったく格好悪い。
 こんながっついた男とキスをしたいなんて、彼女は思わないだろう。



 6月3日、日曜日。
 俺の15の誕生日だ。
 俺の気分を表すように、雨こそ降っていないがどんよりとさえない天気。
 部活を終えて、校門の前でを待つ。
 今日はが俺の誕生日祝いをしてくれるから。
 その事は嬉しくて仕方がないのに、俺は昨日の自分の失態が頭から離れない。
 俺が浮かない顔のままで待っていると、が小走りでやってきた。
「ごめんごめん、ちょっと三年のミーティングが長引いちゃって」
 彼女の表情はいつもと変わりない。
 昨日の件で、特に気分を害しているという事はなさそうだ。
 その点、俺は少しほっとする。
「どこに行く?」
 俺もいつもの調子で、静かに彼女に尋ねた。
「ええとね、中国茶のお店に行って見ない? 友達が行ってよかったっていうお店、聞いてきたの。飲茶もできるんだって」
「へえ、そりゃいいな」
 俺たちは二人並んで歩いた。
 けれど今日はなぜだか、いつものように彼女の手を取って歩くことが俺はできなかった。
 しばらくいつものようにおしゃべりをしながら歩くのだけど、不意に彼女が足を止める。
「……乾くん、ちょっとヘン。どうかした?」
 彼女はそういうと、ガードレールにもたれて俺を見上げた。
「俺が? ……そうかな、別にどうもしてないけど」
 そうは言いつつも、どうにも自分が浮かない顔をしているのだろうなとは想像できた。
「……昨日……あの……」
 は一瞬うつむいて、言いにくそうに口を開いた。
「乾くん……私に、何か……しようとした?」
 恥ずかしそうに言うと、風になびく髪を片手でそうっと押さえた。
 俺はそんな彼女をじっとみて、頭の中で言葉を探す。
 俺の頭の中で準備されている幾通りものセリフは、今回はどうも何の役にも立たなそうだ。
 の目をじっと見ながら、俺は深呼吸をして腹をくくった。
「うん、の髪やうなじに、触ろうとしたんだ。……昨日だけじゃない。俺はいつも……に触れたいと思ってるよ」
 目を丸くする彼女に、俺はあわてて続けた。
「でも、誓って言うけれど、とつきあう時に宣言したみたいに、が嫌がる事はしないよ。が嫌なら、何もしない。ただ……」
 グイッと眼鏡のブリッジを持ち上げる。
「正直なところ、俺はといるといつも楽しくてドキドキして、の事が好きだから、近づきたいと思うんだよ。キスをしたり、触れたりしたいと思う。……そういう事だ」
 俺はそれだけを言うと大きくため息をついた。
 こんな言葉も、手塚や不二や菊丸あたりが言えばスマートなんだろうな。
 どうして俺だと、こう、必死な感じになってしまうんだろう。
 からの非難の言葉のひとつでも覚悟をしつつ、俺がうつむいていると、彼女はゆっくり俺に近づいて顔を覗き込む。
 俺が驚いて顔を上げると、彼女はおかしそうにくすりと笑った。
「あ、ごめん、ヘンな意味で笑ったんじゃないの」
 は口元を押さえながら笑顔で俺を見た。
「……乾くん、私は乾くんと手をつないで歩くのが好きだし、私も、乾くんに触れたいって思うよ。ただ……」
 彼女は俺の顔を見たまま、少し考えて言葉を探した。
「男の子は、私より大きくて力が強いから、時々怖くなるの。ちょっと前までは、乾くんが真剣な顔で近くに来ると、たまに怖いって思う事もあった……」
 は口元にあてていた右手を胸の前でぎゅっと握り締める。
「だけど、しばらくずっと乾くんと過ごしていたら、乾くんはきっと……大丈夫、怖くないんだなあって、今は思っているの」
 俺はが一生懸命話す一言一言を、頭の中に刻み込むように聞いていた。
「私も、乾くんに触れたいって、思うよ」
 はもう一度言って、そして笑った。
「だから、ねえ、乾くんの頭にね、触ってみていい?」
「はあ?」
 俺は彼女の突然の申し出に、間抜けな声を出してしまった。
「乾くんのそのツンツンした髪、触るとどんな感じかなあって、ずっと思ってた」
 彼女の少し恥ずかしそうな笑顔を見ながら、俺はコホンと咳払いをして軽く膝を曲げ、中腰になり彼女に向かって頭を下げた。
「どうぞ、心ゆくまで」
 俺が慇懃に言うと、は鞄を地面に置いて、両手でそうっと俺の髪に触れた。
 ちょっと遠慮がちに、両手で包むように俺の頭に触れてから、今度は俺の髪を梳くように指を動かす。
 俺の頭のてっぺんからつま先まで、まるで雷が落ちたのかというような感覚が走った。
「ふふふ、思った程がちがちに固めてるわけじゃないんだね。帽子かぶったりしたらどうなるのかなーって思ってた」
 は嬉しそうに言いながら、俺の髪を指でもてあそぶ。

『参りました』

 俺は心の中でそうつぶやいた。
 がちょっと俺の髪に触っただけで、俺の体中の血液の流れは、こんな風にまったく異常をきたしてしまうんだ。俺がに触れたりなんかしたら、一体どうなってしまうんだろう。
 つまり、あれだ。
 登山家が徐々に高度に体を慣らしてゆくように、俺はゆっくりとに近づいてゆこう。
 この、俺の大切な大好きな女の子に。
 俺が顔を上げてずり下がった眼鏡の下から上目遣いで彼女を見ると、それがおかしかったのか、は嬉しそうに笑った。
 俺は眼鏡の位置を直すとの手を取って、目的の中国茶の店に向かって歩き出す。
 歩きながら、握った彼女の手をぐいと持ち上げて、俺はその手の甲に一瞬唇で触れた。
 は驚いた顔をするけれど、その手は引っ込めないまま。
 俺が少々勝ち誇った顔でいると、彼女はまたおかしそうに笑う。
 15歳になったこの日は、俺の高地トレーニングの第一日目だ。

(了)
「青春ハレンチ純情派」

2007.6.3




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