モクジ

● イントネーション  ●

 忍足侑士が彼女を初めて見たのは、二年生の頃だった。
 部活の途中で、グラウンドで会った陸上部のクラスメイトと話している時だ。
 彼女はグラウンドを走っていた。
 すらりとした長身で、胸を張りまっすぐ前を見て、その長い手足にはうっすらと美しい筋肉のラインが浮き出ていた。その脚が地面を蹴ると、まるでそのまま空に飛び立つのではないかと思うくらいに軽やかに体は跳ね、前へ進み、その姿はすぐに小さくなってゆくのだった。
 一瞬しか見えなかったが、彼女のまっすぐな強い目は、忍足の眼球に命中し頭蓋骨を飛び越え、胸に刺さった1)。
 忍足はその後姿をじっと眺めて、話していたクラスメイトに彼女の名前を聞いた。
 彼女は明らかに陸上部の走りだったからだ。
 、と彼女の名をクラスメイトは教えてくれた。長距離の選手だという。
 彼女の姿とその名前は、鮮烈に彼の脳裏に焼きついた。


 三年になってクラス名簿に彼女の名前を見つけた時、思わず忍足は口元をほころばせた。
 しかしどうした事か。
 教室に入って席について、周りを見渡しても彼女を見つける事はできなかった。
 新しいクラスになった者たちが彼にはいろいろと話しかけてきていて、彼はそれに軽快に対応しつつも視線では彼女を探す。
 新しいクラスでのホームルームが始まって、まずはクラス委員を決めるという事になった。忍足ははっきり言って興味がないので、ふうっとため息をついて窓の外を眺め、ぼうっとした時間を過ごしていた。
 そんな彼の意識を、何かが呼び寄せた。
 そうだ、クラス委員を決めているのだった。
さん……」
 そんな名前が飛び交っている事に気づいた。
 忍足ははっと前を向いて、身を乗り出した。
 クラス委員が決まったようだ。
 、と名前が呼ばれ一人の女子がおずおずと前に出た。
 忍足は自分の目を疑った。
 そこにいるのは、背は高いが少し猫背でうつむいてばかりの女子で、あの時グラウンドで見た豹のように強い目をして走る姿とはまったく違った。
 忍足は彼女を頭のてっぺんからつまさきまでじろじろと眺める。そのスカートから伸びたすらりとした脚は確かにあの時の彼女のもので、それで確かにであるという事を、彼も納得した。
 しかし、グラウンドで見たときと教室でのこの印象の違い。
 教室でなかなか見つけられなかったのも納得だと、ため息をついた。
 
 の席は、忍足の席の隣の列のずっと前の方だった。
 彼女は相変わらずいつもうつむきがちで、あまり人と話さない。彼女の声も、クラス委員に選ばれた時の自己紹介で聞いたきりだ。そういえば同じクラスになったのに、まともに目も合わせていない。
 しかし、彼女がクラス委員に選ばれたのがわかったような気がする。
 なんだかんだ言って、クラス委員なんてのは雑用が多く、彼女のように大人しくて文句も言わないような人間は適任なのだろう。悪気はなくとも、多くの人間はそういう者をかぎわけ、面倒事を押し付けてしまうものだ。
 その日のホームルームでは、皆の所属する委員を決めるという事が議題だった。
 は前に出てホームルームを進めようとするも、相変わらずうつむきがちで、そしてなんとも声が小さいのだ。
 クラスメイト達はそれぞれ雑談に忙しく、ホームルームはまったく進む様子はなかった。
 忍足は大きくため息をついた。

「なあ、お前ら」

 そして気づいたら、声を出していた。
 彼の声は静かだが、よく通る。クラスメイト達は私語をやめて忍足の方を見た。

「委員会決めなあかんて、が言うてるやろ。さっさと決めてまおうや」
 
 彼の言葉でクラスメイト達は黙って前を向き、そして、黒板の各種委員のメンバーの空白部分はすぐに埋まって行った。
 
 ホームルームも終わって放課後になると、忍足は部活に行こうと荷物を手にした。
 そんな彼を、小さな遠慮がちな声が呼び止める。
 振り返ると、それはだった。忍足は驚いて彼女を見る。
「忍足くん、あの、今日……ホームルームでは、どうもありがとう」
 彼女は小さな声で彼に言った。
「あ、いや……別にたいした事してへんよ」
 忍足は言いながら、彼女の言葉のイントネーションを頭の中で反芻した。何かがひっかかった。
 はペコリと会釈をすると、自分の席に戻ろうとした。
「なあ、!」
 忍足はその腕をつかんで呼び止めた。
「自分、もしかして関西モンなんちゃうんか」
 彼がそう言うと、は目を大きく見開き、驚いた顔で彼を見上げた。

 忍足はそのまま、彼女を自分の席の隣に座らせた。
「家、どこやったん?」
「……箕面……」
「ああ、もんたよしのりとか西川きよっさんの家があるとこやな」
 彼がそう言うと、はやっと少し笑った。
 長身の彼女でも、さすがに忍足と話すには顔を上げなくてはならないし、そうやってじっと目をあわせてくる彼女はとてもきれいだった。
「……自分、なんであないに声小さいん? ホームルームなんて、もっとよーさん声出してチャッチャと進めていかな、ちーとも終わらへんで」
 は恥ずかしそうにうつむくと、また小さい声で言った。
「私、しゃべるの苦手で……。その……関西弁出てしまうと、恥ずかしいし」
「なんでやねん。そんなもん、俺みたいにばんばん言うたったらええねん」
「だって私は、忍足くんみたいに面白い事話したりできないし……。こっちではみんな、関西弁の人っていったら、なんか面白い事言うと思ってるから……」
 忍足は大きくため息をついた。
「アホか! 俺かて別におもろい事なんか言うてへんわ。だいたいな、関西人の俺と話す時くらい関西弁でしゃべったらええやんか。なんで俺相手にそんなぎこちない東京弁でしゃべるねん、キッショイちゅうねん。それに自分、もっと普段から背筋、ぴんと伸ばして前見てた方がええで! グラウンドで走ってる時みたいに!」
 思わずまくしたてる彼を、はまた目を丸くしてじっと見た。
「忍足くん、うちが走ってるとこ、見たことあるん?」
 言われて、忍足はハッとした。
「……ああ、二年の時にな。ええ脚したネーチャンやな思て」
 忍足が照れ隠しに冗談めかして言うと、はおかしそうに笑った。
 彼はつい、嬉しくなってしまう。
 そう、関西の女はこういう冗談に怒ったりせず、笑ろてくれるもんやねん。


「これは実際にあった話らしいねんけどな、渋谷駅でな」
 忍足はに真剣な顔で話す。
 あのホームルームの日から、教室でしょっちゅう彼女と話すようになった。
「ある関西人が、柄の悪い奴らにからまれたんやて。そんで、これはピンチや、でもどないしよう!と思ったそいつは、大声で『関西人集まれー!』叫んだらしいねん。そしたらな、周りから、なんだなんだと関西人が集まってきてな、びっくりしたチンピラは逃げてまいよったらしいで」
 は声をたてて笑った。
「そんなわけないやん。それはいくらなんでも作ってるんちゃうん?」
「そんな事言うて自分、ごっつ笑ろてるやん、ウケてるやん。結構ゲラやん。でも、これマジらしいで」
 彼が言うと、はまた笑う。
「別にウケてへんて! そんなネタ話を忍足くんが信じてる言うんがおかしいねん!」
 のやわらかな北大阪のイントネーションは、彼女の穏やかな雰囲気に良く似合っていた。そして忍足と話すときの彼女は、すうっと肩の力が抜けて、ぴんと背筋がまっすぐになり、じっと見つめてくるその大きな眼はとても美しかった。
「まあ、ウソかホンマかはわからんけど、とにかくやな」
 忍足はその伊達眼鏡をもっともらしく、クイと上げてみせ、言った。
「よその土地に行ったら、関西人同士は助けあわなあかんて事や。だから……なんかあったら、俺に言うてき」
 は大きな目をまたさらに大きくして、彼を見上げた。
「……ありがとう。忍足くんも、たまにはええ事言うなあ」
「たまにちゃうやろ、いつもや、ハゲ!」
 そう、関西の男はこういうちょっとええ感じの時でも、ついついツッコんでしまうもんやねん。


 は忍足と話す時以外は相変わらず大人しく、一人でコツコツとクラス委員の実務なんかをやっていた。丁寧に仕事をするその様は、『気持ちの優しい不器用なお母ん』みたいだと、忍足は感じた。
 なんでは教室にいるときは、ちょっと猫背だったりするのだと、ある時忍足は改めて尋ねた。
「……うち、背ぇ高いやろ。多分クラスの女子では一番高いやん。男子でも私より低い子もいてるし。なんかな、恥ずかしぃて。背ぇ高いのも恥ずかしいし、上手くしゃべられへんのも恥ずかしいし、なんしかキュウッて下を向いてしまうんよ」
 は恥ずかしそうに言った。
「ほんまアホやなあ。高い言うても、俺より高いワケちゃうし」
「うん、せやから、忍足くんと話してる時は自分が小さい女の子みたいで、ちょと嬉しいねん」
 そう言うとにこっと笑った。
「それくらいの身長やったらぜんぜんアリやし、むしろ皆うらやましいくらいなんちゃうか。ええ脚してるねんし、結構美人さんやねんし。前にも言うたけど、普段からもっと顔上げて前向いときや。俺が女やったら、自分みたいなんええなあ、あないになりたいわって思うで、きっと」
 彼が言うと、は恥ずかしそうに笑って言った。
「……ありがとう。俺が女やったらって、回りくどい誉め方やけど、嬉しいわ」
 言われて、彼はハッとする。
「いや勿論俺が男やっても、ええなあって思うわけやけどな。いや実際男やねんけどな。あっ、この場合、俺が自分みたいになりたいっていう意味とはちゃうで! オカマちゃうねんから」
「どないやねん」
 おかしそうに笑う彼女を見て、忍足はふと年上の従兄弟が言っていた言葉を思い出した。
『侑士、関西の男はな。関東に行ったら、一休さん人生にならんよう気をつけるんやで。合コンで、面白かった〜じゃあねぇ〜っで終わらんようにな!』
 わかりにくい上に、古すぎるっちゅうねん。と、バカにした記憶がある。
 しかし兄ちゃん、もしかしたらこれが、「一休さん人生」の入り口なんか?
 彼はに笑いかけながらも、頭の中では従兄弟がくちずさんでいた「一休さん」のオープニングメロディーがかけめぐっていた。


 その日はまたホームルームだった。
 各委員会からの報告をするように、という内容だ。
 そして、前に出たは相変わらずうつむいて、声が小さい。
「あの、各委員会のクラス代表の方は、活動方針の報告を……」
 その声はクラスメイト達に届くことはなく、今回も教室内は騒がしかった。
 忍足は教室を見渡し、ため息をつく。
「すいません、静かにしてください……」
 忍足にすら、聞こえるか聞こえないかのような声で、は言った。
 しゃあないな、と忍足が声を発しようと深呼吸をすると、それまでうつむいていたは、くっと髪をかきあげて前を見た。
 教壇で胸を張って背筋を伸ばすその姿は凛としていて、忍足は思わず見とれた。
 そう、初めて見た時の彼女は、確かにこんな目をしていた。
 ばん!
 と教卓を叩く音がして、雑談ばかりしていたクラスメイトがさすがに前を向く。

「ワーワー言うてんと静かにしぃ、言うてるやろ。チャッチャと委員会報告して、ビャーッとホームルーム終わらせたいねんけど。ハイ、風紀委員から!」

 の声が教室中に響き渡り、指された風紀委員は驚いた顔をしながらもパッと立ち上がって、ぼそぼそと報告をした。
 黒板の前できりりと立っている彼女と目が合うと、忍足はぐっと右手の親指を立てて見せた。彼女は照れくさそうに笑う。
 以下各委員の報告が迅速に続いて、速やかにその日のホームルームは終了した。


 その日から、クラスの中でにつけられたあだ名は「オカン」だった。
 クラスメイト達は、親しみを込めて彼女を「オカーン!」と呼ぶ。そして彼女はそう呼ばれると、「オカン言いなや言うてるやろ!」と顔を赤くしながらも返事をする。
 普段はあいかわらず大人しいけれど、今の彼女は教室の中でも、その長い首をすっと伸ばして胸を張り、きれいな姿勢で座っていた。
「なあなあ、オカン。 数学の課題の最後のとこだけ、ちょと見せてんか」
 彼女の席の前に来て忍足が言うと、はムッとした顔でノートを出す。
「忍足くんまで、オカンとか言わんといて。そんなん言うたら、うち、忍足くんの事、おっしゃんて呼ぶで!」
「うわ、それだけは勘弁してや。そのセンスだけは許されへんねん」
 顔をしかめて大げさに嫌がって言うと、彼女はおかしそうに笑った。
 まっすぐ胸を張って前を見た彼女の笑顔。
 教室でもずっとそれを見ることができるんやったら、ええかな、一休さん人生でも。
 忍足はそんな事を考えつつ、からノートを受け取った。
「でも、いつまでも一休さんちゃうからな、俺」
 なんやの、それ。という呆れたような彼女の声を背に、忍足はノートを持って席に戻った。そしてまた頭の中で駆け巡った一休さんのメロディーを口ずさんでみて、思わず吹き出してしまった。

 『すき すき すき すき すき すき 愛してる』2)
 って、いくらなんでもそのまますぎるやん、俺!

 大笑いしながら数学の課題のノートを広げている忍足を、クラスメイトが不思議そうに見ていた。




1)The High Lows 「14才」(作詞 甲本ヒロト) 歌詞より一部引用
2) アニメ一休さん「とんちんかんちん一休さん」(作詞 山本護久) 歌詞より一部引用

2007.3.12
モクジ

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