● イケナイコトカイ  ●

 あれ、トン吉くんじゃん。
 学年が上がってクラス替えをして。
 新しいクラス、3年B組の自分の席に座りながら、まだ廊下で立ち話をしている彼をちらりと見た。
 私が『トン吉くん』と心の中で呼ぶのは、色白の肌に明るい色の髪の色男。
 テニス部の仁王雅治だ。

 テニス部でも目立ってモテ男の彼と、私は懇意というわけではないし、通常これといった接点があるわけではないのだけど、あれだ。
 去年、二年生の時に一度だけ。
 勢いで、してしまったことがあるのだ。
 あー、その、セックスを。
 


 あれは、去年の夏の終わり。
 蒸し暑い空気の中で、私は激しくへこんでた。
 ウチで飼ってた犬が死んでしまったのだ。
 私が小学校に入ると同時に飼いはじめた、柴犬のトン吉。
 その前の年の夏からちょっと具合が悪くなり始めたんだけど、冬になったら元気になって、まだまだそんなに歳じゃないし大丈夫だよねトンちゃんって思ってたら、去年の夏でがたっと弱って夏休みが終ると同時に死んでしまったのだ。
 家の中で飼ってて、夜はいつも私の布団にのっかってきてたトン吉。
 ふだんはトンちゃんって呼んで、叱ったりする時は「こら! トン吉!」って言ったりしてた。すっごく仲良しで可愛がってたの。
 そんなトン吉が死んでしまい、私はもう思い出すだけで悲しくって涙が出てきて、その日は授業もまともに受けられないから、理科準備室でさぼって泣いてたんだ。
 私と周りの世界にはなんだか薄い膜ができてしまったようで、先生の授業の話も、友達のお気楽な言葉も、遠い世界のことみたいだったから。
 実験用の道具が入ったダンボールなんかが積んである古い革張りのソファに体育座りをして、理科室に置いてあったキムワイプで鼻をかみながらめそめそ泣いてた。携帯の写真のトン吉を見ながら。
 そんな風に私が自分の世界に入っていたら、カチャリとドアノブが回される音。
 私はちょっとびくりとして顔を上げると、そこへ足音もなく入ってきたのが仁王くんだった。
 私は彼とはクラスは違うしまともに面識はないけど、知ってはいる。テニス部の、すごく人気のある男の子だ。
 彼は少し驚いたように私を見下ろす。私はあわてて足を正して、鼻をすすりながら彼を見た。
「……なに?」
 なに、もないだろうけど、こうぐしぐし泣いてる状況ではそれくらいしか言いようがない。
「いや、何って言われても困るんじゃが。今日は雨で屋上で昼寝ができんからな、そのソファ使おうと思って来たナリ」
 彼は私をちらりと見ながら静かに言った。空気に溶け込むように、その声は理科準備室に心地よく響き渡った。
「そうなんだ。悪いけど、今日はちょっと使わせて」
 私は鼻をかみながらうつむいて言った。
 まあこんな状態なんで、さっさと出て行って欲しい。
 けど、奴ときたらソファのダンボールをほいほいと下ろして隣に腰を下ろすのだ。
 彼が座ることで、スプリングがふやけた古いソファはふわんと揺れ、私の体が少し彼の方へ傾いてしまう。
 私はあからさまにいやな顔をして彼を見た。
 女が泣いてるんだから、ちょっとは遠慮しろ。
「……男に振られでもしたんか?」
 そして、モテ男のわりにはバカみたいに月並みな質問。ちょっとうんざり。
「飼ってた犬が死んだの」
 私はもう一枚キムワイプを引っ張り出して鼻水をぬぐった。あー、キムワイプってちょっとかたいから鼻の下がぴりぴりする。
 そう、トン吉が死んじゃったの。男とかじゃないから、別に色男くんになぐさめてもらうニーズはないんで、さっさとどっか行ってください。私、鼻たれだし。
 そんな風に思っていたけど、仁王くんはあいかわらず私の隣に居座り続ける。
「そうか、犬が死んでしもうたんか。それはおえんのぉ、確かに授業なんか出とれんわな」
 彼がひどく真剣に言うので、私はちょっと意外でちらりと彼を見た。
「うちも昔犬を飼っとってな。俺が小学生の時に死んでしまったんじゃ。で、うちは姉と弟がおって。俺も悲しかったけど姉ちゃんも弟も、俺以上にわんわん泣いておえんくてな、特に弟がまだ小さかったものだからいつまでたっても泣き止まん。しばらくは毎日弟と一緒に寝てやったもんじゃのう」
 彼は静かにそんなことをつぶやいた。
 へえ、仁王くんって一人っ子って感じだけど、兄弟いたんだ。っていうか、なんだか仁王くんが突然にそんな話をするのが意外だった。
「……弟が泣いて、仁王くんはお兄ちゃんだからって我慢してたの?」
「まあ、一応はな。けど、布団に入って弟が寝入ったころに、こっそり泣いちょった」
 彼はそういうと思い出したように小さく笑った。
「どんな犬だった?」
「雑種の、毛の長いもこもこしたやつ。マルオって名前だった。あまり利口ではなかったな。お前さんのとこの犬は?」
「うちのはトン吉。柴犬だよ」
 私は携帯の写真を見せた。
「ほう、柴犬はやっぱりりりしいのぉ」
「おりこうでさ、可愛かったんだ」
 私はまた溢れ出した涙をぬぐいながらつぶやく。
「俺が一緒に寝てなぐさめちゃろか?」
 ちょっとふざけてそんなことを言う仁王くんは、犬の話をした後だったからか、別に憎たらしくもいやらしくもなくて私は泣きながらも笑った。
「ばーか。寝ないよ」
「じゃあ、俺をトン吉じゃ思うてなでてみんしゃい」
「はー? トン吉と思ってねえ」
 私はそう言って、仁王くんの眉間のあたりをごしごしとこすった。
 すると彼はちょっとヘンな顔をする。
「なんじゃ? 普通、もっと頭をなでるとかとちがうか?」
「トン吉はこう、鼻の上から眉間のあたりをごしごしとなでてあげると喜んでたんだよ。あ、仁王くん左右の眉毛ちょっとつながってるから犬っぽいよね」
「何!? 俺の眉毛がつながっとるはずなか! ちゃんと手入れしちょる!」
 ちょっとからかっただけなのに、予想外に憤慨する彼がおかしくて、私はまた笑った。
 なんだろう、何がどうって言うわけじゃないんだけど。
 そんな風にじゃれてたら、私と彼の距離はやけに近くなっていって(物理的に)、だけどそれは不思議とすごく自然な感じで、いつしか彼は私の腰に手を回していて、さらりと行為に至っていた。
 やりながら、ちょっとこれどうなの、なんてさすがに私も思ったけれど、どうしてだか彼とするのは違和感がなくて、私は彼を『トン吉』なんて呼びながら抱かれてた。
 ちゃんと避妊具常備してるなんてさすが仁王雅治だなあとか、あー、ここ理科準備室だからキムワイプがあってよかった、ティッシュ持ってなかったから処理に困るとこだったとか、妙に現実的なことを考えながらも、私はまったく平然と自分にとって予想外な行為に及んでいた。窓の外からかすかに聞こえる弱い雨音、汗ばんだ肌にまとわりつく古いソファの不快な革の肌触り、理科準備室のかすかな薬品の匂いに混じった仁王くんの髪の匂い、そんなものが私の脳の深いところに残ったっけ。

 私は、初めてではなかったにしろそんなに誰とでも寝るほうではないし(というか、今まで一人としかつきあったことないし)、なのに彼とのそんな行為について、罪悪感を抱くような気持ちにはならなかった。
 不思議。
 ろくに知りもしない、好きでもない男の子と寝てしまったのに。
 まあ、ちょっとは自分でもびっくりなことをしちゃったな、とは思ったけど、彼との意外な展開のことを思い出すと、トンちゃんには申し訳ないけどトンちゃんが死んでしまった悲しさが、ちょこっとは紛れて穏やかな気持ちになれた。
 それから、私は学内で時々仁王くんを見かけるけど、特に何かアクションを起こすわけでもなく、彼の方も同様。避けるわけでもなく、なれなれしくなるわけでもなく。
 それはなかなかに悪くなくて、私は彼を見かけるたび、『ああ、トン吉くんだ。あの時はどうもありがとね』なんて心でつぶやいたりした。

***************

 で、3年生になって、そんなトン吉くんと同じクラスになった。
 こりゃー、ちょっと口をきくようなこともあるだろうな、気まずいかな、でも彼は女の子とどうこうなんて日常茶飯事っていう噂だから、まあたいして気にしないだろうな、なんて思ってると、去年も同じクラスだった友達の雪香が隣にやってきた。
「おー、今年は仁王と丸井が同じクラスじゃん。派手だね」
 彼女は、女の子に囲まれながらムースポッキーを頬張ってる丸井くんを見て笑った。
「なに、雪香、ああいうの好み?」
 私がしれっと言うと、彼女はくすっと笑った。
「マジ惚れはしないけど、イケメンが同じクラスっていいじゃん。二人とも癒し系だし」
「癒し系〜?」
 丸井くんはまあわからないでもないけど、仁王くんは癒し系かね? と思わず私はそんな声を上げてしまう。
「丸井はペット系で可愛いしさ、仁王は出張ホストみたいで使いようによっては超癒しだと思うよ」
「はー? 出張ホストとは、すごい言い方」
 私は思わず呆れてしまう。
「この前、ブラバンの三井さんが彼氏と別れたからって仁王とウダウダ話してて、その流れで食われちゃったんだって。で、三井さんは仁王にやり捨てられたって怒っちゃって結構モメたらしいんだけど、そんなのマジになんないで一時の気分転換だと思えばいいのにねえ。その一発でちょっと和んで気を紛らわせて、そんで次の恋に行けばいいじゃん」
 私が思わず絶句してると、雪香は机に頬杖をついて私を見た。
「あれ、なに、 、こういう話、ダメだった?」
「……あ、いやそうじゃないんだけどさ。実はさ……」
 こういうのって、隠してても大概ばれるからね、女友達同士って。私は素直に、去年の理科室での出来事を話した。すると雪香はくくくとおかしそうに笑う。
「あー、さすが 。そう、それが仁王の正しい使い方だと思うんだよねえ」
「使い方って、ちょっとそれもさすがにどうよ」
「けどさ、愛犬が死んじゃって悲しい時の慰めにって、ごめん、なんか可愛いっていうか笑えるっていうか」
「笑い事じゃないよ! トンちゃんが死んだ時、ほんとに私、立ち直れなかったんだよ! 今だって悲しいんだよ!」
「いや、ごめんごめんって」
 そんな風に笑ってる雪香の背後に、人影。
「そこ、俺の席」
「え? あー、ごめんね」
 雪香の背後に立っていたのは、噂をすれば。仁王雅治だった。
 なに? 仁王くんが私の隣?
「お隣さんか。よろしゅうナリ。名前は?」
 彼はにやっと笑いながら私を見た。
 そういえば、彼は私の名前も知らなかったわけか。

 興味津々といった風に私たちを見ながら自分の席に戻る雪香を無視して、私はつぶやいた。
ね。俺は、仁王トン吉」
 彼の言葉に、私は思わず吹き出してしまう。
 『女にだらしないロクデナシ』
 実は、彼に対するごく一般的評価はこういったもので、私もそういう認識をぬぐい去ることはできていなかったのだけど、雪香が言っていた『癒し系』ってのも結構言えるかもしれないなーなんて、彼のいたずらっぽい笑顔を見てたら思えてきた。

**************

 クラスメイトとしてのトン吉くん、もとい仁王くんはまあ結構普通だった。
 もちろん、人気のテニス部のレギュラー選手だし、きれいな顔をして女の子のあしらいの上手い子だから、常に女の子の注目をあびているというのは予想通りだけどね。
 見てると、ちょっと面白い。
 丸井くんなんかは、大勢の女の子に囲まれておやつなんかを与えられてわいわいとやってることが多いのだけど、仁王くんはまたちょっと違う。
 仁王くんのところにも女の子はしょっちゅうやってくるけど、大勢がわいわいというんじゃなくて、なんだか周囲の女の子で牽制しあってるかのように一人ずつぽつりぽつりとやってきてっていう感じなんだ。で、時にはすっと二人で消えたりね。
 また、彼は基本的に一人でいることも好きなのか、ふらりといなくなって『仁王くん、どこ行ったか知らない?』なんて、隣の席の私が尋ねられることもある。
 あの理科準備室のソファで寝てるのかな、なんて思ったりもするけれど、『ううん、知らないよ』って、私は答える。



「ねえ、トン吉くん」
 放課後の掃除の時に、仁王くんが支えるちりとりにゴミをほうきでまとめながら私は言った。
 彼は、うん? と私の顔を覗き込む。
「お昼休みの時とかさ、よく女の子たちから、『仁王くんどこいったか知らない』って聞かれるんだわ。みんな、いつも探してるよ。机にさ、行き先表を作っといたら? A :屋上、 B: 理科準備室、C:Don’t disturb(ハートマーク!)とかさ」
 そう言うと、彼は声を上げて笑った。
「それはいい考えじゃの」
 笑いながら、集めたゴミをゴミ箱に落とした。
 私はゴミ箱の袋の口を閉じて持ち上げる。
 それを持って集積所に向かおうとする私に、仁王くんもたらたらとついてきた。
「教室に残っとると雑巾がけなんかやらされるからな、面倒じゃ」
 ああ、まあ正解。
 だから私もそそくさとゴミ捨てに行こうとした。今の時期なら外は暑くも寒くもないから、集積所までぶらぶら歩くのって悪くない。
「なあ、 。ちょいと尋ねたいことがあるんじゃが、ええか?」
 外をぶらぶらと歩きながら、彼は言った。
「うん、なに?」
「去年、俺とした時、 泣いちょったじゃろ? 泣いた後のセックスって、普段よりもよかったりするんか?」
 私は手に持ったゴミ袋を取り落としそうになった。
「……これまたいきなり生々しいことを……!」
 しれっと言う彼を、私は呆れて見上げた。太陽の光にあたった彼の髪は、ひどくまぶしい。
 まったく、あの時のことなんて今まで一度もにおわせたことなんかないくせに、突然なんてことを聞いてくるんだ、この男。
「いや、別に答えたくないならええんじゃ」
「答えたくないってわけじゃないけどさ……」
 仁王くんはやっぱり変わってるなー。こんなこと言っても、妙に、イヤラシくないんだよね。だから油断してみんなやられちゃうんだろうか? ああ、私も含めて。
「だってさ、そんなこと聞かれてもわかんないよ。例えば、泣いた後じゃなくて仁王くんとしたことがあったとして比較してみてってんなら答えられるかもしんないけどさ。それに、私もそんなにいろいろ経験豊富なわけじゃないから」
「彼はおらんのか?」
「……いたことあったけど、去年の夏に別れた」
「ふーん」
 彼は興味なさそうにつぶやく。
「何なの、その泣いた後のって。何のリサーチ?」
 私は彼の質問に逆質問してみる。ちょっと興味があったから。
「流行作家の下らない恋愛小説でちらっと読んだことがあったんじゃ。泣いた後の女は敏感になって感じやすくなるってな。読んだ時は下らんって思ったけど、このところ、ああそうかもしれんなとふと思うて、実際女に尋ねてみたかった」
「へー、そんな説があるんだ。私じゃ参考にならなくてごめん、他の子に聞いてみて」
「それがな、泣いた後にした女ちゅうんは、たいていの場合後日もめることになるんで落ち着いて『なあ、泣いた後っていつもより感じるか』なんて聞きがたい奴がほとんどなんじゃ。答えてくれそうなんは くらいじゃ」
「まあ、彼氏と別れて傷心のところをいただいて、それでポイ、じゃ落ちついてそんな話できないだろうね、女の子も」
 私は雪香の話を思い出して、ちょっとからかうように言ってみた。
 すると軽くあしらうかと思った仁王くんは、眉間にしわをよせて私を見る。
「別にポイしちょるわけじゃない」
「皆、そう言ってるよ」
 私が言うと、彼は外国映画の登場人物みたいに肩をすくめてみせた。キザだけど、結構似合うな、こういうの。
「他人とな、人付き合いのペースがなかなか合わんのよ、俺。こう見えて、他人と親しくなることが得意じゃないナリ。だから、スタートがちょっとしたスキンシップで、そしてその後にゆっくり仲良くなるようなペースが好きなんじゃが、女子はみな、ひどく焦りよるからな。一回やって、ああちょっと仲良くなれそうかなと思うちょる時期にぐいぐい来られると、引いてしまう」
 平然と言う彼を見ながら、私は思わず笑った。
「そりゃあペース合わないだろうね。だって、中学の女の子っていったら、ちょっとずつお話して仲良くなって、手をつないで一緒に学校から帰って、そんでキスして、ようやくセックスってのがたぶん多数派だよ。仁王くんは、きっともっと大人になったら平穏な恋愛生活が送れるんじゃない」
「ああ、まあ自分でもわかっちょるけどな」
 彼もくすっと笑った。
「そうじゃ、
「うん?」
「俺とのセックスは、相対的な感覚じゃなく絶対的な感覚では、どうじゃった? よかったんか? 参考に聞かせて欲しいナリ」
 今度はゴミ袋を取り落としそうにはならないけど、まったくこの男は、と呆れてため息をついた。
「いい男はそういの女子に聞くもんじゃないでしょ」
「たまには、冷静な客観的評価を聞いてみたい」
「私なら答えそうだから?」
 そう言うと彼はまた笑ってうなずいた。
「……まあ、よかったよ。かなり」
 私が正直な感想を述べると、彼は意外なくらいに得意げで嬉しそうな顔をする。なーんだ、結構子供っぽい、なんて私も表情には出さないけどおかしくなった。
「あの時は服もまともに脱いどらんし、まあ俺の全力の40%くらいと思いんしゃい。その気になったら、いつでも全力の俺を経験させちゃるからいつでも言うナリ」
 そしてそんなことを言うものだから、私は思わず声に出して笑って、そしてゴミ袋を集積所にポーンと放った。
「しないよ。まあ、お気持ちだけ頂いとく」
「どうしてじゃ」
「だって、トン吉くんとのセックスは、なんていうの、年に一回家族でホテルの高級フレンチのコース食べるみたいなもん。デラックスなデザートつきの。しょっちゅう食べてたら、メタボメタボ」
 そう言って集積所を背にして歩くと、彼は声を上げて笑った。
「なんじゃ、そりゃ! 光栄というか、失礼というか。メタボはないじゃろ!」
「私は、学食の野菜炒め定食とかがいいな。安くて飽きが来なくて、栄養第一」
 笑ってる仁王くんの隣で、私は理科準備室でのことを思い出した。
 自分で言って、納得。あの時のあれは、悲しくて泣いてる時に、スペシャルパフェを食べたみたいだった。泣いてる女の子にスペシャルなスイーツを差し出してくれた男の子。仁王雅治くんは、そんな子なんだ。

****************

 掃除の時間にそんな話をしてから、私と仁王くんは教室でもそれまでよりもかなり親しく話すようになった。といっても、あくまでも普通のクラスメイトとしてだけどね。
 でも、なんだろう、すごく昔からの友達みたいな感じで、とても心地よかった。
 仲はいいけど、彼は私に恋をしてるわけじゃないし、私も同じく。そして、一度やることやっちゃってて、そして次はもうない予定から、お互い妙に期待しあったり牽制しあったりすることもない。気が楽。

と仁王ってさ」
 お昼に学食で日替わりを食べながら、雪香がしみじみと言った。
「なに?」
「仲いいよね」
「悪くはないけど、普通だよ」
 私がもさもさとキャベツを頬張りながら言うと、雪香はくすっと笑った。
「まあ、そんなにべったりてんじゃないけどさ、ほら、あれだ。別れた夫婦が仲良くしてるみたいな感じ」
 私は思わず、千切りキャベツを噴出しそうになる。
「なにそれ。やだ、やめて、まじで。つきあってたこともないのに」
「やっぱり、あれ? 一度、癒されちゃったから?」
 からかうように言う彼女を、私はちょっとにらみつけた。
「ごめんごめん、 も新しい彼氏つくんなきゃいけないしね。仁王とうだうだしてる場合じゃないか」
「別につくんなきゃいけないってわけじゃないけどさ」
 ふと私は去年に別れた男の子のことを思い出した。
 そういえば、結構たつんだな。面倒だしあんまり思い出さないようにしてたら、なんだかあっという間だ。

*****************

 その日は試験を間近にした日で、やけに暑かった。
 少し勉強でもしてから帰ろうと思って、珍しく図書館に寄って空いている机を確保した。
 当然、本を読みに来たわけじゃないから、そのまま机に教科書とノートを広げて勉強をする。周りでも同じように、普段は図書館に来ないだろうような生徒たちがいそいそと勉強中。ふと、私の向かいに新たな人の気配。顔を上げると、それは柳生くんだった。
 彼は去年同じクラスだったから、私は顔を上げて目が合った瞬間、軽く会釈をする。
 さして仲が良いわけではないけど、彼は礼儀正しい子だから、一応ね。
 彼もゆっくりと鞄から教科書やなんかを出して、勉強を始めた。
 そういえば同じクラスだった時、彼が授業中にしょっちゅう挙手してて、初めの頃はびっくりしたなあ。慣れると、こっちが先生に当てられる確率が減って助かるなって思うようになったけど。
 彼もキレイな顔をしてテニス部レギュラーなんだけど、モテるのかモテないのかはよくわからない。はたから見るととても気が合いそうには見えないけど、仁王くんとは仲が良くて、ダブルスではペアを組んだりしてるんだって耳にする。
 そんなことを思い出しながら、真剣にノートに向かってペンを走らせる柳生くんを見て、そして自分も教科書とにらめっこを再開した。
 私にしては珍しく勉強に集中してて、ふと時計を見るともういい時間。
 そろそろ帰るか、と勉強道具を片付けて図書館を後にした。
さん」
 すると私の名を呼ぶ声。
 驚いて振り返ると、柳生くんだった。
「ああ、柳生くん。柳生くんもテスト勉強だった?」
「はい、そうです。試験の成績をキープすることは基本ですからね」
 ふーん、さすがだなあ。ま、彼は常に上位だからいつだって余裕だろうけどね。
さんは今、仁王くんと同じクラスでしたね」
「うん、隣のクラスでしょ」
「仁王くんはどうですか。新しいクラスで、きちんとやっていますか?」
 お母さんみたいなことを聞いてくるなあなんて思っておかしくて、だけど、どうしていちいち私に聞くんだろうなって、一瞬不思議に思った。
 だって、実は去年同じクラスでも、挨拶とかホームルームで以外ほとんど口をきいたことないんだよね、柳生くんて。
 私は図書館で熱心に勉強している柳生くんの姿を思い出して、はっとした。
「仁王くんねえ」
 私は彼の眼鏡を見ながら、くすっと笑う。
「仁王くんは、もう女の子を食いまくって大変。おかげでクラスが修羅場修羅場。柳生くんからちょっと注意しといてよ。なんなら、風紀委員長の真田くんにでも言って怒ってもらって」
 私が言うと、柳生くんはぎょっとした顔をした。
 彼が何か言おうと口を開くと同時に、私は我慢しきれなくて笑い出してしまう。
「トン吉くん、何なのよ。私に何を言わせたいわけ?」
 私は手を伸ばすと、彼の眼鏡を取り上げて笑った。
 唇を開いて困ったような顔をした彼は、くしゃっと髪をくずしてため息をついた。
「なんじゃ、わかっとったんか」
 噂じゃ、テニスの試合のペテンのために、仁王くんと柳生くんが互いに変装しあって入れ替わることがあるって聞いたけど、初めて見たなあ。なかなかよくできてる。
「っていうか、だって、さっき図書館で勉強してるときずっと左手でペン使ってたじゃん。去年、柳生くんの後ろの席になったことあったけど、彼は右利きだったよ」
「ちっ、さっきそこまで見られとったか」
「何の趣向?」
「別に。柳生の格好をして勉強したら、ちっとは身が入って賢くなるかと思ってな。そしたらたまたまお前さんがおったから、ちょいとからかってやろうと思っただけじゃ」
「自分の噂でも聞き出そうとした?」
「まあな。どうせろくなことは言わんじゃろ思うちょったけど、あれはないじゃろ」
「冗談だってば」
 仁王くんはまた髪を整えると、私の手から眼鏡を奪ってすまして言うのだ。
「では、ロクデナシの仁王くんではなく、品行方正な私があなたをお送りいたしましょう。家はどちらの方ですか」
 そんな風に、私は柳生くんの姿をした仁王くんと一緒に帰った。
 ふざけてるのか何なのか、彼は私の家の前までずっと柳生くんで通していて、それがなんともおかしくて、帰り道を私たちは結構楽しく過ごした。


「よう、 サン、昨日は柳生とお似合いじゃったなあ」
 翌日、朝っぱらから仁王くんは変装道具の眼鏡をもてあそびながら笑う。
「そうでしょう。柳生くんって、結構いいかもね」
 私が言うと、仁王くんはその眼鏡をだらしなく鼻にひっかけてみせた。
「おっ、お前さん、マジにあいつ好みか?」
「さあ、どうだろ。好みじゃないこともないけど、あんまり話したことないもん」
「昨日話したじゃろ」
「あれ、仁王くんじゃん」
「でも、だいたいあんなもんじゃ」
 言って、おかしそうに笑った。
「仁王くんや丸井くんがモテるのは知ってるけど、どうなの、テニス部ってやっぱりみんなモテるの? 柳生くんも?」
 自分の席にすわって教科書を出しながら私が言うと、彼はまた眼鏡をはずして頬杖をついた。
「さあ、他の奴のことはあんまり知らん。確実に知ってるのは、赤也と真田が童貞ってことくらいじゃな」
 容赦のないその言葉に私はふきだしてしまった。
「なんじゃ、お前さん、誰か紹介して欲しいんか?」
「いやいや、別にいらないよ。お気遣いなく」
「そういや、去年の夏に男と別れた言うちょったな。男が浮気でもしたんか?」
 さらりと図星な一言に、私は少々むっとする。
「まあ、そんなとこ。他の女の子と遊びに行ってそれを私に内緒にしてたもんだから、カッとなって別れちゃっただけ」
「よくある話じゃな」
「そ。俗っぽい人間ですからね。きっと仁王くんとつきあう女の子は大変だろうなって思うよ」
 何気なく言うと、彼はぎゅっと眉間にしわをよせた。
「それは心外じゃのう。俺は浮気はせんよ」
「えっ、そうなの」
 私は素でびっくりして聞き返してしまう。
「お前さんも、失礼なやっちゃな。俺は少々手が早いのは否定せんが、浮気もんではなか」
「へえ、そうなの。手が早い人=浮気性だと思ってたよ」
「そういうもんでもなかろ。誤解するなや」
「別に私に誤解されてもいいじゃん」
「人としての品位に関わることじゃ」
 ツン、とそっぽを向く彼がおかしくてつい笑った。
 仁王くんは手は早いけど浮気者ではないなんていうその話は結構受けたので、私は昼休みの雪香との話題として使わせてもらい、大いに盛り上がった。あ、ついでに噂の二年生エースと鬼の風紀委員長が童貞らしいって話もね。

************

さん」
 試験週間も終ったし、さっさと帰って着替えて買い物にでも行こうと校門に向かって歩いていたら、聞き覚えのある声。
 振り返ると、テニスバッグを持った柳生くんが立っていた。
 うん? なに、また仁王くんのいたずら?
 と思ってじっと彼を見たけれど、どうも違うみたい。
 一歩近づいて見て、ああやっぱり柳生くんだ、と確認する。
 柳生くん、というか、仁王くんではない。
 だって、髪の匂いが違うから。
「ああ、私は仁王くんではありませんよ、ご安心を」
 ご安心をって。仁王くんだったとしても別に心配をしたりはしないけどね、と彼の言葉にちょっと笑ってしまう。
「うん、わかってる。なにか用? 柳生くん」
「いえ、用というほどのことではないんです。お急ぎでしたか?」
「あ、別に急いでないから大丈夫。ただ、柳生くんが話しかけてくるなんて珍しいから」
「すいません、驚かせてしまいましたか」
 彼は、そのきれいな指先でくいっと眼鏡のブリッジを持ち上げた。
 そして、ふうっと軽く息をつく。
「あの…… さんは、このところ仁王くんと親しくしておいでですね」
 これまたリアクションに戸惑うことを言うなー、この紳士は!
 私は苦笑いを返すしかない。
「うん、まあ親しくっていうか、席も隣だし話しやすいし」
さんにこういったことを言うのは、変に思われるかもしれませんが……」
 柳生くんは言葉を選びながらゆっくりと続けた。
「仁王くんは3年になってから落ち着いたというか、なんといいますか、つまり……女性の方とどうこうというややこしいことがなくなって、私も大変ほっとしておりましてですね」
 ということは、今まで入れ替わりなどをしてこの紳士も若干仁王くんのあれこれに巻き込まれてたということなのだろうか、なんて想像をしてしまう。
「はあ」
「そして、彼がこのように安定しているというのは、もしかすると さんと仲良くしておいでだからなのかと思ったりするわけです」
「あっ、でも、柳生くん、私、仁王くんとつきあってたりしてないし、つきあうつもりもないからね!」
 私はあわてて釘を刺した。
「ああ、そうですか。いや、それならそれで勿論一向に構いません。ただですね、彼はああ見えてなかなか人付き合いの難しい男なので、 さんのように落ち着いた関係のご友人ができたというのは、非常に喜ばしいと思っているのです。彼のプレイもぐっと落ち着いて精度も上がってきていますし」
「はあ」
 そんなもんですかねえ。
「私が言うと、どうもかしこまってしまっていけませんね。要は、これからも彼をよろしくお願いしますと伝えたかったのです」
 一生懸命に言う彼を見ながら、私は妙に照れてしまう。
「柳生くん、仁王くんのお母さんみたいだね」
 普通、こんなこと言わないよね。男の子同士の友達でさ。
 でも、なんかいいなーって思っちゃった。
 柳生くんと仁王くん、ぜんぜん合わなそうなのに本当に仲いいんだなあ。
 以前、仁王くんが柳生くんの格好をして一緒に歩いた時のことを思い出す。仁王くんは柳生くんのことを本当に何から何まで知ってるようだった。そして、柳生くんも同じだろう。
「大事な友人なんですよ」
 そして、こんなことも、普通中学生の男の子って言わないよね。
 でも、私の目を見ながら胸を張ってそういう柳生くんは、仁王くんと友達なのだということが本当に満足なようで、とても誇らしげ。
 なんだかまぶしくって、私は『うん、ちゃんと友達でいるから』なんて照れながら言って、そそくさと帰る。
 なーんだ仁王くん、大事にされてんじゃん。


「よう、 サン、昨日は柳生とお似合いじゃったなあ」
 翌日の教室で、仁王くんはいつかと同じことを私に言った。
「んん? 昨日の? あれは本物の柳生くんでしょ?」
「おう、そうじゃ。正真正銘の紳士じゃ」
 彼は興味深そうに私を見ながら言う。私が柳生くんと話してるなんて、よっぽど珍しかったのだろう。
「柳生くんって、ほんといい人なんだねえ。去年同じクラスだったときは、ただひたすら真面目で授業中に手を上げてばっかりの人っていう印象しかなかったけど」
「ああ、あいつはええ奴じゃ。俺と違ってな」
 ふざけてるようなからかうような、それでいて妙に醒めたようななんとも読みがたいような様子で彼は続けた。
「仁王くんだって、いい奴じゃん。だからこうやって友達なんでしょ」
 私が言うと、彼は目を丸くしてそしてちょっと困ったようにその髪をくしゃくしゃっとかき回した。そういえば彼の髪、すごく柔らかくて触りごこちがよかったな。突然にふとそんなことを思い出した。
「……今日、部活ないんじゃが、帰りにうどんでも食っていかんか」
「は? うどんっ?」
「駅の近くに讃岐うどんの店ができたって丸井が言うちょった。食い方、教えちゃるよ」
 仁王くんの唐突な誘い、しかも讃岐うどんて!
 身構える以前に、モテ男からの誘いがうどんってのがなんだかおかしくて、私はなしくずしにそれを承諾した。


 放課後、一度部室に寄る用事があるという仁王くんと東門の前で待ち合わせをして、私たちはうどん屋に向かった。仁王くんはご丁寧に割引券まで持ってきてくれて、まあ、まめなんだなあと感心する。
「ああ、ちゃんと聞きもせんかったが、 はうどんは好きか?」
 信号待ちをしながら、彼は私の顔をのぞきこみながら尋ねた。
「うん、まあ嫌いじゃないよ。蕎麦より好きかな」
 私の答えを聞いて満足そうに笑う彼を見上げながら、私は、あれ? と思う。
 そして、うどん屋の前にたどりついてから足を止めた。
「うん、どうした? やっぱりうどんはイヤか?」
 ちょっと心配そうに声をかける仁王くんに、私はゆっくりと大きく深呼吸をして言った。
「うどんは嫌いじゃないよ。だけど、どうして柳生くんが来たのかが、わからない」
 私がそう言うと、彼はさして驚くでもなく小さく息をついた。
「……やはり、わかりましたか」
「うん。近くに立ったら、すぐに分かるよ。私、結構鼻がいいの。仁王くんのシャンプーと、柳生くんのはだいぶ違う。柳生くん、お姉さんか妹いる? いかにも女の人が使うって感じの、すごくいいシャンプーの匂いがする。前に話した時も思ったけど」
 仁王くんの格好をした柳生くんは、一瞬あわてたように髪をちょっといじった。
「……妹が最近自分の気に入ったシャンプーを買ってきて、私もついそれを使ってました。たしか、ロクシタンとかいうところのだったか……なかなか良い感じなので、おすすめですよ」
 照れ隠しなのか、丁寧に説明してくれる彼に、私はつい笑ってしまった。
「そうなんだ。でもそこのシャンプーは結構高いから、なかなか買えないよ。きっと柳生くんの妹さんも、お兄ちゃんが使っちゃってるって知ったら怒ると思う」
 そんなことを話しながら、私たちはとりあえずうどん屋に入った。
 二人とも、釜揚げうどんを頼む。あったかいやつね。
「……ところでさ、別にこれはこれでいいんだけど、なんでまた仁王くんは柳生くんに代打を頼んだわけ? なんか急に都合悪くなったとか? だったら言えばいいのに。私、別に気を悪くしたりしないし」
 まあ、うどんなんて誰と食べても一緒だから、いいんだけどさ、なんて思いながら私は一応尋ねてみた。
「私は、 さんを騙すようなことなどおやめになったほうがいいですよと言ったのですけどね」
 彼も困ったようにうどんをすすった。
「別にいいんだけどさ」
 柳生くんとうどんを食べるのも悪くはないけど、仁王くんが自分で誘っといて、どうして? って思う。普通、思うよね。
 柳生くんを私におすすめしたいという作戦の一環? なら、最初にそう言ってよね。
「さしでがましいかもしれませんが」
 今はすっかり髪を整えて眼鏡をかけている柳生くんは、うどんに葱を追加しながら静かに言った。
「私の勝手な考えですが、仁王くんは、私と彼が入れ替わっていても、確実にあなたが見破ってくれるという確信を得たかったのではないかと思いますよ」
 ふーん、と思いながら私はお茶をすすった。
 どうして?
 どうして、私からそんな確信を得たいのだろうか。
 そう尋ねそうになったけれど、柳生くんだってそんなこと聞かれても困るだろうな。
 そう思って、それ以上は何も言わなかった。


 うどんの喉越しはよかったけれど、なんとも後味のすっきりしないデートの翌日。
「よぉ。昨日、うどん旨かったのぉ」
 隣の席でしゃーしゃーと私に向かって言う仁王くん。
 毎日隣の席で過ごしてて、そして一回とはいえ、あんな間近に接したことのある私が、仁王くんと柳生くんを間違えると思ってるのかな。
 なんていうの、昨日のあの後味の悪さ。
 別に私と仁王くんは恋仲だとかそういう間柄の男女じゃないけど、友達ではあるわけじゃん。
 そんな、試されるようなことって、感じ悪い。
 友達だったら、間違えないでしょ。 
 ちょっとした雰囲気や話し方や匂いやなんか。
 そんなこともわからない、安い人間だと思ってるわけ、私を?
 多分、今の時点ですでに仁王くんは柳生くんから昨日の報告を聞いてることだろう。
 それに、以前の図書館の一件で、私がそうそう人を間違えるとは思ってはいないと思う。
 なのに、どうしてこう軽く試すようなことをするのか。
 私はちょっとイライラする。
 ぽん、と鞄を机に置いて椅子に腰掛けた。
 そして、椅子ごとすっと仁王くんの方へ近寄って、彼の顔の近くでささやいた。
「うどん、美味しかったね。それよりも、その後に家で私にしてくれたことの方がずっとおいしかったよ、すごくよかった。実際のところ、あれ、仁王くんだった? それとも柳生くん? まあ、私としてはどっちでもいいけど」
 そんな、みえみえのウソを言ってから私はさっさと鞄から教科書を取り出して、黙々と授業の準備を始めた。
 仁王くんが私をじっと見てるのがわかったけど、私は彼を見ない。
 

 仁王くんは、結構いい友達だなって思ってたのに、やっぱりちょっと違う。
 友達なら、試したりしない。
 私がたまたま女の子だったからなのか、一度寝てしまったからなのかわからないけれど、私は信用されなかった。それだけだ。
 自分を信用しない人を、私は友達と思えないし、当然それ以上の関係になろうとは思わない。つまり、興味も持たない。
 昼休みに雪香と学食に向かって歩いていたら、廊下で呼び止められた。
!」
 仁王くんが腕組みをして立っていた。
「なに?」
「ちょいと話がある」
「……うどんのこと? ああ、あのうどんの後の話は冗談。うどん食べて帰っただけだよね、美味しかった」
 面倒だからそれだけを言って雪香と食堂に向かおうとすると、仁王くんは私の腕を掴む。
「それはわかっちょる。話がある言うちょるじゃろ。ちょいとつきおうてくれんか」
 ちょっと、私これから友達とご飯食べに行くとこじゃんと思いながらも、いつになく真剣な彼に、雪香が先に『じゃー、私、行ってるから』と姿を消してしまった。



「うどん食べに行こうって自分から誘っといて、柳生くんをよこしたのは仁王くんでしょ。まあ、結果的に言うと柳生くんはすごくセックス上手だったから、その方がよかったけど」
「そんなもん、うそじゃってわかっちょる」
 仁王くんは呆れたようにため息をついて言う。
「別にいいんだけど、どうしてわざわざあんなことしたの? 私がわからないと思った? 私に柳生くんを正式に紹介したかった?」
 仁王くんは、怒られた小学生が拗ねてるような顔をしてて、彼のそんな顔がちょっと意外だったから、私はそれ以上何も言わずに彼を見ていた。
は、以前に柳生の格好をした俺をすぐに見破ったが、俺の格好をした柳生のこともすぐにわかるのか、知りたかった」
 そして、そんな単純な答え。
「そんなのわかるに決まってるじゃん。隣の席でいつも見てるんだし。友達なのに、いちいちそんなこと試されるの、すごくウザい」
 それだけ言ってさっさと戻ろうとする私の腕を、彼はまた掴んだ。
「ああ、それはそうじゃろう思うし、申し訳なかった。謝るナリ。けど、俺が今言いたいのはそんなことじゃなか」
 そんな風に言う彼の眼はやけにきれいで、もう面倒くさい奴だななんて思いながらも、私はついその目をじっと見てしまう。
 これ以上、一体何を言おうとしてるんだろう。
「あのな、俺、実は今まで傷ついたことなんかなかったんじゃ」
「はあ?」
 彼の言うことの意味を考えようとして、私は更にじっと彼を見つめる。
「……例えば は、自分の好きな男が、他の女に惚れとってその女と仲良くしとったら、悲しくなるか?」
 そして突然に、そんなバカみたいなことを聞いてくるのだ。
「……そりゃ、なるよ。誰だってなると思うけど」
「俺はずっと、そういう感覚がわからんかった。けど、前に が柳生と話しちょるとこを見た時に、どうも妙な気分になった。そして、今朝、 が柳生と寝たちゅう話を聞いて、ウソじゃわかっていても、考えるだけでイライラしてどうしようもなかった。そういうんは、何て言うか……」
 仁王くんは言ってから、髪をくしゃくしゃっとかきまわす。
 彼の髪の匂いが、ふわりと漂った。シトラス系の甘いけれどさっぱりした匂い。
「そういんは、初めてじゃが、悪くないのぉ」
 そして、ふふっと笑うのだ。
 私は苦笑いをして、ため息をつく。
「なに、そんなこと言うために私のお昼の時間をじゃましたの?」
 彼は笑ったままうなずいた。
「前に言うたとおり、俺は手は早いが浮気性じゃない。 に、前の恋の時みたいな思いはさせんよ」
 彼のシンプルな言葉に、私ははっとする。
 トンちゃんが死んだ時に、もうこんな悲しい思いをするくらいなら犬は飼わないよって思ったっけ。
 だけど、今、うちには弟が拾ってきた子犬がいて、トンちゃんより大分やんちゃでどうしようもない子だけど、なんだか楽しくやってる。
 去年つきあってた子と別れた時に、本当に男の子ってすぐに他の女の子と遊びたがるし面倒で、こんな風に傷つくくらいなら、もう別に恋とかしなくていいって思った。
 今でも、思ってる。
 仁王くんのことも、寝ちゃったし、いい男だし、悪くはないと思ってる。
 だけど、すぐに他の女の子を好きになるだろうし、いちいちそんなことで傷つくのはいやだ。
 そんな風に思って、彼のことははなっから自分の恋の対象にしないようにしてた。
 だって、自分が傷つくの、いやだもの。
が俺と寝たこと、気持ちよかったはずなのにたいして気にとめちょらんの、俺は結構へこんどった。同じクラスになって、割と仲良うなった思うちょったのに、あの時んこと、ぜんぜん響いちょらんのかって」
 だって、仁王くんこそ、そういうのぜんぜん気にしてなさそうじゃん。
 私ばっかり気にしたりするの、ヤダもん。
 そんな風にしてたの、仁王くんを傷つけてた?
「……そんなことないよ、あの、トンちゃんが死んで悲しい時に、どうもお世話になりましたって、いつも思ってたよ」
 ちょっと悪かったかなーと思ってそう言うと、仁王くんは眉間にしわをよせながらも笑うのだ。
「だから、そういうんじゃないじゃろ。もっと抱いて欲しいとか、そんな風に言うて欲しいんじゃ、俺は!」
 なんじゃ、それ。
 私は思わず笑い出してしまった。
「俺は変幻自在な男じゃ。希望とあらばフレンチのフルコースにでもなるし、讃岐うどんにでも、野菜炒め定食にでもなっちゃるよ。メタボの心配なんぞいらん。俺は、もっと とゆっくり話をして、触れ合って、仲良うなりたいんじゃ。俺は とだったら、安心できるような気がする。だから、 を不安にさせたりもせんよ」
 きっと女の子を口説く言葉なんて、もっと気の利いたようなのをいくらでも持ってるだろうに。
 ひとつひとつ考えるようにして丁寧に言うその言葉は、私の心に染み入った。
「なあ、 。俺はどうしたらええんじゃ? 何でも言うてくれ」
 私はいつだって不安だけど、仁王くんもそうだったのだろうか。
 女の子と寝てみて好きになっては、すれ違って上手くいかなくて、不安になったりしてた?
 男の子って、やっぱりよくわからないな。
 男の子からしたら、女の子もわからないんだろうけど。
「……とりあえずさ、うどん食べに行かない。昨日は気まずくて、あんまり味わからないままだったよ」
 私が言うと、彼は嬉しそうに笑った。
「そうか、やっぱり柳生じゃダメじゃろ。あいつにもちゃんと讃岐うどんの食い方を教えちゃったんじゃが、やっぱりわかっちょらん」
 しみじみ言う彼を、私はくくくと笑いを堪えながら見つめる。
「いや、それほどにはダメじゃないと思うよ」
「ちゃんと、釜揚げには卵を添えてかまたまにしたか?」
「ううん、卵ナシ」
「ダメじゃ。それにぶっかけと釜揚げの両方を食わんとな。柳生はいい男じゃが、やっぱり俺の方がちょいとだけいい男じゃ。間違えんようにしんしゃい」
「だから、間違えてないじゃん」
 仁王くんは熱いのかクールなのか、真面目なのかふざけてるのか、あいかわらずよくわからない。
「俺が一番いい男なんじゃ」
 そして、いつのまにかえらそうだ。
 彼は私の手を取って身をかがめて口元に持って行くと、私の親指の付け根を軽く噛んだ。
 仁王くんの唇、舌、歯の感触。
「トン吉をかわいがってたみたいに、俺を大事にしてくれ」
 私の手から唇を離すと、うつむいたままで真摯に言うのだった。
「……じゃあ、噛んだり悪さをしないで」
 私のことばに、彼は上目遣いで私を見るとククッと笑った。
「気持ちいいくせに」
 そう言ってもう一度私の手をかじるものだから、私は『こら! マサハル!』と怒鳴りつけてやった。

(了)
「イケナイコトカイ」

2008.11.15

-Powered by HTML DWARF-