● ホメオスタシス(3)  ●

物事の意味を深く追求しない私でも、やはり気持ちが揺れたりするのは常で、結局のところそれを柳に見越されてた。
 つまり、私はちょっとしたことで動揺したり感情が揺れ動きやすい。
 今の心境を簡単に言うと、『あーあ、友達の彼氏とやっちゃって、しかもすごく感じちゃったよ。ダメ人間』っていう具合に、落ち込んでるということ。 
 ね、普通でしょ、そういうの。
 柳はどうなんだろう。
 なにしろ、大きな静かな湖のような人だ。
 私のことは、多分小さな石つぶが落ちて、ほんのちょっと波紋が広がっただけのようなことだろう。すぐに静かな水面に戻るのだ、きっと、あの人は。
 やれやれ、面倒なことになっちゃったな。
 そう思うのに、なのに、不思議に精市のことでだけ揺れてた時に比べると、その揺れがあまりに大きくて手におえないという感があるのか、かえって私の胸の奥は落ち着いてしまっているような気もする。
 でもそういの、やっぱり、ダメでしょう。
 昼休みの食事を一人で取りたくて、屋上に来てもそもそサンドイッチを食べ、そのあとごろりと寝転がる私。
 給水塔の日陰。
 暑いけど、時折抜ける風が気持ちいい。
 こういうの、好きだ。
 まさに大の字に寝転がって、風下に足を向ける。
 もしも風下から来る人がいれば、私のパンツは丸見えかもしれないけど、そんな人はいやしないし、そんなことは別にかまわない。
 このまま、午後イチの授業はさぼろう。
 それが、いい。
 そうやって風を頬に受けながら目を閉じていると、給水塔の向こう側で何か人の声がする。
 騒がしいな。でも私には関係ない。
 なんて思っていたら、物音のした方からずんずんとやけに重い足音が近づいてきた。
 それが近くで止まったと思うと、雷。

! もうすぐ昼休みは終るぞ! なにを呑気に寝転がっている! しかも女子のくせに、その行儀悪さは何だ!」

 目を開けると、それは確認するまでもなく真田。
 ごろりと大の字で横になった私を、ものすごい形相で見下ろしている。
 風下からやってきただろう彼には、私のパンツはばっちり見えたかもしれない。
「え? なに、真田? なんでこんなとこに?」
 私はまず抱いた疑問を、寝転がったまま彼を見上げて投げかけてみる。
 真上から怒り顔で見下ろしてくる真田は、なかなかの迫力だ。
「テニス部の仁王に用事があって探しに来ていたのだ。すると奴が、こっちに俺と同じクラスの女子が寝とぼけていると言うではないか。そんなはずはあるまいと思いながらも念のため見に来てみれば、がこのような醜態を!!」
 あー、真田だ。
 真田の怒鳴り声、いいね〜。醜態、と来ましたか。
 この前、自分のキャラをドMにしてみようなんて考えたっけ、と思い出した。

「ねえ真田、お願い。私のことを、この薄汚いメス豚め! って罵ってくれない」

 そう。柳とのセックスのことを考えながら、こんなところで一人ごろごろして授業をサボろうとしていた私を、ちょっとまっとうに叱って欲しい。誰でもいいけど、真田はおあつらえ向きの人材だ。
 彼の次の言葉を心待ちにしていると、私は奴の手に腕を掴まれてあっというまに引き起こされた。
「ちょっと、痛い痛い!」
 その遠慮のない掴み方はほんと痛くて、腹が立った。
「罵っては欲しいけど、おさわりは禁止だっての!」
 ほんと、このKY野郎め。
 私がにらみつけると、真田はその目にこれまた燃え上がるような怒りを浮かべて私を見る。
「いい加減にせんか、このバカ者が! ぐだぐだ言っておらんと、さっさと始業前に教室にもどれ!」
 それだけを言って、大股で屋上を後にした。
 くっそ、バカ力め。
 まあ、痛かったけど、なかなかいい叱りっぷりだった。
 多分、通常の私だったらムカついて一発逆転で言い返しでもするだろう真田の説教。
 けど、なかなか男の子とまっとうで健全な関係を結べない私への正義の説教なのだ、と脳内で変換すると結構悪くない。むしろ、気持ちいい。おっ、私、なかなかにドMキャラが板についてきたんじゃないの。
 やれやれ。

 なんだか、よくない。なんだか、はっきりしない。

 私、いつも分かってるのに、そういうことばかりしてる。
 そういうの、どうしようもない。
 誰か、叱ってよね。

**************

 私たちがもう後戻りできないということは、柳もよくわかっていたようだった。
 あれから、柳は部活の後に頻繁に私の家の書庫に寄った。
 そして、鎌倉文庫の『人間』を書庫から持ち出す。
 けど、それはなかな読み進められることはない。
 彼は私の部屋に来ては、私と交わった。
 最初の数回は、私は本当に力を抜いてリラックスして彼とのセックスを愉しんだ。だって、彼は私に触れるたび、ゆるやかに私の反応を見て私がどうすれば感じるのかを的確に記憶していった。それを確認するように、私に触れ、刺激する。それは本当に優しい、的確な愛撫だった。
 もちろん、柳蓮二のそんなデータの蓄積はこの上なく正確で、私は彼に触れられるたび、穏やかに確実に絶頂に導かれる。
 そしてそんな日々の中、時に、こう尋ねられた。
は、本当は精市とどうしたかった?」
 6月に、美紅と三人で精市のお見舞いに行った帰り以来、どういった探究心なのかはわからないが、柳から私に向けられる質問は常にこういった方向だ。
 私は、はぐらかしたいわけでもないのに、答えることができない。
 だって、私自身にもわからないから。
「わからない。本当に、わからないんだよ」
 だから、私はそう答える。
 私が幾度もそう答えていると、柳の私の抱き方は少しかわっていった。
 時折、私に、私の苦手な刺激を与える。
 座った状態で私を背後から抱きかかえて、貫く。
 そうやって腰を揺さぶりながら、私の体を背後から愛撫する。
 私を貫いている、その結合部分を指で巧みに刺激する。
「ちょっと、柳っ、それ……ほんとにダメだから……やだっ……やめてっ……」
 あまりの強い刺激に私が泣きそうな声を上げて抵抗をしめしても、彼はやめない。私が泣きながら崩れ落ちて達するまで、やめない。
 私の体に、そういった馴染みのない刺激と快感を覚え込ませるまで、やめない。
 彼は行為の後、私の言葉を待つように、私をじっと見つめる。
 けれど、私は柳の探究心を納得させるような言葉など、何も持っていないのだ。

 私たちの関係は、私の家の書庫からつながる私の部屋、その蒸し暑い空間で、見事に完結していた。
 私は、学校に行けば、自分でも感心するくらい柳と平然と話を交わせていたし、そしてそこに美紅が入っていてもだ。
 美紅とも、まったく今まで通り、何ごともないように友人同士の会話を楽しんでいる。
 自分で自分がこわかったけれど、なるべく深く考えないようにした。
 あの関係は、私の家のあのわずかな風の通る空間でのみの、突然変異的な出来事。
 普遍化されるものではない。
 つまり、私の部屋を一歩出たら、なかったも同然なのだ。
 そう考えると、私は実に納得してしまい、学校での振る舞いは堂々としたものだった。
 柳と美紅が仲睦まじく話していても、当然、嫉妬など感じない。
 そう、そんなことを感じてしまったら、おしまいだ。
 あの部屋の外では、柳と私は同じ世界には生きていない。
 そう、思わなくては。
 なんてね。
 いろいろ格好つけて考えてみても、私の気持ちの揺れの存在は無視できない。
 そういう時は、本当に、突発的にやさぐれるに限るのだ。
 授業をさぼるとかね。
 そうすれば、『授業をさぼるなんて、いけない私』というストレートな自責の念が、そのまま『友達の男と寝て、感じまくってしまう私』への自責へ上手いことスライドして、なんとなく自己完結する。
 そんなある日、図書館に行ってそのまま書庫の奥で昼寝でもしようかな、なんて思って廊下を歩いていると、職員室から戻ってきたらしき真田とすれ違った。
「おい、。ちゃんと始業時間には戻れよ」
 その静かな注意勧告がちょっとうざい。どうせなら、もっと派手に怒鳴れ。
「なによ、どうして私がサボるみたいに決めつけてるの」
「お前は最近、さぼりがちだろう! クラス委員として、目を配るのは当然のことだ!」
 彼はキッと私を見た。
「いや、そうなんだけどさ。だったら、もっとちゃんと叱ってよね。前もお願いしたように、『この薄汚いメス豚め、どうして欲しいんだ!』とか『強欲な泥棒猫め、もっとひざまずいてみろ!』とかさ、ちゃんと言ってよ」
 やれやれ、と思いながら私が言うと、彼の眉尻がギギギギと上がった。
「お前は、まったく訳の分からないことばかり言いおって、とにかく授業に遅れるな! それだけだ!」
 憤懣やるかたない、といった体で怒鳴って去って行く真田の後ろ姿を眺めた。
 おおお〜、いい叱りっぷり。うっとりしてしまう。
 真田は、健全で正しい奴だ。
 私とはまったく別世界の人間。
 だけど、ああいうまっすぐさは、ひとつの道しるべになる。
 まっとうに叱られるのは悪くない。
 誰か、私にまっすぐに言って欲しい。
 柳蓮二との関係を、今すぐやめろと。
 幸村精市とのことを、忘れろと。
 それができれば、私はピカピカに明るい中学三年の夏を過ごせると思うのだけど。

*************

 7月も半ばに入って、本格的に暑い日々。
 私と柳の情事は相変わらず続いていた。
 私の部屋は、7月に入ってもエアコンを入れない。
 窓の隙間から入って来る風、扇風機の風、それだけが私たちの肌を冷却する。
 汗がしたたり落ちる中、私たちは情事に耽っていた。
 柳が私を抱く、その傾向は、その時々によって違う。
 とことん私を甘やかして私の好きなタイプの愛撫をして、私の体の反応に合わせたセックスをする時。
 そう思えば、前にも述べたように、私が不慣れで苦手な体位での刺激を与えて、私を緊張させながら激しくいかせ続けるような時。
 または、私が興奮して達しそうになればすいっと逃がし焦らして、それを続けて、結果として私の方から激しく求めさせるような、そんなセックス。
 彼のセックスは巧みで、けれど決して優しいだけじゃなくて、必ず私から何かを引き出して、そして未だ引き出そうとし続けている。
 その日、汗にまみれながら、何度目かの絶頂を彼から与えられた時、私はぼんやりとした頭で考えた。
 この快楽は、きっと警告だ。
 もちろん、柳蓮二の私への行為に意味はない。
 ただ、私に起こってるこの事実。
 これは、多分、私が私の手でなんとかしなくてはならないのだと、それだけはわかった。
 曖昧で、揺れ続ける、私の胸の振り子。
 それは、ひとつずつ、なんとかしなくてはいけない。
 
*************

 夏休みを目前に控えたその日。
 放課後、部活に向かう途中の私に、すれ違いざま、柳が『今日、寄ってもいいか』と尋ねた。いつもなら、答えるまでもないことだけれど、私は『今日は用事があるから』と言った。彼の表情は見ない。
 私はそのまま自分の部室に向かった。
 部活を終えて、一人私が向かったのは、精市が入院している病院だ。
 病棟に行って記帳をして、部屋をのぞくけれど彼はいない。いつも彼があのひまわりの女の子と話しているデイルームを見てもいなかった。
 思い立って、病院の中庭に向かった。
 蓮の浮かんだ池を通り過ぎてハナミズキの木がならぶ通りを早足で抜けると、精市がいた。
 会えても会えなくてもどちらでもいい、と思いながらも、彼が一人でいたことにこころなしかほっとしてしまう。
 私が声をかける前に、彼は振り向いた。
「やあ、。今日は、一人かい?」
 そう言う彼に、私は頷きながらゆっくり近づいた。
「手術、するんだって?」
 私は柳から聞いたその情報を端的に精市に伝えた。
 ちょっと前ならば、絶対に私が一番に彼から直接聞いていただろうようなこと。
「うん、そう。かなり迷ったけどね、全国大会に出るには、そうするしかないみたいだから」
 彼はさらりと答える。
 おそらく、その結論に達するまで、自分自身の中で激しい戦いがあったのだろうな。
「そっか。大変だね。でも、応援してる」
 私は、シンプルでありがちでまったく気が利いてはいないけど、そうとしか言いようのない自分の気持ちを伝えた。だって、頑張って、なんて言えない。
「……には、いろいろ世話になったね。……なんて言うと、まるで死ぬみたいで変だな」
 言ってから、精市は空を見上げた笑った。
「なんていうか、は、俺には特別だよ。こんな言い方、ずるいけど」
 私は彼の言葉を聞きながら、大きく深呼吸をした。
「そうだね、私も、なんて言ったらいいのかわからないけど、精市は特別だと思う」
 特別って言葉は、ずるくて便利だ。
 でも、するりと私を納得させた。
 まだ自分が何者かもわからない頃に、認めた相手。その相手が自分にとって何者かもわからないけれど、きっと何かではあると、私も精市も、お互いに感じたのだと思う。セックスをしたのは、幼い私たちの、せめてもの手段だったのかもしれない。
「いわゆる、恋、じゃないと思うけど、多分、人間として特別なんだと思う」
 私は、これまたずるい言葉を続けた。
 ずるいかもしれないけど、それが私にとって言える、精市の存在への言葉のただ一つだった。
 精市はただただ、私を笑って見つめる。
「特別な相手から言わせてもらうと、
 彼はそういって、軽く息をついた。
「柳蓮二はやめておけ」
 さらりとそう言う彼を、私はぎょっとして見つめた。
「柳がよくない男だ、というんじゃない。他に女のいる、お前を一番としない男は、やめておけということだ」
「……柳が、何か言ってたの?」
 つい、そう尋ねてしまう。精市はあいかわらず穏やかな笑顔のまま。
「あいつが言うわけないだろ。最近のお前達を見ていて、なんとなく思っただけだ。は柳に抱かれてるってね」
 私は恥ずかしさでついカッとなる。
「……そう。私が柳に抱かれるのと、精市に抱かれるのと、どっちがマシだと思う?」
 そして、ついそんなことを言ってしまった。
 精市は、そんな私を宥めるように頭にぽんと手を置いた。
「どっちもだめだな。けど、俺は自分に恋人がいながらお前を抱いたことはないよ」
「そう。じゃあ、今、キスしてみて。どっちがより不健全か、確認してみたい」
 私はだいぶ混乱していたのだと思う。
 そんなことをしたって、何にもならないとわかっていたのに。
 揺れに揺れた私には、もう何が起こっても、同じなのだ。そういうことを確認したかったのだろうか。
「俺は今、恋人はいないよ。でも、を抱こうとは思わない」
「だから、キスって言ってるじゃない」
 私は最悪だ。
 ものすごくみっともない。
 涙が出そう。
 精市は軽くため息をついて、私の目尻の涙を指で拭った。
 そして、私の唇にそっと口づける。
 子供の頃にふざけてしたような、軽いキス。
 そんなキスの後、彼と体を離して、思いがけず自分がすがすがしいことに気づく。
 胸は痛いけれど、私には何も蘇らなかった。
 多分、これで、精市との思い出は本当に思い出になる。
 精市は、きちんと私にさよならをしてくれた。大事にしたままで。
「精市……」
 私が彼の指先に自分のそれをからめて、ぎゅっと握ろうとした時、彼が先んじて私の手を一瞬ぎゅっと握った。突然のことに私が驚くと、彼はすっと手を離す。
「やあ、柳」
 続く彼の言葉に、私はぎょっとして振り返った。
 ハナミズキの並木をバックに一人歩いているのは柳蓮二だった。
「ああ、も来ていたのか」
 彼の言葉はまったく平静だ。
 さっきのことを見られていたのかどうかは、わからない。
 私は一瞬動揺するけれど、もし彼に見られていたとしても、なんら問題はないと自分に言い聞かせ、なんとかこの場をやりすごそうとした。
「うん、精市が手術を受けるって聞いたから」
 私がそう言うと、精市は一度離した手を、もう一度私にからめた。
「そう、が心配をして来てくれたんだ」
 そう言って、私を自分の方に引き寄せる。
 まるで、柳を私に近づけまいとするように。
 柳は一瞬眉をひそめるけれど、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。
「そうか、確かに幼なじみとして、心配だろうからな」
「俺は、の方が心配だけどね」
 意味深に言う精市の言葉に、私は思わずその手をふりほどいた。
「何言ってるの、子供じゃあるまいし。とにかく、早く無事手術を終えて、テニス部に復帰して。全国大会が控えてるんだから」
 そんな、ステロタイプな言葉を発して、私は二人を後にした。
 だめだ。
 男の子は、だめだね。
 優しいけど、だめだ。
 私のことを心配して、気にするくせに、誰も私を一番にはしない。
 そういうのがだめなんだって、気づいてよね。
 私は駅まで走って、でも来たばかりの電車にぎりぎりで乗りそこね、しばし待ってから次の電車に乗って家に向かった。
 駅に着いて改札を出たすぐに、背後から耳慣れた足音。
「いきなり帰ることはないだろう、心配したじゃないか」
 柳だった。
 私はため息をついた。
「うん、だって、二人ともひどいから」
 私の言葉に、彼は何も返さない。
 返さないということは、聡明な彼は、私の言わんとすることを分かっているのだろうな。
 私の家の前に来て、私がわざとらしく『じゃあね』と言っても、彼は去る気配はなかった。だだっ子みたいだな、って思いながら門を開けると、彼は私についてきた。
 柳は書庫も経由せず私の部屋に入って、そして私を抱きしめてベッドに入る。
 この日の彼のセックスは、甘くて、そして激しく胸に痛かった。
 彼はいつも、最初に激しく私を抱いて射精をして、そして二回目に落ち着いて行為に耽ることが好きなようだった。場合によっては私は何度かいかされて、やけに素直に力が抜けてしまっているところを、まだまだ体力的に余裕のある彼が好きなように抱く。
 この時も二回目で、座って私を向かい合わせに抱きしめながら交わって、彼はゆっくりと腰を揺らしながら私に尋ねた。
「どうして、今更、精市とキスをした?」
 そんな、意味のない質問。
「別に。今、してみたら、どんな感じかなって思って」
「で、どうだったんだ?」
 彼の問い方はあいかわらず淡々としている。
 そうやって話しながら、彼は手をするりと私の背骨に沿わせた。
「どうでもなかった。だから、ああ、ちゃんと終ってるなって、思った」
 彼の指の動きに、ついびくりと背中を反り返してしまう。
「そうか。は、終わりは確認するが、始まりは確認しないのだな。自分の気持ちの昂りをもらすことは、ないのだな」
 そういえば。
 そういわれてみれば、私は、自分の泣き出しそうな気持ちを、そんな状態で人に告げたことがない。
 だって、そんな気持ち、告げられても相手は困るでしょう。
 柳のゆるやかな交わりは、少しずつ私の体の快楽を増幅させていく。
 彼は片手で私の胸を包み込みながら、唇に舌を入れてきた。
 彼の舌の動きはあいかわらず私を痺れさせる。
 思わず彼の腰の動きに合わせて、私も体を揺らした。
「私、そういえば、自分の気持ちとか、そんなこと、人に言うのなんて、苦手。無理」
 だって。
 精市と寝たりしていたあの頃。
 テニスに夢中な精市に、私が『好きなの』なんて言ったとして、どうなっただろう。
 今だって、私を抱く柳に『私と美紅のどっちを選ぶの』なんて言ったとして、どうなる?
 そんなことで無理矢理結果を導き出すくらいなら、曖昧にすごして、曖昧に終らせればいい。
 私は、自分が傷ついているのかどうかもわからない。傷つくのもいやだし、他の人を傷つけるのも面倒くさい。とんだ、やっかい者。だけど、仕方がない。
 柳の腰の動きは、次第に私を焦らしていく。
「ねえ、柳……お願い……!」
 たまらずに私が漏らすと、この日の彼はそれ以上に余裕を持って私を焦らすこともなく、私をベッドに押し倒す。そのまま、激しく腰を打ち付けて私を絶頂に持って行った後、自分もたっぷりと吐精した。

**************

 翌日のことだった。
 二時間目の休み時間、化粧室に行ってから教室に戻ろうとしている私を呼び止める声。
 振り返ると柳だった。
 こういった状況なんて、まずないから私は驚いてしまう。
「ちょっとつきあってくれないか」
 有無を言わせない彼に連れられて、私は階段を登る。
 私にはおなじみの、屋上だった。
「今更だが、俺はに辛い想いをさせていたか?」
 やけに真剣な彼の問いに、私は言葉を探す。
 けれど、本当に見つからない。
 そもそも、私の家の、書庫から自分の部屋。あの空間以外で、柳と二人きりになってこういう雰囲気って、想定外だから。
 私たちの関係は、あの空間だけで育まれる、決して孵ることのない卵。
「辛い……とか、そういうんじゃないと思う」
 私は自分の胸の中にダイブして、一生懸命言葉を探した。
 うん、辛い、というのはなんだか違う。戸惑っていることは確かなのだけど。
が、精市のことで揺れている時から、その揺れが、どうにも気になって仕方がなかった。お前は、どうしたら自分の『揺れ』を声にするんだ?」
「ええ?」
 彼の質問を反芻するように私は聞き返した。
「お前は、なにかしら辛そうに揺れているのに、いつも誰にも何も言わない。精市にも、そうなんだろう。そして、俺がお前に何を、どんなことをしても、結局何も言わなかったな」
 私は今までのことを思い返した。
 精市と過ごしたこと、柳に抱かれたこと。
 その時々に、もしも、もしも。
 私が何かを言っていたら、今はかわっていたのだろうか。
 私が、何も恐れずに自分の気持ちを自分で見つけて、それを言葉にしていたら。
 柳はその指ですっと私の唇に触れた。
「あの、いつものわれわれの空間から出た外で触れれば、お前は、何かその気持ちを言うこともあるのか?」
 柳の指は、私の唇を分け入って来る。口腔内に侵入して、舌に触れた。
 だめ。
 ここでは、だめ。
 あの、書庫や、私の部屋。
 あの場所以外では、私と柳は存在しない。
 私は、指で私の舌を愛撫する柳と彼の探究心がひどく恐ろしくなった。
 あの部屋では、柳が私にどんなことをしたって、怖いと思ったことなんてないのに。
 ガタン、という音が響いた。
 それが、屋上につながる階段からの扉の音だというのはすぐに分かる。
 私たちはその音がした方を振り返る。
 そこにいたのは、美紅だった。
 反射的に、柳は指を引っ込めた。
 美紅は無言で私たちを見ている。
 彼女が認識したことを、私も柳も明確に理解した。
 7月の蒸し暑い空気は私たちにねっとりと絡み付き、それにもかかわらず、ひんやりとした感覚を否めない。
 私も柳も、何も言う言葉を持たない。
 美紅がしっかり呼吸をしているその胸や肩の動きを、私はなんとはなしにじっと見つめていた。
「二人で行って、戻って来ないからどうしたかと思った」
 そして、彼女は静かに言う。
 そう言われても、また、私たちは返事ができなくて。
「ねえ、蓮二」
 特に返事は期待していないようで、彼女はすぐに続けた。
「ああ?」
 冷静な、柳の声。
「……を好きで、そうしてた?」
 相変わらず、冷静なままの美紅の声。
 柳の横顔も、端正で乱れる気配はない。
 完璧な球体の二人だ。
「……そうだな、かなり……惹かれていた……」
 彼の言葉が過去形なのは意識してなのかしていないのか。
 それは私にとって、もはや意味をなさないけれど。
 美紅は私を見ないまま、じっと柳を見る。
 その表情は透き通った深い湖のようなのだけれど、あまりに深くて湖の底は見えない。
「そう……それなら、私もやっぱり蓮二が好きだと思う」
 美紅は私をちらりと見て、軽く笑って、背を向けた。
「私は来週、イギリスに行くけれど、すぐに戻って来る。また、出会いましょう」
 右手を上げて、そしてさっそうと階段を降りて行った。
 
 また、出会いましょう。

 美紅は、見事に私を責めもせずそして私に弁明も謝罪もさせないまま、去って行った。
 それが、彼女が私に与えた罰なのかそれとも優しさなのか。まあ、人の気持ちは本人以外にはわからない。
 とにかく、この場の出来事は、終る。
 けれど、私たちの関係は終らせる事ができない。
 私と美紅と柳。
 だって、私たちはまた、出会って、始まる。
 そういうこと。
 それが一体どういう形でなのかは、誰にもわからないけれど。
 
 柳がどんな顔をしていたのかは、見ていないからわからない。
 見ない方がいいと思った。次にまた出会うまでは。
 私は、美紅の後ろ姿を見送ると、さっとその場を離れて、給水塔の後ろに向かった。
 柳はしばしその場にたたずんでいてから、去って行ったようだ。
 私はいつかのように、風下に足を向けて、大の字になって横たわった。
 私は、揺れている。
 いつも、揺れている。
 けれど、もしかしたらそれは私だけじゃないかもしれない。
 柳も、美紅も、そして精市も、何か起こるたびに揺れているのかもしれない。
 揺れている自分のままで生きて行くのも悪くないのかもしれないな、なんて目を閉じていると、ひどく無神経な足音。
ー! 先ほど、柳とすれ違って聞いたが、まさかまたお前、こんなところでサボろうとしているとは! いいかげんにせんか!」
 真田か。
 ああ、もういいよ。
 いや、でも、やっぱりこういうまっとうなお叱りはここちいいかな。
 もはや目も開けず、真田の怒号と戯れる。
 彼の重たい足音が私の頭のすぐそばで止まって、一瞬の後の雷はこうだった。

「……この、薄汚いメス豚め! 一体どうされれば気が済むのだ、言ってみろ!」

 真田の、その罵声に目を開けて、思わず体を起こした。
「どうだ、目が覚めたか!」
 ひどく得意気な真田。
 私は勢い良く立ち上がると、真田の膝裏に、思い切り腰の回転をきかせたローキックをお見舞いした。

「なによ、女子に向かってメス豚なんて、しっつれいな! 学内のセクハラ委員に訴えてやるから!」

 それだけ言ってさっさと階段に向かうと、背後で真田が地団駄を踏む音が聞こえる。『なんだ、が自分で何度もそうやって叱れとしつこいから!』と、彼のやり場のない怒りで今にも屋上のコンクリートは割れそうだ。
 だって、仕方ないじゃない。
 実際にメス豚なんて罵られてみると、意外にムカッときちゃったんだから。
 どうやら私はドMではないようだ。
 この馬鹿者が、たわけが、たるんどる、なんていうひねりのない真田の怒鳴り声を背後に、私はついついおかしくてちょっと笑いながら屋上の階段を弾むように降りて行った。やっぱり結構いいかも、真田の説教道場。
 この夏、いろんなことが、私にとって終った。
 でも、また何かが始まるだろう。
 そして、また何かに、出会うだろう。

(了)
2009.7.22

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