● ひとつだけ  ●

 正月なんて、ご馳走が食えることとお年玉をもらえること以外退屈だ。
 なんて、ガキみたいなことを考えながら、正月休みに実家に帰っている俺はもらったばかりの小遣いをポケットに携えて、本屋をぶらぶらしていた。
 青春学園からルドルフに転校を決めて、1年と少し。
 ルドルフの寮で生活するようになったのがついこの前のような気がするのに、今こうやって2年生の冬を迎え、4月になればついに俺も3年生か。
 実家で家族と過ごすことは嫌いじゃない。
 けれど、青春学園に入学して過ごした短い期間のことを思い出すと、どうしても胸がざわつく。
 あの頃、兄貴と比較されることへの反感からルドルフへ転校したことを、決して後悔していないし、自分にとってはいい選択だったと思う。
 青春学園だって、今思えば決して周りにいた誰もが悪かったわけでもない。
 よみがえるのは、あの頃の自分の不甲斐無さや淀んだ気持ち。
 あの頃の俺はなんだかうまくいかないことをひとのせいにしたり、ガキだったな。
 ま、今でもガキだけど、あの頃よりは強くなったと思う。
 そんな事を考えながら、本屋の雑誌コーナーをぼんやり歩いていたものだから、俺は「不二くん、不二くん」という声にはなかなか気付かなかった。
「裕太!」
 そう呼ばれて、やっと俺は振り返った。
 思わず目を丸くして、そして自分の心臓がドクンといきなり存在感を示すことに驚いた。
「久しぶり! お正月で帰ってきてたんだ!」
 そう言って笑っているのは、
 小5から塾が一緒で、青学でも同じクラスだった女子だ。
「……不二くん、なんて言うからわかんなかっただろ」
 俺はぶっきらぼうに答える。
 だって、ここいらで「不二くん」と言えばたいがい兄貴のことだから。
「だって、なんか裕太、すごく背が高くなって男っぽくなってたから、昔みたいに裕太って呼んでいいのかわかんなくて」
 はすこし恥ずかしそうに笑った。
「別に裕太でいい」
 どうしても俺はそんな調子で、目をそらしてしまう。
 久しぶりに顔を合わせるは、髪が伸びて、なんだかひどく女っぽくなっていた。
 唇はうっすらピンク色で、何かリップとか塗ってるんだろう。
 中一の頃は、そんなのつけてなかったのに。
 俺たちはどちらともなく、本屋の出入り口の自販機で飲み物を買ってベンチに腰をおろした。
 話すことは、他愛無いこと。
 お互いの学校のこと、部活のこと、家族のこと、お年玉のこと。
 は大きな目でじっと俺を見ながらいろいろ話すのに、俺はなぜだか目をそらしながら話した。
 転校をする前、最後に顔を合わせて話したは、まだちょうど兄貴くらいの髪の長さで、そんなに俺と背も変わらなかったと思う。
 けれど今、俺の目の前のは、肩より長く伸びた髪がさらさらしていて、隣に座っているとなんだかいい匂いがする。俺より背の低い彼女を見ると、まつ毛の長さに初めて気づいた。そんなところに気づくたび、俺は目をそらして中一のころのを思い浮かべながら話す。
 そうでないと、俺は混乱してうまく話せなくなりそうだったから。
「……あのさ」
 正月のバラエティ番組のことなんかも話しつくして会話が途切れた瞬間、彼女はそう切り出した。
「私、去年ね、テニスの試合で、ルドルフで試合する裕太、見たんだ」
 少し言葉を選ぶように言う彼女を、俺は見た。
 やっぱりきれいになったな、と思って、また眼をそらす。
「……青学だと、兄貴の応援にでも行った?」
 俺が言うと、はふにゃっと困ったように笑う。言ってから、しまったと思った。
「ちがうよ、友達が菊丸先輩のファンでね、一緒に青学の応援に行ったの。私も、裕太の試合見たかったし」
 負けたけどな、と俺が言うと彼女はまた、ふにゃっと笑う。
 俺って、どうしてこうなんだろうな。
 これじゃ、まるで青学を飛び出た時のままの俺だ。
 は、当時俺がひどく兄貴を意識していたことを知っている。
 そして、俺は青学との試合の時、試合会場にが来ていたことも知っていた。
 試合が終わったら。
 左利きのあいつとの試合に勝ったら、何気なく笑ってに『よぉ、来てたのかよ、ひさしぶり』って声をかけようと思ってた。
 それができなかったまま今になって、今の俺は、小5の頃よりもマトモにこいつと話せないなんて。
 転校する前に話せなかったこと、試合会場で見かけた時に話せなかったこと、何から取り戻せばいいんだろうか、なんて思っているとが立ちあがった。
 ハッとして顔を上げると、そこにはの母親が立っていたので、俺もあわてて立ちあがる。
「裕太くん帰ってきてたのね、大きくなったわねー。寮生活は慣れた?」
 ええ、ああ、ハイ、なんてもごもごと答える。
「裕太、来月はまた帰ってくるの? 2月は裕太もお兄さんも誕生日でしょう?」
 が聞くけれど、俺は、わかんね、と言うだけ。
「……あの、寮のさ、電話番号って、転校する時に教えてくれたの、あれって変わってないよね?」
「変わってねーよ」
 電話してきたことねーじゃん、なんて思いながら答えた。
「そっか、あの、じゃあまたね!」
 母親に促されて、手を振りながらは駐車場へ向かった。
 しばらく二人の後姿を眺めてから、俺はまたベンチに腰を下ろす。
 溜息をついて、額を押さえた。
 ほんの十数分前、俺はもうすぐ3年生になるんだ、なんて胸を張った気持ちだったのに、その誇らしげな気持ちがすっかりしぼんでしまった。
 俺って、こんなにダメな男だったのか?
 好きだと思っている女と、ちゃんとした話もできないくらいに。


 俺は多分、塾で初めて言葉をかわした時から、が好きだったと思う。
 けど、ガキだった俺は、が好きだなんて心の中で言葉にすることすらできなかった。
 だって、俺が家で過ごしていた頃、周りの奴らは男も女もたいがい兄貴のことが好きだったから。
 いくら俺がと仲良くなっても、いずれは兄貴のことが好きになるんじゃないかってこわくなるくらいに、俺はガキだったんだ。
 最後に青学の制服を着てと会った時、彼女は俺にルドルフの寮の電話番号を尋ねて、そしてこう言ったことを俺は忘れられない。
『声が聞きたくなったら、電話してもいい?』
 当時も俺は、『ああ』なんてぶっきらぼうに答えただけ。
 けど、から寮の電話にかかってくることはなくて、俺もの携帯を鳴らすことはなくて。
 今は当時と違って、俺も携帯電話を持っているのに、さっきどうしてその番号を伝えることができなかったんだろうな。

 そんなもやもやとした気持ちのまま、正月休みが終わると俺は寮に戻って、母親が持たせてくれた手作りのお菓子を寮のみんなで食べて(当然、観月さんの紅茶を飲みながら)、そんな年明けを過ごしていた。
 2月はが言っていたように、俺と兄貴の誕生日だ。俺は18日で、兄貴は29日。2月29日生まれなんて、ちょっと変わり者の兄貴にぴったりだろ。
 にはああ言っていたけれど、2月半ばの週末には俺は家に帰ることになっていた。
 もちろん、兄弟の誕生日の食事会のために。
 母親と姉さんが腕によりをかけてくれるそのパーティを、俺は毎年楽しみにしている。
 そして、今日2月14日の夜、ルドルフの寮では有志による、これまた恒例の男だらけのバレンタインパーティが開催されることになっていた。
 ケーキを買ってきて、観月さんがテーブルセッティングをして紅茶を淹れての、本格的なティーパーティーだ。

「裕太くん、さっさとケーキを買って来なさい」

 みんなから集めた金を預かり、ケーキ屋に俺が走らされるわけだが、誕生日が近い俺に好きなケーキを選んで来いという観月さんの気遣いだっていうことは、去年から気づいてる。
 観月さん指定のケーキ屋でたっぷり菓子を買いこんで寮に戻ると、『ヤローばっかでケーキかよ』と文句を言っていた先輩たちもなんだかんだとウキウキした様子でケーキの箱を抱えた俺を迎えた。
 おせーぞ、チョコフロマージュはあったんだろうな、といつのまにやら洋菓子に詳しくなった先輩たちが口ぐちに言う。
 それぞれ、きっと昼間に学校で女子からチョコを貰ったりもしてるんだろうが、そこはあえて互いに触れないのだ。
「おっ、裕太、裕太! さっき寮に電話があっただーね」
 柳沢さんが俺の顔を見ると、妙に浮かれた調子で声を上げた。まあ、この人はいつも浮かれてるけど。
「あー、家からっすか?」
 と言いながらも、いや、家や兄貴からだったら最近は携帯にかけてくるよなーなんて頭をよぎる。
 柳沢さんは待ってました、とばかりに楽しげに唇をとがらせた。
「いやいや、女から、オ・ン・ナ!」
 柳沢さんがわざとらしく大声で言うと、ケーキに浮かれてた周囲の空気ががらりと変わる。
「裕太、おいバレンタインデートかよ!」
「いつの間にカノジョ作ってんだ、この裏切り者!」
 口々に楽しげにはやし立てる寮生たち。
 俺はあわてながらも、柳沢さんに聞き返す。
「え、あの、誰からですかね。姉貴かも……」
 そう言いながらも、思い浮かぶのは正月に会ったの顔。
 柳沢さんは少し困ったようにさらに唇をとがらせた。
「それが、名前を言わなかっただーね。すっげー緊張した感じで、不二裕太くんはいますかって言ってたから、姉さんじゃないのは確かだーね。今、出かけてていないって言って、名前を聞こうとしたら、『いいです、すいませんでした』ってはずかしそうに言って切れちゃっただーね」
 告白か、告白か? クラスの女? チョコもらってこいよ!
 など、周囲の盛り上がりがヒートアップする中、
「みなさん!」
 とおなじみの声。
「紅茶がはいりましたよ、冷める前にいらっしゃい!」
 観月さんが厳しい顔で立っている。
 観月さんはテニスのことの次に、紅茶に関して厳しいのだ。
 皆はそれを知っているので、あわててセッティングがされている食堂に向かった。
 残された俺に、観月さんは、フンと鼻をならして「ケーキは取っておきますから」とだけ言って食堂に消えた。
 
 手を差し伸べてくれるのも、背中を押してくれるのも、結局、なんだかんだ言って観月さんなんだよなあ、なんて思いながら俺は寮の玄関から走り出た。
 去年買ったばかりの携帯にメモリーしてあるの番号を鳴らすけれど、ただいま電話に出られません、の応答メッセージ。
 自転車にまたがってペダルをこぐと、俺の心臓はドンドンと活火山のように体中に存在を誇示する。
 2月の風は冷たいというのに、どうして顔はこんなに熱い。
 電話をくれたのがなのかどうか、わからない。
 けれど、それはどうでもいい。
 今、俺はどうしてもに会いたいと思った。
 電話じゃだめなんだ。
 寮の玄関に手袋を忘れたことに気づくけど、取りに戻る気になんかならない。
 俺はの家まで自転車を飛ばした。
 会って何を話すか何もわからないけれど、この前の正月休みの時より、もっとをちゃんとまっすぐにを見て話したい。
 この1年と少しの時間を取り戻したい。
 日が暮れかけた頃、周りの町並みが見慣れたものになってくる。
 住宅街に入り、自転車のスピードを落として走っていると、一瞬声が聞こえた。
 俺の名を呼ばれた気がする。
 キキィとブレーキをかけると、背後からパタパタと走り寄る足音。
「裕太! 帰ってきてたの!? ごめん、寮に電話しちゃった!」
 が慌てた顔で駆け寄ってきた。
「平日だし、帰ってきてるなんて思わなかった、びっくりしたよ!」
 正真正銘びっくりした顔で彼女は言った。
 俺は自転車から降りて、自転車を街路樹にたてかけた。
 冬の夕暮れ、木々の影はすでにアスファルトに形を成さない。
「……いや、帰ってたわけじゃなくて、今、来たんだ」
 立って並ぶと、やっぱりは昔一緒に塾に通っていた頃よりはるかに小さい。
 っていうか、俺の背が伸びたんだな。
 彼女は、へえ、と不思議そうに俺を見上げてから、次はうつむいた。
「あの、ごめんね。私、今日、裕太がいるかと思って寮に電話しちゃって。会いに行こうと思って、バスで近くまで行ってたんだけど、出かけてるって聞いたから……」
 俺は心臓がぎゅっとなった。
 だめだ、これ以上、に言わせちゃだめだ。
「……私、裕太が転校してから、何度か寮に電話しようと思ってたのに、なんだか寮だと緊張しちゃってなかなか電話できなくて、初めて電話したんだ。番号聞いてたのに、ごめんね」
「あのさ、!」
 俺は、話し続ける彼女をさえぎるように言った。
 正月休みの時とちがって、まっすぐに彼女を見る。
 一度うつむいた彼女は大きな目で俺を見上げていた。
「ごめん、とか言うな。俺の方こそごめん。俺はずっとが好きで、に会いたいって思ってたのに、俺も電話できなかった。テニスの試合の時にが来てたの見てたのに、声をかけられなかったよ」
 俺の眉間にはぎゅっとしわが寄っていることに気付いて、なんとか笑おうとするのに、俺は緊張のあまり笑えない。怖い顔になってやしないか、心配だった。
より先に電話をして、会いに来ればよかったのに、ごめん」
 ぽかんと口を開けて俺を見上げるは、俺のすぐ近くにいて、それでも物足りなくて、俺は彼女をぎゅっと抱きしめた。
 暖かくて、やっぱりいい匂いがする。
 思わずこんなことをしてしまったけれど、これでいいのかわからなくて、俺の心臓がバクバクはぜそうになっていることは確実にに伝わっているだろうと思いながらそのままでいると、は俺の上着の袖をぎゅっとつかんた。
「私も、ずっと、裕太に好きって言いたかったんだよね」
 彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、消え入るような声で言った。
 会いたい気持ち、好きっていう気持ちは、これ以上どうしたらいいんだろうな。
 俺はの肩をつかんで一瞬身体を離すと、その泣きそうな顔を見つめてから、唇を合わせた。がびくんと身体を震わせると同時に、俺もあわてて身体を離して思わず口走る。
「甘っ……!」
 俺の、あせった真赤な顔は夕闇に紛れて見えないといいと思うけれど、がひどく顔を赤くしてうるんだ眼をしているのがよく見えたから、俺の表情もバレバレなんだろう。
「ごめん! 私、今年も裕太にチョコ渡せなかったなーって思って、帰りのバスで食べちゃったんだ」
 は俺の腕の中であわててその白い手で口元を覆った。
「えっ、俺のためのチョコ、食っちゃったのかよ!」
「……うん、一応、昨日作ったの、持ってってたんだけど」
「くっそ、食いたかったのに……!」
 くすっと笑ってほころんだ彼女の唇を、もう一度強引に俺の唇で覆った。
 甘い甘いチョコの味。
 でも、きっとそれがチョコの甘さだけじゃないのは、俺も彼女も知っている。

2013.2.8「ひとつだけ」
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