● 君はもののふ、僕は姫君(後編)  ●

 翌朝も朝練はなくて、僕はいつもよりゆっくりとした朝を過ごしつつ、姉の車で送ってもらい余裕の登校をした。
 教室で自分の席につくと、ふと思い出した事があった。
 そういえば、ラケットのグリップテープを巻きなおそうと思っていたのだった。
 昨日、部室へ行ったらやろうと思っていたのをすっかり忘れていた。
 僕はテニスバッグからラケットと新品のテープを取り出し、作業にかかる。
 ラケットを押さえ、グリップエンドの方から丁寧にテープを巻き始める。
 作業をしていると、ふと僕の席の近くで誰かが足を止める気配。
 手を止めて顔を上げると、そこにはさんがいた。
「おはよう」
 僕は笑顔で彼女を見た。
「おはよう、昨日はタンタン麺、ありがとう」
 彼女はそういうと、僕の作業を興味深そうに見た。
「グリップテープをね、巻いてるんだ」
「……へえ、ちゃんと自分で巻きなおすものなんだ……」
「うん、なんといっても直接手に触れて力を入れるところだからね、グリップテープは重要だよ」
 僕が説明しながら作業を再開すると、さんは感心したように見ていた。彼女は寡黙だけれど、僕の話をとてもよく聞いてくれる。
 僕は彼女の視線をここちよく感じながら、テープを巻き終えた。
「……ちょっとテープをカットするからさ、ここ、押さえておいてもらえる?」
 僕が指差して言うと、彼女はグリップエンドのところを右手で支えてくれた。
 テープの終わりをカットし、仕上げにグリップバンドを巻く。
 その作業の時も。
 さんは、僕の手に触れぬよう、注意深く補助をしているのだった。
 僕はクスッと笑って、ありがとう、と彼女に礼を言う。すると彼女は満足そうに笑って、その仕上がったラケットを見た。
 うん、彼女には、下手な仕掛けや小細工は通用しないね。
 やっぱり正攻法で行かないと。
 僕はラケットをバッグに仕舞った。


 授業が終わると、英二がボリボリと豆菓子を食べながら僕の席にやってくる。
「そうそう、昨日、コート整備だって不二に言い忘れちゃってゴメンゴメン」
 少々申し訳なさそうに言ってきた。
「ああ、別にかまわないよ。すぐにわかったし」
「そっか、ヨカッタ」
 彼はほっとしたように笑う。
「で、今日もまだ作業があるみたいなんだ。安い業者に頼んでるのかなぁ、段取り悪いよねえ。だから、今日は皆でストリートテニスのコートでも行かないかって大石と昼休みに話してたんだけど、不二もどう?」
 袋入りの豆菓子を旨そうに頬張りながら言う英二を見て、僕は少し考えた。
「……そうだな、今日はやめとくよ」
「なんだー、不二は行かないのかあ。つまんないなぁ。あー、もしかしてデート?」
 ヒヒヒと英二はおどけてみせる。
「うん、そうしようかなって」
 僕が言うと、また英二はからかうように笑う。
「どうなの? あの戦国武将みたいな美人さんとは、上手くいってんの?」
 僕は鞄を持つと立ち上がり、英二の手から豆菓子の袋を取り上げた。
「もちろん」
 不二も変わってるからなー、と英二はおかしそうに笑った。


 僕はその足で、さんに声をかけて一緒に教室を出た。
「今日は麻雀やらないんだ?」
「やだな、私達、毎日放課後に麻雀やってるわけじゃないんだよ」
 僕がからかって言うと、さんは抗議するように返した。
「……どこ行くの?」
 僕が珍しくせかすように学校を出るものだから、彼女は少々驚いているみたいだ。
「そこのバスでさ、五つ先のところの公園まで行こう。面白いものを見せてあげるよ」
 彼女は不思議そうな顔で僕を見ているけれど、黙ってうなずいた。
 僕の上着のポケットでは、英二から奪った袋入りの豆菓子がカサカサと音を立てていた。
 

 僕らがバスを降りたところは郊外で、バス停から少し歩くとちょっとした山の近くにある自然公園が広がっていた。
 中に入ってしばらく歩いてから、僕は足を止め、空を見上げた。
 さんは黙ったまま僕について歩いてきて、これまた黙ったまま不思議そうに僕に倣って空を見上げた。
「……ほらさん、来たよ」
 僕はポケットに左手をつっこむと豆菓子をつかんで、右手でその一粒をつまみ空に放り投げた。
「あっ……!」
 彼女の驚く声とともに、空から舞い降りてきたそれは僕の投げた豆菓子を見事にキャッチして去ってゆくのだった。
 トンビだ。
 僕が手に持っているものを確認した彼らは、どこからともなく集まってきて、僕らの上空で用心深くぐるぐると円を描いている。
さんもやってみなよ」
 僕が差し出すと、彼女はすぐさま一粒をつまんで、思い切り放り投げた。
 しかし、それはトンビにキャッチされる事なく放物線を描いて地面に落下する。
 彼女はあからさまに落胆した顔をするのだが、それでも戦闘機のように鋭く降下してきた一羽が、その落ちた豆菓子を一発で掴み取り、タッチアンドゴーでまた空へと飛んでいった。
 さんはそれを目を丸くして見つめる。
「……すごいね!」
「トンビって、すごく目が良いんだよ。何百メートルも先の小さな豆粒でも見えるんだって」
 僕は上空で円を描いているトンビたちを見上げた。
「だから今、僕の手のひらの豆菓子を、彼らはじっと見つめてるんだよ、きっと。あ、でも大丈夫。トンビは鳩なんかとちがって、用心深いから、手の上のものを直接取りにきたりはしないから」
 さんは僕の話を感心したように聞くと、再度手のひらの豆菓子を取って、放り投げた。
 心を決めたと見える一羽が、キューンと降下し、見事に足でそれをキャッチした。
「……あれ、足で取ってる? 巣に持って帰るの?」
「言ったろ? 用心深いから、まず足でキャッチして安全な場所に行ってから食べるんだ。もしくは、安全な空域に行ってから、足をくちばしのところまで持ち上げて飛びながら食べるみたい」
「へえ。不二くん、すごいな。何でも知ってる」
「あはは、大げさだな。前に試合の帰りにここ、通ってさ。皆で面白がってこうやってお菓子とかやってみたんだ。その時、乾に教えてもらったんだよ」
 彼女は夢中で僕の手のひらの豆菓子を手に取っては放り投げ、トンビとのコミュニケーションを楽しんだ。まるで、小さな子供みたいに。
 僕は彼女のために、豆菓子を載せた手のひらを掲げながら、じっとそれを見ている。
 無口だけれど真摯な彼女の事を、初めて見た時から、僕は気になっていた。
 そして、彼女の目が僕を見ていると気づいた時、あっというまに恋に落ちた。
 だって、いつも硬派できりりとしている寡黙な戦国武将が、姫君の前だとてんで照れてしまうんだよ、心奪われない方がおかしい。
 そして、今、戦国武将はまるで子供みたいに、トンビにえさをやるのに夢中だ。
 すっかりトンビたちとの息も合うようになった彼女は、豆菓子を放るたび、彼らに一発でキャッチさせる事に成功している。嬉しそうに次々と投げた。そして、トンビは美しい軌跡を描いて次々と彼女から豆菓子を受け取っては、急上昇してゆく。
 トンビたちは彼女に投げてくれと急かすように、ピィという声を空に響かせながらぐるぐると回り続ける。
 夕方、温まった大地のやわらかな上昇風は、彼らに羽ばたかせる事なく穏やかに上空に留まらせるのだった。
 さんはハッとしたように僕を見る。
 まるで、僕の存在をすっかり忘れていたみたいに。いや、これは半ば当たっていると思うけど。
「あ……ごめん、私ばかりやってしまって。不二くんも投げて」
 これまた少々的外れな気の遣い方がおかしくて、僕はクスクス笑う。
「うん、僕もやってるから、大丈夫だよ」
 僕も豆菓子を投げた。すっかりキャッチが上手くなったトンビは、僕の動きを感知してすかさず降下してくる。
 彼女はまた僕の手のひらから豆菓子を取った。
「ああ、もうこれで最後だよ」
 僕は何もなくなった手のひらを、彼女の前に掲げたまま言った。
「あっ、そうなんだ……」
 さんは右手の指に豆菓子をつまんだまま、またハッとしたように言う。
「僕も食べたかったんだけどね」
「ご、ごめん」
 最後の一粒を、彼女は僕の手のひらに戻そうとするけれど、僕はさっと手のひらを引いた。
 戸惑ったような彼女の行き場を失った指先に、僕はトンビのようにすばやく、唇を寄せた。そして、彼女の指先に挟まれた豆菓子をそっと唇で奪い取る。
 かすかに唇に彼女の指の感触を感じながら、ボリボリとその豆菓子を咀嚼した。
 よく小説やなんかで「彼女は顔を赤らめた」なんて表現があるけれど、僕は本当に人が顔を赤くするところなんてまず見た事がない。
 でも、今、目の前にいる彼女は、見事に顔が赤くなってゆく。
 足先から頭のてっぺんに血が上ってゆく音が聞こえるようだった。
 豆菓子を飲み込むと、僕はさっきまで彼女に豆菓子を掲げていたように、再び左の手のひらを彼女に差し出した。
 僕は見開いた目で、じっと彼女を見つめる。

 姫君、どうか僕に、その手を

 そう、強く念じながら。
 空ではまた、ピィとトンビが鳴いた。
 僕は、この瞬間を一生忘れない。
 さんは顔を赤くしたまま、その長い睫毛を伏せうっすらと唇を開いて恥ずかしそうな顔で、ゆっくりと、それまで豆菓子をつまんでいた手を僕の手に乗せた。
 そのやわらかい手は想像していたより暖かくて、そしてその細くてしなやかな指がするりと僕の指に絡んでくる感覚は、僕の身体を電気が通ったかのように痺れさせた。
 僕はたまらずその指をきゅっと絡め取ると、大きく吐息をもらす。
 僕の目の前でだけ可憐な姫君の姿を見せてくれた彼女に、感謝の拍手を贈りたい。
 そして僕は、彼女の手を取ったまま、ゆっくり公園を歩いた。
 もう豆菓子はないと判断したトンビたちは、少しずつあちらこちらへと散ってゆく。
 僕らの手と手の間には、豆菓子の塩で若干ざらざらとした感触があるのだけれど、まあご愛嬌。
 それを払い落とす間さえ惜しくて、僕は決してその手を離すことなく歩くのだった。


(了)

2007.4.28

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