● Hermes  ●

 俺はその日、朝練を終えて教室へ向かっていた。
 すると、グラウンドから部室へあわてて走るがいた。
 俺は思わず彼女を呼び止める。
「あ、おはよう、忍足くん」
 彼女が急いでいるのを知りながらも、俺は呼び止めずにいられなかったのだ。
「おはようさん! 実はな、うちのテニス部、地元枠でやけど全国大会出られるようになってん」
 俺は挨拶もそこそこに彼女にそう伝えた。
 彼女の顔はぱあっと明るくなった。
「ほんま? よかったやん。嬉しいなあ。すごく、楽しみやんね」
「ああ、楽しみや。全国の奴と戦えるんやからな」
 俺が言うと、は顔を空にむけ目を閉じた。
 まるで自分が戦うかのような、わくわくした表情。
「なんて言ったらいいんやろ。ほんま……嬉しいなあ……」
 は本当に嬉しそうに笑って、俺を見上げていた。
「あ、悪い、自分、もう着替えなアカンやろ」
 はっと気づいて俺が言うと、もあっと声を上げ、腕時計を見た。
「ほんまやわ! じゃあまた、教室でな」
 彼女は言って手を振ると、部室に走っていった。
 本当は関東大会に優勝して、そして彼女に報告したかった全国大会への出場。
 若干不本意な出場決定ではあったが、俺が次の戦いに行ける事を、彼女にはいち早く伝えたかったのだ。

 俺が教室にいると、は始業ギリギリにあわてて教室に入ってきた。
 俺は自分のこれからの試合やトレーニングの事やなんかを考えながら、遥か斜め前の席にいる彼女を、なんとはなしに見つめていた。がバッグを机の横に置くために体をひねる瞬間、俺と目が合い、そして彼女は朝の延長のように、俺に嬉しそうに微笑んだ。
 それはまるで朝っぱらからのご褒美のようで、俺はかなりいい気分で一限目の授業を受ける事ができた。
 そして今日の休み時間には、俺の周りにはいつも以上にクラスの女子が集まってくる。
「忍足くん、全国大会出場おめでとう! 頑張ってねー、絶対応援に行くから!」
 彼女達は口々に言って楽しそうに話して行く。
 出場決定が告知されたのは昨日の夕方。放課後だったにも関らず、まだ学校に残っていた多くの生徒が祝ってくれた。
 それは俺も悪い気分ではなくて、『ああ、試合で賑やかなんは跡部も喜ぶで』なんて言って彼女達を喜ばせておいた。
 俺はいつものクセで、ふと俺よりもずっと前の席にいるを見た。
 そしてその時の光景は、俺の視線を釘付けにした。
 の机に、男が来て、何か話している。
 もちろんそれだけだったら、クラス委員の業務の事なんかで時々ある事で、珍しくはない。
 けれど、いつも俺以外の男子生徒とは本当に二言三言くらいしか話をしないが、今はその男と笑顔でやけに楽しそうに話していたのだ。
 そいつは、確か男子陸上部の奴だった。

 午後は体育の授業があって、男子はサッカーだった。
 俺は出番を終えて、水道に顔を洗いに行った。
 眼鏡を置いて冷たい水をかぶり、タオルで顔を拭いてまた眼鏡をかける。
 すると隣に、同じように顔を洗っている奴がいた。
 と話していた、陸上部の奴だ。
「……やあ、さっきのシュート、すごかったね」
 彼は顔を上げ、タオルでごしごしと擦ってから笑って言った。
 水のしずくだとか、木々の間からさしこんでくる太陽の光とか、そういうものが非常によく似合うサワヤカくんだった。
「別に、たいしたことあれへん」
 俺が言うと、奴はサワヤカに笑った。
「あっ、テニス部、全国大会なんだよね、おめでとう」
「どうも」
 俺はなんとも抑揚のない声で言った。
 そう、こいつは非常にサワヤカな奴で、俺や跡部みたいな毒を吐くようなタイプじゃない。そしてこの芸風で、これまた女子に人気のある男だった。確か男子陸上部の部長だったか。
「やっぱりウチの学校は、運動部、レベル高いよね。テニス部も全国出場だし、そうそう、さんも一昨日の記録会で、3000mの都の女子中学生記録を出したんだよ」
 俺は胸がザワリとした。
 の記録会の話なんか初耳だった。
「へえ、そうなんや。やりよるなあ」
 俺はなんでもないように答えた。
「ああそうだ、聞いてみようと思ってたんだけど」
 サワヤカくんは照れくさそうに言った。
「忍足くんはさんとつきあってるの? いつも仲良いからさ」
「……いや、ただの友達や」
 俺は不本意ながら言った。
「ああそうなんだ。男陸の連中がさ、気にしてるんだよね」
「……同じ部活やねんから、自分らで直接聞いたらええやんか」
「同じって言っても、男子と女子は練習も別だし、さんは人見知りであんまりしゃべらないからなあ。僕も今日、記録会の件おめでとうって、ようやく話したくらいだもの」
「あいつ、モテるんか?」
「うん、そうだねえ。ちょっと前までは、美人だけど愛想ないからって、敬遠されてたけど、最近少し皆とも普通にしゃべるようになって、結構かわいいところあるなあって言ってる奴がいるね」
「自分もその一人なん?」
「僕? 僕は別に、ねえ……。でもさんは練習熱心で、良い選手だと思ってるよ」
 サワヤカくんは照れくさそうに笑って言った。
 とことんサワヤカな奴だった。
 一方俺は、今朝、一限目が始まる前まで最高に幸せだった気分が、すっかりどこかへ行ってしまった。
 俺はサワヤカくんと別れると、そのままグラウンドにも戻らず、校舎の横の木陰でごろりと横になった。
 なんだろうな。
 俺は、全国大会出場決定した事を、いちはやくに直接伝えたかった。
 けれどは、記録を出した事を俺に話してはくれないのか。
 彼女と距離を縮めるために、俺は彼女の事が知りたいし、彼女に俺の事を知ってもらいたい。
 ずっとそう思ってきた。
 さすがに俺は、空回りしているのだろうか。
 少し胸が痛かった。
 そして、なぜかあのサワヤカくんの顔が思い浮かんだ。
 ああいう奴が、の周りにいたのか。
 陸上の事、の事、俺、知らない事ばっかりやん。
 つぶやいて、俺は目を閉じた。

 授業が終わると、俺はと顔もあわせず、そそくさと部活に行った。
 なんだかふてくされてしまっているような、モヤモヤした自分が嫌だったから。
 基礎トレを一通りすませ、コートで今日は跡部と打ち合った。
 跡部と練習をする時は、他の誰と組む時よりも集中しなければならない。
 奴はちょっとした気持ちの乱れをも突いてくるから。
 俺は、コートの周りの見学者達の声も、他のコートのボールの音も聞こえない程に集中して球を打った。
 ふと、が走っている時の目を思い出した。
 自分がどこまで行けるのか? どこまで行くべきなのか? と、ギリギリまでを一人で考えて自分と戦いながら走ってる、あの目。
 俺は跡部の鋭いスマッシュを、羆落としで返した。
「……今日は結構サエてるじゃねえか、忍足よ?」
 跡部はボールを拾うと、俺に向かってにやりと笑った。
 俺はネットに向かって歩く。
「……なあ、跡部。俺、全国大会には、シングルスで出たいんやけど」
「ほう、どうした?」
 俺の言葉を聞くと、跡部は眉をクイッと上げた。
「ダブルスが嫌になったとか、岳人とのペアに不満があるってわけとちゃう。……『上を目指す』って事を、ちょと一人で考えてみたくなったんや」
 俺は跡部をまっすぐに見た。
 跡部は左手を眉間に当て、じっと俺を見つめた。
「……覚えておくぜ」
 奴はそう言うと、コートを後にした。
 あっというまに見学者の女の子達に囲まれる。
 俺はそんな跡部を目で追うと、コートの外に見慣れた人影がいるのに気づいた。
 思わず走った。
 何か言いたげに近寄ってくる女の子達に、ごめんな、ちょと通してな、と言いながら。
 俺が走る先には、が立っていた。
「珍しいやん、テニス部の練習見に来るなんて」
 俺はラケットを持ったまま、なるべく平静な顔でに言った。
 彼女は制服でバッグを持って、すでに部活を終えた後のようだった。
「うん、今日は早うに終わってん」
 はいつもどおりの、穏やかな笑顔で俺を見た。
「忍足くんに報告したい事があってな」
「うん?」
 俺はを、ベンチに促した。
「……一昨日の日曜にな、記録会があってん。うち、3000mで出てな、女子優勝してんけど、目標にしてたタイムが出せへんかって……」
 は自分の手元をみつめながら言った。
「それで、昨日はめっさ悔しぃて。でも一日考えたら、そんなんでふてくされるのもアホらしいし、目標ってやっぱり一つ一つ近づいて行くもんやろなって思ってたら、今日になって、やっぱり優勝して嬉しいなあって気持ちになって。せやから、忍足くんにも報告したいと思ったんよ」
 照れくさそうに一言一言ゆっくり話すを、じっと見た。
 俺はうんうんと頷きながら、いつしか口元がほころんでいた。
「そか。次は絶対に目指したタイム、出したいよなぁ」
「うん。今度は……終わったらすぐに報告したなるようなレースしたいわ」
 は顔を上げて、言った。強い目をしていた。
「……俺もな、がいつも一人で走ってるの見て、久しぶりにシングルスで試合したなってん。今度の全国には、シングルスで出たいと思ってる。に、『勝ったで』って言えるよう、気ぃ入れるわ」
 俺がそう言うとは、うん、と力強くうなずいた。
 そして俺は自分の熱を冷ますように、ふうっと息を吐いた。
 ほんの一瞬でも、「なんで俺に記録会の事、言うてくれへんかってん」なんて恨み言を考えてしまった自分が恥ずかしかった。
 走っているを好きになったはずなやのに、俺、こいつの事ちいとも分かってへんかった。
「そういえば、うち、忍足くんがテニスしてるとこ、今日初めて見たわ」
「おう、どやった?」
 俺が尋ねると、は深呼吸をして一度目を閉じ、ゆっくりとまた瞼を開いた。
「テニスコートは……グラウンドのトラックよりずっと狭いんやけど、なんだかものすごく広いように感じて、そしてコート全体が忍足くんそのものみたいやった。そこでボールを打つのを見てたら、ああ、これが忍足くんなんやなあって思って……うちテニスの事ようわからんはずやのに、どうしてかものすごく分かるような気がして……、うちはやっぱり忍足くんが好きやなあって思った」
 注意深く彼女の言葉を聞いていた俺の頭の中では、彼女の言葉が何度も何度も繰り返し再生された。
 何だって?今、何て言った?
 はふうっともう一度大きく息を吐いた。
「あ、ちょと、ごめん」
 そしてはそう言うと、急に立ち上がって走り出した。
「なあ、!」
 俺はあわてて彼女の置きっぱなしのバッグを持って、後を追った。
 はまったく素晴らしいフォームで走り続ける。
 俺も足は速い方だが、何しろバッグを持ったままなので思うように走れず、になかなか追いつかなかった。
 映画なんかでよくある、走って逃げようとする女を男が追うシーンでは、たいがい数カットで男が追いつくものだ。そしてその後はお決まりのラブシーンで。
 しかし、俺との距離はまったく縮まらないまま。さすが、都の記録を持つ女だ。
 は制服のスカートをたなびかせ、どんどん走った。
 まるで、そのローファーに翼が生えているかのようだ。
 いつか跡部が言っていた話が思い浮かぶ。
 ギリシャ神話には翼の生えたサンダルを履いた、えらく足の速い男神ヘルメスってのがいて、ブランドの『エルメス』はそこから取ったんだと。いかにも女受けしそうな話を知ってやるわ、と思って聞いたものだった。
 俺はそんな事を考えながら、とにかくの後を追いかけた。
 なんとしてもヘルメスをとっつかまえて、あの言葉を確認しなければならない。
 しかし一体はどこへ行くんだろう。
 はテニスコートを離れて、グラウンドのトラックを走る。
 制服のままトラックを走るを、大きなバッグを持ってテニスウェアで必死で追いかける俺。
 周りからはどう映ってるだろうか。
 しかし俺はそんな事に構う余裕はなかった。
 走って走って、グラウンドを一周回り、彼女はなんとそのままテニスコートに戻った。
 ベンチに着いて呼吸を整えているに、俺は数秒遅れてゴールした。
「……ごめん、忍足くんまで走ってたん?」
 は振り返って俺を見ると、そう言った。
「『走ってたん?』ちゃうやろ。急に走り出しよって……びっくりするやんか」
「あ、ごめん」
 はまた言った。
「……一周走ったら、ちゃんと戻るつもりやったんよ。ちょと走って、落ち着こう思て」
 恥ずかしそうに言ってうつむいて、そして深呼吸をした。
「……忍足くんが優しいんは、うちだけにちゃうって分かってるけど、やっぱり忍足くんの優しいところは好きやし、うちが走ってるところを時々見てくれるんも嬉しいし。今日忍足くんがテニスをしてるところを見たら、なんだかうちは忍足くんと一緒に走ってるような気になってもてん。改めてすごく好きやなあって思って、つい『好きやなあ』って言うてしもたんよ。びっくりさせてしもて、ごめんね」
 顔を上げて、小さな声でゆっくりと、少し泣きそうな顔で笑いながら彼女は言った。
 その一言一言は、まるで夏に激しい練習をした後、カラカラの咽喉に流し込んだスポーツドリンクのように、俺の体の細胞のひとつひとつに染みわたった。
 そして同時に、どうしてこう俺は今まで自分の事しか考えてなかったのだろうかと悔しくなった。
 せっかく仲良くなったに、好きだと言って、もしも友達でさえいられなくなったらどうしよう。
 そんな、俺が感じていた不安を、きっとも感じていたに違いない。
 どうして俺は大切なに不安な思いなど、させてしまったんだろう。
 この、俺よりずっと華奢な女の子に。
「……ごめんな、
 俺が言うと、は俺の手からバッグを取り上げた。
「ええのよ、気にせんといてね」
 そう言って、笑顔を見せると俺に背を向けた。
 俺はハッとして思わず飛び上がる。
「あーっ! ちゃうちゃうちゃうちゃうちゃう!!」
 あわてて叫んで、の腕を掴んだ。
 彼女は驚いた顔で俺を見上げた。
「ちゃうねん! 多分、俺の方がずっと先に、を好っきゃと思っとった。せやのに、ちゃんと言えんとに不安な思いをさせてしもて、ごめん。そう言いたかったんや」
 はまだ驚いた顔で俺を見たままだった。
「俺、の事、ものごっつい好きやねんで」
 俺が一言一言はっきり言うと、はそのままうつむいてしまった。
 俺はベンチに置いたラケットを持った。
「着替えてくるから、部室の前で待っとき。一緒に帰ろうな」
 は黙って頷いた。
 部室に向かう俺の隣で黙って歩く彼女に、俺はこう言った。
「……とりあえず、手ぇつなごや」
 小さく笑って、うん、という彼女を見て、俺はラケットを持っていない方の手で彼女のそれをそっと握った。
 柔らかくて、思ったよりずっと小さい手。
 全世界に、これ、自慢したくてたまらない。
 俺はついに、翼付きローファーを履いたヘルメスをつかまえたんやで。
 部室までの短い距離を、俺たちはこれ以上なく、ゆっくりと歩いていった。



3.17.2007

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