● 春にして君を離れ  ●

 幸村精市って子は、鳥みたいなの。
 ああ、その辺の野山を飛んでる可愛らしい小鳥のことじゃないよ。
 孤高でしなやかで、そして容赦のない猛禽類。
 ほら、似たような鳥でもさ、トンビなんかだったらスナック菓子食べたりするじゃん、その辺で。でもテレビのドキュメンタリーでしか観たことないけど、鷹とか鷲とかそういうのって、山深いところで果敢に小動物だけを狙い済ましててすごいよね。もっと、その辺のもの何でも食べたらいいのにって思うけど、まあそういうのはどうでもいいや。
 彼はしなやかでたくましくて軽やかできれいな、猛禽類みたいな男の子だっていうこと。

 3月のその日、幸村から電話がかかってきた。
 幸村は、家が近所だし同じクラスだったから、まあ何かとやりとりはする。
 けど、今は中等部の卒業式も終えた春休みというのに、どうしたんだろう。

に返したいものがあってね、家に来てもらえるかい?』

 私、何か幸村に貸しっぱなしのものとかあったっけ? あったようななかったような。けど、卒業したとはいえ、どうせ高等部でまた同じ学校に通うんだから、4月になってからでいいのに。っていうか、返すものがあるっていうならそっちが出向いてきなさいよ。
 と、その日は少し肌寒くて風も強かったし外出も面倒だったから、内心でそう思っていたところ。

『うちの母親が昨日、桜のシフォンケーキを作って、なかなかしっとりしてていい出来だから、食べさせてやろうかと思って』
 
 最初からそう言えよ!
 私は、風の強い中、自転車をかっ飛ばして幸村の家まで行った。
 ハァハァと呼吸を荒げてインターホンを鳴らすと、幸村がゆったりとしたカットソーにカーディガンを羽織って、穏やかな笑顔で出てきた。

、髪がボサボサだよ」
「だって、風が強いんだから! 来いって言ったのそっちでしょ!」
 私が言うと、彼は玄関から一歩外に出て外の空気を吸い込んだ。
「春一番はもう吹いたのに、今日も風が強いね。でも、春の匂いだ」
 長い睫毛を伏せて目を閉じながら言う。
 そんな気取った台詞はどうでもいいから、ケーキケーキ!!

 幸村の家のリビングに通され、彼はキッチンでカチャカチャと手馴れた風にケーキの用意をしてくれる。
「お茶はどうする、ハーブティーにするかい? それとも紅茶?」
「ええと、シフォンケーキに生クリームのせてくれるなら、紅茶かな」
 私が言うと、彼はクスッと笑って、じゃあ紅茶にしよう、と言った。
 私がなぜこう前のめりかというと、幸村ん家のお母さんが作るお菓子ってほんと美味しいんだ。特に、シフォンケーキが絶品。ぜんぜんパサパサしてなくて、ふっっくらしてしっとりしてて、どれだけでも食べれそうなの。
 去年、幸村が病気で学校を休んでる時、近所の私がよくプリントを届けたりしてたけど、そういった時によくお母さんがお菓子を出してくれて、もうそれが美味しくて美味しくて。
 時には、幸村が庭で育てたものを素材に使うんだって言ってたな。レモンとか柚子とかブルーベリーとかいちごとか、勿論ハーブも。
 
 日あたりのいいリビングのテーブルで、幸村は大きめにカットしたふっくらしたシフォンケーキに生クリームとカットしたいちごをのせたものを、白い透きとおった大きめのケーキ皿にのせて出してくれる。勿論私に大きいほうを出してくれた。そして、そろいのティーカップに、しっかりめの色の紅茶を注いだ。
「うわー、美味しそう!」
 もごもごといただいて、ふううっとため息が出る。
「桜だー!! 美味しいー!」
 桜のケーキってどうしてこう桜桜してるんだろ。桜が満開でも、匂いとかあんまり記憶にないけど、確かにこれって桜なんだよねー。
「桜の葉と桜の花の塩漬けを、刻んで混ぜてるらしいよ」
 私のそんな疑問に答えるように、彼は言った。
「あっ、そっか、桜餅のにおいだ。桜の葉っぱなんだね」
 言いながらも私は、もぐもぐとケーキを食べては紅茶を飲み、であっというまに平らげる。
「はー、ほんと美味しかった。お母さんによろしく言っといて。あれ、今日いないの?」
 私が言うと彼はくくっと笑った。
「妹も春休みだから、今日は女3人で買い物だってさ」
 あ、お母さんとおばあちゃんと妹ね。楽しそう。
「ま、に美味しく食べてもらってよかった。実は母さんが昨日焼いて、昨日みんなで食べたんだけど、ちょっと残ってね」
「なに、残り物処理? でもいいや、いつでも呼んで」
「でも、シフォンケーキは1日おいた方がしっとりして落ち着いて美味しいらしいよ。いつも焼きあがったらその日に食べちゃうけどね、うちは」
「うん、いつも美味しいけど、今日のはほんと美味しかったー。今日はちょっと肌寒いけど、ああ春だなーって感じしたよ。どうもありがとね、ご馳走様」
 と、私が立ち上がって帰ろうとすると。
「おいおい、何の用で来たか忘れた?」
「え? 桜のシフォンケーキ、もう十分いただいたけど。まだあるの? あるなら食べる」
 私ががっついて言うと、彼はまたくくくときれいな笑顔。
「返すものがあるって言っただろ」
「あ、そっか」
 なんだっけ、参考書とかノート? そういえば、去年中3になったばかりのころ、学校を休みがちになった幸村にノートを貸したりもしたけど、正直、私なんかよりずっと成績のいい彼にはあまり役に立ったとは思えないけどね。
 彼は指で上を指した。
「俺の部屋に来て」
「ああ、ハイハイ」
 テーブルもそのままに、私は彼と階段を上った。
「私、幸村に何か貸したままのものってあったっけ?」
 言いながら階段を上がり、彼の部屋に入った。
 そういえば、彼の部屋に来るのは久しぶりだ。
 ウッド調の落ち着いた部屋からは、かすかにいい匂いがする。アロマオイルだ、と彼が教えてくれたっけ。パチュリーだとか、サイプレスだとか、そんなオイルの名前を教えてくれたけれど、あんまり覚えてはいない。でも、森の中にいるような気持ちになる心地のいい香り。
「ほら、俺が入院する少し前の時」
 彼は穏やかに言った。
 彼の部屋はとても日当たりがよくて、彼の髪や肌が日の光にとても映えた。
 こう見ると、ほんとうにきれいな男の子なんだよね。
「うん?」
が、いつものように学校のノートやプリントを届けに来てくれただろう」
 そう言う彼の言葉に、私は胸の奥がじわりと騒いだ。
 私の目を見た彼は、またふふと笑う。
 そして、沈黙。
 私に、思い出させるための時間を与えようとしているのだ。
 本当は、そんな猶予などいらない。
 だって、その出来事を、忘れたことなんかないもの。



 2年生の時の冬、病気が発覚してから、幸村は病院に入院したり、家に戻ってきたり、学校に行ったり休んだり、そんな日々を繰り返していた。
 王者立海大附属中のテニス部の次期部長としての道が決まっていた矢先の、病気の知らせだ。
 3年になって同じクラスになってから、そんな深刻なこと中学生の私にはどうやって触れたらいいのかわからないし、とにかく学校で先生に言われるがままに授業の資料なんかを届けたりしていたのだけど、幸村はいつも落ち着いていて穏やかで、『休んで家にいたら、いつでも植物の世話ができていいよ』なんて言ったりもしていた。もちろん、そんなことが本心なんて私も思っていたわけじゃないけど、『だよねー』なんてあわせるしかない。
 そんなことを繰り返していた日々。
 彼が、ついに手術をすることを決めたと聞いた。
 何度か入院はしていたけど、今度は手術のための入院だと、4月のある日この部屋で彼から聞いた。
「いつ、手術するの?」
「7月かな。ちょうど、関東大会の頃だ」
 普段どおりの調子で言う彼の言葉に、全国大会は幸村は出れるの? なんて疑問を口にしそうになったけど、当然言えるわけがない。
 テニスの強さでは「神の子」なんて言われている幸村だって、神様じゃないんだもの。
 そんな、一瞬の沈黙の後、彼の口から出た言葉には私は意表を突かれまくったのだった。

「だからさ、。ちょっと、俺とセックスしないか」

 窓からそそぐ夕方の太陽はまだまだ力があって、彼の肌や髪をきらきらと照らしていた。
 穏やかできれいで力強い笑顔で、彼はそんな事を言うのだった。

「はあ〜?」

 当然私はそんなリアクション。

「だって、考えてもみろよ。来週、俺は入院をしてその後、手術をするんだけど、もしそれで死んでしまったら、俺、女の子を抱いたこともないまま死ぬんだよ? ちょっとかわいそうじゃないか?」

 そんな冗談めかしたことを、あの気高いキレイな顔で笑って言うものだから、私はどこからどうつっこんでいいのかわからない。
 もしも、こんな時じゃなかったら。
 またまたー、初めてじゃないくせに。
 とか、
 彼女いるんでしょ? 呼べばいいじゃん。
 とか、
 そして、

 死ぬなんて、あるわけないじゃん。
 とか。

 もしくは、私がもうちょっと違うタイプの女の子だったら、
『そんな気弱なこと言わないで! 死ぬとか、あるわけないじゃん! ちゃんと元気になって戻ってくるって約束して!』
 とか。

 なんかこう、もっと他にやりようがあったのかもしれないけど。
 その時、もう少しで夕日になってしまいそうな日中の太陽の光の下で、しなやかに強く笑っている幸村が、できるだけそのままの力強い姿でいるといいなあって思って、私も笑った。

「えー、しょうがないなー。私、今日、勝負パンツでもなんでもないんだけど」

 そう言うと、幸村はその白くてしなやかな指を私の髪に差し入れて、そしてゆっくりとキスをした。
 びくりと私の心臓は跳ねる。
 彼とこんなことをするなんて、思いも寄らなかったけど、なぜだか私はその時、自分がそうした方がいいんだって思った。
 恋人でもなんでもない私たち、幼馴染と言うほどでもない。
 そんな日常の延長での、命の確認。
 初めて触れる彼の身体。
 細身なのに筋肉質で、しなやかで実は肩幅は広い。
 どうしてこの身体が病気? 動かなくなる?
 こんなにも強く生きているのに。
 彼の唇や指を身体中に感じて、そして彼が私の中に入ってきたとき、私は声を上げながら彼が生きているって、そして死ぬわけないって、しっかりと感じ取った。
 こんなに生きている人が、死ぬわけがない。
 動けなくなるわけがない。
 テニスができなくなるわけがない。
 そう思いながら、彼の律動に私は声を上げるのをやめられなかった。



 とまあ、去年はそういう出来事があったわけで。
 その日の翌週には彼は入院をし、7月には手術をし、そして退院した彼は不死鳥のようによみがえって全国大会に見事に選手として出場した。
 惜しくも決勝では敗れたけれど、その後のU-17にも選ばれたり、彼はきっと手術前よりも強くなったと思う。
 そして、そんなあわただしい1年で、とにかくあの日のことは、私と彼の間ではもうなかったことになっていたのだ。暗黙の了解で。
 なのに、なぜ今更?

 私は怪訝そうに彼を見る。
 退院してきて復帰してから、何のひとこともなかったくせに。
 一体、今更、何を?
 わざわざ、言葉にして、あれはなかったことに、とでも言うんだろうか?

「あの時、俺はさ」

 あの時っていうのが、私と彼が寝たあの日のことだというのはわかった。

「俺、から命を借りたと思ってるんだ」

 そして、出てきたのはそんな思いもがけない言葉。
の命を借りて預かって、そしてこうやって戻ってきた。だから、それをきちんと返すよ」
 いつものように、優しげでいながらクールな笑顔。
「……え? そ、そんな、貸したというほどでもないし、返すって、そんな、どうやって?」
 私は少々うろたえながら言うと、彼は机の引き出しを開けて取り出したものを私の前に差し出した。
「これだ。用意してある」
 彼が差し出したものは、いわゆる、避妊具だった。
 えーっ!?
 私が何かを言う間もなく、私は彼のベッドに仰向けにされていた。
 不意を突かれた行為に、さすがに抗議をしようとすると、唇をふさがれる。
 侵入する舌は、桜の香り。
「春は命の息吹の季節だが、実際に息吹いては困るだろうから、ちゃんと用意した。何か不満かい」
 ひととおり舌を絡められ、すっかり力の抜けてしまった私に、幸村は冗談めかせて言う。
「……どーいうことよ?」
 くくく、と笑いながら、彼はカーディガンとカットソーを脱ぎ捨てる。
 きれいな顔立ちに反して、裸の胸は相変わらず筋肉質で男らしかった。
「こういうことは、俺は手術が終わってから初の、復帰戦だ」
 そんな言葉に、私はつい吹き出してしまう。
「なに、幸村。クールぶってるくせに、言うことオッサンくさい」
「黙れよ。あの時、自分だってノリノリだっただろ。私が上になった方がいいの、とか言って」
「ちょっ……あれは、あの時は幸村、入院前っていうし、身体しんどいのかもって、気ぃ遣ったんじゃん!」
 慣れてたわけじゃないんだよ、と言うと、彼は、わかってる、といって私の首筋を噛んだ。
 痛い。
 私、生きてる。
 そして、幸村も生きてる。
 前よりも憎たらしく、そして力強く。
 去年、彼と寝た時、感じた命。
 私たちは生きてる。
 これからも、貪欲に生きるだろう。
 
「……、俺は、今日、今、生まれた……。よみがえらせた力と命を、に捧げるよ……」

 突き上げられて意識が遠のきそうな私は、耳元でそんな彼の言葉を聞いた。
 確かに、聞いた。

 強引な情事を終えてから、私は彼の胸に抱かれていたのだけれど、初めて目に入ったものに気づいた。
 彼の胸の、うっすらとしたピンクの傷跡。
 そうっと指で触れると、彼がかすかに身体を動かした。
「……手術の傷だ。……最初は、手術で胸の筋肉を切断するから、しばらくはもう上半身を激しく使うテニスなんかできないって医者から言われたんだ」
 なんでもないように言う彼の言葉に、私は目を丸くする。
 そんな事言われてたんだ!
「けど、いろいろ検討の結果、術式を変えてもらうことができて、それで手術も成功したからね。まあ、終わりよければすべてよしだ」
 そっか、彼は私にあずかり知らぬことを乗り越えてきたんだなあ、と私は彼の胸にいくつかできている傷をそうっと舌で舐めた。
 すると、彼はびくり跳ねる。
「わ、ごめん、痛い?」
 あわてて私が言うと、幸村はかすかに顔を赤くして眉をひそめて私を見る。
「痛くはないけど、やめろよ」
 もう一度、そのピンク色の傷跡に舌を這わせると、彼は声を上げて私の頭に手を当てる。
「ほんと、やめろ、なんかヘンな感じなんだ!」
 なんだか彼を押さえつけて、もっとやってやりたい気がしたけど、多分そうするとこっちがもっとひどいめに合いそうだから、やめといた。
 私がニヤニヤしていると、幸村は顔を赤くして、下唇を噛み、『二度とするなよ、絶対だ』と言って私を押さえつけて、耳を噛んだ。
 どうやら、よみがえった幸村の新しい弱点を知っているのは、今のところ、私だけらしい。

2013.3.3
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