ハードカバー



 海堂薫は、昼休みになるといつも真っ先に弁当箱を取り出すのだが、その日は違った。
 弁当箱のかわりに、カバンから一冊の本を取り出し、席を立つ。
 そして、自分の斜め前の席に向かって足を踏み出す。
「おい、
 いつものドスの効いた声で話しかける。
 前の時間の授業で使ったノートやなんかを、ゆっくりと片付けていたその席の女は驚いて顔を上げた。
「これ、返してもらっておいてもイイか?」
 彼女……は差し出された本を見つめた。
「……いいわよ、もう読んだの?」
 二日前に彼女を通して図書室から借りた本、『スポーツ選手必読!勝つための食事と栄養』という暑苦しいタイトルの本だった。
 自分で適当に選んだ本に比べて、図書委員の彼女の推薦で借りた本は読みやすく、自分の知りたい事が多く書いてあり、あっという間に目を通す事ができた。
「あと、聞きたい事があるんだが」
 本を彼女に渡した後、彼は尋ねた。
「『オトシブタ』って、何だ?」
「落とし蓋?」
 彼女はまた驚いた顔で海堂を見上げる。
「……いろいろ調べたら、煮魚は栄養学的に良いらしいんだが、ウチはあまり作らないんだ。家にある料理の本を見たら、オトシブタが要ると書いてあった」
 海堂はをじっと睨むようにして続ける。
「……そうね、それはまず、海堂くんのお母さんに、『煮魚で摂取できるコラーゲンは、お肌によくって若返りの素になる』って話した方が、手っ取り早いと思うけれど」
 本を大事そうにカバンにしまいながら話す彼女をじっと見て、海堂は少し考えをめぐらせるように黙った。
「そうか、それで試してみる。あと……筋肉の部位と、その筋肉を鍛えるにはどういうトレーニングをしたらいいのかが簡単にわかる本を読みたい。そういうのってあるか?」
 海堂が真剣な顔で言うと、はにこっと笑って頷いた。
「ええ。この本の返却手続きして、そういう本を借り出しておくわ。海堂くんは遅くまで部活でしょう?手続きをして明日持ってくるけど、それでいい?」
 海堂は満足気に頷いた。
「ありがとう」
 言うと、自分の席に戻ってようやく弁当を広げた。
 ちらりと斜め前を見ると、は弁当も出さずに女友達と話をしている。
 なんだって女っていうのはさっさと飯を食わないのかねと、時々思うのだが、しかしそれはどうでも良い事で、彼は自分の弁当箱を空にする事だけに熱中した。

 弁当を食べた後どうも牛乳が飲みたくなり、購買に買いに行く事にした。
 廊下で桃城武と出くわす。
 特に積極的に話がしたいという相手ではないが、どうでも良いクラスメートと顔を合わせるよりはましだった。
「よう」
 桃城の方から声を掛けてくる。海堂は軽く手をあげてそれに応じた。
「これから飯か?」
 明るい声で尋ねる彼に、海堂は首を横に振る。
「いや、もう済んだ」
「ははは、俺もだ」
 言いながら彼は笑う。そう桃城も、大抵弁当を食べ終えてから足りない分を購買に調達に来るのだ。お互い、それは分かってのやりとりだった。
 その時、購買の方からが歩いてきた。
 彼女の手に菓子パンがあるのを、海堂は目にした。思わず声をかける。
「おい、!」
 彼女は目を丸くして足を止めた。
「ああ、海堂くん、なあに?」
「……それ、もしかすると、昼飯か?」
 彼が言うと、は手に持っていた『ダブルベリーデニッシュ』とパックのオレンジジュースを改めて見る。
「そうよ。どうかしたの?」
「……蛋白質とビタミンと炭水化物を、バランス良く摂取しないといけないんじゃないのか?」
 彼が真面目な顔で言うと、は少しの間黙って、そしておかしそうに笑った。
「そうよ。知ってるわ。でも、知識があるのと実行に移せるかは、また別問題なの。私は運動は苦手だし、こういう甘い物が時々食べたくなる。人間て、そういうモノよ」
 言って手を振ると、教室の方に小走りに戻っていった。
 何だか納得いかない、という風に彼女の後姿を眺めていると、桃城が彼の背中を叩く。
「お前、サンと仲良いのか?」
 彼の言葉に、海堂は驚いて振り返った。
「いや、同じクラスなだけだ。お前、を知ってるのか?」
「……同じクラスのヤツが、よく、サンと話したいなあと騒いでるからさ。ほら彼女、大人っぽくてキレイで、いつも本を読んでるか女友達と話してるかで、大人しいだろう? 成績も良くてさ。なかなか話しかけられねぇって皆言ってるから、お前が話してて、ちょっとびっくりしたんだよ」
 桃城が意外そうに、また興味深そうに言うので、海堂も戸惑ってしまう。
「図書委員なんだよ。本を借りて、話をするだけだ。ちょっと物知りだけど、別に普通のヤツだよ」
「ふうん」
 桃城がからかうような顔をするものだから、海堂はついムッとして、彼を置いて黙ってそのまま購買へ行った。
 午後の授業中、海堂は時折顔を上げて斜め前のを見た。
 言われてみれば、そのすっきりとした横顔は美しく整っていて、その雰囲気とあいまって、同じクラスの他の女子と比べ、落ち着いて見えた。しかしいつも静かに自分の席で本を読んでいる事がほとんどの彼女は、桃城が言うような、男から騒がれるタイプには見えず、海堂はフンと鼻を鳴らして視線を教科書に戻した。

 午後の授業が終わると、その日、海堂は掃除当番だった。
 集めたゴミを焼却炉に運んでいると、台車を押すが見えた。
 掃除当番じゃなかったはずなのに、と一瞬不思議に思ったが、台車には本が載っていて、おそらく図書室の古い本を集積所に置きに行くのだろうと理解した。
 彼女には世話になったし、焼却炉に行くついでに、その作業を代行してやろうかと走り出た瞬間、彼女の傍にジャージ姿の男が走り寄ってきた。
 海堂は踏み出しかけた足をキュッと止める。
 台車を押し続ける彼女の傍らで、男は何か話しかけていた。
 男は、名前は知らないが、確か隣のクラスのサッカー部の男だった。
 しばらく何やら話し、そして彼は手を振ると、また走り去っていった。
 海堂はそのまま後ろを歩いて行くのがなんだかすっきりしなくて、思わず走り出して彼女の傍を何も言わず走り去り、そして焼却炉にゴミ袋をつっこむと、また彼女を見もせずに教室に戻った。
 
 部活が終わった後、海堂が着替えを終えてロッカーの前でミューズリーバーをかじっていると、乾が声をかけてきた。
「おっ、海堂、いいモン食ってるじゃないか」
「……トレーニングの合間に食っといた方が良いみたいなんで……」
「へえ、運動バカじゃなくて、ちゃんと勉強してるんだな」
 海堂は照れくさそうに顔をしかめる。
「バカにしないでくださいよ」
 ミューズリーバーの包みをゴミ箱に放ると、荷物を持って部室を出た。
 何気なく図書室の方を見ると、まだ電気がついている。
 一瞬足を向けかけたが、それはやめて校門に向かって歩く。
 しばらく歩いて、足を止め、結局きびすを返した。
 そうだ。本を頼んでいた。
 明日渡してもらえる予定だが、今日受け取って、今夜読めればそれに越したことはない。
 そう、それだけの事だ。
 自分に言い聞かせながら、図書室に向かって足を早めた。
 図書室の扉を開けようとすると、中から話し声が聞こえる。
 一瞬扉を開ける手を止めてから、そしてそうっと戸を開けた。
 カウンターの中にはがいた。
 そしてカウンターの前にいる男は、焼却炉の近くで見た、あのサッカー部の男だった。
 すでに部活を終えたとみえて、着替えてきている。
 閉館時間を過ぎた今は、他に利用者はいなかった。
「……ね、ちょっと話しに来て、考えてくれたら良いからさ」
 男の声が図書室に響いていた。
「ごめんなさい、私はやっぱり運動は苦手だし、向いてないと思うわ」
「いや、さんが運動するわけじゃないんだよ、頼みたいのはマネージャーだからさ。さんは頭も良いし、何でも知ってるし、絶対向いてると思うんだ、ね?」
 カウンターに身を乗り出して言う男に、は静かに笑う。
「んん、知ってるのと、できるのとは別だし、私は図書委員だけで精一杯なのよ。ごめんなさいね」
「でも、一度くらい練習見に来なよ」
「サッカー部の練習は、窓から時々見えているわ」
「見てて楽しくなるように、ルールとか、教えてあげるからさ」
「大体のルールは知ってるから、大丈夫よ」
 どんどん熱く話す彼に、は静かなまま答える。
 海堂は少しだけ開いていた扉を、音を立てて思い切り開けた。
 二人は驚いてそちらに視線を移す。
「……立ち聞きか、テニス部さんよ」
 男は明るい茶色の髪をかき上げて、ムッとしたような挑戦的な顔で海堂を見た。
 海堂はずかずかと歩いて、本棚にある本を掴むとそれを思い切り振りかぶった。
 ドカン、と大きな音が図書室に響き渡る。
 サッカー部の男の鼻先を掠めて、桃城のダンクのごとく、分厚いハードカバーの本をカウンターに振り下ろした。海堂のギラギラとした目に、男は思わず後ずさる。
「……そいつの本の手続きが終わったら、俺の分を頼む、
 間近に立つと若干海堂よりも背の低い彼を、睨みつけながら見下ろす。
「オイ、そもそも図書室ってなぁ、静かにするもんだぜ、コラ」
 いつものドスの効いた声でイライラしたように言った。
 男はいまいましそうに一瞬うつむくと、を見た。
「……じゃあさん、また、考えといてくれよ」
 それだけ言うと、走り去った。
 海堂はフンッと彼を見送った。
「……海堂くん」
 は言うと、カウンターの中から立ち上がる。
、ヤツは……」
 言いかける彼の顔の前に、は海堂が持ってきた本を突きつけた。
「本は乱暴に扱わないで」
 はぴしゃりと言ってカウンターから出てくると、その本を元の位置に仕舞った。
 振り返って、穏やかに笑う。
「……でも、ありがとう。助かったわ」
 そう言うと、彼に別の本を差し出す。『目で見る筋力トレーニングの解剖学』というタイトルは、これまた彼のニーズにぴったりのものだった。
 海堂はそれを受け取り、そしてカバンに仕舞った。
 図書室の扉に手をかけて、出て行こうとしてから、チッと舌打ちをして振り返った。
 そして、PCの電源を落とすために再度カウンターに入るに怒鳴った。
「早く支度しろ!だいたい、こんな遅くまでいるから、あんなヤツが来るんだ!帰るぞ!」
 は中腰の姿勢から顔を上げて、また驚いたように海堂を見る。
「……わかった。もう少しよ、待ってて」
 海堂は扉にもたれかかりながら、サッカー部の男を思い返した。
 まったく団体競技をやるヤツは理解できない。
 気の利いた有能なマネージャーなんざ、皆で共有するより、自分だけの参謀にしておいた方が良くないかね?
 そんな事を考えていたら、支度を終えた彼女が急いでやってきた。
 図書室の鍵を取り出すと同時に、彼にガサリと何かを差し出した。
「お腹へったんじゃない?」
 が扉に施錠をしている間にそれを見ると、スナック菓子の袋だった。
「……何だ、これは?」
「お腹が減ったとき、食べながら帰るの。美味しいわよ」
 そう、やっぱり理解できない。
 スポーツ選手にスナック菓子など食べさせる女に、マネージャーなぞ頼みたいものかね?
 心でつぶやくと、袋の口を開けた。
 全部食べないでね、と振り返る彼女をくっくっと笑いながら見て、バリバリとその中身を頬張った。
 
 了

 2007.2.18




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