● 観月はじめにお願い!  ●

 暖冬だと言われていたこの冬、1月に入ってぐっと冷え込む日が増えてきた。
 観月はじめは、寒さは嫌いではない。正確に言うと好きだというわけではないが、刺すような空気の冷たさと清らかさは故郷を思い起こさせ、そうやってふいに懐かしい気持ちにさせられることが嫌いではなかった。
 その日、理科室での実験の授業を終えた彼は、自身の役割というわけでもないのに各班の実験台やシンクをチェックし汚れが残っていないかを確認していた。寮の共用キッチンでもそうだが、使用した場所を完璧にきれいにしていかなければ気がすまないというのが、彼の性質なのだ。
「……まあ、良いでしょう」
 実験室にはすでに彼一人。拭きあげられた実験台を見渡し満足気にひとりごちて、荷物をそろえ理科室を後にしようとしたその時。
 彼が向かった理科室の後方扉の前を横切る黒い影。
「ひっ……!」
 その不吉な影に、観月は思わず後ずさる。
 なるべく直視しないように、それでも確実に動向を確認するためにチラチラ視線をやると、やはり間違いはない。彼が最も忌み嫌う生き物のひとつであった。
 右に行くべきか、左に行くべきか。
 このまま前進して扉へ向かおうとすると、確実に奴をまたいでいかねばならない。
 となると、前方扉を利用することが得策だろう。
 荷物を手にした。このまま実験台を迂回して、前方扉までエスケープだ。
 そう思い、一歩後ろに脚を踏み出したところ。
 想像だにしない出来事がおこった。
 奴が羽ばたいたのだ。
 絹を裂くような絶叫とともに、観月は自分でもどうしたのかわからないが、荷物や上履きを散乱させ、実験台に飛び乗っていた。
 奴を見失ってしまったが、確実にここらのどこかにいる。
「……た、助けを呼ばなければ……」
 このままでは遭難してしまう。制服のポケットからスマートフォンを取り出し、文字を打とうとするが手が震えて上手くいかない。何度もメッセージ送信を試みていると、理科室の後方扉が開いた。
「誰? どうかしたの!」
 駆け込んできたのは女子生徒だった。
「気をつけてください、さん!」
 女子生徒はというクラスメイトだ。
 彼女は実験台周りの惨状を見て、目を丸くする。
「……観月くん? 一体どうしたの?」
「奴が……奴がその辺りにいるはずなんです……」
 震える声を絞り出した。
「奴って? 何か不審者?」
 は、きょろきょろと周りを見渡した。
「人間ではありません、奴です……! くっ……どこに行ったか、見失ってしまいました……」
「え、なになに? 何がいるのよ?」
 観月は床に放り出した上履きを見て、再度悲鳴を上げた。
 彼の上履きを、黒い昆虫が横切って行ったのだ。
「あっ、ゴキブリか! こんな季節でもいるんだね」
 平静な口調のは後方扉の脇にぶら下がっていた「理科室の使い方」というパンフレットを手に取り、丸める。そして、パシッ! と小気味良い音を立てた。
「……よし、退治した。やっぱり冬は動きが鈍いね。もう大丈夫だよ、観月くん」
 彼女はキムワイプで奴をくるむと、ゴミ箱に放る。
「……その、奴をアレしたパンフレットも捨ててください!」
「え? これ? 勝手に捨てちゃっていいの」
「僕が後で新しいものを補充しておきます」
 ふーん、と言いながらそのパンフレットもゴミ箱へ。
「観月くん、ゴキブリ苦手なのね。実家、山形だっけ? 寒いとこはあんまりいないのかな」
「……奴の名を出さないでもらえますか!」
「え? ああ、ごめんごめん」
 彼女は笑って床に散らばった彼のノートや上履きを拾ってくれた。
「……その上履きも捨ててください」
「えっ?」
「奴が触れました」
「ああ……でも、履く物なくなっちゃうじゃない。観月くん、靴下のまま廊下とか歩ける?」
 彼は黙って首を横に振った。
「しょうがないなー。どうせ昼休みだし、購買で買ってきてあげる」
 彼女はそう言ってさっさと扉に向かう。
「サイズは26.5でお願いします!」
 出て行く間際に振り返り、了解、というように笑って親指を立てた。
 観月はふううっと息をつく。
 、とそのクラスメイトについてを頭の中で検索した。
 は確か部活動には所属していない。明るく社交的で、華やかな外見。他校の生徒も含めた男女で遊びにでかけるような話をよく聞く。成績は普通で、生活態度についても時折、髪の色などで注意をされるくらいか。
 普段、ほとんど話をすることのない女子生徒の一人だ。
 したがって、観月は頭の中に彼女のデータはあまり持ちえていなかった。
 奴と対等に戦いうる、というデータを付け加えなければ、などと考えていたところ、理科室の後方扉が開いた。
「助かりました、さ……」
 現れたのはテニス部の赤澤だった。
「おい観月、さっきにこれを預かったんだが」
 彼が手にしていたのは新品の上履き。
「購買で会ってな。あいつ、お前と同じクラスだろ? 観月どこにいるか知らねーかって聞いたらここだって教えてくれて」
 それでこいつを預かった、と上履きとレシートを観月に手渡す。
「さっき、お前がすぐ来いっていうわけのわからないメッセージよこしただろ。すぐ来いって言ってもどこにいるか返事もねーし」
「……すいませんでした、緊急事態だったので……」
 観月は新品の上履きを履いて床に降り、レシートを上着のポケットにしまった。
「しかし、かー」
さんがなんだというんです?」
「いや、あいつは美人でモテるし、気さくな良い奴だけど、結構手ごわそうだからやめとけよ。時々男とつきあってるみたいだが、すぐ別れるのはきっと意外に気が強いからだぜ」
 赤澤がさらりと言うので、観月はふんっと鼻をならし「くだらない」とつぶやいた。
「なにをわけのわからないことを言っているんです。彼女には奴を始末していただいただけですよ」
「はあ? ……ああ、ゴ……Gが出たのか、そりゃ大変だったなぁ。が退治してくれたって? そういうの平気そうだよな、あいつ」
 腹が減ったからと教室に戻る赤澤に礼を言い、理科室にまた一人となった観月は深呼吸をして身なりを整えた。教科書とノートを手にし、理科室を出て行こうとすると床にピンクのシャープペンシルが落ちている。自分のものではないということははっきりしているが、観月はかがんでそれを手にした。拾い上げたシャープペンシルの軸のところには、まだ新しいだろう写真の印刷されたシール……いわゆるプリクラが貼ってあった。先ほど活躍したと、見知らぬ男が一緒に映っている。
 99パーセントの確率で持ち主が判明したそのシャープペンシルをポケットに入れて、今度こそ理科室を後にした。

 購買部に寄ってから教室に戻ると、時間はすでに昼休みを半分以上過ぎていた。
 は、仲良しグループで机を囲み楽しげに話しながらパンを食べている。話の中で身振り手振りが入り、その長いすらりとした脚が時折ばたばた動く。
 ふと、観月と目があった。彼に気づくと、は軽く手を振って、人差し指を立てて顔の前にかざした。先ほどの出来事を誰にも話していない、という事だろう。観月はほっと胸をなでおろす。彼の潔癖症は今さら隠すことではないが、いちいちからかわれることは好まない。

さん」
 放課後、ロッカーにバッグを取りに行くに、声をかける。
「ん? ああ、観月くん」
 今日はおつかれ、と口だけを動かして見せて笑った。
「今日は本当に助かりました。心からお礼を言います」
「いいっていいって。うち、お母さんが苦手だから、私が退治係なの」
「これは、上履きの代金です」
 白い封筒を渡した。
「うん、丁寧にどうも」
「それと」
「ん?」
「僕はあなたに、三つ借りができました。ひとつは奴を始末していただいたこと、ひとつは上履きを買ってきていただいたこと、ひとつはあの出来事を口外しないでいただいたこと」
「ああ、ふぅん、三つか。別に気にしないで」
「僕はひとに借りを作ったままでいることを好みません。さんが、何か僕に頼みごとをしたいことがあれば三つまで引き受けることとします。何かないですか?」
 腕組みをしたまま真剣な顔で言う観月を、は目を丸くして見つめた。
「三つのお願い?」
 そう言って、くくくと笑う。
「観月くん、律儀なんだね。別にそんなの良いのに」
「僕がよくありません」
「そっか、じゃあ考えとく。期限ってあるの?」
「特にありません」
 了解、と言って彼女はバッグを手にすると教室を後にした。
 気取っているわけじゃないのに、やけに余裕があって大人びている。
 それが彼女の新たな印象だった。


「おはよう、観月くん!」
 翌日、登校するとまっ先にが駆け寄ってきた。
「英作文の宿題、見せて」
 一瞬ぽかんとすると、「三つまでいけるって昨日言ったじゃない」と彼女がまくしたてる。
 観月はくるりと片手で前髪をいじった。
「んー、そういうのはダメです」
「えー!」
「やるべき宿題を自分でやらないというのは、あなたのためになりません。そういった事には加担できない」
「条件付なの!? 昨日、ああ観月くんに見せてもらえばいいやって余裕ぶっこいて寝ちゃったのに!」
 いささか憤慨した様子で、はあわてて自席に戻り辞書を開いた。
 ふと、昨日のシャープペンシルをポケットに入れたままだった事に気づいた。
さん、これを……」
「ごめん、英語1時間目だから、急がないといけないの! もー、観月くんが見せてくれると思ったのに! 私、今日は絶対当たるのに!」
 どうやら彼女の友達連中は当てにならないようだ。
 シャープペンシルをポケットから取り出し、改めて見つめた。
 シールはおそらく貼りたてで真新しい。写真の中の彼女は私服で、撮影日を推測するまでもなく、先週末の日付が入れられていた。相手の男は明るい髪色で彫りの深い、いかにも女性受けしそうなタイプだ。歳は同じくらいだろう。仲良さそうに映っているが、距離感・雰囲気からして交際中という程ではないように思われる。
 じっと眺めてから、軽く息をついてそれを自分のペンケースにしまった。
 

「観月くん!」
 昼休みになると、またが彼の元へやってきた。
「あのね、私、今日お弁当持って来てないから、購買でヤキソバパンと牛乳買ってきてくれない?」
 そう言って500円硬貨を差し出した。
「……いいですけれど、さん。この観月はじめが頼みごとを聞くと言っているんです。僕の頭脳をもう少し有効活用するような頼みごとにしては如何ですか?」
「え? ああ……そう言われてみればそうなんだけど……じゃあ、どういう頼みごとがお徳そうなわけ?」
 は腕組みをして彼を睨む。長身の彼女は、観月よりほんの少し背が低いだけで、目線はほぼ一緒。整った顔立ちだけあって、なかなか迫力がある。
「そうですね、語学などで言うと、スペイン語やフランス語なら教えてさしあげることができます」
「へー、すごいね! でも、私はいいや……」
「他には、美味しい紅茶の淹れ方や茶葉の選び方も教えて差し上げられます」
「へー、でも私、ティーバッグで十分かな」
「うーん、ではお勧めのアンティークのお店を紹介できます。そうそう、勿論テニスもお教えできますよ」
 話していると、はぷっと吹き出した。
「ありがと、もうちょっと考えてみる。あ、でもあれだね、10年後くらいのクラス会で、『私、観月くんに三つお願いできる権利を持ってるの』って話のネタにするのもいいかもね」
「そんな先には持ち越したくありませんので、できるだけ速やかにお願いします」
「わかったわかった、プレミアム商品券より使勝手の悪いお願い券ね。まあ、せっかくだからよく考えてみる」
 は500円硬貨をポケットにしまうと、笑って手を振った。

 その出来事以来、観月は時折学食等で彼女と食事をするようになった。
 は元来社交的なので、彼女が観月と食事をする姿は珍しいものの、特段それを気に留める者はいなかった。
「ほんと、観月くんのお願い券って難しいなー。宿題見せて、はダメでしょ? ノート写させて、もダメでしょ? 私のために賛美歌を独唱してくれるって? いやそれもクリスマス礼拝で聴いたからいいわ」
「あと、僕は情報収集と根回しが得意です。例えば、あなた、テニス部に好きな男子などいませんか? もしいるのだったら、完璧な個人情報をお渡しできますよ」
「えっ、そういうのはOKなんだ? 観月くんの倫理観のツボわかりにくいなー。ちょっと興味あるけど、今のところテニス部の男子に好きな子はいないから、いいわ」
 はランチセットのリゾットを食べ終え、デザートのプリンにスプーンを入れた。
さんは、どのような男子がお好みなんです」
「私? 私はね、顔! 顔がかっこよくて私服のセンスが良い子が好き。一緒に歩いてたらワクワクするような」
 彼女はきっぱり言った。
「顔……ですか……」
「そう。こう、濃い目の男っぽい顔が好きかな」
「……性格だとかそういうものは?」
「だって、ちょっと話してたってわかんないじゃん、性格なんて」
「はあ」
「で、観月くんはどんな女の子が好きなの?」
 これだけしゃべりながら、一体いつの間に食べているんだろうと不思議だが、彼女はもうプリンを完食していた。
「そんな事聞いてどうするんですか」
「……ま、そりゃそうだ」
 スプーンをぺろりと舐めて、おかしそうに笑った。

 
 私服に着替え、ニット帽を被った観月は、二つ隣の駅の近くのファーストフード店にいた。通路をはさんだ隣の席には、制服姿の男子生徒が二人。そのうちの一人と、手元のシャープペンシルのシールとを見比べて観月は頷いた。
 彫りの深い顔立ちに、明るい髪色。10人中少なくとも8人は「この子、かっこいい!」と言いそうな男子生徒だ。ルドルフと同程度の歴史のある私立中学の制服で、バッジからすると同じ中学3年生。
 依頼を受けたわけではない。
 けれど、に礼をするため……何か彼女の力になるためのひとつにはなるに違いない、と彼女の思い人らしき男の調査を始めた。
「そういえばお前、ちゃんと遊びに行ったんだって?」
 男子生徒の一人がポテトをかじりながら身を乗り出す。
「お、よく知ってんな」
「皆うらやましがってるぜ」
 写真の男はポケットからスマートフォンを取り出してもう一人の男子生徒の顔の前にかざして見せた。おそらくそのケースに貼ってあるのは、観月の手元にあるシャープペンシルのもの同じだろう。
「おー、マジか」
「多分、バレンタインも会うことになりそうだぜ」
 スマートフォンのケースを開いて、中のメッセージを見ながらにやにやする。
「おいおい、いいのかよー。お前、彼女いるじゃん」
「留学中なんだからいないも同然だって。かまわねーだろ、期間限定でちゃん連れまわせたら気分いいじゃん。ホワイトデーに『ごめん、実は俺彼女いて』って言えば、あの子サバサバしてるからそれですむんじゃね。付き合ったり別れたりも何度かしてるみたいだから、そういうの慣れてるんだろ」
「ほんと悪いなー。で、1ヶ月でいけるとこまではいくと」
「さあなー」
 楽しそうに二人は笑った。
 観月は表情も変えずに、水っぽくなったアイスティーをすする。
 特段珍しくもない陳腐なシナリオだ。


「時にさん。2週間ほど経ちますが、まだこの僕への有益な頼みごとは思いつきませんか」
 2月になって数日経った朝、観月は改めてみさ紀に問いただした。
「え?」
「え、じゃありません。特に期限はないと言いましたが、せっかくなので有効活用してください。さあ、さあ、僕に頼みごとをしなさい!」
「あ、ああ、そうだよね。それにしても、観月くん、お礼だって言いながらなんでそんなに上から目線」
「有益な権利を行使しないという事に対して、理解できないというだけです。何かないんですか。……ほら以前に、例えばテニス部の男子などについて知りたければなんなりとと言いましたが、別にテニス部じゃなくてもいいんですよ。僕の情報収集能力をもってすれば、あなたの気になっている男のことはなんでも調べ上げられます。あなたの恋を完全プロデュースできます!」
 胸を張って腕組みをする彼を自席から見上げて、くくっと笑った。
「大きく出たねえ。うーん、でもそれも遠慮しとく。好きな男の子のことは自分で本人に聞くし。今、いいなって思ってる子とはバレンタインに会うことになりそうだから、自分でちゃんとできると思うよ」
 ありがと、と言って髪をかきあげた。
 以前に、赤澤が彼女のことを「手ごわそう」と評していたことを思い出す。
 は気さくで明るく魅力的だが、飄々としていて何かつかみどころがない。どこか大人びていて、ちょっとやそっとじゃ取り乱すことをしない。
 ファーストフード店で話していた男子生徒たちの言葉が甦った。
 確かに彼女なら、1ヶ月で別れを告げられても「ああ、そう」で終わらせるのかもしれない。
 彼女が望むなら、それでいい。
 けれど、何か彼女に届くものはないのだろうか。
 あの時理科室で、観月のことを笑いもせずからかいもせず助けてくれた彼女に、何かを返せないだろうか。


 2月14日は日曜日だった。
 観月が出かける支度をすると、寮のメンバーはしきりに「観月、まさかバレンタインデートか?」とからかってくるが、「お茶の時間には戻ります」とだけ言ってルドルフの寮を後にした。
 冷たい青空の放射冷却の下をコートのポケットに手を入れ、ニット帽を目深に被って駅に向かう。
 待ち合わせ場所、待ち合わせ時間は調査済みだ。
 いつかのファーストフード店を路面から観察すると、すでに例の男が席についておりスマートフォンをいじっている。待ち合わせ相手がまだ来ていないことを確認して、観月も店内に入るとアイスティーを頼んだ。この前とは違い、男の背後に当たるボックスの席に腰を下ろした。
 アイスティーを1/3ほど飲んだ頃だろうか。「お待たせ」と聞きなれた声。ガラスに映る姿は、に間違いない。
 二人はしばし他愛無い会話をした後、本日の予定(洋服を買いに行くらしい)についてを話し合い始めた。
 男の声は浮かれている。
 観月はニット帽からはみ出た前髪をくるりといじった。
 男女交際、というものの経験のない彼にはもうひとつわからない。こんなことを1ヶ月ほど続けることに、どのような意義があるのか。
 恋をしている男女というのはきっとその二人しかわからない、お互いしか見せたことのないような幸せそうな顔をするのだと思っていた。振り返って確認するまでもない。の笑顔は、普段学校で目にしている様子とほとんど変わらないだろうことが声の調子でわかる。
 が、こんなつまらない時間の過ごし方をしていて本当に楽しいのだろうか。
 安っぽい椅子に身を沈めながら考えていると、が「そうそう」と話を区切った。
「忘れないうちに渡しておくね。これ、バレンタインのチョコ」
 男が上げる大げさな感嘆の声が響いた。
「やっべー、うれしー。これ、本命?」
「どう思う?」
 がくくっと笑った。ああそうだ、こういう調子。優しく気さくに受け入れてくれるようでいながら、どこかはぐらかすような。
「じゃ、本命チョコってことで。なーなー、来週は学校帰りに待ち合わせようぜ。学校違うし、こうやってたまにしか会えないんじゃつまんないだろ。他の奴とか一緒じゃなくて、これからも二人で出かけよう」
「うん、楽しそう」
 そんなもの、楽しいはずがない!
 観月はニット帽を脱ぎ捨て、立ち上がって振り返った。
「学校帰りに寄り道をすることは、原則として校則で禁じられています」
 二人は目を丸くして彼を見上げた。
「……はぁ? なんだ、お前?」
「観月くん?」
ちゃん、知ってるやつ? 誰だよ、お前」
 男はみさ紀と観月を交互に見る。
「あなたに名乗る必要はありません。けれど、僕はあなたを知っています。あなたには2年間交際をしている1歳年上の恋人がいますね。彼女は今はオーストラリアに留学中ですが、3月半ばに帰国をする。その事を、さんにきちんと説明されているんでしょうか」
「えっ、お、おい! いや、ちゃん、あの……」
 おたおたとする男を、観月は一瞥もしなかった。
 その向かいで黙っているをじっと見る。
 彼女は立ち上がった。
「観月くんに三つまでお願いごとができるはずよね。お願い、今すぐここから消えてくれない?」
 は細身のパンツに、襟ぐりの深いセーター。ファーのついた暖かそうなショート丈のジャケットを隣の椅子に置いてある。気合の入ったよそ行きというのではないが、センスの良い、彼女のスタイルが際立つ装いだった。
 彼女の目は今まで見た事がないくらい強く、怒りをたたえていた。それが観月に対するものだと、当然彼はすぐ理解する。
 彼女のこういう目が見たかった。
 そう思いながら、ニット帽をコートのポケットに入れた。
「わかりました」
 観月はそう言うとトレイを手にして、その場を離れた。
 店を出て駅までゆっくり歩き、空を見上げる。
 太陽の位置は高く、お茶の時間まではまだ長い。
 彼はいつも効率よく無駄なく時間をすごすことを信条としているが、今は、これから何をしたらよいのかさっぱり思い浮かばなかった。電車に乗って寮に戻るか、なじみのティールームにでも行くか。どれも気が乗らない。ただただ、冬の空を見上げる以外には思いつかないのだ。
 どれだけそうやっていただろう。
 自分の名を呼ぶ声に気づいた。
 はっと我に返ると、ふりかえったそこには
「……突然現れるから、びっくりしたじゃない」
 観月は会話を続けて良いのかどうかわからず、しばし黙っているが彼女はそのまま彼の前に立っているので、ふうっと息をついて前髪をいじった。
「今日は、背が高いですね」
 そう言うと、彼女は目を丸くして一瞬の間をおいてからぷっと吹き出した。
「ブーツ、ちょっとヒールがあるから」
「彼は一緒じゃないんですか」
「……さっきの私の剣幕にびびったみたいで、俺も行くわって帰っちゃった。帰ることないのにね?」
「その程度の器だっていうことでしょう」
 彼が言うと、はくしゅんとくしゃみをひとつした。
「……知ってたんですか? 留学中の彼女のこと」
「私、それほどぼんやりしてないよ。あんなこと、いちいち言われなくてもわかってんの、余計なお世話。それに、観月くんみたいに潔癖でもないの。なんか、いいなーっていう男の子がいて、仲良くなれて、もし私を選んでくれるならそれでいいって思う。だめなら仕方ない」
「そういうものですか」
「軽蔑する?」
「いえ、別に」
 彼女がもうひとつくしゃみをしたので、観月はポケットからニット帽を取り出して彼女に差し出した。みさ紀は前髪を気にしながらも、それを頭に被る。
「私さ、観月くんからしたらチャラいかもしれないけど、割りとちゃんとしてると思うんだよね。友達多いし、人づきあいも良いし、かといっていつも誰かと一緒じゃないとだめってわけじゃない。さっきだって、彼が出てったあと一人でちゃんとバーガーセット完食したし。ゴ……Gが出たって、さっさと始末できる。見た目だってそんなに悪くないでしょ。でも、私がいいなって思う、顔の良い男の子はどうしてだか最終的に私を選ばないんだよね。なんでだろ? 頭の良い観月くんなら、わかる?」
 お互い吐く息が白い。何もこんな寒い場所で話し込まなくてもよいのだが、観月はやはり冷えた空気が嫌いではない。
「わかりますよ」
「本当に?」
「ええ。言ってさしあげましょうか? ずばり、あなたは男の趣味が悪い」
「……あー……うすうす思ってはいたけど……」
 は両手をジャケットのポケットにつっこんだ。
「あなたの好きなタイプの下らない男たちは、きっとあなたが傷つかないと思っているんですよ。なぜなら、あなたはいつも強くてしなやかできれいだから」
 はポケットから出した手を口元にあてて、息を吐く。観月と変わらぬ位置の目線でその目を伏せた。心なしか頬が赤い。
「……じゃ、どーすりゃいいの」
「そうですね、例えば、あなたに好きな男がいたとして、あなたが本当に望むことを伝えれば良いんだと思いますよ。……あなたそういう事、あまり言わないのではないですか」
「うーん、言われてみればそうかな? 私、結構わがまま言わない。……本当に望むことか……」
 は目を閉じて大きく深呼吸をして、そしてささやくように言った。

「……私だけを好きになって」

 冷たい冬の空気の中、その声はキラキラのダイヤモンドダストのように観月の耳に入り込む。

「いいでしょう!」

 彼が胸を張って言うと、はまた大きくくしゃみをした。
「あれ、今の、そういう話じゃないと思うんだけど」
 そう言って笑った。
「そういう事にしてもいいんですよ。ちょうど、頼みごとはあと二つのこっていますから、これで二つ目です。しかと心得ました」
 ヒールのおかげで、ほとんど同じ身長になっている彼女を、観月はせいいっぱい見下ろした。
「……でも多分、私、観月くんの好きなタイプじゃないと思うけど」
「好きなタイプかどうかといえば、違うと思います。タイプではないけれど、あなたの事は好きですよ、さん」
 観月は片手を彼女に差し出した。
 はうつむいて彼の白い手を見つめ、ゆっくりとポケットから出した自分手を載せる。
 の手は思ったより小さくて、冷たい。
「……お願いごと、最後の一個になったけど何に使おう」
「常套手段を知らないんですか? お願いごとをあと100個に増やしてくださいって言うんですよ」
「そんなのありなんだ!」
 顔を上げて笑った。
「99個の願い事を使い切ったら、最後の一個でまた100まで増やすんです」
 肩をふるわせて笑う彼女の手を引いて、駅まで歩いた。
 これから電車に乗って、どこへ行こうか。

 どこまで行こうとも、彼女に願いごとを言わせることが、僕の魔法。

(了)
「観月はじめにお願い!」
2016.1.22

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