● 接地逆転層  ●

 その日はまぶしいばかりの晴天で、しかしぐっと冷える朝だった。
 おそらく日中はかなり気温が上がるにちがいないと予感しながら弦一郎は、人一倍早い時間、すっかり花の散った校庭の桜並木を抜け、朝練へと向かう。
 と、その時、一人の女子生徒が佇んでいるのが目に入った。
 彼女は一人で空を見上げ、時に桜の木を見渡す。
 弦一郎は足を止め、彼女の視線の先を追うが、何も特別な物は見つけられなかった。
 しかし彼女は、明確に何かを見ていた。
 一体何だろうか?
 彼はなぜだかむきになって、その何かを見つけようと視線を何度も走らせる。
 上空と、そして校庭の向こうの遠い空をぐるりと見上げていた彼女はふと、首からかけていたカメラをゆっくりと持ち上げた。
 そして、弦一郎と目が合う。
「帽子に気をつけて!」
 その時、数メートル離れたところに立っている彼女は弦一郎を見ると声を上げた。
 弦一郎は何の事か理解できず、手に持ったラケットを握り締めるだけだった。
 すると次の瞬間、それまで風ひとつなかった桜並木に、ごう、と力強い風が吹いた。
 あっと思った時には遅くて、深く被っていたはずの帽子はその風にさらわれてしまう。あわててそれを目で追って、弦一郎は思わず息を飲んだ。
 すっかり散って地面にうずたかく積もっていた桜の花びらが、その風に巻き上げられて地面から天に向かって一斉に舞い上がっていたのだ。
 初めて見る、何とも言えない美しい花嵐だった。
 舞い上がる花びらの中で女子生徒はカメラから手を離し、その細い腕を伸ばして彼の帽子を見事にキャッチしていた。
「……すまない」
 弦一郎が声を発して、彼女の方に歩み寄ったのはすっかり花びらが地面に落ちついてから。
「おはよう、真田くん。この帽子のせいで、すっかりシャッターチャンスを逃してしまったじゃない」
 彼女はそう言って笑うと、彼に帽子をよこした。
「ああ、そうか、すまない」
 弦一郎は、あわててもう一度侘びを言った。彼女の首からは、古いコンタックスの一眼レフがかかっていた。
「いいの。今日はおしまい」
 彼女は言うと、弦一郎に手を振って校舎へと歩いていった。
 弦一郎は何も言わず彼女の後姿を見送った。
 彼女の事は知っている。
 同じクラスの女子生徒だ。

 朝練を終えて教室へ行くと、弦一郎は自然と彼女の姿を探した。
 彼女はすぐに見つかる。
 彼女の周りにはいつも人がたくさんいるから。
 というのが彼女の名前だ。
 去年も同じクラスだったのだが、実はほとんど口をきいた事がない。 なぜなら彼女はクラスの中でも、彼とはまったくその文化や行動形式が異なるグループの、代表的な人間だったから。
 は華やかな外見と社交的な人柄から、周りにはいつもいろんな男女の友達が絶えない。時には要領よく授業をサボタージュするなど、奔放なタイプだった。
 好きとか嫌いとかではなく、あまりに自分とは異なるそのライフスタイルのため、全く関わる機会も関心を持つ機会もない。そんなクラスメイトの一人だった。
 突然の花嵐。
 古い一眼レフ。
 だから、朝のそんな出会いはとても鮮烈だった。
 そして彼女の撮影を邪魔してしまった事が多分に申し訳なかった。
 まさか、自分が彼女に迷惑をかける事が起こるなど思ってもみなかったので、少々戸惑ってしまう。
 弦一郎は昼休み、彼女が購買へと行くため教室を出た時を見計らい、急ぎ足で追いつき声をかけた。
 それまで、彼女はいつも誰かと話しており、なんとはなしに声をかけにくかったからだ。
!」
 弦一郎は低く響く声で彼女を呼んだ。
 は驚いた顔で振り返り、廊下で足を止めた。
「……なあに、真田くん。どうしたの? 大きな声出しちゃって」
「いや、朝……写真を撮ろうとして待っていたのだろう? 邪魔をして本当にすまなかった」
 仁王立ちになり、一言一言しっかりとした声で言う彼を、はしばらく驚いた顔でじっと見ていた。
「ああ、いいよ、別に。真田くんの帽子のせいで、なんて言ったのは冗談半分だし、気にしないで」
 微笑みながら言う。
「……写真を撮るのが好きなのか?」
 弦一郎は我ながら、聞かずとも良いような陳腐な事を、と思いながらも尋ねた。
「私、写真部なの。卒業アルバムに載せる写真をね、頼まれてるんだ。勿論、私だけじゃないけど。それで時々、校内の写真を撮ってるの」
「……そうか。とにかく、すまなかった」
 弦一郎は一度頭を下げると、教室に戻った。
 午後の授業が始まっても、頭の中から朝の一風変わった花嵐の映像は離れなかった。

 それから、弦一郎は朝夕の部活の時、校庭のあちこちでがカメラを構えて一人で立っているところを、時折目にするようになった。いや、彼女はおそらく前からそうやっていたのだろうけれど、そういう彼女を、彼が見つけてしまうようになったのだ。
 教室ではいつも人に囲まれている彼女が、カメラを持っている時はいつも凛と一人きりでいるのが、印象深かった。
 ある日、それはまた晴れた朝。
 あの日、鮮烈な花嵐を見せた桜並木はすでに新緑が芽生え、もう地面にすら桜の花びらはない。
 しかし、あの日と同じように空を見上げてが一人、立っていた。
 弦一郎はまた彼女の数メートル手前で立ち止まり、思わず帽子を押さえた。
 ふいにが弦一郎に気づいて、顔を向けた。
 そしておかしそうに笑う。
「おはよう、真田くん。今日は帽子、大丈夫よ」
「……」
 弦一郎はゆっくりと彼女の傍に歩み寄る。
、ひとつ、尋ねたい事がある」
「……なあに?」
 彼の改まったような言葉に、は目を丸くする。
「この前の朝……桜を吹き上げた風が来ると、なぜ、は分かったんだ?」
 真剣な顔で尋ねる弦一郎を、はじっと見て、そして口元に手をやって少し考えた。
「接地逆転層って、知ってる?」
 は恥ずかしそうに言った。
 セッチギャクテンソウ。
 弦一郎は、その聞きなれない言葉を反芻した。
「接地逆転層?」
「うん、ねえ、こっちに来て」
 は弦一郎の手を引いて、校庭へ出た。彼女のすこし冷たい柔らかい手の感触に、弦一郎は驚いてしまう。彼に、こんな事をする女子生徒は初めてだった。
「あの煙、見える?」
 彼女が指差した先には町の工場の小さな煙突があって、そこから煙が立ち昇っていた。
 そしてその煙の先は煙突からほんのすこし昇ったところで、上から潰されたように、すうっと横に流れているのだった。
「まだ少し寒いような季節の雲のない晴れた日はね、雲がないせいで地面から赤外線が放射されてしまって、夜の間に地表近くの空気が上空より冷たくなってしまうの。普通は上空の方が冷たいはずなのにね。その温度差で、ああやって地表の少し上に空気の蓋がされたみたいになる。だから、その上の層に強い風が吹いてても接地逆転層より下は風が吹かないの」
 煙を指差しながら説明する彼女を、弦一郎は驚いた顔で見つめていた。
「だけど、太陽が照って空気が温まると接地逆転層は取れて、上空の強い風がやってくる。ほら、見える? あの煙が流れてるところよりも下って、少し空がもやっとしてるでしょう? あれがクリアになってきたら、温度差がなくなって逆転層が取れてきた合図。あの日は上空の風が強そうだったから、逆転層が取れて地表にも風が吹くのを、待ってたの。木から桜が散る写真はよくあるけど、地面から吹き上げる写真て、ちょっと珍しいからいいかなって思って」
 笑顔で話す彼女を、弦一郎はじっと見つめていた。
「……はすごいな。俺はそんな事を知らなかった」
 彼は心から感心し、思わずつぶやいた。
 は不思議そうに弦一郎を見る。
「どうした? 俺は何か、変な事を言ったか?」
「……ううん、変じゃないけど」
 言って、くすくすと笑った。
「真田くんは、私みたいなの、たるんで浮ついた奴だってあまり良くは思ってないでしょう? なのに、結構ちゃんと話してくれるんだなあって少しびっくりしただけ」
「いや、そんな事は……」
 弦一郎は一瞬言葉につまる。
 確かに自分が、や彼女の周りの人間を、特に嫌悪しているわけではなくとも「自分は、ああいった浮ついた連中とは違う」という風に思っていた事は否めない。あからさまにそういう態度を取ったつもりはないにしても、やはり伝わっていたのかと、自分の思い上がりが急に恥ずかしくなった。
 言葉をなくした彼に、は微笑んだ。
「あ、ごめんね。別に皮肉を言ったつもりじゃないの。私も、真田くんは品行方正で人望もあって有名人で私達とは違うわね、なんて思ったりしてるし、お互い様」
 彼女の言葉は嫌味がなく、不思議にそのままするりと彼の中に入ってきた。
 弦一郎はぎゅっぎゅっと帽子を深く被ると、彼女のカメラを見た。
「……古いカメラだな?」
「これ、おじいちゃんにもらったの。逆転層がどうとかもね、おじいちゃんに習って、受け売りなのよ」
 は自慢げにカメラを掲げて見せた。
「ああ、そうだ、真田くん……この前の桜を撮り損ねたかわりに……」
 言ってからうつむいて、少し間をおいて、顔を上げた。
「真田くんの写真を撮らせてもらえる?」
「俺の、写真?」
 弦一郎は驚いて声を上げた。
「うん、真田くんが、部活で練習してるところをね、撮らせてもらえない? それ以外では撮らないから」
「なぜ、俺を?」
 思わず尋ねると、は空を見上げた。
「桜の写真を撮り損ねたから、新緑の学校の写真を撮ろうと思うんだけど、さっき葉桜の下の真田くんを見てたらね、すごくいい感じだったから。春から初夏にかけての季節のイメージに、なんだかぴったりで」
 言いながら視線を弦一郎に移し、少し照れくさそうに笑った。
「……そんなイメージだと……言われるのは初めてだな」
 彼もやけに照れくさくて、小さくつぶやいた。
「真田くんは、春ってどんなイメージだと思ってる?」
 不意の質問に、弦一郎は暫らく考え込んだ。
「そうだな、優しく暖かく、穏やかな感じだ」
 自分とは程遠いだろう、と思いながら答える。
「そうなんだ。でも、春ってね、一日の温度差が一番大きい季節なのよ。朝が3〜4度だと思えば昼は20度だったり。その温度差で、この……」
 は両手を大きく空に向かって広げた。
「この大地を取り巻く空気は、激しくかきまわされるの。この前、桜が舞い上がったのもその熱上昇風。だから、一年で一番激しい季節」
 ゆっくりと言って、弦一郎を見、また笑った。
「……構わん」
「え、なあに?」
「構わん、と言っているのだ。写真を撮る事を」
 弦一郎が決まり悪そうに言うと、は、ありがとう、と嬉しそうに笑ってカメラを構えるジェスチャーをした。


 晴れた日になると、弦一郎がテニスの練習をしている時、は何を言ってくるわけではないが、彼の目が届く範囲のいろいろなところでカメラを持って立っていた。
 弦一郎にとっては人から見られたり写真を撮られたりする事など日常で、すっかり慣れて気にせずに過ごせるはずなのに、なぜか休憩時間になると彼女の姿を探してしまう自分に気づき、自己を一喝しつつまたトレーニングに没頭した。
 しかしそれは不愉快な日々ではなかった。


 教室でのは、あいかわらず大勢の友達と騒いだり笑ったりで、やはり弦一郎は自分との温度差を感じざるを得ない。
 写真はどうなっているかと、一言尋ねてみようと思いつつ、なぜだかそれがためらわれる。顔を合わせると、おはよう、と笑顔で挨拶をしてくるに、教室ではどうしても挨拶を返す以上に話しかけることができなかった。
 徐々に陽射しが強くなって来ていたその日の放課後、弦一郎がいつものようにテニスコートに向かっていると、聞きなれた声が耳に入ってきた。
 すっかり新緑の桜の木の下で、切原赤也がはしゃいでいる姿が目に入った。
センパイ、俺の写真も撮ってくださいよ」
 赤也の傍には、いつものようにカメラを持ったがいた。
「だって、切原くんは二年でしょ。私たちの卒業アルバムに載っちゃ変じゃない」
 が声を上げて笑っていた。
「ええ〜、じゃあ、俺がセンパイを撮ってあげますって〜」
 赤也がふざけてカメラを奪い取るふりをする。
 なぜだろうか。
 カメラを持った彼女に誰かが話しかける事は、非常に許しがたい事のように感じた。
「赤也、何をやっとる! さっさと練習に行かんか!」
 弦一郎は腹から声を出して、赤也を怒鳴りつけた。
 赤也は飛び上がらんばかりに驚いて、振り返った。
「ウ、ウス! すんません、今、行くところッス!」
 あわてて弦一郎に頭を下げると、に手を振ってテニスコートに走って行った。
 後には、驚いた顔のが残される。
「厳しいのね、副部長、なんだっけ?」
 しばらくの沈黙の後、は弦一郎の傍に歩を進めた。弦一郎は小さくうなずく。
「赤也と……知り合いだったか?」
「ああ、彼は……ええと、去年同じクラスだった木元くんて覚えてる?」
 の質問に、去年のクラスメイトを思い返す。
「うむ。剣道部の奴だな」
「うん、木元くんの弟が切原くんと同じクラスだったの。それで、体育祭の打ち上げの時だったかな、切原くんも一緒にカラオケ行った事があるんだ。それからね、顔を合わせるとよく話しかけてきて、ちょっと懐いてくれてるみたい。面白い子よね。テニス、すごく強いんだって?」
「……うむ、しかしまだまだ自己のコントロールが必要な奴だ。厳しくして行かなければならん」
 から目をそらし、赤也の後姿を目で追いつつ彼がそう言うと、がくすくすと笑うのが聞こえた。
「一年しか違わないのに、真田くん、お父さんみたいね」
「……副部長だからだ」
 ムッとして言う彼を、は相変わらず笑いながら見ていて、弦一郎は軽く頭を下げるとそのままテニスコートに向かった。


 教室ではあいかわらず、ほとんどと話すことのないまま。
 その日も自分の席につきながら、挨拶をしてきたに、おはようとだけ返した。すると、彼女はいつものようにそのまま通り過ぎる事をせず、彼の席の前で足を止めた。
「真田くん、今、ちょっと良い?」
 遠慮がちに小さな声で言う。
「……ああ、何だ?」
 弦一郎が驚いて顔を上げると、は白い封筒を彼の机に置いた。
「写真、いくつか焼いてきたの。見てもらえる?」
 彼女は封筒から八つ切り判の写真を出して、机に広げる。
 それはいつも雑誌の写真などで使われるような真ん中に自身が大きく写ったものではなく、校舎の風景の一部にとけこむように彼の姿が写った写真だった。それでも、どの写真も、一目で真田弦一郎だとわかるような雰囲気を写し撮っており、そして一緒に写る新緑は匂い立つようだった。
「……良い写真だな」
 自分の写った写真をそう言うのはなんとも照れくさかったが、心からそう思ったので、そのままを口にした。
「本当? よかった」
 はぱあっと顔をほころばせ、じっと弦一郎を見た。
「……何だ?」
 彼女があまりにじっと見るものだから、余計に照れくさくなって抗議するように、そうつぶやいた。
「ううん、今日、こうやってちゃんと写真を見せられてよかったなって思って。真田くんはいつも、あまり教室では私と話したくなさそうだったから」
 弦一郎は思わず背筋を伸ばした。
「どうしてだ? まったくそんな事はない」
 きつく締めてある制服のネクタイを、ほんの少しゆるめて、密かに息を吐く。
「俺は……が、俺にはあまり話しかけて欲しくないのではないかと思っていた」
 そのまま彼女の顔を見ず、照れ隠しのように机の上の写真に目を落とした。
 改めていくつか写真を見ていると、ふと一枚に目を奪われた。
 新緑の桜の木の下で素振りをする弦一郎が写っている。
そして、その桜の枝の、まるで彼の熱気で吹き上がるかのように揺れている様が、見事に捉えられていた。
 今まで一度も見たことのないような、自身の写真だった。
「……、よかったら、この写真を俺にも焼いてくれないか?」
 思わずそれを指して言った。
 すると、は身を乗り出して嬉しそうに笑う。
「これ、私も一番気に入ってるの。よかった。今度、もっと大きく焼いて持ってくるね」
 弦一郎はその笑顔をまっすぐに見つめた。

 俺は彼女のようにはならないし、彼女も俺のようにはならないだろう。
 けれど、同じ時に生きて、同じ物を見ているのだ。

 突如、それまで感じていた彼女との温度差がなくなった。
「……新緑も良いが、また地面から吹き上げる桜を見たい。ああいう風が吹く時には是非、教えてくれんか。万難を排しても、駆けつけて見に行く」
 まっすぐにの目を見たまま言う彼に、来年の約束なんて気が早いねと、彼女は笑った。
 温度差がなくなった今、あの花嵐をおこした暖かい風が、今ここで二人を取り巻いて吹いているような気がした。



2007.3.27

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