● ごめんね  ●

 夢のような出来事だった。
 私の携帯電話に、真田弦一郎くんから電話がかかってきたのだ。

『……今日はすまなかった。昨夜のからの電話を、ワン切りの詐欺まがいの電話と勘違いしていた。で、何の用だったのだ?』

 前置きもなくそんなぶっきらぼうな言葉。
 一体全体どうしたら同級生からの着信を詐欺だとか勘違いできるの、ということも既にどうでもよくなるくらいに私は舞い上がってしまったけど、ここ数日ずっと心にとどめていた、
『テニス部の県大会の試合を観に行って応援したいと思ってるんだけど、部の関係者じゃなくても行っていいのかなあって、聞きたくて』
 と、話すことができた。
 やっと、やっとだ。
 私がそう言うと、電話の向こうの真田くんは一瞬沈黙して、軽い咳払いの後、試合開始時間や会場の場所を丁寧に教えてくれた。
 あまりのスムーズさに、私は彼の言葉がさっぱり頭に入らない。まあ、開始時間や会場は知ってるから大丈夫なんだけど。
『……会場の場所はわかるのか、!』
 私がぼーっとしているからか、真田くんが怒鳴る。
「あ、ああ、うん、大丈夫、わかるよ」
 あわてて言うと、真田くんは、会場の近くは食事を取るところがないから弁当を持参するようにだとかそういったことまでも教えてくれた。さすが、風紀委員長だ。
「あの」
『なんだ、まだわからないことがあるのか』
 これだけは言い忘れてはいけないと思って。
「明日の試合、頑張ってね」
 おずおずと言うと、真田くんのフンと鼻で笑うような息を吐く気配。
『常勝立海大が県大会ごときで負けることなどありえない』
 そりゃそうだよね。
「あ、そうだよね、ごめんごめん。あの、じゃあゆっくり寝てね、おやすみなさい」
 そう言って通話終了。
 私は携帯電話を眺めて、そして着信履歴を確認した。
 真田弦一郎。
 まちがいなく、そう表示されている。
 通話時間は約3分。
 携帯電話をベッドに放ると、私はあわててお風呂に向かった。
 、もうお風呂入ってたじゃないの! とお母さんに怒鳴られたけど、知らん顔。
 こうしてはいられない。
 さっきまで泣いて泣きはらした目をなんとかしなきゃ。
 そして、もういちど髪を洗ってちゃんと乾かして、巻いておかないと!
 お風呂の中ではパックをしたりマッサージをしたり、私べつに選手でもないのに、とりあえず思いつく限りに自分のできることをやった。
 水分も取っておかなくちゃ、とお風呂上りにはきちんと水も飲んで、そしてベッドに入るけれど、さっぱり寝付けない。
 寝ようとして目を閉じては、携帯電話の着信履歴を見る。
 真田弦一郎。
 真田くんが電話をしてくれたんだ。
 胸が熱くなってどきどきして、目が回りそう。
 本当に夢みたい。
 夢みたい、真田くんから電話がかかってくるなんて。

 そう、夢みたい。
 本当に夢だったらよかったのに。

 そう思ったのは、翌日。
 昼すぎのことだった。
 興奮をしてなかなか寝付けず、やっとうとうとしたのが明け方の4時くらいだった私は、見事に寝坊をしたのだ。
 ベッドで目を覚ましたのは正午もまわったころ。
 携帯電話で時間を確認し、そしてもう百回くらい確認をした着信履歴を見る。
 真田弦一郎。
 やっぱり夢ではない。
 真田くんに、試合を応援しに行くねといって、まるっと寝坊をしてしまったことも夢ではないのだ。
 立海大附属の試合は午前中だから、もうすでに終了している。
 目の前が真っ暗とは、まさにこのことを言うのだろう。
 巻いた髪を悲しくほどきながら、私はベッドから動けなくて、どうしたらいいのかわからなかった。
 どうしよう。
 真田くんがあんなに親切に会場の場所やなんかを教えてくれたのに。
 あんなに必死に、応援に行くって言ったのに。
 でも、立海テニス部の応援にはすっごく沢山の生徒が行ってるって聞くから、私がいるかいないかなんて真田くんにはわからなかったよね。試合観たか、なんて会話をすることもないだろうから、私が行ってたかどうかなんてきっと真田くんは気づかない。もし万が一にでも聞かれたら、実はお腹が痛くなって……とでも言おうか。
 そんな風に考えるものの、私は胸が苦しくて、大きなため息をつくばかり。
 昨日は、神様はいじわるだ、真田くんはいじわるだ、なんて思っていたけれど、ダメなのは私。
 どうしてこんな大事な時に寝坊なんてしちゃうんだろう。
 もう今日は一日なにもする気になれない。
 本当にお腹でも痛くなればいいのに、熱でも出ればいいのに。
 そう思いながら再度ベッドにもぐりこんだ瞬間。
 私の携帯電話が鳴る。
 心臓が口から飛び出そうになりながら手にとると、発信者は柳蓮二。
 番号は知っていたけれど、かけることもかかってくることもないだろうと思っていた相手。
 嫌な予感がする。
「……はい、もしもし」
 おそるおそる出ると、ざわついた空気が伝わってきて、彼が出先であることがわかる。そりゃそうだよね、試合の帰りだろう。
「柳だ。今、電話していて大丈夫か」
「うん、大丈夫、どうしたの」
 私の心臓はどっきんどっきんと音を立てているけれど、なんでもないように答える。
「今日、試合を観に来る予定ではなかったか?」
 そして、ずばりの問い。
 どう答えたものか、一瞬迷う。実はお腹が……と言おうとして、柳くんにそういうことは通用しないだろうと観念した。
「……あ、うん、そうだったけど……」
 とりあえず、そういった曖昧な返答をしてみる。
 電話の向こうで、柳くんがあの細い目のままフと笑うような気がした。
「おそらく、昨夜、弦一郎からの電話を受けてテンションが上がりすぎてなかなか寝付くことができず、寝坊をしてしまい、今に至るといったところか」
 彼の言葉を聞いて絶句。その後、つい『どうしてわかるのー!』と叫んでしまう。階下では、『! 起きてるんなら、さっさとご飯食べなさい!』とお母さんの怒鳴り声。
「今から出てこれるか」
 私の疑問には一切答える必要はない、といった風に柳くんが続ける。
「え? 今から? どこに? どうして?」
 そんな間抜けな私の問いに、彼は優しく続けた。
「今日の試合の結果を報告してやろうと思ってな」
 そんな生易しい理由だけではないだろうことは想像できるけれど、一体何が私の身に起ころうとしているのかはわからない。
 けれど、私に選択肢はないことだけは確か。
 柳くんからは、試合会場の最寄の駅の近くのランドマークを指定され、私はユウウツな気分で支度をし、家を出た。
 休日の外出だというのに制服、というのが、私の沈んだ気持ちを表しているだろう。だって、これ以外もう一体何を着て出かけたらいいのか頭が働かないのだ。
 香里奈ちゃんに一緒についてきてもらえばよかったな、なんて思いつつも、でもこんな話、情けなさすぎてとても言えない。せっかく、大好きな真田くんと約束をしたのに寝坊をしてしまったなんて。
 はーっと周囲にも響くくらいのため息をつきながら、私は待ち合わせ場所の時計の前へ向かった。
 先に到着している制服姿の柳くんは、すらりと背が高くてとても目立って、すぐにわかった。雰囲気は穏やかなんだけど、ちょっと何を考えているのかわからないところがある。そういえば、香里奈ちゃんは柳くんとけっこう話をするみたいだけど、つきあってたりするのかしら、なんて思いながら『お待たせ……』と彼に近づき、手を振る。
「やあ、。呼び出してすまなかったな」
 テニスバッグを背負って、いつもの落ち着いた声ですがすがしく私の名を呼ぶ柳くんよりも、私はその背後にふと視線がいく。
「……ああ、すまない。俺ひとりで来るつもりだったのだが……。ああ、心配しなくても弦一郎はここにはいない」
 私の疑問の三歩も四歩も先を行く柳くんをキッと睨むと、その背後からひょこっと顔を出すのは、モジャモジャ頭の下級生。
「こいつは、2年生で唯一レギュラーの切原赤也だ。まあ、見知っておいてくれ」
「はあ……」
 そんなことを言われても……。
「おっ、参謀、この人っすか! 真田副部長に片思いをして、誕生日プレゼントを渡そうとして泣かされたって人は! ほんとだ、結構かわいーじゃないすか!」
 そして、その赤也ってもじゃもじゃくんの遠慮のないことば。
 私は思わず額に手をあててうつむいてしまう。
「……切原くんって、2年生だよね。なんでそんな事知ってんの……」
 無駄なことだと思いながらも、抗議めいて言ってみる。
「だって、有名じゃないスか! あの鬼の副部長に惚れて玉砕しまくってる、結構カワイイ人がいるって、もうテニス部じゃその話題で持ちきりッスよ!」
「赤也、いいかげんにしないか」
 そこで、さすがに柳くんが彼のテンションをさえぎる。
「お前は何をしに来た。先に帰っていろと言ったのに、今日の試合の展開で最も活躍した選手として報告をしたいと、そう言ったんだったな、赤也」
 柳くんが言うと、切原くんはピシッと姿勢を正した。そっか、柳くん、試合の報告をしてくれるって言ってたっけ。
「そうそう、もちろんそうっスよ! 決して興味本位でついてきたんじゃありませんってば! えっと、立ち話も何なんでそこいらでコーヒーでも飲みながら話しまショ」
 彼はそう言うと、ショッピングモールのテイクアウトの店にとびこんで、カップのコーヒーを三つ持ってきてくれた。テニス部の後輩のしつけは、まあまあといったところか。
 オープンカフェのテーブルで、私たちはコーヒーをすする。私はブラックは苦手なので、砂糖とミルクをたっぷり。
「つまりですね、幸村部長不在の今、われわれ立海大附属は無敗で勝ち進んでいくことを誓っていてですねえ、この県大会なんか決勝の3試合を1時間で終らせるというスピード勝利! 2年生ルーキー切原赤也の最短試合記録はどんどん塗り替えてやんぜ!」
 2年生の切原くんはいかに今日の立海が見事に勝ち進んで行ったかを臨場感たっぷりに教えてくれた。それは喜ばしい嬉しいことなんだけど、試合、1時間で終ったんだ……寝坊してる場合じゃなかったよね、つくづく……。
「とまあ、試合の状況は赤也が報告してくれたとおりだ、
 おそらく自身も見事な活躍をしただろう柳くんは、さして語りもせず。勝つなんてこと、当たり前すぎてっていう感じか。
「ところで繰り返すが、今日は試合を観に来るはずだったんだろう?」
 ついにキター!
「あ、うん。……誰かから聞いたの?」
 柳くんはかすかに口元をほころばせた。
「聞くとしたら、ひとりしかいないだろう。今朝、弦一郎が言っていたぞ。今日はが試合を応援しに来るらしいが、あいつは泣き虫だから何かの時には気を遣ってやってくれとな」
「え、ええー、真田くんがそんなことを?」
 私は戸惑いを隠せない。
「ああ、そうだ。試合が終るまで、立海の応援ブースをちらちらと見ては、『を見なかったか』と気にしていた」
「そ……そんなに律儀だったんだ、真田くん……」
 はぁー、とため息をついて両手で顔を覆ってしまう。真田くん、約束ごとになんて律儀なの……!
「結局、の姿は見かけずじまいのままに会場を後にすることになってな、弦一郎は『あいつはぼーっとしていそうだから道に迷ったのか、はたまた急に病気でも患ったのか、いやもしかしたら来る途中で事故にでもまきこまれたのか……』とひどく心配をしていた」
「え、え、えええー!」
 私、軽い気持ちでお腹痛かったとか言おうなんて思ってたの、撤回! そんなこと、とても言えない……。
「ってなわけで、ウチは試合には圧勝したんスけど、真田副部長、機嫌悪くてかなわないんスよ。センパイ、いっちょ真田副部長のところに行ってブチューと祝福のキッスなんかをお見舞いしてやってくださいよ!」
 そこで、切原くんがたたみかけてくる。
「なっなっ何言ってるの! 私と真田くんの今までのこと知ってるんでしょ! だったら、そんなのできるわけないってわかるじゃん!」
 柳くんが、切原くんにメッという感じで大人しくさせてから、コーヒーをひとくち飲む。柳くんは見た目の印象どおり、ブラック。
「赤也の言うことは大げさだが、まあ、弦一郎がひどく気にしていたのでな、学校で顔を合わせたら、応援に行けなかったことを一言詫びて、そして勝利を労ってやってくれ。なんだったら、電話をしてやってくれてもいい。まあ、今回はそれだけをに言っておきたくてな。も寝坊をして呆然として、どうしたらいいかわからなくなっていただろう」
 これまたお見通し。
 そっか、真田くんに一言か……。
「……どうしよう、何て言ったらいいんだろう。寝坊しちゃってごめんねじゃ、通じないよね……」
「だから! ブチューでいいじゃないスか! センパイがぎゅっと手を握って、じっと見つめてブチューとやればイチコロっすよ! なんだったら俺が練習台になりましょうか?」
 切原くんは面白半分に立ち上がって、私の方に身を乗り出す。
「だから、そういうのできるわけないって! 私、怒られて怒られて何度も泣かされてるんだよ。好かれてるわけないじゃん!」
 言ってみて、今までのことを思い返す。
 怒られて泣いてを繰り返し、そして少しずつ話せるようになったのに。電話番号やメルアドの交換までできるようになったのに。そして、昨日なんかは真田くんから電話をもらったというのに。
 今日の寝坊で台無しだ。
 じわりと涙がにじんで、ぽろぽろと泣き出してしまった。
「あちゃー、参謀、このセンパイほんっと泣き虫なんスね、どうしよう」
 切原くんはポケットをさぐってくしゃくしゃのハンカチを出してくれる。
「くしゃくしゃだけど、汚れてないっス」
 そう言ってそれを私の手にぐいと押し付けた。
「うん、ごめんね、私なんだかすぐ泣けてきちゃって……」
 そのハンカチで涙をぬぐったその瞬間。
「こらー!赤也!」
 ショッピングモールに響き渡るような野太い声。
 びくりと驚いて振り返ると、それは大きなテニスバッグを背負った、鬼のような形相の真田くんだった。
「ひっ、真田副部長!」
 切原くんの声がひっくりかえる。
 彼の姿を見て、私はまた驚いて目を丸くする。
「赤也! に何をした! どうしてを泣かせている!」
 同じくびっくりして目を丸くしている切原くんは、あわてて立ち上がり後ずさる。
「ななななな、何にもしてないスよ、俺! このセンパイ、すぐ泣くもんだから……! あっ、しまった俺、これからジャッカル先輩たちと約束があるんで、失礼します!」
 立ち上がって姿勢をただし、深くお辞儀をした後彼は猛ダッシュでその場を去った。
 私は何が何だかわからなくて、助けを求めるように柳くんに目をやるけれど彼はまったく慌てる風もない。
「蓮二、どういうことだ。どうしてここにがいる」
 真田くんは柳くんを睨みつけるような強い目。
 一方、私の手にある切原くんのハンカチを見て眉間にしわをよせ、それを奪い取ると、自分のバッグからハンドタオルを出してくれた。んん? こっちを使えってこと?
「……今日の試合、は観そこねたようだったからな、今回のウチの見事なスピード試合を赤也が説明していたんだ」
 どうして私がここにいるかという質問については、うまいことはぐらかせて彼は答えた。
「俺はこの後、書店に寄る用があるんでな、は弦一郎が送っていってやってくれ」
「え、ちょっと柳くん!!」
「おい、蓮二!」
 とりのこされた私たちは、なんとも気まずくてしばらく立ち尽くす。
「……駅ビルのスポーツショップでバーテープを買いに行っていたんだ。まさかこんなところで、と蓮二たちが一緒にいるとはな……」
 彼の眉間のしわは深く、機嫌は悪そうだ。
「あの……今日の試合、快勝だったみたいね。おめでとう」
 私の言葉に、彼は何も返さない。
「今日、私……」
 何て言ったらいいだろう。
 だめだ、上手い言葉が思いつかない。
 ううん、だめだ。
 ありのままにちゃんと言うしかない。
「……実は私、さっき柳くんにここに呼び出されたの。試合結果を報告するからって。それと……私が試合会場にいなかったこと真田くんが心配してたかもしれないから、きちんと話しておくようにって」
「お、俺は別に心配など!! がいたかどうかなど、まったく気付きもせんかったわ!」
 そんなに大きな声で怒鳴らなくても……となだめたくなるのをぐっと堪えた。
「真田くん、ごめんなさい」
 私が言うと、彼は一瞬目を大きく見開いた。
「私、実は今朝、寝坊しちゃったの。目が覚めたら昼過ぎだった。試合の応援に行くの、あんなに楽しみにしていたのに。せっかく真田くんから電話をもらって、場所や開始時間やなんか丁寧に教えてもらったのに」
「……寝坊……だと?」
 たるんでますよね、うん、たるんでる。もうそれはよくわかってる!
 真田くんの怒号を覚悟しながら、彼が持たせてくれたタオルをぎゅっと握り締めた。
「昨日、真田くんと電話で話してから、なんだかもう寝付けなくて、眠るのが明け方になっちゃって……。目覚しいくつもかけたんだけど、起きられなくて。本当にごめんなさい」
「……俺の電話は、眠れなくなるほどプレッシャーだったか」
 彼が意外なくらいに静かな声で言うものだから、私ははっと顔を上げた。
「違うの!」
 深呼吸をして、そしてもう一度タオルを握り締める。
「真田くんから電話をもらって、試合観にいっていいんだって教えてもらって、すごく嬉しくて。そしてドキドキして、電話での声を何度も思い出して頭の中で繰り返してたら、眠れなくなっちゃったんだよ。だって、好きなんだもの」
 あれ、私。
 今、一生懸命説明しようとして、すごく大事なことをさらっと言ってしまった?
 好きなんだもの。
 これ、聞こえた?
 おそるおそる真田くんの顔を見上げると、彼は眉間にくっきりしわを刻み込んだまま、だんだんと顔を赤くし、その怒りは頂点に達した様子だった。
「……そのようなことを軽々しく口にするではない!たるんどる!!いいかげんにせんか!」
 本日MAXの怒号が鳴り響いた。
 新しい発見。
 本当に絶望的な気持ちになると、涙も出ないものなんだ。
 私は目を閉じた。
 2年生の時、転校してまもない頃、好きになりたての真田くんに誕生日プレゼントを渡しに行って泣かされて玉砕したこと。その後、あやまりに行ってすぐに泣いちゃったこと。
 いろんなことを思い出す。
 やっと渡せた今年の誕生日プレゼント。うっかり間違えて送ってしまった告白メールの奪還。頑張れたこともいくつかあるけど、もしかして少し仲良くなれた?っていうのは、やっぱり私の贔屓目だよね。
 今、確かに私は好きって言って、真田くんは怒鳴り声で即答。
 これ以上、解釈のしようがない。
 今日はもう泣かないよ。
 真田くんに、これ以上迷惑はかけられない。
「……今までごめんね、真田くん」
 私が静かに言うと、真田くんは、部活の時にいつも被っている黒いキャップのつばを所在なさげに指でもてあそぶ。
「は? 何がだ?」
「私、真田くんが好きで少しでも仲良くなりたいと思って頑張ってたけど、結局泣き出したりして、迷惑かけちゃって。そのせいで真田くんも皆にもからかわれて、嫌な思いをさせてしまったと思う。私の方はね、いいの。どきどきして、好きでいるの楽しかったから、気にしないで」
 鼻の奥がかすかに痛い。でも大丈夫。
「お、おい、……!」
「次の関東大会も頑張ってね。じゃあ」
 私は切原くんがしていたみたいに、深くきちんとお辞儀をするとくるりと真田くんに背を向けた。
 そうか。
 本当に悲しい時って、やっぱり人前じゃ泣けないものなんだ。
 部屋で一人になって、その時に本当の悲しさがやってくるんだろうな。
! 待たんか!」
 背後からの真田くんの声とともに、私の制服のシャツの背中がぐいとつかまれる。
「わっ」
 おどろいて振り返ると、真田くんがあわてて『すまん、つい……』なんて言う。
 そして唐突に言うのだ。
「関東大会は7月だ。追って時間は連絡する。寝坊するな」
 え? それは試合を観に来いってこと?
「……あの、私が立海大附属のテニス部を応援する気持ちはそりゃかわらないけど、その時期はまだ失恋を引きずってるかもしれないから、ちゃんと割り切って回復して行ける気持ちになってるかどうか、今は約束できないよ……」
 私は言葉を選びながら、もじもじと答えた。だって、軽い気持ちで、ああ行くわなんて言えない。
!」
 また彼の怒号。なれているとはいえ、やはりびくりとして飛び上がってしまう。
「いいから、試合を観に来い。……全ては仕切りなおしだ」
「仕切りなおし?」
 私が聞き返すと、彼は帽子のつばを指でつまんで困ったような顔をしている。
「だいたい、が寝坊をしたのが諸悪の根源だ。その寝坊から、なかったことにしてやると言っている。寝坊の理由も……今回は聞かなかったことにする」
 真田くんはえらそうに言うのだ。
「えっ、聞かなかったことにって、何をそんな勝手な……」
こそ、勝手に物事を決めるな。我々、立海大附属中テニス部にも都合というものがある」
 今の私と真田くんの問題が、いきなり立海レベルにすりかえられ、さっぱりわからないけれどそう言われてしまうと確かにそうかもと思ってしまう。そうか、今日寝坊をして試合を観られなかった私、確かに関東大会は応援に行かないといけないよね、と。
「そ、それもそうだね。ごめんね……」
「関東大会の時は寝坊するなよ」
「はい、気をつけます……」
 帰るぞ、というように真田くんは片手で私を促す。柳くんが言ったとおり、送ってくれようとしているのだろうか。
「ああ、それと
「ん?」
「……関東大会の時は、あれを持ってこい。まあ……まだあったらの話だが」
「は? あれ? あれって?」
「あれといったら、あれだ! あの時の……青いやつだ。もう捨てたのだったら、それで構わない」
 あ、と心の中で声を上げた。
「……もしかして、2年の時に真田くんに渡しに行って怒られた誕生日プレゼント?」
 青い包みに青いリボン。
「あ、あれ、まだあるよー……」
 つつみもリボンもそのまま、クローゼットに黒歴史としてしまってある。
「……こういうのは、けじめだからな。関東大会で俺が勝ったら、あれをもらうことにする」
「えっ、そうなの!? 今更もらってくれるの!? 包装がしわしわになってると思うから、ちゃんと包みなおしておくけど」 
 そう言うと、いやあのままでいい、とだけ言う真田くん。
 真田くんは、やっぱり何を考えているかよくわからないけれど、とりあえず私は目覚し時計を二つほど買い足そうとだけは決心した。
 日焼けをする夏なんてキライって思っていたけれど、7月が待ち遠しい。
 にやにやする顔を見られるのが恥ずかしくて、せっかく隣を歩いている真田くんの顔は見られずじまいの、休日の、午後。

(了)
2012.12.23

-Powered by HTML DWARF-