● 彼女の紳士録 --- ラストミッション〜エピローグ ●

 ラストミッションはひとりで。

 そう言ったの言葉を、柳生比呂士は幾度も頭の中で反芻した。
 彼女は真田弦一郎に果たし状でも突きつけるつもりなのだろうか。
 一体いつ決行するのかはわからないが、決意を聞いた翌日、いまだは普段どおりで弦一郎に話しかける様子はない。
 普段どおり、というのは少し違うかもしれない。
 斜め前の席の彼女を改めて見た。
 授業での配布物を周りのクラスメイトとやりとりする時など、以前までは彼女は男子生徒とは視線もあわせようとしなかった。今では、きちんと眼を見てふわりと笑い「ありがとう」と言いながら配布物を受け取っている。
 柳生が彼女にあのような練習メニューを提案したのは、ひとつはバスケ部部長として困っているという状況をなんとかする力になれば、というクラスメイトとしての親切心であった。
 もうひとつは、弦一郎の前で困り顔でびくびくしている彼女より、時折見かけていた溌剌と笑っている彼女の方が好ましいと思ったから。
 ちょっとした打開策により普段からが本来の姿で生き生きとすごせるのなら、その方がいいと感じたのだ。
 その事は間違っていなかったと思っている。
 そして、自分が考えた練習メニューは概ね成功したといえるだろう。
 それなのに、柳生は妙に気持ちが晴れないまま。
 女子生徒たちとだけでなく、男子生徒も含めたクラスメイトで楽しそうに笑う彼女を遠目で見ることが、どうしてこんなに胸に重くのしかかるのだろう。
 そんな思いを胸に抱えたまま、終業後に部室へ向かおうとすると、廊下で肩を叩かれた。
「柳生、今日はあれだぞ、忘れるな」
 振り返ると弦一郎が彼に追いつき、並んで歩いた。
「……ああそうでしたね! 私としたことが、忘れかけていました」

 今日、柳生と弦一郎で予定していたのは、歴代テニス部が獲得したトロフィーや優勝旗の整理だった。
 比較的新しいものは部室に飾ってあるのだが、古いものは校長室横の専用の部屋に仕舞ってある。それを年に2回ほどクロスで磨き、並べなおす。今回は二人が担当することになっている。代々、これは三年生の役目だった。
「入梅前に、きちんと磨いておかなければな」
 二人でトロフィーや盾をテーブルに並べ、ひとつひとつをクロスで磨いていく。磨き上げたトロフィーは、汚さぬように手袋をはめた手で丁寧に仕舞いなおした。
「時に、柳生」
 トロフィーを磨きながら、弦一郎が顔を上げた。
「はい、何でしょう」
「同じクラスのバスケ部のは、赤也に勉強を教えてくれたりもしていたようだが」
 突然出された名前にドキリとした。
「どういう風の吹き回しかわからんが、今日の帰りがけに俺に手紙をよこした」
 その言葉に、柳生は手に持ったトロフィーを落としそうになる。
 深呼吸をしてトロフィーをテーブルに置いた。
「て……手紙ですか」
 ついに果たし状をたたきつけたのだろうか。
「そうだ。なんでも、明日、学食で二人で飯を食わないかということだ」
「なっ……」
 思いがけない言葉に、つい声が漏れた。
 が弦一郎に笑顔を向けて、共に食事をする姿が頭をよぎり、胸の奥が突然にざわつく。
「ああやって赤也の勉強に協力をしてくれたこともあるし、俺もテニス部副部長として何かの助けになることがあればよいのだが」
 そう話す弦一郎の表情は、普段とおりの仏頂面ではあるが、どこかしら雰囲気はやわらかい。
「……」
 気がつくと、柳生は片方の手袋を外して弦一郎の足下に投げつけていた。
「む……?」
 トロフィーを磨きながら、弦一郎は足下を一瞥した。
「軍手が落ちたぞ、柳生」
 柳生は眼鏡を押さえながら首を振った。
「……私としたことが……」
 ため息をついて手袋を拾い上げる。
「そもそも、真田くんに西洋風の流儀は通じませんね」
「何か言ったか、柳生」
「あ、いいえ、なんでもありません」
 再び手袋をはめると、トロフィーを仕舞い始めた。



 作業を終えた柳生は保管室の鍵を職員室に返却に行った後、近道のため中庭を通って部室へ向かった。
 は自分自身でラストミッションを企画し、ちゃくちゃくとクリアしようとしている。
 喜ばしいことではないか。
 それなのに、どうして自分はこんなにも気持ちが沈む。

「柳生さん?」

 聞き覚えのある声で名を呼ばれ、足を止めるとトレーニングウェアのが立っていた。
「あれ? 今から部活?」
 普段ならとっくに練習開始しているだろう時間に、まだ彼が制服姿であることが意外だったのだろう。
「ええ……少々作業があったものですから。ほら、部のトロフィーの管理ですよ。どちらの部でも時々やっているでしょう」
「あ、そうか、テニス部は今日だったんだ。テニス部は沢山あるものね、トロフィー」
さんはこれからトレーニングですか?」
「うんもう始まってる。今日は試合形式でやるんだけど、ストップウォッチの電池が切れちゃって。職員室にもらいに行くところ」
 トレーニングウェアで髪をまとめたは、教室で見るよりもまぶしい気がした。
 黙ったままで彼女を見つめていると、が不思議そうに首を傾げた。
「柳生さん、どうかしたの?」
「あ、いえ……そういえば、さん」
「うん?」
「真田くんに、手紙をお渡しになったとか」
 そう言うと、はぎょっとしたような顔をして恥ずかしそうに俯いた。
「あ、聞いたんだ」
「ええ。明日、一緒に食事に行かれるそうですね」
「食事っていっても、学食だよー」
 照れくさそうに手を振る。
「……やっぱり真田さんには、どうしても伝えたいことがあって……。あの、柳生さん、本当にいろいろありがとう。おかげで勇気が持てた」
 柳生の胸の奥のざわつきが、痛みに変わる。
「……そうですか、それは何よりです」
 一歩うしろに下がり、軽く頭を下げた。
「幸運を祈っています。貴女と真田くんに幸あれ」
 そう言って、くるりと彼女に背を向けるもなぜか足が動かない。
「……と言いたいところなのですが」
 柳生はまたの方へ向き直った。
 はストップウォッチを手に立ち止まったまま、彼を見ている。
 テニスバッグを植樹の根元に置いた柳生は、ずんずんとの前に歩み寄った。

「失礼いたします」

 そう言うと、彼は左手での腰を抱き寄せた。
 右手を頭に添え、彼女の顔をぐいと上に向けるとその半開きの唇に自分のそれを重ねる。は眼を見開いたまま。指を髪に差し入れ、ぎゅうとその身体を胸に抱いた。長身の彼女だが、柳生の腕にはすっぽり隠れてしまう。
「……柳生さんっ……」
 彼女の声で、彼は弾かれたように身体を離した。
「最後の非礼をお許しください。今度こそ本当の意味で、アデュー、と申し上げます……」
 深く頭を下げ、ラケットバッグを背負うと足早にその場を離れた。
 胸の奥のざわつき、痛み、熱。
 まるで身体の中で火山が噴火したようだ、と彼は感じた。


 翌日の朝、部活の朝練を終えて教室に言った柳生はついついの席から眼をそらす。
 それでも、今日ラストミッションを迎える彼女の幸運を祈らないわけにはいかない。
 そして、昨日の自分の衝動的な非礼を詫びなければならない。
 意を決して斜め前の彼女の席に視線を向けるが、そこに彼女の姿はなかった。
 席を外しているのだろうか。
 ちらちらと眼を配りながら過ごしていると、いつしか授業開始の時刻が近づいている。
 彼女の机の様子からすると、教科書や筆記用具は出ているし登校はしてきているようだ。
 彼女の身に何かあったのだろうか。胸騒ぎを覚えながら、柳生はそれとなく近くの女子生徒に問うた。
「もうすぐ授業が始まりますが、さんはどちらに?」
「あ、なら保健室に行ったよ」
 その言葉を聞いたと同時に、柳生は教室を飛び出した。
 動揺しやすい彼女のこと、昨日の自分の行為がなんらかの影響を及ぼしているのだろうか。やはり自分は取り返しのつかないことをしたのかもしれない。
 普段の彼なら絶対にしないことであるが、始業前の生徒の流れに逆らいながら保健室まで廊下を走った。
 保健室の前に立ち、呼吸を整え扉を開けようと手を近づけた瞬間である。
 中から扉が開いて、思わずびくりと後ずさった。
 出て来たのはで、きゃっ、と驚いた声が漏れ、柳生を見上げてまた小さく驚きの声を上げた。
さん! お体が悪かったのでは!」
 は後ろ手に扉を閉めて、静かに、と指を立てて廊下に出る。
「……友達の付き添いで来たの」
「あっ……」
 扉から離れつつ、柳生は自身の早合点を思い知った。
「……てっきり昨日の私の非礼が、貴女の体調不良をひきおこしてしまったのかと……」
 安堵の息を漏らし、胸を押さえた。
 授業開始が近づき人気のなくなった廊下に、彼の吐息が響く。
 昨日、弦一郎から手紙の話を聞いた時、中庭で彼女を抱き寄せた時。今、が体調不良かもしれないと勘違いをした時。
 思えば、自分は後悔の連続だった。
 悔やむことはもう最後にしたい。
 背筋を伸ばしてを見据えた。
さん」
「はい?」
「本来であれば、私は男らしく貴女を真田くんのもとに送り出さなければならないところです。しかし、私にはそれができません。なぜなら、私は貴女をお慕い申し上げているからです。貴女が、ご自身の苦手で怖いものを克服し笑顔で過ごすことができ、それがバスケ部の勝利につながればとお手伝いして参りましたが、今となっては貴女の笑顔を独り占めしたいという自分の不届きな心と戦っている有様です。そんな私ですから例え相手が真田くんであっても、貴女を他の男には渡したくありません。昨日の私の無礼な振る舞いで、貴女を怒らせてしまったかもしれない、嫌われてしまったかもしれない。しかし、私の気持ちは誓って真剣です。さん、私は貴女が好きです」
 一気に言い終えた柳生の前では、眼を丸くしたが彼をじっと見上げている。
「……あの、柳生くん、もう少し小さな声で。……きっと中に聞こえてる……」
 彼女が恥ずかしそうに保健室を指すと、はっと我に返った柳生は咳払いをして眼鏡を指で押し上げた。
「あ……つい……申し訳ありません……」
 はゆっくりと廊下を教室に向かって歩き出した。柳生もそれに倣う。
「あの、柳生くん。そもそも、どうして私を真田さんに渡す、とかそういうことになるの?」
 の問いに、柳生は首を傾げた。
「貴女は今日、真田くんに告白なさるのでしょう? 彼にはどうしても伝えたいことがある、と仰っていたではありませんか」
「え、今日のお昼ご飯のこと? やだ、伝えたいことってそんな、告白とかじゃないよ」
 は驚きのあまりか、声のトーンが上がる。
「私、真田さんから3回も『ちゃんと飯を食っているのか』みたいに言われたじゃない。でもね、私はこれでも運動部の部長として自覚はあるし、三食欠かさずちゃんと食べてるんだよ。そういうの、ちゃんと伝えておきたいと思って。真田さんに対して上手く話せなかったとしても、目の前で私がもりもりと日替わり定食を完食したら、真田さんの心配や誤解もきっと解消するでしょう」
「……定食完食ですか……!」
「でも、柳生くんが励ましてくれて一緒に手伝ってくれた特訓がなかったら、とても真田さんと向かい合ってご飯食べる勇気なんて持てなかったと思う。それできっと、女子バスケ部はダイエットと称してろくにご飯も食べていないどうしようもない奴を部長にしているって、彼に誤解されたままだったと思う。でもこうやって勇気が持てたから、今日、真田さんの前で定食を完食できれば、きっとバスケ部は全国大会に行ける! って思って頑張るつもりなの」
「なるほど、願掛けですね」
「あ、ほんと、願掛けみたいね。ご利益ありそう」
 彼女は自分でもおかしそうに笑った。
「……つまり、真田くんのことは私の早合点だったと……」
 眼鏡のブリッジをいじりながら、柳生はきまり悪そうな顔になった。
「そういうこと」
 は大きく深呼吸をした。
「で、昨日のことだけど……」
 切り出された言葉で、柳生の胸に緊張が走る。
「怒らせてしまったかもしれないって柳生くんは言ったけど、それはその通り。怒ってる」
「……当然、そうですよね……どのように償いをさせていただければよいのか……」
 彼はがっくりと肩を落とした。
「だけど、嫌いになんてなってない」
 続いたの言葉に柳生は足を止めて、彼女の顔を見た。
 は睫毛を伏せて、照れくさそうな顔で自身の足下を見ている。
「突然あんなことして、びっくりしたし恥ずかしかったから、ちょっと腹が立った。でも、私が柳生くんを嫌いになるはずがないじゃない。柳生くんは、私が一番安心する紳士系の男の子で、一緒にいていろんな話が楽しくできる親しみが持てる男の子で、時々あわてたり早とちりをする可愛いところもある男の子で、昨日みたいに突然なことをするびっくり系の男の子で……そして、ものすごく私の胸をドキドキさせる……。そんな男の子はきっと他にはいないから」
さん……」
「私も柳生くんが好き」
 小声で言う彼女の声は、響き渡る授業開始の本鈴の音でかき消されそうになったけれど、それは確実に柳生の耳に届いていた。
 いつのまにか「柳生さん」ではなく「柳生くん」と呼ぶようになっているその響きが、脳の奥に甘く染み渡る。
 隣に並んで歩きながら、そっと彼女の指先を握りしめた。
さん、本日の貴女のラストミッション、私は遠くからでも見守らせていただいてよろしいでしょうか」
「えっ、学食で?」
「はい、食券売り場のあたりから」
「……ずっと見てるの?」
「ええ、私の大切な人が、もしも焼肉を喉に詰まらせたりしては大変ですから。そうそう、今日の日替わり定食は確か焼肉なのです。真田くんは焼肉が大好物なので、もしも残したりしたら大変な責めを受けるでしょう」
「えっ……そんな、脅かさないで……」
「大丈夫、もし何かあってもすぐに私が助けに駆けつけます」
 頼もしいね、と笑った彼女は柳生の指をぎゅっと握り返した。
 きっとこれから、彼女の紳士録はどんどん上書きされていくだろう。
 しかし、自分はその中で常に一番の男でありたい。

(了)

 2015.01.11

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