● 彼女の紳士録 --- ミッション1 ●

 翌日の昼休み、は生徒会資料室で柳生比呂士と向き合って座っていた。
 柳生は物腰柔らかく穏やかで、よく教室で本を読んでいる。一見すると文化部のようだが、強豪である立海テニス部のレギュラー選手なのだから人は見かけによらない。
「昨日お伺いしたさんの困りごとについて、私なりに傾向と対策を考え練習メニューを組み立ててみました」
「えっ? 練習メニュー?」
 その理知的な口元から発せられた言葉に、は思わず声を上げた。
「そうです。さんが苦手なものを克服するための特訓です」
「特訓!」
 徐々に嫌な予感がよぎる。
「目標とするラスボスは真田くんと設定いたしましょう。その前に、難易度の低い初心者向きの敵からクリアする必要があります」
「初心者向きの敵!?」
 はついつい彼の言葉を繰り返しては、ふうっと息をついた。
「……柳生さん、一体なにを……」
 不安そうな顔で彼を見ていると、柳生比呂士は顔の前で指を一本立てて見せた。
「最初のミッションです」
 びくりとして背筋を伸ばすに向かって、柳生の丁寧な文字で書かれたメモが差し出された。
 両手でそれを受け取りじっとそれを読んだは、顔を上げて真剣な顔で柳生を見た。
「……柳生さん、私、こんなこととても無理……!」
 柳生は銀縁眼鏡のブリッジを持ち上げ、眉間に皺をよせ厳しい顔をする。
「そんな弱音を吐いていては、とてもラスボスまで辿り着けませんよ。これは練習メニューの中でも入門編にあたります」
 はメモを見つめながらもう一度息をついた。
「……わかった、柳生さん。頑張ってみる……」
「それでこそバスケ部部長です。このような練習メニューをコーディネートしたからには、貴女の安全には私が万全の責任を持ちますのでご安心ください。決して貴女に怖い思いや不安な思い、嫌な思いはさせません。もしミッションをこなす中で、これ以上無理だと思われたら、そうですね……」
 柳生はしばし逡巡してから顔を上げて微笑んだ。
「サインを決めておきましょう。このように」
 軽く左手を挙げた。
「ダメだと思ったら、片手を挙げてください」
「……もったいつけた割には、歯医者さんみたなサインね。柳生さん」
 が思わず笑うと、柳生もふふっと声を出して笑った。



 柳生から提示された最初のミッションを決行するのは、そのまた翌日の昼休みだった。
 は一人で学食に向かい、指示されたテーブルを見た。
 そこには柳生比呂士の姿がある。
 そして、向かいに並ぶ二人は彼と同じテニス部の丸井ブン太とジャッカル桑原だ。
 昨日手渡されたメモに書かれていた内容通り。
 彼女に与えられた指示は次のようなものである。

『学食で昼食を取っている丸井くんと桑原くんたちに同席し、会話をすること』

 以上だ。
 メモを見てからテーブルを眺め、大きくため息をついた。「丸井くんと桑原くんは、どちらかといえばさんの仰る『騒がしい男子』に分類されるかと思いますが、比較的マイルドな部類と考えます。ですから、入門編としては彼らと何気ない会話を楽しむというところからでは如何でしょう。貴女の嫌な記憶を、楽しい出来事と置き換えて行く必要があると思うのですよ」ということだ。
 柳生の言うことは尤もである。も女友達から、隣のクラスの丸井ブン太はとても楽しいし話しやすいらしいということは聞いたことがある。また、そのダブルスパートナーであるジャッカル桑原はブラジル人ハーフで目立つこともあり、これまたよく名前を聞く人物だ。一見すると強面に見えるが、心優しいラテン系だと聞く。いずれの男子も、比較的女子には人気があるらしい。
 しかし、にとって男子とは人気の有る無しは関係がない。
 雷親父系か、わちゃわちゃ系か、紳士系の3種類であり、がまともに会話ができるのは紳士系のみ。
 このような二人と食事に同席して会話をするということは、にとって全く経験がないし想像をしたこともない。
 日替わり定食であるコロッケ定食を乗せたトレイを手に、一歩一歩彼らのテーブルに近寄った。
 テーブルの前で足を止めると、柳生比呂士が顔を向けて微笑んだ。
「おやさん、お一人ですか? よろしければ、こちらで一緒に如何です」
 柳生の声を聞くと、少し肩の力が抜けた気がした。
 彼がそう言うと同時に、丸井ブン太とジャッカル桑原の二人が会話を中断しての方を見上げる。
 再度、きゅっと力が入るが、身構える前に丸井ブン太がニカッと笑った。
、柳生と同じクラスだっけ? ここ、座れよ」
「あ、ありがと」
 は柳生の右隣、丸井ブン太とジャッカル桑原の向かいに腰を下ろした。
 三人とも概ね食事は終えて会話を楽しんでいるところのようだ。その会話を中断して、彼らが自分に注視しているということに、はなんとも言えない緊張感を覚えた。
 こういう時、どうやって会話を切り出したらいいのだろう。まったく見当もつかない。
 とりあえずモソモソと千切りキャベツを口に運んだ。
「そういやって、バスケ部の部長だったよな」
 ジャッカル桑原が口火を切った。
「あ、うん、そうなの。今年も全国目指してはいるんだけど……」
 私がこのように不甲斐ないから……と心の中で続けた。
「去年は確か全国行ってたもんな。今年も頑張れよっ」
「う、うん、ありがと」
 ぎこちなくも対応し、お茶を一口飲んで唇を湿らせる。
「ああ、そうそう!」
 丸井ブン太が手のひらでバンッとテーブルを叩いた。祖父が食事中に怒ってテーブルを叩いていたことが頭によぎり、はびくりとして箸を置いた。
って、一昨日、すっげー真田に怒鳴られてなかったか? 廊下から見えたぜぃ」
 面白そうに笑う丸井ブン太を見ながら、は左手を肩の位置まで挙げた。
「早すぎますよ」と柳生が小声でささやき、制服の袖を下から引っ張る。
「真田に怒鳴られたりしたら、マジびびるよなー。テニス部の下級生なんかみんなビクビクしてるぜ」
 ジャッカル桑原がしみじみと言う。
「へえ!」
 は左手をテーブルに戻し、身を乗り出した。
「男の子たちでもそうなの?」
「そりゃそうだろぃ。怒鳴るだけじゃなくて、鉄拳制裁まで飛んで来るんだぜ」
 丸井ブン太が片手を振り回し、隣の相棒は大げさによけるふりをしてみせた。
「えー!」
「もちろんクラスメイトや、当然女子相手にはそんなことしねーから安心しな」
 思わず胸を撫で下ろす。
「……私は一昨日、真田さんと日直だったんけど、段取り悪くてイライラさせちゃったんだよね」
「まったくあいつは短気で仕方ねーよなー」
 ジャッカル桑原は苦笑いをしながらデザートのコーヒーゼリーを開けつつ、真田弦一郎の厳しさについて妙に楽しそうに語った。
 はへえ、へえ、大変だねえ、などと相槌をうちながら話を聞き、コロッケをひとつふたつと平らげていく。
 彼らの話に時に笑いながら、男の子と話をしながら食事をするなんて初めてだな、などと改めて思いを巡らせた。
ってさ」
 丸井ブン太が身を乗り出した。
「うん?」
「普段、ぜんっぜん男子と話さねーよな。柳生とは仲良いの?」
 興味深そうに尋ねる彼を見ながら、は左手胸の位置まで挙げかけて、またゆっくりと下ろした。柳生は隣で眼鏡に触れたりしながら、ちらりと彼女に視線を配った。
「……柳生さんには、真田さんに叱られてる時に助けてもらったの。私、男子があーいう感じに大声で怒鳴ったりわーわー言ったりするの苦手だから、普段はあんまり男の子と話さないかな……」
 ゆっくりと言葉を吟味する。
 ははは、と丸井ブン太の明るい笑い声が響いた。
「あんなの特別だって。滅多にいねーよ。うちのクラスの男連中は、はカワイイのにブアイソだよななんて言ってるけど、結構笑うんだぜって話しとく」
 は慌てて両手を振った。
「いいっていいって、ブアイソのままで! 私が笑ってたことは胸にしまっておいて!」
 なんだよ、それー、と丸井ブン太が吹き出す。
「あのよ」
 ふとジャッカル桑原が口を挟んだ。
「ところで、そのコロッケ、もう食わねーの?」
 の皿にひとつ残ったコロッケを指して言う。
「え? あ、うん、おしゃべりしながらだとなんだかお腹一杯になっちゃって」
「もらってもいいか? 俺、定食のコロッケ大好きなんだ」
 ジャッカル桑原は返事を聞く前に手を伸ばして、箸で器用にコロッケをつまむとぱくりと一口で平らげた。
「しょうがねーな。相棒の変わりに、俺がお返しをしといてやるよ」
 丸井ブン太がポケットから取り出したのは、小さな長方形の蝋引きの紙包み。
「ほら、丸井ブン太様手作りのフロランタン。こういのは別腹だろぃ」
 キャンディーのように包まれたそれを開けると、褐色の焼き菓子。
「へえ! 丸井くんが作ったの?」
 一口かじると、香ばしいキャラメルとアーモンドの風味。美味しい! と思わず口に出しながらお腹に納めた。
「こいつ、菓子作りがうめーんだ」
「俺様の手作りスイーツが最高だってのは、クラスの女子に触れ回ってくれていいぜぃ」
 丸井ブン太は顔の真横でVサインを出し、ウィンクをしてみせた。


「よろしかったのではないでしょうか」
 学食から教室に戻る廊下で、柳生比呂士は満足そうに隣を歩くを覗き込んだ。
「大変お世話になりました」
 歩きながら、深々と頭を下げる。
「……あのね、柳生さん。今日、私の認識の中に、ひとつジャンルが追加された」
「は?」
「私にとって男子は2種類の苦手な男子と、柳生さんみたいな紳士系との3種類しかいなかったんだけど、もうひとつ、『親しみが持てる系の男子』っていうのが加わったかな」
「彼らは貴女の紳士録に加えられたということですね、それは何よりです」
「紳士録……? 柳生さん、面白いこと言うね」
 くくっと笑ったを見ながら、柳生は制服のポケットに手を入れた。
「今日は丸井くんに先を越されてしまいましたが、本日のミッションクリアのお祝いに」
 彼女に差し出したのは小さな丸い包み紙。
「いくぶんか緊張してお疲れになったことでしょう。チョコレートで血糖値を上げてリラックスをして、午後の授業に臨んでください」
 の手のひらに、ちょこんとその可愛らしいピンクの包みを載せた。

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2015.01.09

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