● 彼女の紳士録 --- プロローグ ●

 3年生のクラスにも馴染んだ5月、この日のA組の日直の一人は真田弦一郎のようだった。
 昼休みに食事を終えた柳生比呂士が手元の文庫本に目を落としていると、日直の業務に関してあれやこれや話している弦一郎の声が聞こえのだ。弦一郎の声がいらだちを帯びて来たような気がしたので何気なく顔を上げると、彼の背中越しに女子生徒の困り顔が見えた。今日の日直のもう一人の当番なのだろう。名前は確か、、と記憶している。
「何度言えばわかるのだ! 先週に生徒会から依頼されていたアンケートを回収するので、クラスに周知せよと朝も言っただろう!」
 弦一郎の低い声が徐々にボリュームを増す。は、少々潤んだ瞳で彼を見上げて何か言おうとしては目をそらし、俯き加減になる。彼女は女子バスケ部であり、決して背が低い方ではないため、弦一郎と視線を合わせることは困難ではないはずなのだが。
「人と話をする時は、きちんと目を見んかー!」
 ついに弦一郎の怒号が響き渡った。
 は何やら口を動かそうとしているが、声を発することはできないようだ。赤らめた顔でそわそわしたかと思うと額を手て抑え、もう片方の手を近くの机についてふらついた身体を支えた。彼女のそういった行動と比呂士が文庫本を机に伏せて立ち上がるのはほぼ同時で、彼は二人の元に歩み寄った。
「真田くん、先週配布されたアンケートの回収期限は確か1週間延びたと聞きましたよ」
 二人の間に入る形となって、柳生は言った。
 弦一郎が怪訝そうな顔で柳生を見る。
「昨日の日直が、さんに口頭で申し送っているのを、たまたま聞きました。本来であれば、昨日の日直が日誌に記載なさればよかったですね、さん」
 柳生が言うと、彼女は小さく頷いた。
「……ならば、はじめからそう言わんか!」
 今度は少しボリュームを落とした声で弦一郎が言い放つと、はまたびくりと小さく身体を震わせた。ちらりと弦一郎を見てはまた目をそらす。
さん、もしかして体調がよろしくないのでは? 保健室で少しお休みになるといい」
 柳生比呂士は廊下に向かって手を伸ばした。彼も廊下の方へ身体を向け、同行する意志を示す。
「あ、ありがとう柳生さん。でも、大丈夫。まだお弁当食べてないから、ちょっとお腹が減ってただけ……」
 彼女が弱々しい声で言うと、「しっかり飯を食わんかー!」とまた弦一郎の声が響いた。その怒号を背に、は自分の席へ戻り、弁当の包みを開く。柳生と目が合い、小さく会釈をした。
 は、確か女子バスケ部のキャプテンだ。
 立海の女子バスケ部は強豪とまではいかないものの、毎年全国大会までは勝ち進んでいた。そのような部の部長である彼女は、比較的長身で当然ながらそれなりに運動が得意である。直接言葉を交わすことは初めてであるが、普段女友達を過ごしている様子は溌剌とした印象であった。そんな彼女が、真田弦一郎に対し先ほどのように激しく動揺した態度を取ることに少々違和感を覚えた。そんなことを考えつつ、柳生は自分の席に戻りまた文庫本を手にして軽く首を振った。
 人の気持ちや事情を推察することは、愛読するミステリー小説の中だけでとどめておくべきだろう。

 その日の終業後のことだった。
 またもや真田弦一郎の声が教室に響く。
「だから、どうするのだ! 日誌が書きかけなのか? 自分が書いたから、最後まで書く? だったら待っているから早く書け! 今日は職員室に運ぶ荷物もあるから、一人では無理だろう。だから、待つと言っているではないか!」
 机に日誌を開いたまま立ち上がったが、昼休みの時と同じように困った顔で弦一郎の前で視線を泳がせ、彼女なりに彼と視線を合わせようと努力しているようだが、ついにまた目を伏せた。
「人と話す時はきちんと目を見ろと昼にも言ったであろう!」
 弦一郎の怒号とともに、女子バスケット部のキャプテンは口元に手をあてるとふらふらと崩れ落ちかけた。
「真田くん!」
 ラケットバッグを手に教室を出ようとしていた柳生は、自分の机の中のノートを手にすると、昼休みの時のように二人の元へ駆け寄った。
「私、今日の英語で提出した課題を差し替えたく思い、これから職員室へ行くところなのです。すいませんが、柳くんたちに部活に少し遅れる旨を伝えていただけませんか? ああ、よろしければついでに日直で運ぶ提出物は私が運んでおきますが」
 弦一郎はしばし逡巡してを一瞥し、柳生に「すまない、頼んだ」と軽く頷いた。
「あと、。きちんと飯は食ったのか? 女子はダイエットなどと言ってろくに飯を食わない奴が多いが、そんなことでは試合に勝てんぞ!」
 そう言い放つと、ずんずんと教室を出て行った。
 俯いたから、ふうっと大きな吐息が聞こえる。
「……ではさん、日誌が完成次第、職員室へ提出物を運びましょう」
 彼が言うと、はもう一度大きく深呼吸をしてから日誌を手にした。
 

「……柳生さん、重ね重ねありがとう」
 職員室に提出物と日誌を提出した後、は柳生に深々と頭を下げた。
「いいえ、どういたしまして」
 校舎を出て渡り廊下で立ち止まり、柳生比呂士は軽く手を上げてみせた。
さん、差し出がましいようですが……というか、的外れであれば申し訳ないのですが」
「はい?」
 は彼を見上げる。こうして正面から視線を合わせると、力強いきれいな眼だ、と柳生は感じた。
「今日の真田くんに対するさんの態度……お気持ち、お察しいたします」
 彼が言うと、は一瞬眼を見開き、きまり悪そうに両手で顔を覆うと俯いた。
「……柳生さん、見ていてわかってしまう? こんなこと、恥ずかしいんだけど……」
 柳生は大きくかぶりを振った。
「いいえ、恥ずかしいことなどではありませんよ。人を恋する気持ちというのは。さんの真田くんに対する奥ゆかしすぎるほどの態度、貴女は彼に懸想しておいでなのでしょう」
 指でクイと眼鏡のブリッジを持ち上げて言うと、は更に眼を見開いた。
「真田くんはああ見えて、誠実な男です。ただ、今は立海大附属テニス部の全国大会優勝三連覇に向けて意気込みが強い時期ですので、何かと語気が強くなってしまうのです。それほど、お気になさることはありませんよ」
 彼が言い終わると、はあわてた表情でぶんぶんと首を振る。
「あの、いろいろ助けてもらったのに申し訳ないんだけど、柳生さん。それは本当に的外れというか、まったくそういうんじゃなくて……」
 彼女は大きな眼のまま、あたふたと手を振って「えーと……」と話しかけて逡巡する。
「あのね、私、本当に心の底から、あの真田さんみたいな感じの男子が苦手で……もうまったくダメなの」
「なんと」
 柳生は眼鏡がずれたわけでもないのに、ついまた眼鏡のブリッジを持ち上げた。
 彼女の話はこうだった。

 なんでもの一家は彼女が小学5年生の頃まで、極めて厳格な祖父と一緒に住んでいたらしい。
 彼女の祖父は、もちろん家族への愛情には満ちていたのだが、年代的に厳しい性格であり箸の上げ下ろしひとつがなっていないと怒鳴っては、怒られたことにびっくりしたが泣くとまた怒り、というタイプ。
 その祖父は仕事の引退を機にしばらくカナダで過ごすとのことで、現在は一緒には暮らしていないらしいが、はいまだ祖父からガミガミ叱られたことやその怒号の恐怖感が抜けないのだとか。
「あとね、実はそれだけじゃなくて、なんていうか、わちゃわちゃした男子も苦手で。私、ちょっと背が高いでしょう? 今は目立つほどじゃないけれど、小学生の頃は私より背の低い男子がほとんどで、そのことでよくからかわれてたというか……。だから男子って……まず真田さんみたいにおじいちゃんに似た感じの厳しくて声の大きな男子が苦手で、あと騒がしい男子も苦手。柳生さんみたいに静かで落ち着いた男子とはちゃんと話せるんだけどね、そういう子、少ないでしょう。だから、私、そもそも本当は女子校に行きたかったの。でも例のおじいちゃんから、絶対に立海に入学しろって言いつけられてたから、どうしても立海じゃないといけなくて……」
 俯きながら言う彼女を、柳生は大きく頷きながら見つめた。
 言われてみれば、彼女が教室で男子生徒と談笑している姿はまず見たことがなかった。
「なるほど、そのようなご事情が……」
「そういう訳なので、心配をかけてごめんなさいね。真田さんにわーっと大きな声で怒鳴られると、私、言うべきこともろくに言えなくて。きちんと眼を見て話そうと思うんだけど、おっかなくて緊張して吐きそうになってしまうの」
「つまり、真田くんのような男子は吐き気を催すタイプであると」
「あの、そういう言い方は誤解を招くので、ちょっと……」
 は大きくため息をついて、空を見上げた。つられて柳生も顔を上げると、5月のやわらかく澄んだ青が二人を覆っている。
「でもホント、こういうのなんとかしないとって思っているの。私、今年部長になったからしっかりしないとって。男子バスケ部の部長はまあ落ち着いたタイプだからなんとかやりとりはできるんだけど、ほら、他校と試合をしたりする時ね、やっぱり相手の学校の顧問の先生とかと話すこともあるでしょう。去年、試合に行って、あそこの先生は苦手だなーっていうのが何人かいるし、私、部長としてちゃんとできるか不安で……」
「困っておいでなのですね」
 柳生は俯いた彼女を覗き込む。
「……うん、正直なところ、そう。今日も、真田さんと日直かーって目の前が真っ暗になったけど、なんとか頑張ろうと思ってたのね。でもあの有様で……」
 訥々と話す彼女の前で、柳生は大きく腕を広げた。
「わかりました。この柳生比呂士、さんと女子バスケ部のために一肌脱ぎましょう」
「は?」
 まかせておきなさい、詳しいことはまた明日。
 彼はそう言ってから、アデューと手を振った。

2015.01.07

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