俺が顔を腫らして帰ってくるなんてよくある事なんで、家族には何も言われなかった。
俺は自分の部屋で顔と頭を冷やしながら、いつもの癖で携帯電話を開いてサンのアドレスを見つめる。
メモリーに入れてから一度も鳴る事のなかった、ジョン・レノンの「Love」。
もう今後一切、鳴るような気がしない。
銀河系に地球人以外の生命体が存在するという可能性よりも低いだろう。
今日の事について、俺から何か連絡をしたら良いのか?
でも何て言ったらいいのかわからない。
俺はどうしてあんな事をしたんだろう。
彼女に触れたい欲望?
もちろん、それもあったし、とにかく俺がああしたかったからなんだけど。
どう言ったらいいのだろうか。
消え入りそうな表情の彼女に、伝えたかった。
俺にとって、サンは最高に輝いて生きているんだって。
同じクラスで、こうやって同じ空気を吸って生きているんだって。
生きている俺の体温を伝えて、彼女の体温を感じたかった。
でもそんな事、彼女にとってどんな意味があって、なんて言ったら伝わるのだろうか。
どんなに思い描いても、俺のバカな頭では考えつかない。
俺は鳴らない電話を抱えたまま、ぐずぐずと布団にもぐりこむのだった。
翌日、俺はおそるおそる後ろの扉から教室に入った。
俺の顔が少し腫れてて湿布が貼ってあるなんて、クラスの連中は慣れっこだから気にもとめない。
サンは……。
前の方の席の彼女を見ると、右手に白い湿布が貼ってある。
俺が真田副部長に殴られるたび、柳先輩が
『赤也、殴る方にも殴られる方と同じくらいの痛みがあるのだぞ』
などと慰めてくれて、その都度俺は
『ンなわけねーだろ! 副部長のドSめ!』
なんて心で悪態をついたものだが、サンの場合、そんな精神論的・比喩的な意味合いじゃなく、マジ痛かっただろうなあとその右手を見た。
そして俺は、彼女に話しかけなければならないのだけど、絶対話しかけなければならないのだけど、どうしても一歩が踏み出せない。
昨日彼女が放り出していった資料を抱えたまま、自分の席の前で立っていると、サンがふと振り返った。
彼女は表情も変えずに立ち上がると、ゆっくり俺の方に歩いてきた。
「資料、持ってる?」
「え、あ、うん、これ」
俺はどぎまぎしながら差し出した。
「あとは私がやっておくから、どうもありがとう」
最初に口を利き始めた頃のような感じで、彼女は静かに言うと俺から資料を受け取って自分の席に戻った。俺は慌てて後を追うけれど、サンはMP3プレイヤーのイヤホンを耳に差し込んだ。会話終了の合図だ。
俺はそれ以上何も言う事ができず、とぼとぼと自分の席に戻った。
その日の昼は、久しぶりに高津たちと弁当を食った。
「なんだ、委員代理の仕事終ったのかよ」
「まあな」
「お前の事だから、さんに大分迷惑かけたんじゃねーの?」
「ばーか、俺はやればできる奴だから良い仕事したっつーの」
俺の顔の湿布とサンの手の湿布の因果関係に考えを及ばせる者は誰一人いなかった。そりゃあ、そうだろう。誰もサンがグーで男を殴るとは想像だにするまい。
飯を食いながら以前のようにちらちらと前の方を見ると、サンの隣りには黒木がいた。俺とサンで作った広報の下書きを二人で眺めている。
チクショウ。
俺はどうしようもなくムシャクシャした。
でもどうしようもない。
自分で失ってしまったものなんだから。
放課後、俺は部活に行きかけたのだが、どうしてだかまっすぐ行く気にならなかった。
ここしばらくは委員会で忙しいので遅れますと、副部長に言ってあるから遅れても殴られる心配はない。今朝のサンのあの一瞥で俺は実質上クビを言い渡されたわけで、もう今日から遅刻せずに部活に行けるはずなのに、どうにもそんな気にならなくて、少しの間一人になりたかった。一度教室を出て部室に向かったものの、またとぼとぼと教室に戻る。
今頃は誰もいないだろう。
ジャッカル先輩から借りっぱなしのジョン・レノンのアルバムを、ポータブルプレイヤーで再生した。
もう一度時間を戻せたら、俺はもっと上手くやれるのだろうか?
上手く切り札のカードを使えただろうか。
そんな事を考えながらゆっくり教室に向かった。
教室の扉に手をかけて、俺はふいにイヤホンを外す。
人の気配がしたからだ。
そうっと中を覗くと、中にはサンと黒木がいた。
サンは少し眉間にしわをよせた困ったような顔。そして黒木は落ち着いて優しい笑顔で彼女を見ていた。
「、俺じゃダメ?」
そして奴のまるでドラマの主人公みたいなセリフが、静かな教室に響き渡った。
「俺はが好きだよ。ずっと大事に思ってきたし、これからも大切にする。俺たち、気も合うからきっと楽しくやっていけると思うんだ」
まったく非の打ち所のない告白の言葉。
じたばたしてる俺とは大違いだ。
そんな風に冷静に考えながらも、俺の手のひらにはじっとりと汗がにじむ。
外したイヤホンからは、かすかに「Jealous Guy」が流れてくる。情けない、嫉妬深い男の唄だ。まるで俺をあざ笑うかのようなタイミング。
ドラマのセリフみたいな黒木の言葉の後に、サンはしばらく黙ったまま奴を見上げた。
このまま俺は二人のラブシーンを見る事になるんだろうか。
その時は、プレイヤーごとこのジョン・レノンのCDを叩き割ってやろう。
そんな事を考えていたら、サンがゆっくり口を開く。
「ごめん、黒木くん。私、やっぱりまだ西野先輩が好きだから」
彼女のその一言に、黒木は落胆した表情をするけれどそれもまたとても洗練された様だった。
「……そっか。西野さんにはかなわないな……でもいつか、忘れた頃に俺を見てよ。俺はずっとを見てるから」
振られた後も、このさわやかっぷり。
俺は感服するというか、なんというか、もうまったく住む世界が違うんだなあと妙に感心してしまう。
俺はこいつみたいに思えない。
奴が教室を後にしようとするので、俺はあわててイヤホンを耳につっこみ、通りすがりを装った。
教室から出てくる奴と目が合って、奴はちらりと俺に一瞥をよこすけれど大して気にする風もない。とことんクールな野郎だ。
俺は再びイヤホンをはずすと、そのままどかどかと教室に入って行った。
そこには驚いた顔のサンが立っている。
怒るとかそういう事以前に、黒木と入れ替わりに俺が入って来た事に心底驚いているようだった。
「……何か用?」
かろうじて彼女はそれだけを言った。
俺はもう、『かっこ悪くない』セリフを探している余裕なんかなかった。
「サン、なんでなんだよ!」
俺は怒鳴りながらサンに近づいた。
彼女はびくりとして後ずさりをする。
「そりゃ、英研部長はいい男だよ、大人だよ。サンが好きなのもわかるよ。でも、サンは生きてるじゃねーか。俺、自分はサンと一緒に生きてると思ってるよ。でも、サンと英研部長は一緒には生きてないじゃねーか。サンが何をやっても、あいつからは何も返ってこない。俺は……」
俺はまた一歩近づいてサンの腕をつかんだ。
「俺はこうやって、サンに触れられるよ。そして殴られて痛かったよ。でも、サンだって痛いだろう? 俺とさんは一緒に同じ世界で生きてるって証拠じゃねーか。こんなに痛いくらいに、俺はサンが好きなんだよ。俺の前で怒ったり笑ったりしてくれよ」
俺はぐいぐい彼女の腕をつかんで窓枠のところまで押し付けた。
彼女は目を見開いて、驚いたような、恐れたような、なんともいえない顔。
「……だって、そんなの……」
サンは俺の手をふりほどいた。
「そんなの、何言ってるのかわからない! 切原くんは本当に私が好きなの? 私を好きだっていう自分が好きなだけじゃないの? 自分で突っ走ってるだけじゃないの! 昨日だって突然あんな事して!」
サンは怒鳴ると鞄を持って教室を飛び出した。
俺は一瞬動けないけれど、今日は昨日と違う。だって、ついに切り札のカードを使ったんだ。
俺は全速力でサンを追いかけた。
「クッソー、チクショウ! そんな意地悪、言うなよ!!」
バカみたいに大声で怒鳴りながら走った。
校舎を出て、ちょうどあの時渡り廊下から見ていた、西野先輩とその彼女が歩いていたあたりで、俺はサンを捕まえた。
運動部の俺と違って、さすがにサンは息切れをしている。
それにしても、互いに拳に顎にと負傷して、ハタから見ればなんとまあ殺伐とした二人だろうか。
でも俺はお構いなし。
俺は全てのカードを使い果たした。
俺自身の全てを賭けた。
無様でみっともなくて必死でガキで、何も上手いことなんか言えないけれど、それが俺なんだから。
サンは肩を揺らしたまま、睨むように俺を見ていた。
「……サンが英研部長を好きなままでもかまわねーよ。でも、俺は黒木みたいに待てないし、かっこよく諦めたりできねー。見てるだけなんでできねー。俺はもっとサンと一緒にいて、笑ってるトコや怒ってるトコを見てーよ。殴られたってかまわねーから。俺、いつも副部長に殴られてるから慣れてるし」
ああ、まったくかっこ悪りー。
こんなトコ仁王先輩なんかに見られたら、バカにされるに違いない。
でも、これが俺の精一杯なんだ。
「そりゃー俺はガキだし、サンを好きな自分を好きなだけなのかもしんねー。でも、サンが楽しそうにしてると俺は本当に嬉しい。それも本当なんだ。だから、サンがあいつを好きなままでもいいから、俺を傍にいさせてくれよ」
俺は必死に、一気に言った。
彼女の反応も考えないままこんな風に突っ走ってしまうところが、ガキだって言われちまうのかもしれないけど、俺は止められなかった。
俺にはもうカードがないんだから。
「……なんで……」
サンはしぼりだすような声で、言った。
「なんで、こんな……切原くんを殴っちゃったり怒ったりばかりの私が好きなのよ。わかんない」
俺は頭をがりがりとかきむしる。
チクショウ、俺だってもうこれ以上何て言ったらいいのかわかんないんだよ。俺はバカなんだから!
地団駄を踏みながら、俺はふと思い出した。
「サン、ケータイ貸して!」
突然の俺の言葉に、彼女は驚いて目を見開く。
「自分のがあるでしょう?」
「サンのじゃないとダメなんだ!」
俺は自分の携帯をサンに無理やり押し付けた。サンはしぶしぶ携帯を取り出して俺に差し出す。
俺は彼女の電話で俺の番号をプッシュした。
彼女の手の中の俺の携帯から、静かな音楽が流れ出す。
ジョン・レノンの『Love』だ。
俺の電話でこの曲を鳴らせる番号は、世界でひとつしかない。
サンはびくりとして俺の電話を見つめる。
俺は最後の切り札を思い出したのだ。
丸眼鏡をかけたボサボサ頭の、イギリス人のオッサンを。
「とにかく、好きってのは本当だし、俺の本当ってのは好きってコト。俺がサンを好きってのは上手く言えないけどとにかくこういう感じで、とにかくそういうの、サンも感じてくれよ。俺はずっとサンの事思ってるし、俺だってサンに思われたい。正直なところ、触りたいし、触って欲しいよ。手を伸ばせばそこに生きてるんだからさ。俺は土下座したっていいよ、俺の事を好きになってくれって。サンは俺の手の届かない人じゃないよ。触れば殴られるけど、生きて、そこにいるんだから。俺はとにかくサンを好きでいる事が必要だし、サンに好きになってもらう事が必要なんだ。生きていたいんだ」
『Love』が流れている間に、俺は必死でまくしたてた。
丸眼鏡のオッサンの、ちょっとダミ声の優しい歌声を思い出しながら。
音楽の流れ続ける俺の携帯を持ったまま、サンは俺に背を向けて数歩歩いて離れて行った。そして俺の携帯の音楽が途切れる。
俺ははっとして自分の手元にある彼女の携帯を見た。
『呼び出し中』のサインが、『通話中』になっている。
あわててそれを耳にあてた。
「切原くん、英語、苦手でしょう? めっちゃくちゃな意訳じゃないの、それ。『Love』の歌詞ってそんなんじゃないから」
受話器の向こうから、少し震える彼女の声が聞こえた。
俺は思わず、へへと小さく笑う。
「マジ? でも大体こんな感じだっただろう?」
「ちがうよ」
「ちがわねーって。じゃあ、正しい訳詞を教えてくれよ。……電話代、もったいねーから、歩きながら話さね?」
俺は通話ボタンを切った。
ゆっくり彼女に向かって歩いてゆくと、彼女は俺に背中を向けたままじっとうつむいて立っている。
俺の電話を握り締めてる彼女は、どんな顔をしているんだろう。
泣いてても怒ってても笑ってても構わない。
彼女が塔のてっぺんから出て来て、俺と同じ世界で生きていてくれさえいれば、俺はそれで本当に嬉しいから。
(了)
「必殺!恋のギャンブラー」
2007.8.8