● フレンチキス(3)  ●

 結局昨夜はピエール(仮)との事を勝手に想像して、俺はなかなか寝付けなかった。
 まったく激ダサだ。
 俺は寝不足のため、すっかり授業中に居眠りをしてしまい、昼休みの前に職員室へ出頭するハメになった。
 これも忍足のせいかと思うと、まったく腹が立つ。
 イライラしながら職員室へ向かう俺の後ろで、ゴトッと音がした。
 振り返るとが、さっきの社会科の授業で使った大きな地図帳を抱えていた。
 世界地図やヨーロッパ地図など3本の大きな地図を持っていて、一つを落としてしまったのだ。彼女はあわててそれを拾おうとしていた。
「……日直か?」
 俺は思わず声をかける。
「うん、そう」
 は恥ずかしそうに笑いながら言った。
「……持ってやるよ」
 俺は落とした地図を拾って、そして彼女の手から2本の地図も奪い取った。
「あ、でも……」
「いいよ、俺こういうの女子によくやらされるから。……も、こんな力仕事、誰かその辺の男に頼んだらいいのに」
「……力仕事っていっても別にそんなに力がいるわけじゃないし、日直の仕事だから」
 は申し訳なさそうに言った。
 俺が職員室に行くついでに、資料室に運んでおいてやると言っても、気を遣ってか一緒について来る。
 俺は昨夜の勝手な想像を思い出し、ひどく照れくさかった。
 口を利くこともなく、二人で資料室へ行き、は地図の定位置である保管庫の扉を開けた。
「どうもありがとう、宍戸くん」
 言いながら地図帳を仕舞うスペースを開けて、俺はその棚に三本の地図を放り込もうとした。
 が、一本がコロコロと転がって床に落ちてしまう。
「あっ……」
 俺たちは同時に小さな声を上げると、床に落ちたそれを拾おうとした。
 地図帳は落ちた瞬間、クルクルと開いた。
 それはヨーロッパ地図だった。
 俺はかがんで、それを眺めた瞬間、ふとフランスにいるをイメージした。
 この静かで可愛らしいクラスメイトは、どんな風にフランスで過ごしていたのだろう。
 付き合ってくれと告白したのに、俺は彼女の事を何も知らない。
 しゃがんだまま、じっと地図を眺める俺を、は隣で座り込んだまま不思議そうに見ていた。
「フランスのさ、どの辺に住んでたんだ?」
 ヨーロッパ地図のフランスのあたりを眺めながら、俺はに尋ねた。
 は俺に注いでいた視線を、地図に落とした。そして、地図を軽く指でなぞる。
「……パリから電車で一時間くらいの……ルーアンてところ」
 ルーアンって町を俺は見つけることができなくて、俺は『Paris』と書いてあるあたりを見るだけ。はパリから少し海の方を指でさして、場所を教えてくれた。
「ふうん、いいところだったか?」
「うん、パリよりちょっとのんびりした感じの町で……私は好きだったな。ジャンヌ・ダルクゆかりの地っていうので有名なところだよ」
「そっか、そういえば本で読んだ気がするな。そこに住んでたのか」
 感心したように言う俺を、はにこっと笑いながら見て、そして地図にまた目を落とした。
「……こうやって地図、見るとさ。当たり前だけど、大陸はいろんな国が陸続きなんだよな。日本みてーに、どこの国に行くにも海を渡らなきゃなんねーのと違って。、車や電車で、フランスから他の国に行ったりした事もあんのか?」
「うん、あるよ。家族でね、ベルギーとかスイスに行ったかな」
「へー」
 なんだか感心してしまう。俺は去年、学校行事で海外にちょこっと行っただけだ。
「車でさ、国境越えるってどんなんだ? なんかこう、国境警備隊みたいなのがいて、パスポート見せたりすんの? 『ルパン三世』に出てくるみたいにさ」
 つい夢中で聞いてしまう俺を、はおかしそうにクスクス笑う。
「あ、『ルパン三世』とか、わかんねーか?」
「ううん、知ってる知ってる。友達が、面白いよってDVD貸してくれた。私も、好きよ」
 笑いながら顔を上げて、俺を見た。
「私も、国境ってどんなんだろうって思ってたけど、今はユーロの中だったら別にパスポート見せるとかいらないみたい。飛行機で移動しても、パスポートにスタンプ押してくれなかったよ。私、記念に押して欲しかったのに」
「へー、ノーパスで国境越えられんのか! 俺は銃を持った警備員がいるのかと思ってた!」
 ちょっと驚いて声を上げてしまってから、まるでガキみたいな自分がふと恥ずかしくなってうつむいて頭を掻いた。
「……フランス語とか、学校で習うのか? 大変だったろ?」
「うん、私は大学生の家庭教師の人に教えてもらった。日本語の勉強をしてるって人だから、丁寧に教えてくれてね、おかげでなんとかなったかなぁ」
「ふうん、そっか」
 俺は突然、ピエール(仮)の事を思う。
 の家庭教師。
 おそらく、それがピエール(仮)なんじゃないだろうか。
 そう考えたら、俺の心臓は突然にまた大きく拍動を始めて、俺自身が驚いてしまう。
 資料室は静かで、も何も言わなくて、冗談じゃなくて本当に俺の心臓の音がにも聞こえているのではないだろうか。
「……私が好きだったのがね、その家庭教師の先生だったの」
 まるで俺の考えを察するように、ゆっくりと静かな声で話し始めるの言葉。
 俺の心臓は口から飛び出すのではないかというくらいに動き続ける。
 俺は何も言えず、黙ったまま。
「……好きだったから……去年、夏休みに一人でフランスへ行って、先生のところに遊びに行って……、なんとか気持ちを伝えようとしたんだけど……やっぱり先生は私の事は妹みたいにしか思ってなくて……」
 俺が髪を切った話をした時のように、は訥々と話す。
「秋には先生が学会で日本に来て、家にも遊びに来てくれたんだけど……恋人も一緒に連れて来てて……、やっぱり私じゃダメだなあって、すごく思った」
 はそう言うと、ゆっくりと地図をクルクルと丸めた。
 俺はそんな彼女をじっと見る。
 去年の今頃、俺がと何も話をしないまま勝手に盛り上がって好きだなんて言ってた時、はそんな恋をしていたのか。
 静かで、ゆっくりと考えながら、ひとつひとつ言葉を探して話す彼女は、この一年どんな思いだったんだろう。
 俺は黙って、地図を保管庫に仕舞うを見ていた。

 去年の今頃、彼女はピエール(仮)に恋をしていて、俺は彼女に失恋をした。

 今、彼女はピエール(仮)に失恋していて、そして俺はまた再び彼女に恋をした。

 来年の今頃、俺と彼女はどうしているだろうか。

 どっちにしても、俺が監督に土下座をして髪を切ったように、動かなければ何も始まらない。
 保管庫の扉を閉める彼女に、俺は唐突だけれど、関東大会の試合を見に来ねーか、とぶっきらぼうに言った。
 そして今、振り返った彼女の返事を、柄にもなく胸をドキドキさせたまま待っているところだ。

(了)

2007.5.10

-Powered by HTML DWARF-