アンブッシュア



 政治家の公約よりも確実に、俺はに宣言した事を実行している。
 彼女に告白もどきの事をしたあの日から、俺は部活を終えたら彼女と待ち合わせて一緒に下校したり、部活のない日には彼女と一緒に教室に残って勉強をしたり、そんな日々を送っていた。勿論、好きな女の子とそんな風に過ごすのは初めてで、俺はいちいち新鮮で幸せな気持ちになる。
 そうそう、彼女にずるいといわれながらも追加した『手をつなぐ』という項目は、彼女の様子を伺いながら5回に1回という割合で実行していた。そして最近は、それを3回に1回という具合に進めているところだ。パーセンテージで言えば、彼女と身体的接触を持つ機会は20%から33.33333%にアップしつつあるというところか。うん? しかしこの言い回しは何となく、いやらしいな。彼女には言わないでおこう。
 それまでずっと彼女を見ていたから、彼女の事はだいたいわかっているつもりになっていたけれど、一緒にすごすとやはり情報量がぜんぜん違う。
 はこういう風だったのか、というところがいろいろあって、そして俺はそういうところをどんどん好きになる。
 彼女はどちらかといえば普通に女の子っぽい女の子で、おっとりとしてるけれどよくしゃべって、あんまり気の強いタイプじゃない。
 でも例えば、一緒に勉強していて、彼女が苦手な数学の問題でつまづいている時、俺が助け舟を出そうとすると、彼女はこう言うのだ。
『乾くんに時間を取らせちゃって悪いんだけど、もう少し考えてても良い? それでわからなかったら、教えてって言うから』
 そう言って少し時間をかけてから、彼女なりの解を出してきたり、またはやっぱりわからない、と助けを求めてきたりする。そして俺が、もっと効率の良い解の出し方なんかを教えてやると、彼女はとても嬉しそうに、『ああ、そうなんだ! すごくよくわかった、ありがとう』と目を輝かせる。
 俺は人に物を教えるのは嫌いじゃないし、特にそんな風にきちんと自分で考える人に教えるというのは好きな方だから、彼女のそういう反応はとても嬉しかった。
 それにの、そうやって自分の足で立っている感じがとても好きだった。
 

 ただひとつ、俺の心にはひっかかっている事があった。
 あの、告白もどきの俺のセリフ。
 勿論一言一句覚えているわけだが、俺はOK欲しさに、「つきあうとかじゃなくてもいいから」なんて予防線を練りこんだ。その時には、俺はまったく口が上手くて冴えていると自画自賛したものだが、今思えば、余計な事を言ったのかもしれない。
 今、俺はとつきあってると思って良いのだろうか。
 それとも、俺が自分で予防線を張って言ってしまったように、「つきあってるわけじゃないけど、一緒に帰ったり、一緒に勉強する、ただの友達」なんだろうか。
 その辺りが不明確で、身体的接触を持つ機会を33.33333%からアップさせる事ができないでいる。
 俺は自分のキャラクターを自覚しているから、「マニアックでキモいストーカーまがいの男」と「ちょっと変わってて積極的だが、イイ奴」の間のギリギリのラインを保ち続ける事に、結構気を遣っているのだ。
 それでも、俺と一緒に過ごす時の楽しそうな彼女の笑顔。
 それは、ちょっとは俺も自惚れてもいいんじゃないかと思うくらいに、幸せそうに楽しそうに笑うんだ。


 その日、俺は部活を終えていそいそと帰り支度をしていた。
 勿論、と一緒に帰る約束をしている。いつもは俺はその後の自主トレがあるから、互いにまっすぐ帰るだけなのだが、今日は彼女も俺もちょっとした買い物があるから一緒に寄り道をしようという事になっていた。つまり、いつもより一緒にいられる時間が長いのだ。
「あっ、ねぇねぇ乾〜」
 ワクワクしながら着替えを終えた俺を、菊丸が呼び止める。
「んん? 何だ?」
「最近さ、乾、あの吹奏楽部のちょっと可愛い子、さんだっけ? 一緒に帰ったりしてるじゃん。つきあってんの?」
 奴はニヤニヤしながら俺に言う。
 待ってましたとばかりの質問で、俺としては、「ああ、俺の彼女だ」と言いたくて仕方がない。
 けれど、まだ。
 そう言う事はできないのが、現実だった。
 俺は少し考えると、奴に向かってニッと笑い、さあね、と答え、部室を走り出た。

 校門のところに行くと、先に部活を終えたが待っていた。
「お待たせ」
「ううん、今来たところだから」
 俺が言うと、彼女はいつものようににこっと笑う。
 歩き始めて少しして、俺はちらちらと彼女の表情を見ながら、そっと彼女の手に触れた。彼女は手を引っ込めることはしない。ぐっとそれを握って、手をつないで歩く。
 うん、33.33333%のラインはどうやら確実になったようだ。
 俺は嬉しくてニヤニヤしながら歩く。
「……今日さ」
 そして、俺は思い切って言った。
「部室で菊丸にさ、乾はさんとつきあってるの? って聞かれてしまったよ。……今日のところは適当にごまかして来たんだけど、その……今度聞かれたら、つきあってるって言ってもいいかな」
 俺は思いがけず心臓がバクバク言うのを自覚しながら、なるべく冷静を装って彼女に言った。
 は普段どおりの柔らかい表情で俺を見上げて、言った。
「だめよ」
 俺の頭の中で、突然不吉な音楽が鳴った。
 んん? このどんよりと不吉なメロディー、何だっけ? このマイナー調のデーンデーンデーンデーデデーデーデデー……すごくよく聴いた事があるぞ? そうだ、スターウォーズのダースベイダーのテーマだ。俺、ダースベイダー好きなんだよな。スターウォーズ・エピソード3はよかったなぁ……。
 彼女の一言は、俺の頭を宇宙空間に吹き飛ばす程の威力があった。フォースだ。
 つきあってるって、言ってはだめだって事は、それは良きに解釈すれば「つきあっていると公表してくれるな」という事、悪きに解釈すれば「つきあってないでショ」という事で。いったいどっちの意味か? フォースをくらって宇宙空間へと飛ばされた俺には、それを追及するエネルギーは残っていなかった。
「……そうか、すまん、調子にのりすぎたな」
 俺はつとめて冷静な声で返事をする。
 ダースベイダーのテーマを聴いてから、返事をするまで現実の時間はおそらく2.35秒。
 しかし俺の中では、アナキン・スカイウォーカーがダースベイダーへと変わるくらいの時間が経った気がする。
 俺はそうっと彼女の手を離し、気を取り直して前を向いた。
「どうする、ひとまず楽器屋から行くか?」
「うん、ありがとう」
 彼女は相変わらずの笑顔。
 楽器屋へ行くと、色とりどりの金管楽器や弦楽器、俺の知らない物が多く並んでいて、普段ならば彼女を質問攻めにするところだけれど、どうも今日はさすがの俺も滑舌が悪い。
「何を買うんだい?」
 かろうじてそれだけを尋ねた。
「あのね、セルマーのマウスピースと、あとリード。楽器の本体は高いからなかなか買い換えられないんだけど、マウスピースだけちょっと良いのに換えようと思うの。前からセルマーっていうブランドのが欲しくて、やっとお小遣い貯まったから」
 は嬉しそうに言った。
「マウスピースでだいぶ音は変わるのか?」
「うん、やっぱり違うよー。同じアンブッシュアやリードでも、マウスピースが違うと音がぜんぜん違う」
「アンブッシュアって?」
「あ、マウスピースをくわえる時のね、唇やなんかの使い方。人それぞれにちょっとしたクセがあって、アンブッシュアによってもすごく音が変わるの。やっぱり吹奏楽に、口はすごく大事」
 相変わらず彼女は、門外漢の俺に丁寧に説明をしてくれる。
 うん、こういうところ、好きなんだよなあ。
 俺は、好きなんだけど……。
 こうやって学校以外の場所で彼女とすごすのはとても楽しい。しかし、俺の気持ちは晴れないまま、楽器屋を出た後スポーツショップで俺の買い物を終えて、そして帰宅をした。


 俺の問いに対する「だめよ」というの一言と、ダースベイダーのテーマは俺の頭からなかなか離れる事はなかった。
 なんとかそれを頭から振り払おうと、とりあえず自宅で机に向かい、英語の課題をこなす。ふと今日楽器屋でが教えてくれた言葉を思い出し、つづりを推測して辞書を引いてみた。
「embouchure :管楽器における唇・舌・歯の位置・使い方」
 なるほどね。
 彼女といると、まったく今まで俺がぜんぜん知らなかった事を知ったり、そして今までまったく味わった事のない気持ちになったりする。
 俺は一生懸命自分を鼓舞した。
 最初に、彼女に対して自分が言った通りの事だ。つきあってなくても、一緒に帰ったり、一緒に勉強したりする。そして、俺の事を好きになってもらうんだ。今は、まだその過程なんだよ。
 そうやって自分を奮い立たせるが、彼女のあの小さくて柔らかい手の感触を思い出すと、思考が止まる。
 つきあっていなくても、手をつなぐ?
 俺だったら……つきあってない、つきあうつもりのない女の子と手をつないだりしない。
 だけど……彼女には、つきあってなくても手をつなぐのはアリっていう事だろうか……。
 俺の思考はまとまらないまま、どんどん夜は更けていった。


 翌日も俺の気持ちは晴れないままで、日中もいつもより、との会話も盛り上がらないまま。
 何かこう、この自分のムードを挽回させるような雰囲気に持っていこうとするのだが、空回りしたような感じで、あっという間に一日が終わる。
 俺は妙に焦ってしまう。テニスでも何でも焦ったらだめだとわかっているのに。
 部活を終えると、俺はいつもは几帳面にすませる片付けもろくにせず急いで走った。今日はと一緒に帰る約束を、きちんと交わしていなかったから、彼女がケヤキの木の下で練習している間につかまえなくてはと思って。
 いつもの場所に走って行くと、彼女はクラリネットを手に持ったまま、男子生徒と話をしていた。
 俺は一瞬足を止める。
 彼女が話していたのは、同じ吹奏楽部でかつクラスメイトの浅野だ。
 俺の調査によると、奴の楽器はトランペット。
 そして、奴はに気があるんじゃないかと踏んでいる。
 奴はしばらくと話をした後、俺に気づくとまた二言三言彼女と言葉を交わしてその場を去って行った。俺の方をちらりと見ながら。
 俺は少し迷ってから、ゆっくりと彼女の方に歩いた。
「……悪い、話の邪魔をしたか?」
 俺は少し震えた声で言った。
 そうだ。
 彼女は俺とつきあっているわけではない、としたら、今は俺と仲の良い友達で一緒に帰ったりやなんかしているけれど、他につきあう男ができるという可能性もあるのだ。
 もちろんそういう可能性はあると、確率的な意味で言えば俺は考えた事はあったが、現実的にイメージした事はなかった。
 そうなれば、彼女は俺と一緒に帰ったり勉強したりする事はなくなり、例えばあの浅野とそうやっているのを、俺は第三者として終始見ている事になる。
 そりゃあ、ダークサイドのフォースでも使いたくなるというものだ。
 俺はそれを考えるだけで、情けないことに涙が出そうになった。
「ああ、ううん、大丈夫。ちょっと乾くんとの事を聞かれたの」
 俺の質問に、彼女はなんでもないように答えた。
「俺との事?」
 俺は彼女の言葉を繰り返し、尋ねた。
「うん、私が、乾くんとつきあってるのかって、聞かれた」
「……それで、何て答えたんだ?」
 何事にも準備の良い俺の頭の中では、すでにダースベイダーのテーマが流れている。
「……まだ好きだって言われてないから、わからないって答えた」
 はその大きな眼でじっと俺を見上げながら言った。
 俺の頭の中の不吉なメロディは一時停止する。
 俺は今までと話すようになってからの全てを、脳内で再生する。
 自分の言った言葉を、一言一句再生する。
 確かに、俺はに、好きだと言った事がなかった。
「……俺の一連の行動が……俺がを好きだと、十分以上に現してると思っていた……」
 俺は頭を掻きながら言う。
「……客観的に見れば確かにそうかもしれないけど……」
 は少し怒ったような、照れくさそうな顔でうつむく。
「当事者は、それだけじゃ自信が持てないの。乾くんは、いろんな人に優しいから。……マウスピースにそれぞれのアンブッシュアでどんな音を出して聴かせるかっていうのと同じで……そういうアウトプットは、重要だと思う」
 はクラリネットを分解し、大事そうにケースにしまい始めた。
「……俺はがすごく好きだよ。一緒にいて、話すたびに好きになる。ただの仲のいい友達じゃ嫌なんだ。俺の彼女になって欲しい。ずっと、そう思ってた」
 俺は何て言ったら良いかわからなくて、まったくひねりのない言葉を一生懸命言った。
 彼女は手にセルマーのマウスピースを持ったまま、そんな俺をじっと見る。
 そしてそれを口にくわえるとにっこりと笑い、高らかに鳴らした。
 前に聴いたよりも、深く滑らかなその音は、俺の心に染み入った。
 俺は思い込みの強い男でもあるので、これは愛の音色だと解釈する事にしよう。
 そして俺は、楽器を片付けた彼女の手を握り、手をつないで歩いた。
 うん、100%だ。
 これからは、多分、100%でいけるだろう。
 次の目標は、俺と彼女のアンブッシュアの確認だ。
 昨日辞書で調べたその言葉の意味を思い出し、我ながらなかなか上手い事をと悦に入ったが、この俺の次なる目論見はまだ彼女には言わないでおこう。


(了)

2007.4.19




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