● 彼と私のエマグラム  ●

 この会社に就職して2年。
 配属部署が決まって、自分のデスクや機材を前にして、一緒に働く同期や先輩たちと直接顔を合わせた瞬間の緊張は、今でも覚えてる。
 そして、その緊張感がものすごい伝説でもってして打ち破られたことも。

「おい、エマ取ってくれよ」

 新人の私たちがオリエンテーションを受けて必要書類の記載なんかをしてる時、チームの先輩が放ったそんな一言に、私の隣の席の同期がガタン! と立ち上がる。

「それだったら、俺がひとっ走り行ってきますよ! 桃城武、体力と脚には自信ありますんで!」

 そう言い放った彼は、部屋を走り出たと思うと20分ほどで帰って来た。

「そこの神社の奴でよかったスよね!」

 得意げに言いながら彼が手にしていたのは、そう、神社の絵馬だった。
 伝説ができた瞬間だ。

 当然、うちの部署で言うエマっていうのは神社の絵馬ではなく、エマグラムだ。
 エマグラムっていうのは、日々観測されている気象データで、気温と気圧のグラフのこと。各観測地点で気球みたいなものを空に上げて計測したデータが、毎日10時くらいに更新される。
 私達が勤務しているのは、気象観測装置の会社だからエマといえば絵馬ではなくエマグラムなわけで。

 彼、桃城武はこの出来事で一気に社内で有名人となり、同時に人気者になった。
 もちろん、私も彼を好きになった。


「いやー、エマ取って来るって言って、神社に絵馬取りに走ってたやつが、ついに気象予報士の試験に合格するとはなあ」
 しみじみと感慨深そうに話す先輩に、桃城武……桃はへへっと笑う。
「いやもう、それは言いっこなしっすよー。合格発表があってから、もう100回くらいいろんな人から言われました」
「そりゃ誰でも言うよ」
 社員食堂のハンバーグをつつきながら私は思わず口を出した。
は10回は言ってるだろ、もう勘弁してくれよなー」
 
 今の部署で、前述のように私と彼は同期。
 私は気象観測装置のシステムをプランするチームで、彼は実際の設置をするチームだ。
 つまり、クライアントから依頼があると、私のチームで温湿度センサーや風向風速計や日射計なんかを組み合わせて、依頼通りのデータが取れるかテストしてシステムを組んで、そして桃のチームがそれを現地で設置をして更にテストをしてまた私たちがフィードバックを受けると、まあそんな感じ。
 
「ま、いいじゃねーの、桃。今となってはお前も持ちネタとしてまんざらじゃないだろ。そんなことより、お前が予報士試験受かってみんなほっとしてるよ。これで設置のチームリーダーまかせられるからな」
「おう、まかせてくださいよ! これで試験落ち続けてたら、俺、ただのおバカキャラっすからね! はー、早く海外の山とか行きてー!」
 そんな事を言いながら、大盛りご飯をかきこんだ彼はさらにおかわりをよそいに行った。

「じゃ、。長野のプロジェクト、現場チーフは桃ってことでよろしくな」
「あ、わかりました。へー、いきなりチームリーダーかー、大丈夫ですか?」
 私が言うと先輩は、ノープロブレムというように軽く手を振って、トレイを持って立ち上がった。
「あいつ、ああ見えて結構緻密だし、感覚が鋭いから大丈夫。前から十分ひとりでいけてたんだよ」
 まあね、うん、知ってた。
 先輩が下膳に行ったと入れ替わりに、また大盛りのご飯を手に桃が戻って来る。
「で、、俺のチームリーダー初仕事のシステム、いつできんの? 早く現場行きてー!」
「もうできてるよ。あと、テストしてソフト動作のチェックするだけ」

 こんな風に桃と私は同期なんだけど、実は年齢は私が2歳上。
 というのは、私は修士を出た後に就職したから。
 別に何を勉強したというわけじゃないけど、まあ、なんていうか4年生の時に就職活動の波に乗り遅れたというか。おかげで、在学中に気象予報士取ってから就職できたってわけだけどね。
 で、桃はこういう性格だから、同期で配属された時、『え? って院卒?  じゃ世が世なら先輩ってことかー、でも同期だしタメ口でいいよな』なんて言って、私たちはこういう間柄。
 
 その一言が、魔法だった。

 正直、就職する時に同期より年上って、ちょっと気になるもの。特に私はそういうの気にする、ちょっとちまちました性格なのだ。
 で、部署に配属されて、桃の絵馬事件があって、彼が一気に人気者になって。
 わー、すっごいバカっぽいけどまっすぐで楽しい男子だなーって思って、あーでも私より2つも年下なんだよなー、確かに年下っぽい男子だよなー、なんて勝手にちょっとした距離を感じてた時に、彼がそんな風に言ったから。
 その一言で、魔法のように、私と桃の歳の差は消え去ったのだ。
 
 でも、その魔法は完璧ではなかった。

 桃と同じ部署に配属になって、半年くらいのこと。
 ちょっと仕事にも慣れて来た頃だったな。
 桃がPCで作業していて、こう言ったんだよね。

「よーし、できたぞ! 完璧だぜ、どーん!」

 どーん!

 その一言で、私の中に雷が走ったように思い出されることがあった。
 
 それは、私が中学3年生の時の事。
 私は青春学園中等部で、設備委員をやっていた。校内の設備で不具合をチェックして、委員会で担当の先生に報告するっていうメンドクサイ仕事ね。
 その日は、グラウンドとか外の設備をチェックする日で、各部活動から報告を受けていた分をチェックして提出するばかりにしていたところ。
 夕方、テニスコートのあたりを歩いていたら、元気のいい声が聞こえた。

「ダンクスマッシュ! どーん!」
「おい、桃、なにやってんだ!」
「マムシ、見ろよ、俺のダンクスマッシュ、ついにフェンスをも突き破ったぜ!」
 テニスラケットを持った1年生男子が二人でワーワー騒いでる。
 一人はつんつん頭の子で、もう一人は頭にバンダナを巻いていた。
「俺の必殺技が完成する日も近いぞ! これでレギュラー入り間違いねえ!」
 フェンスの穴にはまった黄色いテニスボールを外しながら、つんつん頭の子は得意げに話す。
「ふざけんな! ノーコンじゃ話にならねーだろ! それに桃城、フェンスに穴をあけたりしてどーすんだ! なんでも、設備を壊したりしたら始末書書いて先輩や先生にすげえ叱られるらしいぞ。もしかしたら、お前、退部になるかもしれねー……。短い付き合いだったな、桃城……」
「……マジか、マムシ!」
「マムシって言うな!」

 聞きながら、私は思わず吹き出してしまった。

「ねえ、君たち、そのフェンス」
 私が近寄ると、二人は話をやめて私を見上げた(当時、二人とも私より背が低かった)。
「そのフェンスはね、前から穴が開いてたとこだよ。ほら、ちゃんと報告受けてる」
 私は二人に図面を見せた。
「だから、大丈夫。君のテニスボールで壊したんじゃないから。それにテニスボールでフェンスに穴は開かないと思うよ」

 二人とも、ほっとしたような顔をしてからがっかりしたような顔になって、またほっとした顔になった。

「ほらみろ、桃城、お前のスマッシュなんかでフェンスに穴が開くわけねーだろ」
「うっせー、うっせーマムシ! ほらみろ、退部になんかなるわけねーだろ!」

 もう一度ワーワー言い合ってから、つんつん頭の男の子をはまた私を見上げて、嬉しそうににかっと笑った。
「ありがとうございます、先輩! おかげで退部にならずにすみました! これから気をつけます!」
 そう言って深々と頭を下げた。
 
 どーん! と叫ぶ桃は10年前の男の子そのものだった。
 そうやって10年の時を経てよみがえった私の記憶。
 それは、あの中学3年生の頃の感覚を思い起こす。
 中学3年生からした1年生っていうのは、まさに子供そのものだ。
 そして、1年生から見た3年生ってのは手の届かない大人って感じだったよね。
 そんな忘れかけていた感覚が、桃の「どーん」でわき起こってしまったのだ。
 つまり、つまり。
 あー、やっぱり私、年上だよなあ、2歳も。
 って、思っちゃうってこと。
 私が桃を好きっていう気持ちがなかったら、きっと、『あ、ねえ、桃って青学だよね? 私たち、会ったことあるじゃん! 覚えてる?』なんて話題で普通に盛り上がれるだろう。
 でも、そんな話になったら、否応無しに「私って先輩だよな」って思い知らされる。だから、私は私が昔、一度だけ桃と会ったことはいまだに秘密にしている。
 私は中学卒業と同時に父の仕事の関係で引っ越しをしたから、高校は青学じゃなくて、その後に桃と学校で会ったことはない。
 
「……で、いつになりそうなんだ?」

 桃の声で、ハッと私は現実に戻った。

「えっ? ごめん、なんだって?」
「おいおい、聞いてなかったのかよー。だから、長野のシステム、現地テストはいつくらいにできるのかって」
 2杯目の大盛りご飯をすっかり平らげた桃が不満そうにせっついた。
「あ、来週にはいけるよ。天気良さそうだし」
「よーし、どーんと決めようぜ? システム担当からはが行くんだろ?」
「うん、そうだよ」
「同期リーダー同士の初仕事だな」
 ニカッと笑った。
 私の胸がぎゅっとなる。
 桃は勢いよく立ち上がり、トレイを片付けに行った。
 歩きながらも、他の部署のいろんな人に声をかけられてる。
 何度も言うけど、桃は人気者だ。男からも女からも。
 桃に彼女がいるのかどうかは、知らない。
 明るくて楽しくていい奴で、そこそこかっこよくて。
 桃のことを好きらしい後輩がいるとかも聞いたことあるし、彼女がいてもおかしくない。後輩か……今年の新入社員の子っていったら、私よりも3〜4歳若い女の子ってことだよね、はー……。


 長野の現場へシステム設置のために出張する日はあっという間にやって来た。
 システム担当と設置担当で、行くのは私と桃の二人。
 それほど複雑なシステムじゃないから、現地で設置してテストして手直ししてそのまま日帰りできる程度のものだ。
 機材を載せた車を桃が軽快に運転をして、長野にはあっという間に到着した。

「どうだ、、上手くデータ取れてるか?」
「ちょっと待って、風向風速計のデータ取得がいまいち。センサーが動いてないのかな?」
「わかった、調整する」
 現場の山頂で作業をしなら、桃は気持ち良さそうに空を仰ぎ見た。
「ここは地形的に場の風が吹き抜けるのかもしんねーな。後でフィードバッックが来た時、もしかすると場所を変えた方がいいってクライアントに言わなきゃならねーかも。もしくは補正が必要だな」
「そっかー、確かに北風の時は吹き下ろしもあるしね。冬場は要注意かな」
 桃が機材を調整して、私がデータの確認をしてひとまず設置を終えた後、二人で岩場に腰をおろしてコンビニのおにぎりをむしゃむしゃと食べた。
 秋晴れの今日、標高900メートルの山はひんやりしながらも、作業をしていた桃は汗だく。頭に巻いているタオルもびっしょりだ。
「……ところでなんで桃、最近ロンゲなの」
 ここしばらく抱いていた疑問をふと口にした。
「え? ああ、しばらく仕事と試験勉強で忙しくて散髪に行く暇がなかったんだけど、伸ばしてみると、これも結構悪くないんじゃねー? なんて思ってさ。ほら、髪セットしなくていいから楽だろ。おバカキャラから、ちょいとチャラめにイメチェンはどうよ」
 えー? まあ好きにすればいいけどー、と私は気のない返事。
「はー、やっぱり山の上は気持ちいいな、こういうの懐かしいや」
 桃はまた大きく深呼吸。
「え? 桃って昔から山登りとか好きだったの? テニス部だったんでしょ?」
 言うと桃は立ち上がって、両手を空に向かって広げた。
「そう、テニス部。中学の時、テニス強くなるために先輩と山ごもりで特訓してさ。すっげー楽しかったんだ。それまで、テニスコートやグラウンドや登下校の時の風や空気しか知らなかったけど、山で特訓して、空を見上げながら空気の匂いや湿度や温度を感じると、びっくりするくらい新鮮でさ。山から下りた後、それまで気にした事のなかったいろんな空気の動きに気づいて、ぐっと強くなれた気がした」
「へー、テニス部の練習で山ごもりかー」
「ああ、今はプロになってるその時の尊敬する部長が、山好きでさ。俺も山に行けば強くなるかもしれねーって、ガキながらに思った訳よ」
 桃が時折話してくれる、中学や高校の時のテニス部の話が、私はとても好きだった。
「ま、うちの会社に就職したのは、大学のゼミの先輩の縁でさ。でも、中学の時に山で特訓した時のわくわくした気持ちを、今もこうやって楽しめるなんて、俺は幸せな奴だなーって思ってるよ」
 ほら、桃のこういうとこ。
 こういうまっすぐで前向きなとこが好き。

 遠くに見える南アルプスを眺めながら、晴天の秋のおだやかな風に包まれる。
 岩場の下の広葉樹の葉が、ふわりとざわめいた。
 今日は気温が高めで、頭上にはふんわりとした積雲。
 本流の風は強くない。
 積雲に吸われた空気が、あたたかな、それでいて少し強めの風となって間もなく私たちを吹き抜けるだろう。
 木の葉のざわめきの後、数秒後にやってくるだろうその熱上昇風によるブローを予測して、私はコンビニの袋が飛ばないように手で押さえようとした。
 すると、そこには既に袋を押さえている桃の手。
「わっ、ごめん、ブローが来たらゴミが飛んじゃうかなって思って」
 あわてて手をのけたけど、桃の大きなたくましい手の甲の感触が残る。
 同時にぶわっと風が吹いた。
 桃は首を上に向けて頭上の雲を見た。
「あー、いい感じに発達してんなー、夏の雲は降るかもって心配だけど、秋は穏やかだからいいよなー。今日のエマのデータ通りだ」
 エマね。ほんと、桃は成長したものだ。
「おい、! 今、絵馬事件思い出してたろ!」
「えっ? そりゃ思い出すよ! 口にしてないんだからいいじゃん!」
 私が笑い出しながら言うと、桃はふてくされた顔でコンビニの袋をぐしゃっと掴んでジャケットのポケットにしまった。
 
 桃とは、こういう風でいい。
 
 桃はきっと、彼女がいてもいなくても、私とこうやって楽しく過ごしてくれるだろう。そして、もしも私は桃を好きなんだって、彼が気づいても、今までと変わらず過ごしてくれるだろう。
 そして、ある時、桃に彼女ができたって聞いても、私はその時はショックを受けても、この楽しかった時間をありがとうって思えるだろう。
 
 だから、これでいいんだ。
 11年前の、私より背の低い、でも中身はほとんど変わってないあの桃を知ってるっていうのは、私だけの秘密のままにしておく。

「あー、やっと汗がひいたぜ」

 桃は額をポリポリとかいた。
「いけね、タオル巻いたままだった。テニス部の仲間でこういう奴がいてさー、いっつもバンダナ巻いてる奴」
「ああ、マムシって呼んでた子ね」
 私はつい口にしてから、ハッとする。
 いけない、ついさっきまであの時のことを思い出していたものだから。
「あ、マムシがね、この辺りは春になると出て来るから気をつけろってクラインとが言ってた……」
 あわててごまかした。
 桃はお構いなしに話を続ける。
「マムシ、なんだかんだ言って今でも一緒に飲みに行ったりするんだけど、中学ん時はしょっちゅう喧嘩してさ。1年の時は、俺の必殺技をめぐって言い合いになったな。俺が、フェンスをもぶちやぶる必殺のスマッシュを目の前で放ったって言うのに、そいつったら信用しねーのよ。今となっては、幻の必殺技だな」
 どーん、と言う彼の隣で私は思わず吹き出した。
「俺はその時、人の命をも奪いかねないその必殺技がきっかけで、退部を余儀なくされるかもしれない立場になってたんだ。そこを、通りがかった設備委員のキレイな女の先輩が助けてくれて……」
 桃は真剣な顔で私をじっと見て続けた。
「……、マジで聞きたいんだけど、あのフェンス、本当に元から穴があいていたのか? それとも俺の神懸かり的なダンクスマッシュで穴があいたのを、かばってくれたのか? この話、俺とマムシで今でも紛糾してるんだが」
 私は桃を見つめながら、頭が混乱してしまった。
 これは笑うところ? とぼけるところ?
 一体、桃はいつから気づいていたの?
 中1の頃に私と会っていたって。
 なんで、今になってそれを言い出すの?

 ただの思い出話にすぎないというのに、私の胸はドンドンと強く拍動して、話すと声が震えてしまいそうな気がした。

 私が何も言えないでいると、桃は夏の太陽のように大きく口をあけて笑う。

「なーんてな、ホントは聞きたいことはそんなんじゃないんだ。……、俺のこと覚えてた?」
 私は深呼吸をした。
 山の香りでむせそうになる。
「うん、前に桃の『どーん!』を聞いて、一発で思い出したよ」
「やっぱりな。俺は、配属先で最初に会った時にすぐ思い出した」
「えっ、そうなの?」
 意外。
 そう、桃って結構鋭いんだよなー。
「ああ。だから、先手を打ったんだ。同期だからタメ口でいいよなって。『年上の先輩』のままじゃいつまでたっても追いつけない」
 桃は頭のタオルを外して、髪をくしゃっとかき回した。
は堅苦しいとこあるから、年上の先輩ってなると、きっととことん年上の先輩ってなるだろ」
「はあ……」
 そっか、桃は私のそういうとこわかって、わざと魔法をかけたんだ。
 この曲者め。
 でも、なんで。
「重要なのはここから。神社に絵馬を取りに走ってた桃ちゃんも、ついに気象予報士合格してチームリーダーだ。これで本当にに追いついた。だから……」
 ごくり、と桃が唾をのみこんで、がっしりとした首の喉仏が動くのが見える。
「だから……ってよんでいいか?」
「えっ、でいい」
 びっくりして思わず言うと、桃は右手で顔をおおった。
「言い方が悪かった、くそー、いい歳して言いづれぇなー。……俺、が好きだから、つきあって欲しいってことだよ。……、俺のこと、嫌いじゃないよな? あ、もしかして彼がいるか?」
 山の匂いにむせて咳き込んだまま、私はゆっくり言葉を探した。
「いっぺんに複数の質問をしないで。私、つきあってる人はいないよ。桃のことは……好き」
 言ってから、自分の膝の間に顔をうずめた。
 私、26にもなってなんて気の利かない言葉しか出ないんだろ……。
 こんな話をした後、どんな顔をすればいいの。
 おそるおそる顔を上げると、桃の笑顔。
 見慣れた桃の笑顔が、いつもと少しだけ違った。
「……もっと早くスマートに、好きだって言いたかったけど、試験に合格してからって決めてた。先輩からは、さっさと合格してと二人でチーム組めるようにならねーと、他に狙ってる奴にさらわれるぞって脅されてたけどな」
「えっ、他に私を好きな人って、どこの部署の誰なの!?」
「そこ、食いつくとこじゃねーよ」
 ため息をつく桃を見て、つい笑った。
 だって、きつくこわばっていた身体のあちこちの力がふわりと抜けたみたいで、緩んできてしまうのだもの。
 絵馬を取りに神社に走ってた桃は、あの時からちゃんと私を見てくれてたんだ。桃が私に追いついたんじゃなくて、わけのわからない壁を勝手に作っていた私が、自然に彼と並べるように待っててくれたんだ。
 桃はすごいな。

、青春台のこと覚えてるか?」
「うん? 覚えてるよ、中3までだけど結構長く住んでたもん」
「かわむら寿司知ってる?」
「知ってる知ってる、地元で結構人気の老舗のおすし屋さんだよね」
「中学の頃、一緒に山ごもりの特訓した先輩ってのが、そのかわむら寿司の若大将でさ」
「へえ!」
 こんな話も、私がへんなことを気にしてなかったら、もっと前からできてたんだよね。
「長野の仕事終わったら、打ち上げがてら食いにいかねえ? 旨いんだぜ」
「うん、いいよ。高いお店じゃない?」
 このタイミングだと、桃の試験合格祝いも兼ねるとして、それだと私がおごった方がいい? でも、つきあう……ことになるから、桃は彼氏ってことで、私がおごるっていうと気にするだろうか? でも桃におごってもらうというのも、給料まったく一緒なのに……。あー、これから楽しくお寿司食べに行こうって話してるのに、私ってばほんとこういうチマチマしたことを気にしちゃう性格なんだよなー。
「大丈夫、それになんだったら、1回限り使える必殺技がある」
 桃はそんな私の気持ちをお見通し、とばかりに笑った。
「必殺技?」
「かわむら寿司のタカさんは、最近結婚が決まったらしくて上機嫌なんだ。だから、俺が試験に合格したってことと……あと、俺たちも結婚することになりましたって言ったら、きっとお祝いでご馳走してくれると思うぜ」
「へー……でも、あつかましすぎない? って、えー!?」
 私の叫び声が山にこだました。
 桃は大笑いする。その後、ぎゅっと真剣な顔。
、だって、俺たちもう十分に知り合ってるだろ。俺、こういう奴だよ、が知ってるとおり。俺とは、お互い何も言わなくても、この場にいつどんな風が吹くのかわかる」
 さっき、上昇気流のブローが吹いた時にふれた桃の手を思い出した。
 私は眼を丸くしたまま桃の言葉を咀嚼した。
「俺、来年からは海外出張が増えると思う。海外観測の研修、希望してるからな。俺がどこにいても、データさえ送れば、は俺が感じてる風や空気や匂いをわかってくれるだろ?」
 私の頭の中に、チベットの平原やヨーロッパアルプスの山岳地帯、オーストラリアの乾燥地帯なんかの景色が広がった。行った事もないのに、きっと桃が行って観測データを送ってきたら、まるで自分の目で見て現地の風につつまれているような気持ちになるだろう。
「だから、妻になってよ」
 ふざけたロンゲの、珍しく真剣な顔の桃。
 私が口を開くと同時に、斜面を吹き上がってくる風。
「よし、決まりだ! かわむら寿司でたらふくご馳走になろうぜ!」
「え? え? まだ私、何も言ってない!」
「大丈夫、心の声が聞こえたから!」
 桃は機材バッグを抱えて立ち上がり、もう片手で私の手をつかんだ。
「あと、そうそう。店でマムシに会ったら、俺のダンクスマッシュは実はフェンスを突き抜けていたって証言してくれよな」
 それは無理だよー、と笑う。
 からりとした秋晴れのこの日、今朝見たエマグラムのとおり、私たちはどんどん空に持ち上げられていく気がした。


2013年10月
operaglasses様 10周年記念のお祝いに添えて、感謝の気持ちとともに

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