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 俺は背が高いので、たいがい教室では後ろの方の席になる。
 そして隣の列の、前の前の席の、俺の視線の先にいるのは
 吹奏楽部、身長158センチ、蠍座、A型の女子だ。
 俺の思い人なのかって?
 違う。
 彼女が、俺の事を好きなのだ。


 俺は先日の放課後、一旦部室に向かってから、机の中に忘れたプリントを取りに教室に戻るところだった。
 しかしふと、教室の中から誰かが俺の名前を口にするのが聞こえた。
「……私は、乾くんかな」
 俺は廊下で足を止め、そうっと中をのぞいた。
 俺の名を発していたのはで、彼女は女友達数人とおしゃべりをしているところだった。
「私は、乾くんが好き」
 にぎやかな女友達との中で、彼女は楽しそうにそう言った。
 そう、俺は確かに聞いたんだ。


 それからだ。
 俺は、の観察に余念がない。
 いや、決してストーカー的行為ではない。
 この俺を好きになる女子というのは、一体どういう人物なのか?
 そして、この俺のどういうところが、女子にアピールしたのだろうか?
 俺はそれが興味深い。
 テニス部員はこの学校では人気があるし、特に不二や手塚みたいな男なら、まあ女子が好きになる理由というのは分からないでもない。
 俺も勿論テニス部員でレギュラー常連だし、背は高くて学校の成績も悪くない。だが、自分でも自覚しているが、若干妙な方向にマニアックな男なのだ。
 しかも今はレギュラー落ちして、この上なくダサい学校指定のジャージを着用するという憂き目にあっている。
 そういう男を好きだというのは、一体どういう事情からなのだろうか?
 それが、俺としては非常に興味深かった。
 だから俺は、まずこの俺を好きだというクラスメイトをじっくりと観察するところから、調査をスタートしているというわけだ。

 はものすごく目立つというわけではないが、きわめて大人しいというわけでもなく、のびのびと学校生活を送っているタイプだった。女友達は多く、いつも楽しそうにしゃべっている。男友達もそこそこいるようで、よく話をする男は、浅野や関口。ああ、奴らは吹奏楽部だからか。大きな眼をした色白のちょっと可愛らしい顔をしていて、つきあっている奴がいてもおかしくないと思うが、多分それはないだろう。だって、彼女は俺の事が好きなんだからな。
 学校の成績はまあまあで、ただ、どうも理系の科目が若干苦手なようだった。
 食べ物は肉より野菜が好きらしい。もしかしたら、ダイエットをしているのかもしれないが、俺から見てまったくその必要はないと思うし、もう少し蛋白質を摂取した方がいいんじゃないかと思う。
 そんな感じで、俺のノートの彼女のデータは、俺のコメント付きでどんどん増えて行った。


 俺は察しの良い方だし観察力もあるので、ある程度までのデータはすぐに収集できるのだが、見ているだけでは当然限界がある。
 実は俺は、彼女とは同じクラスになってからまだほとんど口をきいた事がないのだ。
 たまたま接点がないからなのだが。
 だから余計に、なぜ彼女は俺を好きなのか、不思議なところではある。
 これ以上のデータ収集は、なんらかの接触を持たないと無理だ。
 しかし俺がよく話をする女子たちと、のグループはあまり親しくないようで、なかなか上手い具合に話をする機会がない。
 だから俺は、斜め後ろから彼女が友達と楽しそうにしゃべるのをただただ見つめるだけ。
『自分の事を好きな女の子』を見ているというのは、不思議な気分だった。彼女の事を知る度に、何だか嬉しくなる。まあ、そもそもデータ収集っていうのは俺の趣味で、楽しい作業ではあるのだけど。


 さて、俺のテニスだが、先にも言ったように今、レギュラー落ちをしている。
 しかしだからって、くさってるわけにもいかないしそんな柄でもないんで、レギュラーメンバーに特別練習メニューを作成し、それを綿密に実施する事に余念がない。
 レギュラー落ちした事は勿論悔しい。しかし、過ぎた事をとやかく言っても仕方がない。その時に負けた自分が未熟だっただけの事だ。
 ただただ、それを克服するために、今すべき事をすれば良い。
 そしてメンバーが一緒に強くなればまたそれに越したことはない。
 そんな訳で、レギュラー落ちをしても俺の毎日は変わらないし、どちらかといえばより多忙に、より充実してると言える。
 俺はこの日、部員達に指示したメニューをこなさせている間、マジックやテープなど足りなくなった小道具を取りに校舎に向かって歩いていた。
 部活の時間、音楽室の近くからは、あちこちから吹奏楽部の練習の音が聞こえてくる。
 を観察し始めて気づいたのだが、吹奏楽部の練習というのは、どうもいつもみんな音楽室でやっているわけではないようだ。
 曲目が与えられ、まず個人練習、そしてパートで集まっての練習、そして全体での合奏とスケジュールがあるらしい。
 個人練習の時はそれぞれで練習するため、各自廊下やら別教室やら思い思いの場所で練習しているようだった。
 そしては、いつも校庭のケヤキの木の下で一人練習をしている。
 校舎に向かいながら、俺は彼女が譜面台を立てているのを見つけた。
 俺はゆっくりケヤキの下を通りながら、彼女の前で足を止める。
 は楽器ケースを開きながら、少し驚いた顔で俺を見た。
「……どうしたの? 乾くん」
 彼女は楽器を組み立てながら、微笑む。ちなみに彼女の楽器はクラリネットだ。
「あ、いや。その……はどうしていつも外で練習してるんだ? 室内の方が音響が良いだろう?」
 俺は実際に疑問に思っていた事を尋ねた。
 彼女はマウスピースにリードをセットして、それを一度、高らかに吹いた。
「うん、勿論室内の方が音響が良くて演奏に向いてるけれど、それは人に聴かせる場合にね。自分で練習する時は、外で、何も反響するものがないところで出す素の音を聴きながらの方が、シビアになれるの。ほら、お風呂で唄を歌うと上手に聞こえるけど、その辺で歌うとそうでもないなあってなるでしょ? それと一緒」
 俺の質問に、彼女はそうやって丁寧に答えてくれた。
「なるほどな。外だとごまかしがきかないって事か。は自分に厳しいんだな」
 俺はちょっと感心して言った。
「自分に厳しいってほどじゃないけど。乾くん、大げさだね」
 彼女は恥ずかしそうに笑う。
 俺は彼女に、邪魔をしてすまなかったと一言言って、校舎に向かった。
 帰ったらノートにこのデータを追加しよう。
 俺の事を好きな女は、自分に厳しいシビアな女だ。
 その事は妙に誇らしくて、なんとも嬉しかった。


 一度きっかけがあると、大概その後は何かと上手く行くもので、翌日俺の日直の相手が病欠だったため、繰り上がりでになった。
 俺はそれを知ると、胸の中で風船が弾けたように嬉しくなる。
 今日一日で、思い切り俺のデータ収集ははかどることだろう。
 俺は日直の業務を彼女とこなしながら、いろんな話をした。彼女の苦手な先生、好きな教科、どんな本を読むのか。それらは俺のノートを確実に埋めてゆくデータになるけれど、データが埋まるという事以上に、丁寧にゆっくり言葉を選ぶ彼女と話すのは楽しかった。
 しかし肝心のデータがなかなか収集できないのだ。
 どうして彼女は俺の事が好きなのか。
 俺は人当たりも良いし、人と話をするのは上手い方だけれど、さすがに「は俺の事が好きらしいが、どうしてなんだ?」とそのままに尋ねるわけにもいかない。
 午後の授業の間、俺はどうしたものかと考えながら過ごしていた。
 ホームルームの後、と二人で職員室に回収物を届けに行く段になり、日直の業務もこれで最後。俺は思い切って口を開いた。
「……そうだ、。今日の日直、俺とでやっているのを、なんか女友達が妙にからかってきてね、やけに仲よさそうだとか。どうしてそんな風に言われるのか、俺はわからないんだが。は何か言われて、嫌な思いをしたりしなかったか?」
 言ってから、あまりの自分の下手さに顔が熱くなる。
 もちろんそんな風に言われたなんて、嘘に決まっている。
 何か、彼女から引き出せないかと、俺なりの苦肉の策なのだ。
 は驚いた顔で俺を見ていた。
「……乾くん、そんな事言われたの?」
 彼女は俺の顔をのぞきこみながら言った。
「……ああ。まったく、どうしてなんだろうな」
 この返事もなんだか、上手くない。まったく俺は肝心のツメがだめだ。
「うーん、もしかしたら……」
 考え込むように彼女は少し黙った。
「ちょっと前にね、友達と話してたんだ。テニス部の子たちのこと」
「うん?」
 さりげないふりをしながら、俺は彼女の言葉に食いついた。
「テニス部の子たちって、かっこいいし人気あるでしょう? 友達とね、三年のテニス部だったら誰がいいかって話してたの」
「それで?」
 俺はせっつくように言う。
「やっぱり、不二くんとか手塚くんが人気みたいで。でね、私は手塚くんもいいけど、乾くんも結構好きだなあって言ってたの。もしかしてそれで、乾くん、からかわれちゃったのかも。ごめんね」
 彼女は思い出したように笑うと、そう言った。
「……手塚はわかるけど、どうして俺? 俺はレギュラー落ちしてるし……」
 俺はずっと聞きたかった事を尋ねた。
「うん、最近乾くんレギュラージャージ着てないものね。私、外で練習してる時、たまたま乾くんがみんなのコーチみたいな事をしてるの見かけたの。自分がレギュラー落ちしても、そんな風にやっていけるって、すごく強くていい人なんだなあって思って。乾くん、きっと部員の人から信頼されて、好かれてるでしょう?そんな感じがした」
「……まあメニューを組み立てたりするのは、趣味みたいなものだからね」
「そうなんだ、すごいね、乾くん」
 彼女は笑って言った。
 俺のデータ収集は完了した。
 しかし、何だろう……なんというか妙な気分だった……。


 部活を終えて自主トレを終えて、俺は自宅の机に向かっていた。
 ここしばらくで知ったの事を記したノートを、パラパラと眺める。
 今日聞いた、彼女が俺を「いい」と思う理由。それはすごく嬉しい事だった。
 しかし……。
 が俺を好きだっていうのは……。
 手塚くんも不二くんも好き、でも乾くんも好き。
 この程度の、他の奴と並列の「好き」に過ぎないようだ。
 俺は、女の子が男を「好き」っていうのは、もっとこう……「つきあってください」とか「好きなんです」と告白したりとか……そういうものだと思っていた。
 は近々俺に告白をするのだろう、今はその秒読みだ、と、勝手にそんな気分でずっと彼女を見ていたのだ。
 ここしばらくノートをデータで埋めていた時の、ワクワクとしたような気分はすっかり崩れ去ってしまった。
 俺はまったく自分の気持の整理がつかない。
 だって、ずっと彼女は俺を好きだと思っていたのだから。つまり、ずっと彼女の告白を今か今かと待っていたのだから。
 今日の感じでは、彼女は確かに俺を「いい奴だ」とは思っているだろうが、正直なところ、告白は、まずない。
 さすがの俺でもわかる。
 俺はどうやって気分を切り替えたら良いのだろう。
 彼女についてのデータをノートに書きながら、俺はずっと、彼女に告白されたら何て返事をしようなんて考えていた。「うん、いいよ」とさらりと答えるか? 「俺も好きだよ」と少々ドラマティックな反応をするか? なんて馬鹿みたいに。
 そう、正直にはっきり言うと、ここしばらく彼女を見て観察していたら、俺が彼女をとても好きになってしまっていたのだ。しかも彼女は俺の事が好きなんだと勝手に思っていたものだから嬉しくて、浮かれた日々。まったく馬鹿みたいだ。これじゃ、ただのストーカーじゃないか。
 俺は頭をかきむしりながらため息をついた。
 でも。
 彼女は俺を、少しは好きなはずだ。
 もっと。
 もっと、好きになってもらいたい。
 そう、俺は彼女に、俺のことをもっともっと好きになってもらいたいのだ。


 俺は翌日の放課後、部室で着替えると校庭に向かって走った。
 ランニングではない。
 目指すは、が練習しているはずのケヤキ。
 俺は途中で足を止めた。彼女は楽器ケースと譜面台を持って歩いているところだった。
「……どうしたの、乾くん」
 すごい勢いで走ってきた俺を、彼女は驚いた顔で見る。
「いや、ちょっとに用があってね。ああ、ひとつ、持つよ」
 俺は彼女の楽器ケースをヒョイと片手で持った。
「ありがと。私に用って、なあに?」
「うん、何て言ったらいいのかな……昨日日直で一日、と話したりしてたら……すごく楽しくてね。その……またと話したいと思ったんだ」
 俺が言うと、彼女はあいかわらず驚いたような顔で俺を見ていた。俺は昨日何度も考えた事をそのまま言った。
が、テニス部員の中で俺をちょっとは好きだっていうのが、俺はすごく嬉しくて、でもできれば、もっと好きになってもらえないだろうかと思うんだよ。手塚や不二よりも、俺をね。だから、部活の後に一緒に帰ったり……テスト前は一緒に勉強したりしてくれないか。ほら、俺だったら数学とか、教えてやれるから。あ、別につきあうとかじゃなくてもいいんだ。勿論俺はできれば、そうなりたいけど。さえ良ければつきあってなくても、一緒に帰るとか、一緒に勉強するとか、一緒に弁当を食うとか、そういうのもアリだろう? もしがからかわれたりしたら、俺がちゃんと『俺たちはつきあってなどいない』と言うから。誓って、に嫌な思いはさせないよ」
 彼女は足を止めて、じっと俺を見上げる。
 そして、空いている方の手で口元を押さえると、くすくすとおかしそうに笑った。
「……乾くんて、やっぱりすごく変わってる」
 肩をふるわせて、くっくっと笑う。
 俺はため息をついた。
 やっぱりダメか。思いつく限りの言葉をつくしたが、やっぱり俺はどうもダメらしい。
「変わってるけど、きっと、そこが乾くんのいいところなんだね。私、そういうところが好きだなあって思う」
 は顔を上げると、少し赤らめた顔で俺を見た。
「それは、例えば手塚よりもか?」
 思わず言うと、彼女はまた笑う。
「どうして、いつも手塚くんとかが出てくるの?」
「まあ、ベンチマークとしてだ。若干高めだが」
「……手塚くんや不二くんは良く知らないし、私は乾くんの方が好きよ。テスト前に数学なんか教えてくれるなんて、すごく嬉しい」
 彼女は恥ずかしそうにしながらも、笑ってそう言った。
 俺は頭の中で、高らかに鐘の音が鳴るのが聞こえた気がした。
「……さっきの、『一緒に帰る』等の項目に、『手をつなぐ』というのも追加していいだろうか」
 俺はそう言うと、彼女の返事も聞かずに空いてる手をぎゅっと握った。彼女は目を丸くして、カアッと顔を赤くする。それは本当に可愛らしくて、俺はやっぱり彼女が好きだと心から思った。
 ちょっとずるいんじゃない、と彼女は少し非難するように言うけれどその手を引っ込める事はせず、俺たちは手をつないだままゆっくりケヤキの木の方に向かって歩いた。
 どっちが先に、どうして、どこを好きになったか、なんてどうでも良い事だ。
 恋は理屈じゃないんだから。


(了)
2007.4.18




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