● カモナベ  ●

、ちょと学校まで出てきてんか? 金ちゃんが大変なんや』

 クラスメイトの白石くんから珍しく携帯に連絡が来たのは、夏休みも後半にさしかかったある日の午後。お休みが終わることが名残惜しくて、灼けるような暑さですら愛おしく感じながらもスーパーにアイスを買いに行ったタイミングだった。

「ええ? 金ちゃんが? 何、また怪我でもしたん? うちが保健委員や言うても、たいしたことできひんよ。先生呼んだ方がええんちゃう」

 驚いた私があわてて言うと、電話の向こうで白石くんが首を横に振るのが見えるような気がした。

『ちゃうちゃう、そういうんとちゃうねん。とにかく、学校まで来てんか。あ、今な、全国大会終わって東京から帰ってきたとこやねん。残念ながら、準決勝で負けてもたわ』

 うん、友達から聞いた。
 白石くん、なんでもなさそうに言うけど、きっと悔しいに違いない。そういう空気は電話ごしでも伝わってきた。
 それにしても、金ちゃんの一大事って一体どうしたんだろう。

「そか、しゃぁないなあ。ちょうど外に出てるとこやし、今から行くわ。制服ちゃうけどええよね」
『かまへんかまへん』
 私はひとまずスーパーへ回れ右をして、アイス保冷用の氷を追加してから自転車を飛ばして四天宝寺中へ向かった。

 夏休みってことで掴みの正門では何の一芸もせずにスルーして、テニスコートを目指す。ちょうど部室から銀さんが出て来るところで、「白石はんに声をかけられたんやな。みんな、校舎裏の方に行っとるわ」と教えてくれた。そんな銀さんの腕は包帯で固定されている。
「あれっ、銀さん、その腕どないしたん?」
「ああ、これな。準決勝で河村はんいう選手とパワー勝負になってな」
 骨折をしたのだ、と涼しい眼をして言う。
 テニスの試合で骨折て、どないやねん……。と思いつつ、白石くんの電話での言葉を思い出した。
「……もしかして、金ちゃんも何か大怪我でもしたん?」
 白石くんは、そういうんとちゃうって言ってたけど、急に心配になって来た。
「いや、金太郎はんはそういうんではないんやが……」
 銀さんも歯切れの悪い口ぶり。
 一体、金ちゃんの身に何が起こったというのだろう。
 銀さんに誘われて校舎裏に行くと、四天宝寺中テニス部のメンバーがすでにユニフォームに着替えて集まっていた。そして彼らの視線の先は、校舎裏の大きな欅の木。木の幹には梯子がかかっている。

「おーい、金ちゃん、降りて来ぃや! テニスの練習始めんでー!」

 白石くんが欅の木を見上げながら声を張り上げている。

「白石くん、一体どないしてん」
「おう、か。悪かったな、休み中に」
 相変わらずのさわやかな男前顔で振り返る白石くんに、私は冷え冷えのスーパーの袋を差し出した。
「スーパー行ってたとこやし、かまへん。これ、差し入れや。溶けんうちにみんなで食べてな」
「うおー、アイスやで! さすが保健委員!」
 忍足くんが飛びついて来て、お徳用アイスの箱をばりばりと開けた。
「金ちゃーん! アイスやでー!」
 一本を取り出すと、テニスラケットとそのアイスを片手に、忍足くんは梯子を使って欅の木に登り始めた。

「金ちゃんがな、テニスやりたない言うてんねん」

「えっ!?」
 白石くんの言葉に、思わず私は声を上げて欅の木と白石くんとを交互に見比べた。
「全国大会から帰って来てな、反省会も含めて軽く練習すんで言うてんねんけどな、金ちゃん、ワイはもうテニスやりとうないー言うて暴れて木に登って降りてけぇへんのや」
「どないしてん。あんなにテニス大好きで一生懸命やったのに……」
 私はわけがわからず、欅の巨木を見上げた。聞き伝えでは、四天宝寺中が創設される前からこの地に根を張っているらしいというその木は、金ちゃんを守ってくれているのかそれとも取り込んでしまっているのか。金ちゃんの姿は木の葉に隠れて見えないけれど、忍足くんも梯子で木に登ってしばらく降りて来ないところを見ると、何らかの説得を試みているのだろう。しばらくすると、忍足りくんがテニスラケットだけを持って降りて来た。
「アカン、アイスだけ取られてもーた。やっぱり、ラケットはいらん言うねん」
「アタシもタコ焼きだけ取られてもーたし、やっぱり金太郎さん、手強いわぁ」
 小春くんが心底困ったような顔をして言う。
 どうやら、逃げ出した小猿を取り押さえるために、多大な犠牲が払われているようだ。
「なあなあ、金ちゃんがテニスしたないってどういうこと? そのラケットかて、金ちゃんが子供の頃から使ってる大事なもんなんやろ?」
 私が尋ねると、白石くんが軽くため息をついた。
「全国大会の決勝の時のことやねん」
 そして、東京での出来事について話し始めた。
 白石くんが言うには、なんでも金ちゃんは決勝の試合に乱入して、強豪・立海大付属中の部長に一球勝負を挑んだのだとか。ところが、相手はさすが名だたる選手だけあってとんでもない技を持っていたらしく、金ちゃんはすっかりやられてしまったらしい。
「負けたいうだけやったら、まだええんやけどな」
 神の子というふたつ名を持つ相手選手の戦い方は尋常ではなく、金ちゃんの打球をいとも容易に返球しつづけ、そのイメージを金ちゃんに消えない記憶として植え付けてしまったというのだ。結果、金ちゃんは一時的に身体を動かせなくなるほどの精神的ダメージを受けて、その恐怖感がいまだ拭えないのだと。
「つまりな、金ちゃんはテニスと言えばそいつに打球を返されるイメージしか頭に残ってへんねん。すごいやろ、あの三歩歩けばすぐに忘れる金ちゃんがやで。せやから、金ちゃんはラケットを持ってテニスボールを打とうとすると、その時の嫌な怖い記憶しか思い出せへんから、もうテニスしたないんやって」
 白石くんの話を聞いて、私は胸が痛くなって自分の事のように悲しくなってしまう。
「そんな! 金ちゃん、あんなに楽しくテニスやっとったのに!」
 たった一球勝負のことで、そんな金ちゃんの全てが奪われてしまうなんて! そんなこと、あっていいはずがない!
「せやろ、だからな、こうしてラケット持ちながらタコ焼き食うとか、ラケット持ちながらアイス食うとかして、記憶を書き換えられたらええんちゃうかと小春が考えてくれてな、いろいろやってみてんねんけど」
「あきません。タコ焼きやイカ焼きやお好み焼きやあれやこれや食うだけ食われてもて、俺らもう小遣いすっからかんですわ」
 財前くんが、珍しく肩をすくめてお手上げのポーズ。このクールな子も、金ちゃんを呼び戻すために、お小遣いをはたいてタコ焼きとか買って来たんやなー。
「それでな、金ちゃん、によう懐いとるやんか。俺らみたいなむさくるしい先輩に言われるばかりやのぅて、大好きな保健委員の先輩が呼んでくれたら木ぃから降りて来るんちゃうかな思て、に来てもろてん」
 そういう事かー。
「そっか、確かに金ちゃんの一大事やね。わかった、アイスもう一本持っていこ。うちの分は、金ちゃんにあげるわ」
 私は忍足くんからしっかと金ちゃんのテニスラケットを受け取り、そしてアイスを一本手にした。
 自分が食べる分は、帰りにもう一箱買えばいい。
「こ、この梯子を登ったらええねんな」
 おそるおそる梯子に手をかけると、ぬっと大きな手が梯子に伸びる。
「ワシがしっかり押さえておくさかい、心配はいらんで」
 片腕なのにもかかわらず、銀さんが梯子をがっしと押さえてくれる。
「えー、銀さん、怪我しとるのに」
はんの体重を支えるくらい、わけはない。ワシはこのザマで、木に登れんからな。これくらいは金太郎はんのために役に立たんと気がすまん」
 金ちゃんを呼び戻すために、皆一生懸命だ。私も頑張らないと!
 気合いを入れて、梯子を一段一段登り始めた。
「金ちゃーん、アイスやでー」
 金ちゃんへの餌付けはことごとく玉砕しているということだけど、とりあえずはアイスで釣ってみる。
 梯子のてっぺんまで登ると、まさにお猿さんのように金ちゃんが木の枝に座り込んでいる姿が見えた。
「金ちゃん、おいでぇな。部活の練習始まるんやろ」
 片手に持ったテニスラケットとアイスを振り回してみせると、金ちゃんはちらりと私の方を見て眼を丸くした。
ちゃん!」
「ほら、アイス食べてからみんなで練習しようやー」
 そう言ってラケットとアイスをかざしてみるけれど、金ちゃんはぶんぶんと首を横に振った。
「アカンねん。ワイ、アカンねん。もうテニスはいややー!」
 白石くんが言っていたことは嘘じゃなかった。まさか、金ちゃんがほんとにテニスをしたくないって駄々をこねてるなんて。
「なあ、金ちゃん。とりあえず、ラケット持ってみぃや。結構楽しいかもしれへんで? ラケット持ってアイス食べたら、テニスの楽しさとアイスのおいしさで、めっさお得やで」
「アカンアカン、物を食う時はラケットは放せ言うて白石に注意されたもん。うちのオカンからも、テニスするか物食うかどっちかにしろていつも怒られてんもん」
 くっそー、手強いな!
「そないなヘリクツ言うてる間に、アイス溶けんで!」
「ほな、アイスだけおくれ」
 金ちゃんがぬっと片手を差し出して来た。
 ほんと、このゴンタクレは!
 あかんあかん、ラケットとアイスはセットやでー、などと金ちゃんとの攻防に必死になっていると、ふと私を包み込む熱い夏の空気が動くのを感じた。
 遠巻きに欅を見上げているテニス部連中の、低音のどよめきが耳に入る。
「師範ー! 今、上を向いたらアカンでー!」
 忍足くんの声が響いた。
 と、同時に、急に熱い上昇気流が吹き荒れ、私のスカートが思い切り捲れ上がるのを感じる。
 左手に持ったラケットであわててスカートを押さえ、思わず足下を見下ろすと、ちょうど私を見上げる銀さんとばっちり目が合った。

「……見、見てへんで! ワシははんのパンツなど、一切見てへん!」
 
 野太い声で怒鳴る銀さんの顔は心持ち赤くなっている。
 いやいやいや。
 絶対に見てるやないかーい!
 という裏拳ツッコミの意味合いのリアクションでラケットをバックショットばりに振り回してみせると、銀さんはいやいや見てへん、みたいに手刀をぶんぶんと振るのだ。
 視界がぐらりと揺れた。
 銀さん!
 手を離したらあかんやないかーい!
 そのツッコミは心の中のみで、私は必死でつかまるところがないか、両手をふりまわす。
 その手は、がっしと強い力で掴まれた。
ちゃん!」
 見上げると、金ちゃんがまさにお猿のように脚だけで木の枝で体重を支え、私の右腕をしっかりと掴んでくれている。
 がたーん、と梯子が地面に倒れる音が響いた。
「ラケットこっちによこし! あ、アイスも落としたらアカンで!」
 私が左手で持っているラケットとアイスを受け取ると、それを口にくわえ、私をぐいっと引き上げた。
 いつものヒョウ柄のタンクトップの両肩からはみ出している金ちゃんの上腕三頭筋肉は、これでもかというくらいに盛り上がっていて、こんな時だというのに私はどきりとした。
ちゃん!」
 枝の上に持ち上げられ、枝の根元に座らされた私はようやく同じ目線で金ちゃんに対面することができた。
「金ちゃん、おおきに。落ちてまうかと思ったわ」
「パンツ!」
「ええ?」
 金ちゃんの妙に怒ったような表情でのその一言に、私は意表をつかれて言葉を失う。
「銀や白石たちがちゃんのパンツ見てんのに、ワイ、見てへん! ズルい!」
 金ちゃんはそう言ったと思うと、片手にラケットとアイスを持ったまま、ぎゅっとその顔を私の胸に押し付けてきた。私の背中に当たる欅の幹はごつごつとして、そして冷んやりしている。梢ちかく、常緑樹のその葉陰は涼しいけれど、胸に埋められた金ちゃんの吐息は熱かった。
 金ちゃんにラケットとアイスを奪われて、行き場がなくなった私の両手は、自然と金ちゃんの頭をそっと抱いて、その髪を撫でた。ゴワゴワしてるのかな、と思ったら意外に柔らかい。
 時間にしたら、きっとほんの数秒だったと思う。金ちゃんは心なしか紅潮したその顔を上げて、私をじっと見た。
「……あ、金ちゃん、アイス、溶ける!」
 私は胸の奥のドキドキを抑えながら、金ちゃんの手からアイスを奪い取って袋を開けた。
「ほら、はよ食べ」
 あーん、って金ちゃんの口にアイスを差し出した。
 金ちゃんは大人しく、しかしすばやくその溶けかけたオレンジ味のアイスキャンディーを平らげた。
「なあ、ちゃん」
「うん?」
「ワイ、ちゃんと聞いてへん。ワイな、ちゃんが大好きやねん。ワイ以外の奴がちゃんのパンツ見たなんて、もう絶対にアカン。でな、ちゃんはどないなん。ワイのこと、好きか?」
 こんな夏の日、欅の木のてっぺん近く、ほっぺに溶けたアイスがべたりとついたままで言う金ちゃんの言葉は、やけに男らしくて私の胸の真ん中の、さっきの金ちゃんの熱い吐息が甦る。
 夏休み前に保健室に『ヒニンって、何? どないしてするん?』なんて、先輩たちにたきつけられてやってきた金ちゃんは、あんなにコドモに見えたのに。
 ほんの1ヶ月そこらで、どうしてこんなに男らしくなっているんだろう。
 金ちゃんの言葉に、私はなんとか3年生の先輩らしい無難なスマートなリアクションを探すけれど、どうしてだかそういったものは私の中から見つけられなかった。
 だって、一体どうして。
 私より背が低い、タコ焼きが大好物の、1年生のゴンタクレのこんな男の子が、どうしてこんなにかっこいい。私の胸を熱くする。
「……うち金ちゃんのこと、好きやで。うちかて金ちゃんが他の女の子見とったら、アカンって思う。言うとくけど、そういう意味の、好き。わかる?」
 言いながら、カーッと顔が熱くなる。どうして、こんなこと言っちゃうんだろう、私!
 私は多分泣きそうな顔をしていたと思う。
 それでも、目の前の金ちゃんはまるでヒマワリの花がぱーっと開くような、そんな笑顔。
「それや! そーいう好きやねん、ワイ!」
 金ちゃんは叫ぶと、片手に持ったラケットを高く振りかざし空いている方の手で私をぎゅっと抱きしめ、その大食いの唇が私のそれを覆う。
 あまりの突然さに私は眼をまん丸に開けたまま。
 触れた唇から、金ちゃんのオレンジ味の舌がぺろりと一瞬侵入して、もう一度私を抱きしめる腕に力が入った。
 金ちゃんてば! こんなこと、どこで覚えて来たの!
 次の瞬間、私から身体を離すと、金ちゃんは真剣な眼で私をじっと見た。
「アカン! ワイ、もうガマンできひん! したなってきた!」
「えっ? 金ちゃん!」
ちゃん、これ、持っといて!」
 金ちゃんは私にラケットを手渡すと、私の身体に両腕をまわした。
「ちょ、ちょ! 金ちゃん! 何すんの、アカン、こんなとこでアカン!」
「アカンことない! ワイはもうガマンできひんのや! したい、したい!」
 そう叫ぶと、私を横抱きにして木の枝に立ち上がった。
「超ウルトラグレートデリシャスジャーンプ!」
 そして、金ちゃんは木の枝からジャンプした。
「ぎゃー!」
 私の絶叫をよそに金ちゃんの着地はスムーズで、恐怖のあまりぎゅっと閉じていた両目を開けるとそこにはいつもの金ちゃんのいたずらっぽい笑顔。
「ワイ、もうガマンできひん。テニスの練習したいねん。ちゃん、ラケットちょうだい」
 よろよろと地面におりた私が金ちゃんにラケットを手渡すと、金ちゃんはぴょんぴょんと飛び上がりながらテニス部の面々の方に走る。
「財前、はよ練習しよや! 帰りにみんなでタコ焼き食うてこな!」
「あんだけ食うて、まだ食うんですか」
 表情ひとつ変えずにため息をついてテニスコートに向かう財前くん。
「なんや金ちゃん、テニスはもう怖いことないんか」
 白石くんがからかうように言う。
「平気や! あいつのテニスより、ワイにとってはちゃんのおっぱい・好き・チューのが勝ちや!」
「ちょ、ちょっと金ちゃん、何を言うの!」
 私が慌てて後を追うと、金ちゃんは呑気に「ちゃんも帰りに一緒にタコ焼き食べよなー」なんて言う。
 お前ら木の上で何しとってん、なんて忍足くんがニヤニヤしながら言うものだから、私は「何もしてへんわー! アホー!」と忍足くんの後頭部に平手でバシッとつっこみを入れる。隣では銀さんが「ワシは、パンツは見てへんで。断じて見てへん」と言ってから、般若心経を唱え始める。
ちゃん、はよおいでやー! 白石ー、ワイ全員と一球勝負したいー!なんて叫びながら金ちゃんはぴょんぴょん飛び跳ねていて、ふてくされて木に登っていた姿はどこへやら。
 ほんま、金ちゃんはしゃーないな!
 でも、しゃーない、好きやもん!

2014.09.23

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