モクジ

● チョコレート・ガイド  ●

 珍しいといえば珍しい、珍しくもないといえば珍しくもない。
 私は乾貞治と青学中等部の一年の時から三年の今まで、ずっと同じクラスだ。
 乾は三年間で背丈こそぎょっとする程に伸びたけれど、その中身はほとんど変わっていない。
 つまり一年の時から、割と頭が良くて人当たりもいいけど少々理屈っぽくて細かいところにこだわって、データを取ることが好きなちょっと変わった奴だったってこと。
 長身・眼鏡・頭脳明晰ときたら、白衣でも来て理科室なんかを使う部活がお似合いだと思うんだけど、なんと彼はテニス部なんだよね。だから着用しているのは白衣じゃなくて、トリコロールカラーのレギュラージャージ。時々、体育で使う緑色のイモジャーを着ていたのは痛恨のレギュラー落ちをしていた時期だったらしい。
 そんな乾との三年間のクラスメイト生活も、あと一ヶ月と少しで終る。
 今は三年生の二月。
 そう、二月なのだ。

「さっむいなー」
 一年間で最も寒いだろう二月の朝、登校して教室に到着した私はコートを脱いでロッカーに仕舞い手袋を外した手をこすり合わせる。
「やあ、今日は早いじゃないか」
 既に登校していたらしい乾が自分の机から身をよじって私に声をかけてきた。
「うん、なんか早く目が覚めて。でも珍しく早起きしたものだから、今頃になって眠くなってきちゃった」
「そうか、せっかくだ。早起きは三文の得ということを実感してみないか」
「はあ? なんかいいことあるの?」
 私は乾の隣の列の、自分の席に向かった。
 この時期、当然三年生は部活動は引退してるんだけど、乾はなんだかんだと朝も早く来てテニス部に顔を出したり、図書館へ行ったり、ライフワークの乾汁開発のためか調理室で何かしたり、いつも始業前を有効に活用している。
「ああ、これだ」
 乾の机には、怪しげな銀色のピッチャー? ポット? みたいなものが載っていた。
「一杯ふるまってやろう」
 紙コップを取り出すので、私は両手を振った。
「いい、いい。私、十分に健康だし元気だから」
 例によって乾汁かと理解し、私は彼の手元には眼もくれず自分の机に教科書やノートを仕舞い始めた。乾が作る乾汁には美味しいバージョンもあって、以前いくつか飲ませてくれたのは美容にいいやつとかそんなんだったと思う。確かに美味しいのは美味しいけど、時々ハズレだとすっごい酸っぱいやつがあるの。私、酸っぱいものって苦手だから何度かそのハズレにあってから、乾汁は美味しいバージョンでも遠慮することにしてるんだ。
「うむ? 本当にいらないのか?」
 乾は紙コップにピッチャーの中身を注ぐ。
 湯気立ち上がるコップからは、ふんわりと甘い香りが漂った。
 酸っぱいものが苦手な私は、甘いものが何より好き。
「……え? なに、温かい飲み物なの?」
 誘惑に負けて覗き込むと、そこにはどう見てもホットチョコレートとしか見えない美味しそうな液体……。
「母親がフランス製のホットチョコレート用ピッチャーというのをもらったらしくてね、しかし家では使うことがなさそうなので、料理部にでも寄付しようと持って来たんだよ。何気無く構造を見ていたら、どうにも使ってみたくなってね、今朝、調理室で試しに作ってみたんだ。ほら、蓋の部分に棒みたいなのがついているだろう? これでかき混ぜて泡立たせるんだ」
「……この飲み物の成分は?」
「成分無調整牛乳とチョコレートだよ。朝、コンビニで買って来た」
 回答を聞くのと私が手を差し出すのは同時で、乾はふっと笑いながら私に紙コップを差し出してくれた。
「……美味しいー……!」
 ごくりと口にすると、文句無しに美味しいホットチョコレートの温かさと甘さがお腹に染み渡る。いっぺんに幸せな気分になった。
 はーっと幸福のため息をついて、我に返って乾を見る。
「ありがと、すっごい美味しかった。思いつきで朝から材料調達してきちゃうなんて、すごいねー。さすが乾」
「いやいや、今は時期的にコンビニでもチョコレート類が豊富だからね、材料には事欠かないよ」
「……だよねー、もうすぐバレンタインだもんねー……」
 銀色のピッチャーを手にした乾を見ながら、私の胸の奥がキュウッとなる。
 最近、こういうことが多いんだ。キュウッとなるの。
 理由はわかってる。乾のせい。
 乾は近くの席の子たちにホットチョコレートをふるまって、周囲では当然ながら好評で盛り上がってて、そして予鈴の音とともに乾はきちんとピッチャーを片付けて授業の準備をする。
 乾はこんな風だから、少々変わり者でもクラスでは人気者だ。
 優しいし話は面白いし、とっつきやすいから友達も多い。
 私だってそんな友達の一人だ。
 そう、彼の沢山いるクラスメイトの友達の一人……。
 楽しいんだよね。乾とわいわいバカ話したりするの。
 声をかけたらいつでも話し相手になってくれるし、勉強がわからなくて困ってたらいつでも丁寧に教えてくれる。きっと彼だって自分のことで忙しいだろうに、そんなそぶりは一切見せない。気を遣わせないの。
 そんな彼だから、一年の時の二月には十分親しくなっていて、私、当時こう思ったことを覚えてる。
『乾にバレンタインチョコあげようかなあ。義理チョコだよなんて言って。でも、乾は義理チョコなんて沢山もらいそうだから私が一個あげたってねー』
 なんてね。で、結局あげなかった。実際、乾はクラスの女子から沢山チョコをもらってた。
 で、二年生なった時の二月にはこう思ってた。
『また今年も乾と同じクラスかー。チョコ、どうしよう。何か贈りたいけど、去年何もあげなかったし、今更なんだかねー』
 で、二年の時も結局ナシ。
 そして今年は三年生。まさか三年連続同じクラスとは思いもしなかった。
 三年目の二月、私はどうするべきなんだろう。
 実はまだ実感が沸かない。
 高等部に上がったら、もしかしたらまた乾と同じクラスになるかもしれないけれど、さすがにその可能性は低いような気がする。
 乾がいない教室って、一体どんな風なの?
 想像がつかない。
 話しかけようとしても乾が近くにいないなんて、そんなことこの三年間なかったんだもの。
 そして、そんな風に毎日のように顔を合わせていた乾だけど、その眼鏡の分厚いレンズのせいか、肝心の部分がわからなかったりもする。
 肝心の部分っていうのは、私が知りたいことっていうのは、つまり、つまり……。
 今までのバレンタインチョコ、本命チョコはあったの?
 彼女はいないよ、なんて言ってるけど、好きな女の子はいるの?
 そのあたりの真相は、謎のままなのだ。

 今年のバレンタインは、乾にチョコをあげる? あげない?
 あげるとしたら、なんて言って贈ればいい?

 ここ最近の私は、そんなことを考えてばかり。


、カカオの実ってどんなものか知ってるか?」
 昼休み、不意に乾がそんなことを聞いてきた。
「カカオの実? それくら知ってるよー。だって、よくチョコレートのパッケージに描いてあったりするじゃん。こういう、アーモンドみたいなのでしょ」
 私は自分の掌に指でくるりと小さな楕円を描いてみせた。
 すると乾はにやりと笑って、チッチッと人差し指をワイパーのように動かした。
「それはカカオの種だ。カカオの実っていうのはこれくらいの大きさで……」
 言いながら、ノートにシャープペンシルでぐるりとマンゴーの実より少し大きめくらいの楕円を描いた。
「えっ! そんなに大きいの?」
「こういうカカオの実の中にカカオの種が入っていて、それを取り出して乾燥させて加工してチョコレートにする」
「へえ〜、私、こういうカカオ豆がそのまんまの形で木に生えてるんだと思ってた。じゃ、カカオ豆っていうよりカカオ種だよねー」
「そうだな」
「乾はほんと物知りだねー」
 私が言うと、彼は照れくさそうに眼鏡のブリッジをいじる。
「いや、実は俺も昨日調べて知ったところなんだ。チョコレート用のピッチャーがもの珍しくて、ついチョコレートの歴史なんかを検索してみてね」
「なるほどー」
 そこで歴史まで調べちゃうとこが乾だね。
 笑いながら胸がまたキュウッとした。
 毎日当然のように交わしていた乾とのこんな楽しい会話も、あと一ヶ月で終わりなのかもしれない。
 ……どうしたら……どうしたらいいんだろう。
 でも、ほら、高等部の学食とかでね、顔を合わせることもあるよね、きっと。
 そんなことを考えてみたりもするけど、私の気持ちはすっきり晴れることがない。
、次、移動教室だぞ。音楽室」
 うつむいていた私は乾の声で顔を上げて時計を見た。
「あっ、ほんとだ! もう行かなくちゃ!」
 慌てて準備をした。
 早く行かないと、後ろの席がなくなっちゃう!

 走って音楽室に行った私は、なんとか友達が確保してくれてた後ろの方の席に座る事ができた。
 今日の音楽の授業は確か音楽鑑賞で、絶対に眠くなることうけあいだから、後ろの席がよかったんだよねー。一安心。
 授業が始まって、先生が教科書に沿って作曲家と時代背景についてしばらく解説をしてくれ、そしていよいよ音楽が流される。
 静かな教室にクラシック音楽が流れ始めた。
 ね、お昼を食べた午後イチの授業でこれ、うとうとするなっていう方が無理でしょ?
 序盤のうちからさっそく瞼が重くなり、私はその重さに逆らうことは諦めている。
 午後の心地よい眠りに落ちた。


 バロック音楽を背景に、私は夢を見ていた。
 授業中に寝るのはいけないことだって自分なりの理性があるのか、私は今授業中にうとうとしちゃってるんだっていうことはしっかりと自覚して、妙に意識を保った夢だった。
 だからかな、夢に登場しているのが乾だっていうのがすぐにわかった。

「チョコレートつまりカカオというのは、その歴史は約四千年前までさかのぼるんだ。マヤ文明・アステカ文明になるとカカオ豆が通貨としての役割を担っていたんだよ」
 夢の中の乾は、いつもの調子で本日の乾のブームであるらしいチョコレートの歴史について語っていた。
「へー、そんな昔から。しかも、通貨?」
 夢の中でも私はアホ面で乾に質問をしていた。
「カカオが非常に栄養価に優れているということが、当時から知られていたんだろうな。今みたいなチョコレートにはほど遠いようだが、カカオ豆を砕いて水分でのばしてといった風に摂取していたらしい」
 乾の唐突なチョコレート談義を、夢の中の私は興味深く聞いていた。
「マヤの時代は、カカオを溶いた液体をこういう器で飲んでいたらしい。もちろん、朝飲んだような甘い美味しいものではなかっただろうが」
 私たちの目の前には、博物館に飾ってあるような壁画や素焼きのような古い器が現れた。
「へ〜、私たちが食べてるみたいな美味しいチョコになるのはいつ頃からなの?」
「まあ、待て」
 乾は笑って片手を挙げた。
「実際にカカオが栽培できるのは、概ね赤道近くなんだが」
 次は地球儀が登場して、乾はそれをぐるりと廻して赤道を指した。
「メキシコのトルテカ族の王であり神というケツァルコアトルって、学校の授業で先生がちらっと話していたの覚えているか?」
「えっ? 覚えているような、ないような……」
 ちっとも覚えてないのに、ついついちょっとは覚えているようなふりをしてしまうのは私の悪い癖。
「身体が部分的には人間で、あとは蛇と鳥。羽根もついている。そんな姿の王様だ」
 乾はケツァルコアトルをかたどったという不気味な像を指し示した。
 やだ、ほんと気味が悪い! チョコレートの話だったら、もっと明るくて楽しい話にしてほしいよ。
「……乾、なんだか怖い……」
 気味の悪い像から眼をそらして、首を振った。
「俺から離れなければ大丈夫だ」
 すると乾がぎゅっと私の手を握った。
 心臓が飛び出そう。
 そういえば三年間同じクラスだけど、乾の手に触れたことってあったっけ?
 あったような、ないような。
 夢の中の乾の手はやっぱり大きくて暖かくて、そして掌にはテニスラケットを握ってできたのだろう豆のごつごつとした感触があった。これは間違いなく夢だから、私が頭で作り上げた想像上の乾の手なんだけど、なかなかにそれっぽい。私がずっと想像していたそのものの乾の手だ。さすが、私の夢。
「あ……で、そのケツなんとか、がどうしたの?」
 これは夢、これは夢。夢の中で乾と手をつないだくらいで、動揺しないの私、と自分に言い聞かせながら何気ないように会話を続けた。
「うん、そのケツァルコアトルがこれまた他の神からカカオを授かったという言い伝えがあるんだ。エデンの園みたいなところから人間にカカオを持ち込んで栽培の仕方を教えたっていうね。それだけカカオは神聖で貴重なものだったてことだろうな」
「へええ〜」
 私が間抜けな声を上げていると、周りの景色ががらりと変わった。
 今まではまるで暗い教室で映像を見せられているような雰囲気だったけれど、周囲はいっぺんに明るくなる。
 今度は海と大きな帆船が見えた。
「1512年にコルテスがメキシコの征服を始めた時から間もなくして、彼はカカオ豆が価値あるものだと理解したらしい。現地での栽培に力を入れ自らも通貨として活用した。そうしているうちに、カカオ豆で栄養価の高いドリンクを作る方法も学んだんだ。当時の手法は、カカオ豆を乾燥して砕き、ペースト状にしてスパイスやハーブ、胡椒なんかを混ぜていたらしい。それを水に溶かして泡立てて滑らかにして飲んでいたそうな」
「うへー、チョコレートに胡椒? それこそ乾汁レベルのドリンクだね」
「ははは、参考にするかな。ま、カカオがヨーロッパに上陸した当時、カカオ豆のドリンクは美味しい飲み物というより、薬のような位置づけだったようだ。その効果は医学的にも支持されていた」
「やだな、身体にいいより美味しい方がいい」
 私が言うと、乾はまた笑った。
 あ、こういう緩い笑顔好きなんだよなー。
 夢の中でも私の胸の奥は、キュウッとなった。
「そう言うと思ったよ。じゃあ、しっかりつかまっていろ」
 力の入った乾の手をぎゅっと握り返していると、また周りの景色が変わった。
 今度は古い時代の修道士らしき格好をした人たちが素焼きのピッチャーを抱えている。
「チョコレートドリンクが甘くなったのは、1600年頃からだ。最初はメキシコの修道女たちが蜂蜜やシナモンを入れて美味しい飲み物にしたのだとか」
 蜂蜜!
「そうこなくちゃ! やっぱり女子よね。さすが修道女!」
「そしてスペインの修道士達が蜂蜜やバニラをくわえたレシピをスペインに紹介して、そこからたちまち世界に広がっていったんだ。ただし、当時はまだ高価なものだったから一部の裕福な人たちの間でだけだったようだけどね」
 早く美味しいチョコを誰でも食べられるようになればいいのに。
「その後、カカオはフランスにも伝わって、フランスでショコラティエが誕生したのは1600年代半ばくらいだったらしい」
 周りは、いよいよ歴史の教科書やテレビで観たことがあるような優雅なフランスのルイ王朝といった雰囲気になっている。
「さて、いよいよチョコレートドリンクが本格的に美味しくなるのは18世紀。この頃はすっかり薬みたいな位置づけではなくなっていた。俺が朝持っていたチョコレートドリンク用のピッチャーもこの時代のもののレプリカだったらしい」
「いつになったらドリンクじゃなくて、今みたいに美味しいチョコを食べられるようになるの?」
 待ちきれなくなった私は、前のめりで乾に尋ねる。できれば試食もしたい。
「その前にいくつかの段階がある。まず1828年、オランダ人のヴァン・ホーテンがカカオ圧搾機というものを発明して、液体に溶けやすいカカオパウダーを作り出すことができるようになったんだ」
「あー、ヴァン・ホーテンは知ってる! あの感入りのココアでしょ? わー、やっと私も知ってる名前が出て来たー!」
 嬉しくてつい声を上げてしまう。
 乾の話は長いんだから、なんて思いながらもいつしか私は彼のチョコレート物語に夢中になっていた。
「その後、ようやくおなじみの固形のチョコレートが登場してね。しかし1800年代前半くらいまでは、まだまだチョコレートは今みたいに滑らかなものではなくて、きめの粗いものだったんだ。けれど、1880年頃にリンツという人がコンチングという工程を発明した。ペースト状にしたチョコレートを長時間攪拌するという作業でね、それによって香りも良くなり、まさにとろけるようなチョコレートの誕生というわけだ」
 私たちはいつの間にか、濃厚なチョコレートの香りの漂うチョコレート工場らしいところにいた。
「これがチョコレートの歴史を変えた、コンチングマシン。当時この機械で約72時間にわたり撹拌を続けていたそうだよ」
 乾が指差すのは、大きめのバスタブみたいなもの。その中身を、ボートのオールみたいな棒がぐるぐるとかき回していた。
 ちらっと覗き込むと、おお、まさにチョコレート! といった感じのどろどろとした液体がかき回されている。その機械の近くには、型に入れられて固められた見慣れた形状のチョコレートが積まれていた。
「こうやって、かきまわされて滑らかになじんで、苦みなんかが取れていくんだ」
 夢の中のチョコレート工場で乾の話を聞きながら、私は乾と過ごした三年間を思い出した。
 思い出すって言っても、取るに足らない出来事ばかり。でも、そのひとつひとつが楽しかった。
 こういうことも、これが最後なのだろうか。
 三年間一緒だった私たちも、これからは別々の時間を過ごすことになるんだろうか。
 当たり前のことなのに、どうしても信じられない。信じたくない。
 私たちは、このコンチングマシンの中のチョコレートみたいに、なめらかにやさしく交わることはないんだろうか。
「……おいしそうだよね、乾」
「そうだな」
「乾ってさ……」
 これって夢だもの。きっともうすぐ目が覚める。
 乾と過ごす楽しい時間ももうすぐ終わり。現実の時間と同じように。
「あのさ、今まで、バレンタインで本命チョコってもらった?」
 夢の中なんだから、これくらいの質問はいいよね。
「義理チョコじゃなくてさ、告白されたりの本命チョコ。そういうのもらった時、どうしたの?」
 乾は、私とつないでいない方の手で眼鏡のブリッジに触れた。
「本命チョコか……。はどうなんだ? 本命チョコを贈る相手はいないのか?」
 飄々とした顔で言う乾に、私の顔はカッと熱くなった。
 思わず彼とつないでいた手を離す。
「乾には関係ないじゃん!」
 私は乾に背を向けてコンチングマシンを見た。そして、傍らに置いてある出来上がったチョコをひとつ指でつまんだ。
 これくらい試食しないとやってられない。
! だめだ!」
 乾が叫ぶのと、周囲の景色が色を失い灰色になるのは同時だった。
 乾の声に驚いて、チョコのかけらは私の指から落ちる。
 いつの間にか私たちは、チョコレート色をした人型に囲まれていた。

「チョコレート法の第12条7項、ガイドツアー中にチョコレートに触れてはならない」

 チョコレート色をした人型の顔はまったくわからないけれど、お腹の底に響く低い迫力のある声。
 彼らは全部で五人。そのうちの二人が乾の両側に廻った。
「我々はチョコレート警察だ。お前が今回のチョコレート・ガイドだな」
 そう言って乾の腕を両方から拘束した。
「乾!」
 私は叫んで駆け寄ろうとするけれど、一人のチョコレート警察に制止された。
 乾は両手を掴まれたまま、心配するなとばかりに苦笑い。
、俺の手を離すなと言っただろう」
「ごめん、乾! ごめんなさい!」
 私は半泣きで叫ぶ。
「チョコレート法第12条の決まりにより、チョコレートツアーはこれで終了だ。チョコレートガイドは連行する」
 乾はチョコレート警察に引っ張られて行く。
「やだ! 乾を連れて行かないで!」
 乾はひょい、といつも教室でやっているように身体をよじって私を見た。
「大丈夫だ、。次のチョコレートツアーでは俺から離れるなよ」
 私の大好きなあの緩い笑顔。
「乾、行かないで!」

 ハッと眼を開いた時には、音楽はもう流れていなかった。
!」
 名を呼ばれて顔を上げると、そこには乾の心配そうな顔。
「音楽の授業は終ったぞ。みんな、もう教室に……」
 乾の言葉を最後まで聞き終わらないうちに、私はがしっと乾の手を両手で掴んだ。
「乾! どこへも行かないで!」
 身体をかがめて私を覗き込んでいた乾は、びくりと少し驚いたように一瞬背筋を伸ばして、それからまた私の顔を覗き込む。
 私が今つかんでいる乾の手は、夢の中のものより少しひんやりしている。それでも掌のごつごつとした豆は、夢の中と同じだった。
「……どこへも、と言われても、そうだな。これから教室に戻って次の授業を受けなければならないが、それは一緒に行ける。同じクラスなんだからな。放課後はテニス部の後輩の加藤って奴にちょっとした申し送りをする約束をしているんだが、まあ30分くらいで終るだろう。もし待っていてもらえるのなら、一緒に帰ろう」
 普段と何も変わらない様子で言う乾に、私は少しずつ我に返った。
 私、何を言っちゃってるんだろ……。
 そうっと乾の手を離した。おそるおそる彼を見上げるけれど、消える様子はなくてほっとする。
「待っていてくれて一緒に帰れるのなら、ホットチョコレートを飲みに寄らないか。自分で作ってみたら、今度は本物を味わってみたくなってね」
 チョコレートはもう沢山! と一瞬思ったけれど、そういえば夢の中では食べられずじまいなんだった。私はこくりとうなずいた。
「よし、決まりだな。さ、教室に戻るぞ」
 乾はふわっと笑って私の手を取り、立ち上がらせた。
「ホットチョコレートの美味しいお店、知ってるの?」
「あとで検索するさ」
 授業開始が近づいたひと気のない廊下を、私たちは手をつないで歩く。
 夢の中で乾にした質問は、ホットチョコレートを飲みながら尋ねてみよう。
 あと、もうひとつ。
 乾はバレンタインにどんなチョコレートをもらうと嬉しい?
 って聞いてみようかな。

(了)

2015.2.10

※ 読売テレビ 読売新聞主催「チョコレート展」の内容を参考にしました
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