● 恋のコールドゲーム(4)  ●

 恋を予感させる友達。

 からそんな称号をもらった仁王は、彼女との甘くそれでいてシビアな試合を続けていた。
 共に昼食を取ったり、部活のない時は連れ立って下校をしたり。
 仁王は、なぜこの終らない試合が心地よいのかが分かった。
 これは恋の良いとこ取りだからだ。
 楽しく過ごしつつも、触れそうで触れ合わない。
 あと一歩のところで、それ以上深く関わらない関係。
 これ以上に関わってゆくには、ある程度の痛みを伴う。
 その痛みや、諸々の煩わしさをなしに、ふんわりと甘い霞だけを食べるこの関係。
 確かに心地よいけれど、彼はそれだけでは物足りない。
 単に彼女の身体に触れたいという事ではない。
 彼女の真剣な、もっと深いところに触れたい。そう思ったから。

 だけれど、焦るまい。
 長引く試合では、焦った方が負けだ。



 しかし、試合を見守る空はいつまでも青空とは限らなかったのだ。

 ある日の昼休み、がめずらしく携帯の画面をじっと見ていた。
 彼女はそんなに頻繁に携帯をさわっている方じゃないから、それは仁王の目をひいた。
「……飯、行かんか?」
 声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げて携帯を閉じた。
「……あ、うん、行こっか」
 何がどうというわけではないけれど、彼女の様子がいつもと違った。
 仁王は嫌な予感がする。
 こういう予感は大抵当たるのだ。
「……どうかしたんか?」
 校庭のベンチで弁当を食べながら、仁王はに問うた。
「別にどうもしないけど」
 予想通りの返事。
「嘘じゃろ」
 こういう点においては、だらだらとするのは好みじゃないし速攻で行くのが彼の流儀なのでずばりと続けた。
「何かあったんじゃろ。言いたくなかったら、言わんでもええけど」
 彼が言うと、はしばらく黙って弁当をもぐもぐと食べたあと、ふうっと息を吐いた。
「別に何があったっていうわけじゃないんだけど、川本くんからメールが来て……二学期から引っ越してきてまた立海に編入するんだって」
 はグラウンドを眺めながら小さな声で言った。
「川本?」
 仁王は聞き返す。
「ああ、前にちょっと話した……私が一年の時につきあってて引っ越してっちゃった子」
 その言葉に、仁王は雷が落ちたような感覚を味わう。
 さすがの詐欺師も、それは予想していなかった。
 テニスのダブルスの相手が実は変装してお互いに入れ替わっていたどころか、後半からは野球の試合に変更すると告げられたようなものではないか。
「……ふうん、また引っ越してくるんか。忙しいやっちゃな」
 彼は冷静を装ってそれだけ言った。
「今週、編入試験を受けに来るんだって。それで、久しぶりに一緒に学食でご飯食べないかって、メールが来たの」
 仁王は、がつきあっていたという男がどんな男だったのか、彼女から聞こうと思った事はない。興味があるのはにであって、彼女がつきあった男ではないから。昔の男などどうでもいいのだ。
 けれど、ずっと彼女を放っておきながら亡霊のように蘇った男。
 今まで注意深く、丁寧に彼女と築いてきた試合を、一雨で台無しにしてしまうかもしれない男。
 そんな男を、仁王は呪った。


********


 川本という男からメールがあったその日から、の様子は落ち着かなかった。
 落ち着かない彼女を見ていると、仁王も感染したかのように心が騒ぐ。
 時間を経てから現れる人間というのは、狡い。
 が久しぶりに会うのは、川本だけではない。
 当時、彼に恋をしていた自身とも会うのだから。
 つまり、久しぶりの逢瀬で邂逅するのは、昔の恋人同士だった時代の川本と、そして今の自然消滅しかかっている川本との四人なのだ。
 昔の恋人同士の再会というのはそういうもので、それが彼女を混乱させないはずがない。

 仁王雅治はどうするべきなのか。

 その答えは出ないまま、そしてとそれ以上川本の話をする事もないまま、川本が編入試験を受けに来るという日がやって来た。

 午前中の授業が終わり昼休みに入ってすぐに仁王が振り返ると、と目が合う。
 は少し申し訳なさそうに仁王に軽く目礼をすると、何も言わずそのまま一人で教室を出た。
 仁王もゆっくりと席を立ち上がる。
 しばし迷ってから、彼は学食の食券を買ってトレイを持った。
 別にどうという事はない。
 と昼を食べるようになる前から、彼は学食へ行く事も多かった。
 今日はたまたま一人だけれど、いつものように学食へ行くというだけの事だ。こそこそするような事じゃない。
 定食のセットをトレイにならべ、いつもはが取ってくれる箸と水を自分でのせて、テーブルについた。
 彼の視線はあっというまにの姿を探し出す。
 長身の男と向かい合って座っている彼女。
 男は仁王に背を向けていて、顔は見えない。
 けれど、構わない。彼女さえ見守ることができれば。
 当然のようにそう思ったけれど、懐かしそうに柔らかく微笑みながら食事をする彼女の表情は、仁王の胸に突き刺さった。
 あそこにいるのは、いつも彼と食事をしたりノートの写しあいをするではない。
 1年生の時、川本に恋をしていた彼女だ。
 仁王自身の中に昔の恋がいくつも眠っているように彼女の中にも昔の恋があって、それが昔の彼女とともに現れているのだ。
 それは勿論今の彼女とは違うとわかっていても、仁王には痛烈な一撃だった。
 彼は急いで定食を平らげ、逃げるように学食を後にする。
 その後の授業には出席する気分になれず、そのまま屋上で午後を過ごした。


 授業が終った頃、仁王はゆるゆると教室に顔を出した。
 教室にはもう人はいない。
 を除いて。
 帰宅部の彼女は、いつも教室に残って課題を仕上げて帰るのだ。
 ぶらりと教室に入って来た仁王を、は驚いた顔で見上げる。
「仁王くん、どうしたの? 午後、いなくなっちゃってて、心配したよ」
 彼女の声に仁王はしばし黙ったまま鞄に教科書を仕舞い始め、そしてふうっとため息をついて答えた。
「……たまにな、サボるんじゃ。屋上なんかでな。久しぶりじゃけど」
「そうなんだ。知らなかったから、どうしたのかなあってびっくりしちゃった」
 彼女はほっとしたように言って、またノートに目を落とした。
「……男とは、ヨリが戻りそうか?」
 そして突然の仁王の一言に、驚いたようにまたすぐに顔を上げる。
「男って、川本くんの事?」
「他に誰がおる」
 仁王は険しい顔で彼女を見据えた。
「……久しぶりに会って、ご飯食べて世間話しただけだから、そんなのわかんないよ。今晩の飛行機でまた九州に戻るからって、もう帰っちゃったしね」
 ない、とはっきり否定はしない。
 一度心を寄せ合った相手との当時の気持ちが蘇る事は、魔法のような力を持っている。仁王はそれを知っていた。
 教科書を仕舞い終えた鞄を、仁王はばんっと机に放った。
 その音では身体をびくりとさせて仁王を見た。
 彼は何も言わず、の前に立ってそして身体をかがめた。
 ペンを持ったの手を握り締め、肩を抱き寄せる。
「仁王くん?」
 は声を上げて、そして一瞬彼を押しのけようとした。
 仁王の目は、彼女の耳に唇を寄せたあの時とは違って見えたのだろう。
 仁王はそのまま顔を寄せて彼女の唇を自分のそれで覆う。
 彼を押しのけようとするの手に力が入るけれど、それで彼が行為をやめようとはしないのを察してか彼女はあきらめたように力を抜く。
 の唇は温かく柔らかく、そしてその熱い舌はなめらかなベルベットのようで仁王の頭の芯を痺れさせた。時折苦しそうに声をもらす彼女に構わず、彼は口付けを続ける。
 カツン、と彼女の手からペンが床に落ちた音で、仁王ははっと我に返った。
 今まで、いろいろな振る舞いや言動で彼女を驚かせたり笑わせたりしたけれど、それまでのどんな表情とも違う顔。大きく目を見開いて驚いて、少しおびえたような。
 そんなの顔を見ると、仁王ははじかれたように身体を離して鞄を掴むと教室を走り出た。
 一体、なんだって。
 なんだって、この仁王雅治がこんなガキみたいな事を。
 そんな風に、自分で自分をののしりながら走り続けた。

 仁王は気持ちの切り替えのできる男なので、そのまま何事もなかったようにきちんと部活に出てトレーニングをし、それを終えると柳蓮二から言いつけられているトレーニングノートに丁寧に記録をつけた。
 部室のテーブルの隣では、同じように丸井ブン太がガムを噛みながら面倒くさそうに記録をしている。
「そういえば仁王、お前の彼女、今日はあまり見かけない男と学食で飯食ってたじゃねーの」
 ふと思い出したように丸井ブン太は言った。
「……彼女……? ああか。ありゃ、彼女なんかじゃねぇよ。ただのクラスメイトじゃ」
 仁王は顔も上げずに答える。
「そうかぁ? お前にしちゃ、やけに丁寧に付き合ってんなと思ってたんだけどなぁ。結構きれいなコだろぃ?」
 仁王のそんな言動は珍しくないからか、ブン太はさして意外そうでもなく一言。
 おう、丁寧に付き合うちょったよ。
 仁王は心でそう言い捨てた。
 そしてノートを閉じて棚に仕舞うと、何も言わず部室を後にした。
 外は、どんよりと雨が降りそうな降らなさそうな、そんな空模様。
 ふんっと鼻を鳴らして歩き続けると、校門の手前のベンチにが一人、座っているのが見えた。
 前を通り過ぎようとして、そして戻って足を止める。
 ゆっくりと彼女は顔を上げた。
 いつもの落ち着いた顔だった。
 仁王はため息をついて隣に腰を下ろした。
 自分が何かを言う資格は、今はないのだ。
 彼女の言葉を待たなければならない。
 
 さあ、俺にどんな宣告をする? 何でも受けちゃるよ。

 そう心でつぶやきながら彼女を見つめた。

「……人の心って、変わるものよね。ちょっとした事で、関係は変わってしまう」
 彼女はどんよりとした空を見上げながら言った。
「おう……」
 彼女の静かな言葉を受けて、仁王は力なく相槌を打った。
「私、仁王くんと、恋を予感させるような友達になって楽しかったと思ってる」
 仁王は体をぎゅっと堅くする。その友達としての関係もついに終わりだ、という宣告を覚悟しなければならないのだろうか。しかし、そうされても仕方ない事を自分は、した。
 顔を上げて、じっとを見る。
 柔らかいけれどまっすぐな目、あの温かかった唇。
 それらが彼の目に飛び込んでくる。
 
 痛いのぅ。

 心でそう呟いた。
 恋は、痛い。
 自分がした事を後悔するかといえば、それはわからない。
 彼はあそこで、ああしなくてはいてもたってもいられなかった。
 例えその後に痛みが待っているとしても。
 彼にとってテニスが楽しいだけの遊びではないように、恋も甘いだけのゲームではない。
 そんな事は最初からわかっていたのに。

「今日、川本くんと久しぶりに会って、川本くんとずっと一緒にすごしていた時の事を思い出した。楽しかったし、好きだったなあって。でもそれは私の昔の気持ちで、今の私とは違う。今は……、ずっと友達みたいにしてた仁王くんと、予感だけじゃなくて本当に恋人になりたいんだなあって思った」

 は静かにゆっくりと、少し恥ずかしそうに笑って言った。
 仁王はそんな彼女を、じっと見た。
 彼女と日直をやった日の、あの胸が躍る感覚が甦る。

「……俺のキスが上手かったからか?」

 悪戯っぽく笑ってわざと意地悪な目をして言った。
 はぜんぜん堪えない。

「バカね。仁王くんが、俺を捨てないでって顔をしてたからよ」

 おかしそうに笑って言う彼女に、仁王は言葉を失くした。

「なっ……俺は、そんな顔なんかしちょらん!」

 片手でベンチをバンバンと叩きながら怒鳴った。

「してたよ」
「しちょらん!」

 言い合いながらも仁王は彼女につられて、大きく笑う。
 恋をした自分は不様だ。痛みも伴う。
 でもそれと引き換えに、体中を突き抜けるようなとてつもない甘さが溢れかえる。
 彼女との試合は、コールドゲームなのか没収試合なのか、よくわからない。
 でも、幸福な結末を迎えて、最高のスタートが切れそうな事だけはわかる。
 仁王はの手を取って立ち上がると、ゆっくりと校門に向かって歩いていった。
 まるで、ずっと昔からそうしていたように。
 空には、重い雲が晴れてまぶしい光が少しずつ差し込んできていた。

(了)
「恋のコールドゲーム」

2007.9.2

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